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日中全面戦争−北京・天津の制圧(その1)

1937年7月7日の、北京西方の盧溝橋付近における日中両軍の衝突は、11日夜に現地協定が結ばれ、収まった筈だった。しかし、その少し前に、近衛内閣は関東軍から2個旅団、朝鮮軍から1個師団を送り込む措置をとっていた。それらの部隊は、20日頃までに北京周辺に集結した。近衛内閣はそれ以上米内海相の説明−衆議院本会議にて(1937年7月27日午後)権益を擁護するために、警備兵力を派遣していることを説明した。(『世界画報』1937年9月号より)

(『北支事変画報』第2輯より)の増援(内地3個師団派遣)については延期していたが、25日夜に廊坊(北京と天津の中間)で、増援された部隊(第20師団の五ノ井中隊)が、中国軍と衝突した。日本側は、翌26日には中国軍の宿舎を爆撃した。同日夕方、北京に入って邦人を保護しようとした日本軍(支那駐屯歩兵第2連隊)に対し、中国軍が広安門を閉じて発砲する事件も起こった。

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廊坊駅で機関銃を構える五ノ井部隊(1937年7月26日)
朝鮮から増援された第20師団第77連隊に所属していた。この部隊が、中国軍の眼前で軍用電線を修理する中で、25日夜に衝突が起こった。(『北支事変画報』第2輯より)

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廊坊の中国兵宿舎(1937年7月27日)
既に日本軍は、この方面に多くの航空隊を送り込んでいた。そして、26日午前からの爆撃で、中国軍を敗走させた。(『北支事変画報』第2輯より)

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北京の広安門(1937年7月末に撮影か)
廊坊爆撃の直後の7月26日夕方に、支那駐屯歩兵第2連隊の広部大隊が、ここから北京に入ろうとした
(居留民警護を目的とした)。しかし、警備する中国軍が途中で門を閉め、ここでも両軍の衝突が起こった。(『北支事変画報』第2輯より)

戦闘が再開された直後の1937年7月27日に、第71議会が開幕した。その際、衆議院・貴族院は、満場一致で将兵への感謝決議を行った。

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近衛首相の施政方針演説−貴族院本会議にて(1937年7月27日午前)
挙国一致で新体制に当たること、中国の自省自律を希望することなどを述べた。(『国際写真情報』1937年9月号より)

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米内海相の説明−衆議院本会議にて(1937年7月27日午後)
権益を擁護するために、警備兵力を派遣していることを説明した。(『世界画報』1937年9月号より)



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将兵への感謝決議−衆議院本会議にて(1937年7月27日午後)
同じ感謝決議が、貴族院でも行われた。この議会では、軍事費の追加が認められ、製鉄・石油事業の奨励・管理強化の法案、金の増産・集中に関する法案も通過した。(『世界画報』1937年9月号より)


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杉山陸相への質問−衆議院予算委員会の議場にて(1937年7月28日正午頃か)
前夜、閣議決定となった3個師団の派遣につき、この日の予算委員会で軍事費を付けることが了承された。委員会終了後、杉山陸相に議員たちが問をするという転倒した形になった。(『世界画報』1937年9月号より)

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南苑を攻撃する日本の砲兵(1937年7月28日)
支那駐屯軍は、7月28日早朝から、北京・天津方面の中国軍を総攻撃した。南苑は北京のすぐ南側の街で、日本軍はここを28日中に占領した。(『北支事変画報』第2輯より)


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南苑で顔を合わせた河辺正三(左)と牟田口廉也(右)(1937年7月28日)
牟田口大佐は支那駐屯歩兵第1連隊長、河辺少将はその上司で支那駐屯歩兵旅団長だった。このコンビが7年後にインパール作戦を決行した。(『北支事変画報』第2輯より)

注記:
最後の写真の牟田口廉也についてはこういう話がある、彼は軍内部では「支那事変を拡大させたのはオレオレ」と吹聴することで有名で馬鹿牟田口と影で囁かれていた。彼はインパール作戦を立案し現地に乗り込んで指揮を取った、ところが最初から無茶な作戦で日本軍はボロ負けをした。インパールに繋がる道路は2000m級の山岳地帯でおびただしい日本兵が餓死した、それで兵隊はこれを「白骨街道」と呼んでいた。戦死者は7万2000名を数えた、現地指揮官は牟田口の命令を無視して兵を撤退させた、激怒した牟田口は次々に指揮官を解任した、それで牟田口は中央軍から指揮権を剥奪され内地に送還された。

戦後に牟田口は新聞やテレビでその不当性を訴えた、部下や戦友の葬儀までその不当性を訴えるビラを配ったりしたので周りの顰蹙を買うことも度々だった。それでも昭和41年に死亡するまでその性格は直らず多くの兵を死なせて畳の上で大往生を遂げている。

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無能な指揮官につけば即死を意味する…戦争では我々は駒にすぎず指揮官を選べないのは不幸。

2009/5/30(土) 午後 2:56 [ ノワール ] 返信する

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そこに文民統制の本来の意義があるんだと思いますよ。

2009/5/30(土) 午後 6:16 Wagon the 3rd 返信する

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戦前の日本は軍人天国で文民政府には指揮官を任命する権限すらなかった。そうなったのは国民が悪い、なにせ軍国ファシズムに犯されていたから。政府と軍人の二つの政府が存在した、で戦争ですべてパァ、人間はもっと利口にならないとね。

2009/5/31(日) 午前 8:17 lamerfontene 返信する

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