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ミズーリ (USS Missouri, BB-63) はアメリカ海軍の戦艦。アイオワ級戦艦の3番艦。艦名はミズーリ州に因んで命名された。その名を持つ艦としては3隻目。太平洋戦争での日本の降伏調印式場となる。当時の大統領トルーマンの出身州に因んで同艦が選定された。1999年からは、ハワイ州パールハーバーで記念艦として保存されている。 艦歴 「Mighty Mo」あるいは「Big Mo」の愛称で呼ばれたミズーリは1940年6月12日に建造発注され、ブルックリンのニューヨーク海軍工廠1941年1月6日に起工、1944年1月29日にメアリー・マーガレット・トルーマン(ミズーリ州選出上院議員ハリー・S・トルーマンの娘)によって命名、進水する。1944年6月11日にアメリカ海軍最後の戦艦として就役する。
第二次世界大戦
ニューヨーク沖での慣熟訓練及びチェサピーク湾での戦闘訓練の後、ミズーリはノーフォークを11月11日に出航、パナマ運河を11月18日に通過しサンフランシスコで艦隊旗艦としての最終調整を行う。就役直後は灰色2色に黒を交えた雲形迷彩 (Ms.32/22D) が施されていた。サンフランシスコを12月14日に出航し、12月24日に真珠湾に到着する。1945年1月2日にハワイを出発し1月13日にウルシー泊地に到着、そこでマーク・ミッチャー海軍中将率いる第58任務部隊臨時司令部に任ぜられる。ミズーリは1月27日にレキシントン任務グループの護衛任務に出発、2月16日に空母部隊は1942年4月1日のドーリットル空襲以来の日本本土空襲を行う。その後ミズーリは空母部隊と共に硫黄島に向かい、2月19日の上陸作戦に対して支援艦砲射撃を行う。第58任務部隊は3月5日にウルシー泊地に帰還し、ヨークタウン空母任務グループへ配属される。3月14日にウルシー泊地を出航、部隊は日本本土に向かう。3月18日に開始した瀬戸内海沿岸に対する攻撃で、ミズーリは4機の日本軍機を撃墜した。 瀬戸内海および本州南西部の飛行場、海軍基地に対する攻撃は継続された。日本軍の反撃により3月19日にフランクリン (USS Franklin, CV-13) が2発の爆弾を被弾し大きな損害を受ける。フランクリンは14ノット(26km/h)の速度で重巡洋艦ピッツバーグ (USS Pittsburgh, CA-72) に牽引された。ミズーリの空母機動部隊はフランクリンの護衛を3月22日のウルシー泊地到着まで行う。その後沖縄攻略前の艦砲射撃のため再び日本に向かう。 ミズーリは3月24日に第58任務部隊と共に沖縄南東部海岸に対して砲撃を行う。海兵隊と陸軍部隊が4月1日の朝に上陸を決行すると、ミズーリは空母護衛部隊に再び合流する。空母艦載機部隊は4月7日に戦艦大和を撃沈し、3隻の駆逐艦を大きく破壊、4隻の駆逐艦が長崎の佐世保へ後退した。 4月11日午後、ミズーリに対して特攻機(爆装零戦)1機が低空飛行で右舷甲板に突入する。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり燃料に火が引火した。艦は表面に損傷を受けたが、速やかに鎮火した。この攻撃の跡は現在も船体に残っている。突入機の飛行士の遺体の一部が40mm機銃座から回収され、ウィリアム・キャラハン艦長はこの飛行士を、名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定する。乗組員からは反対もあったが、艦長の命により翌日水葬が執り行われた。この飛行士の官姓名は長らく不詳であったが、ミズーリ記念館の調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹の機であったと判明した。(同時に突入した、同じく第五建武隊の石井兼吉二等兵曹の可能性もある−突入できなかった機は、対空砲火により撃墜された) ミズーリで行われた葬儀はこの1回のみであった。 ミズーリは5月5日に沖縄沖で空母機動部隊から離れウルシー泊地へ向かう。沖縄戦でミズーリは5機の敵機を撃墜、6機の破壊を支援し、空母機動部隊に対する敵の12回に及ぶ昼間攻撃と4回の夜間攻撃を撃退した。その主砲による砲撃でいくつかの沿岸砲台、多くの軍事施設、官庁および産業施設を破壊した。 ミズーリは5月9日にウルシー泊地に到着し、18日にグアムのアプラ港に到着する。同日午後、第3艦隊司令長官 ウィリアム・ハルゼー提督は提督旗を掲揚しミズーリは艦隊旗艦となる。5月21日に出航し、5月27日には再び沖縄近海で艦砲射撃を行う。ミズーリは第3艦隊を率いて6月2日、3日の両日にわたり九州南部の飛行場に対して攻撃を行った。6月5日、6日は嵐を避けて出港し、いくつかの固定器具が破損したものの大きな損害は受けなかった。艦隊は6月8日に再び九州を攻撃し、その後レイテ島に向かう。レイテ島のサンペドロ湾には6月13日到着する。 ミズーリは第3艦隊を率いて日本本土に対する攻撃の準備を行う。艦隊は7月8日に日本本土に接近し、10日に東京への攻撃を行う。その後7月13日から15日にかけて北海道室蘭市の製鉄所を砲撃する。(室蘭艦砲射撃)これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃であった。7月15日午前9時35分ごろ砲撃は始まり、およそ800発の砲弾が撃ち込まれた。この砲撃で日本製鋼所、日本製鉄輪西製鉄所が破壊され、多数の死傷者が出た。室蘭八幡宮にはこの艦砲射撃による犠牲者の慰霊碑が建立されている。 7月17日、18日には茨城県日立市の工業地帯を砲撃する。その後7月25日まで艦載機による空襲が継続され、ミズーリは空母護衛任務に当たる。7月末にもはや日本軍に制海権は無く、アメリカ艦隊は日本近海で自由な活動を行った。 北海道および本州北部への攻撃は長崎原爆投下日である8月9日に再開する。翌日の20:54、ミズーリの乗組員は非公式ニュースとして天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができていたという知らせを聞き衝撃を覚える。8月15日の07:45、トルーマン大統領は日本の無条件降伏の受諾を発表した。
