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日中首脳会談で握手する鳩山首相(左)と中国の温家宝首相=10日午後、北京の人民大会堂(共同) 中国が「友愛」無視の強硬姿勢 東シナ海の主権主張に米懸念 【ワシントン=古森義久】鳩山由紀夫首相は2回の日中首脳会談で東シナ海を「友愛の海」にしたいとの考えを明かしたが、その東シナ海で中国が日本の領有権や国際法を無視する形で自国の主権を過大に主張してきたことが米国議会の公聴会や報告書で度々指摘されている。「友愛」というあいまいな言葉で宥和姿勢に傾く日本と、自国の「主権」をあくまで優先する強硬姿勢の中国というコントラストが明確になっている。 日中首脳会談で握手する鳩山首相(左)と中国の温家宝首相=10日午後、北京の人民大会堂(共同) 鳩山首相は9月下旬の胡錦濤国家主席との会談でも、10日の温家宝首相との会談でも、東シナ海のガス田開発などに関連して「友愛の海」という言葉を使って、協調を訴えた。中国側からは具体的な回答はなかった。だが東シナ海をめぐる中国の姿勢には米国の政府や議会が一貫して警告を表明してきた経緯がある。オバマ政権下では米国上院外交委員会の東アジア太平洋問題小委員会が今年7月に「アジアでの海洋領有紛争と主権問題」についての公聴会を開き、小委員長のジム・ウェブ議員が「東シナ海と南シナ海での中国の主権主張は米国としても懸念する」と言明していた。 しかもウェブ議員は尖閣諸島の主権や統治は米国が認めた経緯があり、中国が日本の沖縄への主権さえ公式に認知しない姿勢は強引すぎるという異例の発言までしたのだった。同公聴会ではオバマ政権を代表したスコット・マーシェル国務次官補代理も中国が排他的経済水域(EEZ)を領海扱いしていることを「国際法で認められていない」と非難した。 実は中国が国連の海洋法条約に背を向け、自国の主権拡大を優先してきたことは米国議会の政策諮問機関「米中経済安保調査委員会」でも昨年来の重要課題として取り上げられてきた。 同委員会は昨年の報告書で(1)中国は(東シナ海での)主権に関して国際規範とは異なる概念をとり、尖閣に対しても1992年に制定した「領海法」で一方的に主権を宣言した(2)EEZも海洋法条約に反して自国の主権の及ぶ領海、領空扱いし、資源への主権は氷河時代の土砂堆積(たいせき)で沖縄近海まで伸びた大陸棚の範囲だと主張している(3)海洋法条約がEEZ内の軍艦を含む外国艦艇の自由な航行を認めているのに、軍艦の場合、国内法で中国政府の事前の承認を強制している(4)海洋法条約に加わりながら、同条約の紛争解決の規定や国際海洋法裁判所の決定を受け入れないことを国内法で宣言した−ことなどを中国の主権の国際的異質性ととらえ、主権の過剰あるいは不当な拡大として批判していた。 同委員会の一連の公聴会では「中国の主権の解釈が米国や国際法の解釈とは異なることが中国とアジア近隣諸国との領有権紛争の主因となっている」(キャロリン・バーソロミュー同委員長)、「異端の解釈に基づく主権の防衛や拡大の有力手段として、中国が軍事力をきわめて重視している点がとくに危険だ」(マーク・エスパー委員)という警戒の意見が相次いだ。 同委員会と上院外交委員会で証言を重ねた米海軍大学のピーター・ダットン教授は東シナ海での日中間の領有権・資源紛争について「中国は当面は対立の暴走は望んでいないが、これまでの主権の主張を後退させて共同開発などの合意をする意図もない。いまは『管理された対立』を保ち、いざ自国に有利な状況となれば、軍事力行使の可能性も排除せずに、断固たる動きに出る見通しがある」との懸念を表明している。 MSN産経ニュース 言いたい放題: 非常に珍しい人物に遭遇した、古森義久氏である、彼は産経新聞社を離れ今では「国際問題研究」に打ち込む人物である。彼は(南京事件のアメリカでのスクープ)で有名で、私はその記事で仰天した記憶が生々しい。 さて記事だが、中国は基本的は世界の海洋法などというものには無関心である、中国は東シナ海は中国独自の海で、その中には沖縄も含まれると堂々と公言する厚かましさを持つ。そのような図々しさは日本は持たない、自民党政権が連続して中国に敗れたのはそういう強引さが日本にはないからで、国際政治というものは力が全てだと証明した。 日本人というのは基本的には中国に弱い、そのせいで麻生前首相も中国には「基本的には昔の村山談義を踏襲する」と答えている。