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正論】与那国島を第二の対馬にするな 中国軍事専門家・平松茂雄 ようやく政治家が動く 韓国との国境の島・対馬が過疎化と小泉改革による公共事業削減、石油高騰などの影響で深刻な経済困難に陥り、そのスキをつくように、韓国資本が島の土地を買い占めている。地理的に近いことから、韓国の観光客がドッと入るようになり、その数は島民の3倍にも達する。観光地にはハングルがあふれ、さながら韓国国内のような景観を呈している。しかも彼らは、竹島ばかりか対馬までが「韓国の領土」と主張しているというのだ。 本紙は3回にわたる特別企画「対馬が危ない!!」で島の現状を報じた。すると、にわかに自民党の真・保守政策研究会と超党派の国会議員による「日本の領土を守るため行動する議員連盟」が動き出した。近く対馬を現地視察し、「防人の島新法制定の推進議員連盟」を結成して、法整備に向けて具体的に検討することになった。わが国周辺海域が隣国からの「脅威」にさらされている。その現実を直視せよと早くから論じてきた筆者には「いままで何をしていたのか」と問いたい思いである。ともあれ政治家がこの問題に関心を向けたことを評価したい。 しかし筆者が恐れるのは、関心が対馬だけに局限化されることだ。そもそもわが国には、特定の島嶼(とうしょ)に関する振興策はあっても、離島およびその周辺海域の防衛・振興を含めたトータルな施策がない。対馬だけでなく、約6800に及ぶ離島全体、特に「最前線」の島、海、空を重点的に防衛する施策が、今こそ必要なのではないか。 返還前からの特殊事情 なかでも筆者が竹島や対馬の二の舞いになっては困ると危惧(きぐ)しているのが、日本の最西端の島・与那国島だ。この島は台湾までわずかに110キロである(ちなみに石垣島までは120キロ)。県都の那覇までは400キロも離れている。この島には、他の国境地域の島にはない特異な問題がある。それは、わが国の領土であるにもかかわらず、島の上空に日本と台湾との防空識別圏を区切るラインが通っていることである。 防空識別圏とは、国の防空上の必要から設定された空域である。国際法によるものではない。だが、異国の航空機が領海上空を侵犯して領土上空に到達するまで、旅客機でも1分程度、超音速軍用機であれば数十秒である。領空侵犯されて対応するのでは手遅れだ。そこで領空の外周の空域に防空識別圏を設け、事前に届け出のない航空機が防空識別圏に進入した時点で、空軍機により強制退去させる措置をとっている。スクランブルといわれ、一般には航空機が防空識別圏に進入する恐れがある時点で発動される。それでないと、軍用機の場合には攻撃されてしまう恐れがあるからだ。 ところが与那国島では、台湾との間の防空識別圏のラインが島の上空に引かれているのだ。厳密に言えば、島の東側3分の1は日本、西側3分の2は台湾である。沖縄占領中に米軍が便宜的に東経123度で線引きしたのを、返還の際、日本政府がそのまま引き継いでしまったからだ。当時としては、台湾(中華民国)が友好国だからとの単純な理由からであろうか。しかし、日本政府、防衛庁・自衛隊が自国の防衛にいかに無責任であるかは、現在でも自衛隊の航空機が台湾との防空識別圏に近づくことを意図的に避けていることにはっきり表れている。 自衛隊ですら関心なく 筆者は中国の東シナ海石油開発を取材する中で初めてこの事実を知り、航空自衛隊に問い合わせた。すると「何も問題ありません。あなたは何を心配しているのですか」と相手にしてもらえなかったことがある。台湾はれっきとした主権のもとに存在している。わが国の領土である尖閣諸島の領有権を主張して譲らないばかりか、沖縄返還時には、台湾に無断で沖縄を日本に渡したと米国にクレームをつけたことがある。さらにいえば、中国は台湾を自国の領土と主張している。もし台湾が中国に統一されたら、どういう事態になるか、防衛関係者ですら考えたことがないのだろうか。 馬英九氏が総統に就任し、中国は経済関係の緊密化による台湾との「平和統一」を意図している。与那国島も、対馬と同じように、過疎化と経済的低迷に苦しみ、台湾との経済交流、観光客の受け入れに期待している。筆者は先ごろ、与那国島に初めて行く機会を得て、町議会、防衛協会の方々と話をした。島の人たちは、国境の島に対する国家の特別措置と自衛隊の駐屯を強く希望していた。与那国島が「第二の対馬」にならないうちに、手を打たなければならない。(ひらまつ しげお) MSN産経ニュース ブログ管理者の意見