降伏文書調印式
降伏文書調印(中央で署名を行っているのは重光葵外相、その左後方に侍しているのは加瀬俊一) 調印する梅津美治郎 祝賀飛行する米軍機編隊 日本代表団の退艦イギリス海軍提督ブルース・フレーザー卿(イギリス海軍太平洋艦隊司令官)は8月16日にミズーリに乗艦し、ハルゼー提督に大英帝国勲章を授与した。ミズーリは8月21日に東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士をアイオワ(USS Iowa, BB-61)に移乗させる。その後8月29日に降伏調印式準備のため東京湾に入る。 大日本帝国の降伏文書調印式は9月2日に東京湾(浦賀水道内の城ヶ島と館山の間あたりの海域)に停泊するミズーリの甲板上で行われ、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドが調印して日本の降伏を受け入れた。全ての連合国軍高官がミズーリに乗艦した。チェスター・ニミッツ海軍元帥は08:00直後に乗艦した。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は08:43に乗艦し、日本側全権代表団は08:56に到着した。代表団は重光葵政府全権(外務大臣)と梅津美治郎大本営全権(参謀総長)、随員は参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(豊田副武軍令部総長は出席拒否、次長の大西瀧治郎中将は自決)、内閣情報局第三部長加瀬俊一、大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎、大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍参謀杉田一次陸軍大佐であった。09:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。式中ミズーリの甲板は2枚の星条旗で飾られた。1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物(連邦48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚は1853年の黒船来航で江戸湾に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物(連邦31州の星が描かれた星条旗)であり、90年越しの勝利として日本に屈辱を与えた。 マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文章に調印し、コレヒドール島で自分に代わって指揮をとったウェンライト、シンガポールで降伏したパーシバル、ウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校にそれぞれ1本ずつ贈り、1本は妻のジェーンに残したという話は有名である。 なお、09:25の調印式終了とともにグラマンの編隊とB-29が祝賀飛行を行ったが、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。 具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのイシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的にカナダ代表の欄が空欄となった。 その後、マッカーサー元帥の調印式終了宣言が行われ、各国代表は祝賀会の為に船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、アメリカ軍参謀長のサザーランドen:Richard K. Sutherland中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、不備な文書では枢密院の条約審議を通らないと重光葵がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてサザーランド中将はこれを拒否。結局、サザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、09:30に退艦した。 9月5日の午後、ハルゼー提督は旗艦をサウスダコタ (USS South Dakota, BB-57) に移し、翌日早朝ミズーリは東京湾を出航する。途中グアム島で乗客を乗せ、続いて随行艦なしでハワイの真珠湾に9月20日到着する。9月28日の午後にはニミッツ提督の提督旗を掲揚する。
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