日本がこのようなフニャチン外交しか出来ないのは戦前の中国での行いに起因する。「日本ははたして侵略国家だったのか」という一文を発表した例の田母神前統幕議長は有名で、日本がまともに管理、統治していればフニャチン外交などあり得ないのである。中国人は恐ろしく厚かましい、朝鮮戦争でもアメリカを敗北させて笑いものにしている、日本など赤子の手をひねるようなものでたやすい、と思われても仕方がない。鳩山首相には本来の日本外交を展開してほしい、世界の常識と法を無視する中国、「そうはいかない」というところを見せてこその首相で、日本外交の”常識”が問われている。 中国は尖閣諸島で自分が勝手に決めたEFZ(国境線)に自国の石油探査用やぐらを建て日本側にパイプを伸ばして石油を盗んでいる。日本も試掘をやるべく業者まで決定していたが、それを邪魔して試掘そのものをパーにしたのは有名なチャイナスクール出身の当時の通産相だった。中国は日本の政界に子飼いのスパイを送り込んで日本が何かやろうとすると猛烈にスパイに発破をかける、事前に潰してしまおうとする魂胆で、それで自民党政府は中国には完敗している。東シナ海の主導権は中国が握っている、台湾から尖閣諸島、それから沖縄さらに対馬も虎視眈々と狙っている。日本と韓国から米軍を追い出せばあとは簡単に手に入ると見ている。
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「時代錯誤の将軍」それはまさにあの有名なパットン将軍のアジア版とも言える マッカーサーの神話は崩壊した、私は記事で何度もそう書いたが、日本の保守派、右翼はひどく頭が悪くて未だに神話の世界にいる。マッカーサーは軍人であり政治家ではなかった、ところが保守派は頑固に(彼は議会で重要な証言をしている)と譲らない。その中身はと見れば、この記事でも書いていたがお寒い限りで、神話を信じる人間は馬鹿だとしか言えない。 マッカーサーが日本を物量で黙らせたのは、日本は孤立していたからだ、孤立した敵を叩くのは実に簡単で朝鮮戦争で中国を相手にしたアメリカは気の毒、中国5千年の歴史は戦いの歴史で、西洋、米国などがかなう敵ではない。人民解放軍の古参将校たちは休みになると老酒を傾けながらこんな会話を交わした。 「朝鮮戦争では中国はアメリカを追い返したな、アメリカは馬鹿で中国軍(当時は紅軍、赤軍)と戦って勝てるとマッカーサーとかいう将軍がほざいていたよ。支那五千年の歴史は戦争の歴史だ、日本軍でさえも遊撃活動で各個撃破した、ひどく惨めな敗退をしたことすら日本人は知らない。中国に正面から攻撃するなんぞは素人のやることだ、それは日本軍が証明した、アメリカは物量は豊富だが戦術面で弱い、それをアメリカの将軍連中が証明した。アメリカは二度と中国とは戦うまい、泥沼に陥って、もがけばもがくほど抜け出せなくなる。そこまでアメリカが馬鹿とは思いたくないが、まぁ人間とは利口にもなるし、底抜けの馬鹿にもなる、というお話だな。ワハハハハハ」
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コーンパイプをくゆらすマッカーサー元帥(1945年) マッカーサーのあと、ジョージ・マーシャル、ついで統合参謀本部首脳、最後にアチソンが証言し、だれもがかなり巧みに政府の主張を展開した。マーシャルはとくに説得力があった。マッカーサーは中国との戦を拡大しても、ソ連の介入を招かないと確信していたが、マーシャルはそれを一切受け付けなかった。かれらがアメリカに容易に反撃できる場所、兵站上の理由からソ連軍ではなくアメリカ軍のほうがいくらでも無防備な場所はいくらでもある。その上、マッカーサーがアメリカにやらせたいと思っていることは、もっとも重要な同盟諸国からアメリカを切り離す一方、アメリカが築き上げてきた同盟関係、いまやアメリカの安全保障に多大の基礎を与えている同盟関係をすべてぶち壊してしまうだろう。 マーシャルはさらに強調した。この聴聞会における将軍とワシントンとの間の大きな対立は、多くの人たちが望んでいるような根の深いイデオロギー闘争ではなく、もっとありきたりのものである。責任を限定された一戦域司令官との対立であって、要するに、その戦域司令官がより広範な責任をもつ上司からの命令について「自分で起草したかったものと違う」と思っただけのことである、と。 この種の意見の対立はそれほど異常なものではない、とマーシャルは述べた。