日本人の国際的危機管理感覚は明治時代以来であると考える、周辺諸国で何が起こっているのかいつの時代も掴めない、それで悠然と構えているこの感覚はほとんど「病気」と言っても不思議ではない。日本人には危機管理などできないこれが事実だろう、そうでなければ戦争という惨劇を潜り抜けて国自体が崩壊した説明はつくまい、自衛隊自身が国境感覚が希薄でのんきに構えていることからもそれは容易に推測できる。日米同盟に頼るなと識者は何度も警鐘を鳴らすが「馬の耳に念仏」の感じがしないでもない。 |
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ジョディー・フォスター 来歴 ジョディ・フォスター(Jodie Foster、本名:アリシア・クリスティーン・フォスター、Alicia Christian Foster、1962年11月19日 )は、アメリカ合衆国の女優、映画監督、映画プロデューサー。 生い立ち カリフォルニア州ロサンゼルスにて、4人兄妹の末っ子として生まれる。生まれる前に両親が離婚したため母親に育てられた。その後、父親は日本人と再婚。腹違いの妹エイミー・フォスターがいる。役者名の「ジョディ」は、彼女が母親のお腹にいるときから、兄姉たちが呼んでいた愛称である。二人の姉ルシンダ(1954年生)、コンスタンス(1955年生)と、兄ルシアス(1957年生)がいる。 高校時代はロサンゼルスのリセに在籍し、バカロレア資格を取得。フランス語が流暢に話せるので、フランス語版の吹き替えは殆ど自身で行っている。英語圏の女優達の中で、ジョディもキャンディス・バーゲン、ジャクリーン・ビセット、クリスティン・スコット・トーマスらと共に外国語(英語以外の言語)に堪能な数少ない女優の1人である。 高校卒業後はハーバード大学、コロンビア大学などを蹴って、イェール大学に入学した。アメリカ文学を専攻し、トニ・モリソンの論文で優秀な成績(Magna Cum Laude)で卒業したことはよく知られている。 キャリア 子役であった兄の仕事場についていった際スカウトされ、3歳よりコマーシャルに出演し、主にテレビドラマで子役として活躍、一家を経済的に支えるまでになった。 1972年に『ジョディ・フォスターのライオン物語』で映画デビュー。1976年公開のマーティン・スコセッシ監督作品『タクシー・ドライバー』で12歳の少女娼婦アイリス役を13歳にして好演し、全米映画批評家 ジョディ・フォスター(Jodie Foster、本名:アリシア・クリスティーン・フォスター、Alicia Christian Foster、1962年11月19日 - )は、アメリカ合衆国の女優、映画監督、映画プロデューサー。 協会賞助演女優賞や英国アカデミー賞 助演女優賞などを受賞、アカデミー助演女優賞にノミネートされ、高い評価を得た。しかし、この映画は同時に多方面に影響を与え、熱狂的なファンを自称するジョン・ヒンクリーにより1981年にレーガン大統領暗殺未遂事件が発生。この事件に衝撃をうけたジョディは、一時期映画界とは距離を置いた。 1984年公開の『ホテル・ニューハンプシャー』で本格的にスクリーンへ復帰以降、1989年公開の『告発の行方』と1991年公開の『羊たちの沈黙』でアカデミー主演女優賞を受賞。人気・実力共にアメリカを代表する役者の地位を不動のものとした。1991年に『リトルマン・テイト』で、映画初監督。自ら設立した映画制作会社エッグ・ピクチャーズ・プロダクション制作の第一回作品『ネル』(1994年)以降は、映画プロデューサーとして映画製作も行うなど活動の幅を広げている。 私生活 独身であるが、1998年と2001年に男児を出産(父親の名前は公表されていない)。現在シングルマザー。 2007年12月のロサンゼルスでの式典で、15年来の交際がある映画プロデューサーのシドニー・バーナードについて、「いつもそばにいてくれる美しいシドニーに感謝」と謝辞を捧げたところ、マスメディアが「レズビアンである事をカミングアウトした」としていっせいに報道。なお、2008年5月現在、破局したとの報道がなされている。 デミ・ムーア デミ・ムーア(Demi Moore, 1962年11月11日)はアメリカ合衆国の女優。あどけなさの残るイノセントなベビー・フェイス、ショートカットと澄んだ瞳の知的な顔立ちと豊満な肉体とのアンバランスが耳目を集め、1980年代後半から1990年前半の米国でトップスターとなった。 ニューメキシコ州ロズウェルで生まれ、女優になるため16歳で学校をやめ、モデルとして活躍。1982年、ソープ・オペラに出演するチャンスを掴み注目されるが、同時に麻薬を使用するようになってしまう。『セント・エルモス・ファイアー』を撮影中、ハイの状態のままセットに現れた彼女を、監督のジョエル・シュマッカーはクビにしたこともあった。その後治療を受けて回復。 1990年の『ゴースト/ニューヨークの幻』のヒットで有名になる。 2003年の『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』では、役作りのために2600万円以上を使っている。[1] 私生活 プライベートでは1980年、18歳のときに最初の結婚をするが4年後に離婚。『セント・エルモス・ファイアー』で共演したエミリオ・エステベスと婚約したが3年後に破棄。1987年、ブルース・ウィリスと再婚し、13年間の結婚生活を経て2000年に離婚。3人の娘をもうけ、女優のルーマー・ウィリスがいる。2005年には16歳年下の俳優アシュトン・カッチャーと結婚した。このとき挙式にはブルース・ウィリスも出席している。 また、モデル時代に撮ったヌード写真が流出したり、妊娠中にヌードを披露[2]したりといったことでも話題になった。プロデューサーとしても活動しており、『オースティン・パワーズ』シリーズのプロデューサーの一人でもある。 また、バービー人形のコレクターとしても有名。 ブログ管理者の意見
ジョディー・フォスターとデミ・ムーア対照的な二人の女優だが実は二人は同じ年で出身地が異なる。ジョディーは子役時代から有名でしかもインテリでもある、一方のデミ・ムーアは派手好きというか奔望な印象を与える。男関係もジョディーは黙して語らず、デミ・ムーアは妊娠した裸体をさらすなど臆する所がない。「女にも色々ある」ところを二人は見せている。 |
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58歳差婚!24歳青年、花嫁はなんと82歳 アルゼンチン北部サンタフェで、24歳の青年レイナルド・ワベチェさんと82歳のアデルファ・ボルペスさんが9月29日(日本時間同30日)、結婚式を挙げた。年の差は58歳。ボルペスさんはワベチェさんの母親の友人。母親が9年前に亡くなった後に2人は同居を始め、6年前から「男女の仲」という。 ワベチェさんは「彼女はぼくのすべて。おばあちゃん、母親でもあり、今日から妻になった」と興奮気味。「年の差」カップルへの助言を求められたボルペスさん、「人生は1度。何を言われても気にしないこと」。 MSN産経ニュース ブログ管理者のつぶやき:
彼女はいじわるな質問にこう答えたかった「私は女なのよ〜ん、そりゃあ女が上がったのは30年前だけどさ、男はいいものだし太いの入れられると天国に行っちゃう。子供を何人産んだかって?そういうのは関係ないでしょ?女は死んで灰になるまで「女」なのよ、男なしの生活なんて考えられない」いやあご立派、私は60代だけどあなたとシコシコしたい気分になってきた。別に年寄り趣味じゃないよ、80を過ぎて若い男を夢中にさせるその技術に関心したのである。男を「行かせるベッド技量」とはどういうものか一度拝見したいね。日本では70歳過ぎた温泉芸者がいて、酔っ払った男に色目を使って布団に誘い込んでシコシコやって「現役」だとうそぶいている。男とはだらしがなくて酒を飲めば女ならば年も気にしないで抱けるとあらば猛突進する、女は下半身で勝負と言われる。ばああ芸者が商売になるのも、そういう男の本心を見抜いているからだ。 |
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より ダニエル・ケン・イノウエ(Daniel Ken Inouye、漢字: 井上 建、1924年9月7日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。元アメリカ陸軍将校。上院議員。第二次世界大戦時は、アメリカ陸軍に従軍し、数多くの栄誉を受けた。アメリカ陸軍での最終階級は陸軍大尉。 生い立ち 1924年に日本人移民の両親の元、当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれる。その後ホノルルの高校を経てハワイの名門大学であるハワイ大学マノア校に進学した。
第442連隊の英雄 [編集]
ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後は日系アメリカ人として人種差別待遇を受けるものの、アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦う。フランスにおけるドイツ軍との戦いにおいて右腕を失うものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられる。陸軍大尉で退役後、ハワイ大学に復学し1950年に同大学を卒業しBA Government and Economicsを得、その後J.D.を得るものの、右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめることになる。 