戦域司令官はだれでも同じような考え、利用可能な資源の過大配分を望むものである。マッカーサーの意見対立を特異なものにしたのは、かれが大統領の政策への不満と反対を公然と表明したことだった。統合参謀本部の首脳はつぎつぎにマッカーサーの立場との食い違いの深刻さを語り、この争いに関してかれらの盟友ではないことを全員に印象づけた。 アメリカの右派とマッカーサー本人が大いに非を鳴らすこの戦争の不文律ーーーどちらも聖域を利用していることーーーについては、それが実際には中国側よりも国連軍側を有利にしていることをかれらは詳細に述べた。なぜならば、日本が攻撃に対してみわめて無防備であるにもかかわらず、ソ連は日本をわれわれの聖域とみなして攻撃しなかった。重要な瞬間がきたのは、ブラドレーがマッカーサーの計画に従うことはアメリカを「間違った場所で、間違った時に、間違った敵との間違った戦争に巻きこむことだろう」と述べたこきだったかもしれない。 聴聞会はアメリカ人に自分たちの住む世界の複雑さを分からせる大きな教育の場となった。ワシントンには共産世界に対処する広範な政策がないと思っていた多くのアメリカ人は、封じ込め政策がとられていることを理解し始めた。苦痛を伴うこの教育課程は、血のにおいを嗅ぎつけて聴聞会を強く要求した共和党が望んだことではなかった。オマー・ブラドレーの六日間におよぶ証言の後、アイオワ州選出の保守派共和党議員、バーク・ヒッケンルーバーは、統合参謀本部の他の首脳の証言がまだ残っているにもかかわらず、聴聞会は時間をとりすぎているので、ほかの三人参謀総長の証言は必要ない、とラッセルに提案した。 これは共和党の大きな望みーーー聴聞会を利用してトルーマン政府当局と制服組との間の大きな亀裂を暴露することができるーーーが消えつつある兆候だった。ヒッケンルーパーの提案は十四対十一で否決された。聴聞会は予定通り続けられ、その間、マッカーサは日に日に政治の政治の舞台から後退していった。東京の司令部で当時中堅の将校だったビル・マカフリーは、こう評している。「マッカーサーが仁川のあとに退役していたとしたら、アンリか中の町にかれの名を冠した学校ができていただろう。だがかれはとどまればとどかるほど、発言すればするほど、自らを傷つけることになった」 政権交代の時がくる トルーマン政府にとって、マッカーサー聴聞会は重要な勝利だった。歴史的記録ーーー国の政治の中心でないにせよ、ーーーは訂正された。少々遅かったとしても、宿敵は部分的に牙を抜かれた。国民党中国の崩壊、中国軍の参戦、マッカーサー解任で被った損害を考えればトルーマンは長期的には勝者だったかもしれないが、この争いが火をつけた国民の感情を考えると、短期的にはそうではなかった。トルーマンは合衆国憲法が自分の味方だと主張できるかもしれない。それはいつの日か歴史家と向き合うトルーマンを助けるだろう。だが共和党はまだ国旗を味方につけていた。政治の方程式はこのほうが重要だった。トルーマン政府は、その政策のいくつかについて責任追及を免れたとはいえ、これれらのすべての事件、とりわけ中国の参戦によって、深い傷ーーーことによると致命傷ーーーを負った。ディーンアチソンが五年後にトルーマンに書き送ったように鴨緑江流域での敗北は「トルーマン政府を破壊した」のである。 聴聞会が終わったとき、政府が祝うべきことはあまりなかった。朝鮮戦争、蒋介石の没落、マッカーサーの正面からの挑戦、それらすべての損害をもたらしたわけではなかったが、もっとも目につきやすいものだった。民主党が下野するときだった。政権の座に長くとどまりすぎた。二十年である。あまりにも多くの敵を作った。その間に統治体は不可避の変化と転換を遂げ、一九三二年の困難と苦痛に満ちた時期とは違った要求が生まれた。 歴史が評価を決める マッカーサーのこの最終章にもっと大きな皮肉が潜んでいるとすれば、それはかれの行動がトルーマンに及ぼした影響だった。大統領は一時的に傷つたとしても、より大きな賭けに勝った。歴史の回復力を信じ、その正しさが立証されたからである。大統領退任時の世論調査では。当時のトルーマンは政治的などん底にあったかもしれないが、それ以降トルーマン株は上がり続け、ついには歴代大統領中もっともりっぱな大統領の一人だとみなされ、在職中に不当に低く評価されていた人物であることも明らかになった。 こうして高まった敬意の少なからぬ部分は、かれがマッカーサに敢然と立ち向かったこに由来するものだった。