日系人初の上下両院議員 その後は政界に進出し、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選した。1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となる(1959年-1962年)。 その後、1962年には上院議員となり(同じく第442連隊戦闘団員であったスパーク・マツナガも下院議員に当選する)、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォータゲート事件と1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びる。アメリカ軍の予算に大きな権限を持つ上院歳出委員会国防小委員会の民主党長老議員として、エリック・シンセキ大将の陸軍参謀総長就任に尽力している。 現在 現在も民主党の上院議員として上院歳出委員会の国防小委員会で上級委員を勤める他、カリフォルニア州ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある全米日系人博物館の理事長を勤めるなど活躍を続けている。2000年6月21日に、陸軍殊殊勲十字章、銅星章の受賞理由が見直され、軍人の贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。 イノウエは、1980年代に、日米間の貿易摩擦が政治問題化した際には、リチャード・ゲッパートなどと共に、対日批判の急先鋒として立ち回ったが、現在は日本に対して融和的で、中華人民共和国や韓国が主張する「従軍慰安婦・強制連行説」に立脚するアメリカ合衆国下院121号決議に反対し、この動きが上院に波及しないよう牽制した。1996年に前妻と死別し独身となっていたが、2008年1月29日に「全米日系人博物館」館長 アイリーン・ヒラノと再婚した。また、2008年アメリカ合衆国大統領選挙においては、ヒラリー・クリントン上院議員を支持していた。 栄典 アメリカ合衆国名誉勲章 フランスレジオンドヌール勲章シュヴァリエ
著書 [編集]
「ワシントンへの道」(原題:Journey to Washington)
関連項目
日系人の強制収容 スパーク・マツナガ マイク・ホンダ 全米日系人博物館
外部リンク
ウィキソースに名誉勲章感状の原文があります。ダニエル・ケン・イノウエプロフィール United States Senator Daniel Inouye 公式サイト 全米日系人博物館 ダニエル・イノウエ氏の解説: アメリカでの442部隊の活躍はあまりにも有名でその武勇伝は64年が経過してもいささかも衰えない。アメリカでは大正時代の終わりに突然日本人排斥運動が高まった、これはアメリカの日本に対する警戒心が頂点に達して、それが民間人に広まった結果であった。それで在米日本人ならびに日系人の間ではアメリカに忠節を示すために若者の間で進んで入隊しようとする動きが高まった。それに対して激怒したのは一世である日本人だった、日米が風雲急を告げるときに入隊するとは何事かと日本人は激怒した。そして真珠湾攻撃でアメリカと日本は敵同士になってしまった。 日系人の若者はアメリカに忠節を求めて右往左往していた、そこで日本人はこう述べた「アメリカに忠節をつくすのはよい、ただし日本兵に銃を突きつけるのは許さない、天皇および日本国民に敵対することだけは止めろ!、欧州戦線ならば行ってもいいが、それだけは忘れるな」こうして日系の若者は100大隊および442大隊を編成した。そして地獄のような欧州戦線で信じられない働きを見せた。対日本戦では日系人は兵隊でも通訳や後方支援の任務でアメリカ軍を助けた、その様子は山崎豊子の「二つの祖国」で詳細に語られている。日本人は仲間内では殺し合いをしないという不文律はこうして守られた。
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【正論】政治評論家・屋山太郎 象徴的政策での妥協は「信」失う ≪例のない決定の早さだが…≫ 鳩山政権が誕生してほぼ50日になる。政権の評価は100日経たないと定まらないというが、政権運営や決定が過去のどんな政権に比べても早い。このため現時点で指摘しておいた方が良いと思うことが多々ある。民主党政権は“政権交代”のスローガンで勝利したが、最高の価値は「官僚内閣制」を終焉(しゅうえん)させ、立法府が主導権を持つ「議会制民主主義」に“体制”を変えたことだ。官僚内閣制は明治以来続いている官僚主導の体制で、その象徴が「事務次官会議」だった。 閣僚から成る閣議は、すべて次官会議で決定した案件を追認するだけだった。鳩山内閣はこの明治19年以来続いていた次官会議を123年ぶりに廃止した。