トルーマンを小物として見下したマッカーサが、奇妙な形でトルーマンの勇気と誠実さの評判を高め、大物に押し上げたのである。困難な対決であったがその大半は憲法と軍の文民統制とに対する基本的信念にかかわることだったのでトルーマンには容易に思われた。幾人もの大統領の通訳官を勤めたヴァーノン・ウォルターズは、ウェーク島でマッカーサーがトルーマンに敬礼しなかった場面目撃していた。 かれは後年、ミズーリ州インデペンデンスにトルーマンを訪ね、ぶしつけな質問をしてよいかと断ったうえで、この一件を持ち出した。ウォルターズが言い終えないうちにトルーマンが口を挟んだ。「マッカーサーが合衆国大統領に敬礼しなかったことに気がついていたかって?まったくその通り。気づいていたよ」ウェオルターズよると、それからトルーマンは少し声を和らげてつづけた。「遺憾なことだった。かれとの間がやっかいなことなると分かったからだ。事実、その通りになった。かれを解任したが、本当はもっと早くやるべきだった。よかれ悪しかれ。かれは合衆国がどのように動いているのか、まったく理解していなかった」 (『ザ・コールデストウィンター朝鮮戦争』上下第48章〜第51章より抜粋) 文芸春秋十一月号より
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コーンパイプをくゆらすマッカーサー元帥(1945年) 一九五〇年十一月十三日、すなわち中国軍の大攻勢の直前とはいえ、雲山と水洞(スドン)が攻撃されたあと、スチュワート・オルソップはニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の定期コラムの一つで、中国軍は参戦しないというマッカーサーの保証に言及していた。こうしたこともたいして物議をかもさなかった。中国軍の主力が参戦したあと、ある保守系雑誌がマッカーサーに直接、中国軍の参戦はないといったか、と問いただした。かれは否定したーーーそれは「まったく根拠がない」と主張したのである。いらだった政府による小出しのリークに基づくいくつかの記事も書かれ、マッカーサーが実際にそのような保障を与えたことを指摘した。 しかし、マッカーサー解任後トルーマンへの攻撃がはげしさを増すにおよんで、ホワイトハウスは速記録を公表して反撃することにした。ニューヨク・タイムスのホワイトハウス詰め記者、トニー・リヴィエロはすでに情報をかぎ回っていた。かれがホワイトハウス側近のジョージ・エルシーにウェーク島会談の話を持ち出したところ、エルシーはただちにトルーマンのところに行った。リヴィエロはホワイトハウスから、正直でほどほどに好意的だとみられrていた。エルシーは大統領にこういう。リークするとすればこの男、この新聞こそその相手にふさわしい。「オーケートニーに渡してもよいだろう」と大統領が答えた。こうしてリヴィエロとニューヨークタイムスは速記録の全文を入手した。「 これは四月二十一日に掲載され、リヴィエロは翌年、ピューリッツァー賞を受賞した。マッカーサー派は激怒した。中傷だ、と側近のコートニー・ホットニー将軍はいった。リークはホワイトハウスへの攻撃増大を封じるにはいたらなかったものの、こうしたことの成り行きに通じるワシントンの人間は、議会で開かれる予定の聴聞会でマッカーサーその記録をもってどこまでうまくやれるだろうか、といぶかるようになっていた。ついに上院聴聞会での対決になった。共和党右派は自分たちに有利なようにことが運ぶと確信していた。上院内のかれらの指導者は、相変わらず力強くカリスマ的なマッカーサーがすべの答え(それがかれらの答えである)をもち、真のアメリカ人を代弁することを疑っていなかった。マッカーサーがサンフランシスコ市庁舎でかれらを崇拝する市民五十万人を前にしてなんといったか。「わたしはたったいま政界入りをするつもりかと聞かれた。わたしは『ノー』と答えた。わたしは政治的抱負などもっていない。政治的公職を求めて出馬するつもりはない。わたしの名前が政治的に利用されることは望まない。わたしが抱く雄一の政見は、だれもが知っている単純なことばに含まれている。『アメリカに神の加護を』がそれである」 ジョセフ・ゴールデンが指摘するように、これは政界入りをしてもよい、最後の一勝負を試みてもよい、という将軍一流の遠慮勝ちの意思表示だった。 雄弁から守勢へ 共和党が期待したのは、マッカーサー将軍にその主張を訴える演説を提供することだった。