八ツ場(やんば)ダムの工事中止、羽田のハブ(拠点空港)化など重大な政策決定が即断即決で行われているのは官僚の“了承”を必要としない政治運営に改めたからだ。全体の政策の整合性をとるために、菅直人副総理が担当する「国家戦略室(局)」と仙谷由人氏が担当する「行政刷新会議」が設置された。政権運営は年末の予算編成を目指して急ピッチで動いている。走りながら考えているため、新たに設置された組織の機能がまだ定まっていない。 民主党政権の時だけに限った組織なのか、法的に裏付ける恒久組織になるのかはわからない。政治主導を担保するつもりなら恒久組織としての法的裏付けがないと、政権が代わると元の次官会議が復活してくる可能性がある。次官会議には法的根拠がないにもかかわらず、戦後も国会に“無断”で続けられた歴史がある。 ≪予算も政治家の独自判断で≫ 目下、仙谷氏の刷新会議で各省が持ち込む予算の絞り込みをやっているが、官僚から政策についてヒアリングを受けるなどは禁物だ。私はかつて十数年にわたって政府の行政改革推進審議会で特殊法人整理の仕事に携わったことがあるが、官僚と議論して「不要」の結論が導き出されたことはない。したがって政策に要する予算がどの法人を通じて流されるかに着目し、政治家が独自の判断で要、不要を決定するしかない。 かつて1人当たりのGDP(国内総生産)が世界一といわれた日本がなぜ社会保障政策の面で、先進国のドン尻の方にいるのか。派遣切りになって宿舎もないというような労働政策をとっている先進国はどこにもない。日本の国家経営の方法は技術開発を中心とした外需で稼ぎ出し、その儲(もう)けを米価引き上げや道路、空港、港湾に注ぎ込んで地方を活性化させるというものだった。外需で稼げなくなってもコンクリート工事を続行した結果が800兆円に上る国の借金だ。一方で老後が不安なばかりに国民は1500兆円もの金融資産を抱えている。 自民党の国家経営の失敗に対して民主党は「コンクリートから人へ」の政策転換を図った。八ツ場ダムやハブ空港あるいは子ども手当の支給はその政策転換の象徴であって、この象徴で妥協するようでは信を失う。日本郵政社長人事で元大蔵次官の斎藤次郎氏をもってきたのは「天下り根絶」の方針に反する。 ≪度し難い首相の外交感覚≫ 度し難いのは鳩山由紀夫首相の外交感覚である。鳩山首相は米国が求めている米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブへの移設問題をオバマ大統領の来日(11月12日)後まで漫然と延ばす風情だった。ゲーツ国防長官が来日し、日米合意の履行を迫っても「政権が変わったから見直してもよい」と思っていたふしがある。一方で東アジア共同体構想の具体化に熱心で、日中韓を中心に「EU(欧州連合)のような共同体を作りたい」という。この態度は米側に「脱米入亜」路線をとるのかとの疑念を抱かせた。ゲーツ長官が来日して明快に米国の意思を伝えたにもかかわらず、この感度の悪さは信じ難い。 その理由を考えると鳩山首相の外交ブレーンといわれる寺島実郎・日本総合研究所会長の影響があるのだろう。同氏は文藝春秋10月号に「米中二極化『日本外交』のとるべき道」という論文を書いている。日本は「米国追随」から決別し、真に「自立」しろ、というのである。「日本がまだ『核の傘論』に拘泥していくことは、二十一世紀の世界秩序形成に全く噛(か)み合っていません」ともいう。 ゲーツ国防長官は日本から韓国入りし、核実験やミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮に対処するため、米国が韓国に「核の傘」「通常戦力」「ミサイル防衛(MD)」など「あらゆる種類の軍事力」を提供するとの共同声明を発表した。寺島氏は韓国が核の傘を求めるのは「二十一世紀の世界秩序に噛み合っていない」というのか。寺島氏の国際情勢認識はまさにど素人の発想で、この理論を現実の外交に持ち込む鳩山首相の外交感覚を疑う。EUが共同体結成に至ったのはキリスト教というベースがあったればこそで、日中韓にどのような共通のベースがあるのか。(ややま たろう) MSN産経ニュース 時事問題解説
日本人の外交感覚が変わったとは私は考えていない、日本人は戦前より”盲目状態”で先を見る眼力がないために戦争に突入してそれで国家は消滅した歴史を持つ。古くは坂本龍馬がこの今日の日本を予測して「国は滅びる」と警鐘を鳴らしたのは有名な実話である。下田の港に蒸気船が突然現れたときから、日本人は上へ下への大騒ぎを演じ「大八車に家財道具を満載して逃げ出す」のが事の始まりだった。それから150年ほど経過したが、日本人は少しも変わらず当時と同じように悠然と構えている。 |

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