将軍は意気地なしの政治家から不当な扱いを受け、裏切られた偉大な愛国者になるはずだった。そしてここで全国的な脚光を浴びながら、かれの、−−−もっとも重要なことは、われわれのーーー反対勢力をあの偉大な声と広範な世界知識をもってなぎ倒すだろう。トルーマン、アチソン、マーシャルのみならず、それまで十年間のかれの政策をわれわれに代わって粉砕してくれるだろう。協和党右派が望んだのは、まさにこの聴聞会を一九五二年大統領選挙の出発点にすることだった。 だが、マッカーサーには深刻な問題があった、かれの帰国が火をつけた熱狂は、実際には、かれの政策に対する意味するものではなかった。なによりもアジアでの戦争拡大を支持するものではなかった。かれへの熱狂的な歓迎は、その政策への支持とは別物だった。−−−それらの政策が真剣に討議され、それに従った場合の結果が明らかになると、とくにそうだった。では民主国家で熱狂がその時点の現実を追い抜いた場合にはどうするか。議会公聴会をとりしきる委員長のリチャード・ラッセル(民主党)はこの問題を塾考した結果、そのプロセスにブレーキをかけ、実質問題に焦点を絞れば、熱狂を抑えられるかもしれない。と判断した。 大見出しを狙う新聞をでるきるかぎり無視したかった。ラッセルにとってもっと重要なことは聴聞会の興奮の沈静化だった。そこで聴聞は詳細に行うこと、できるかぎり思慮分別のあるものにすることを決めたb。そして一九五一年五月三日、聴聞会が始まった。それとともにダグラス・マッカーサー神話の崩壊が始まった。かれには東京の第一生命ビルでいつもやっていたのとは勝手が違い、この政治状況を独占して、念入りにリハーサルした独り芝居をだれからも横槍を入れられずに演ずるわけにはいかなかった。第一生命ビルは民主主義の舞台ではなかった。上院聴聞会こそが民主主義の舞台だった。かれは聴聞会で「歴史は教えている」とか「歴史は示している」とかいう言い回しを使った。 あたかも、なすべきことを単純な教訓を一つ伝えるだけであり、かれこそそのために選ばれた歴史の代弁者であるかのようだった。だが、偉大な英雄であろうとなかろうとマッカーサーも初めて民主主義の手続きに従わざるを得なくなりかれに劣らず党派心が強く自己中心的な人々から手きびいい質問を浴びることになる。最初の証人としてマッカーサーは三日間にわたって質問に答えたが、それはとうてい名人芸とはいえないものだった。かれは思ったより複雑困難な記録に対応しなければならなかった。 質問する側はマッカーサー見解と事実に異議を唱えることができると思った。かれの答えは必ずしも共和党右派が望んだものではなかった。その論拠は日を追って少しずつ小さくなるように思われた。そして叩かれ役だったアチソンやシャルのような反対派が少しづつ思慮深く、根拠を備えているようにみえてきた。マッカーサーは長年接してきた人たちを苦しめた大きな問題の一つは、かれが必ずしも真実を語らないことだった。自分と自分の主張に都合のよいときには真実を利用したが、邪魔になるとすぐ真実から離れてしまうのだった。 つねに正しくなければならない人物にとっては、真実とは厄介なものだった。かれはその威勢にもかかわらず、万人と変わらぬ人間であり、しばしば間違いを犯し、ときにはひどい間違いを犯していた。大勢のおべっか使いに囲まれ、だれも異論を唱えなかったために、かれ自身による歪曲が最終的には昇華されて真実となった。それに異を唱えると、それはただちに仇敵による歪曲とみなされるようになるのだった。マッカーサーは帰国直後に議会で演説したさい、重要な一点について恥知らずな嘘をついた。 統合参謀本部がかれの「立場を支持していると主張したのである。マッカーサーは間違っていた、かれは参謀本部を初めから軽くあしらい、何回となく出し抜き、その見解を故意に無視し、陰では多大の軽蔑をこめてかれのことを話していたーーー陸軍は有数のうわさ社会だったのでマッカーサーが自分たちについて陰でしゃべったことをかれはみんな知っていた。かれは再三にわたってだまされた。腰巾着のアーモンドを指揮権を分割してまで第十軍団長に据えたのはマッカーサーの参謀総長蔑視を象徴するものだった。 この期におよんでかれらの支持を得ていたと主張するのは、とんでもない政治的誤算だった。ことは参謀本部にとどまらなかった。マッカーサーは国防総省自体でもほとんど支持を得ていなかった。もっとも古株の一部が若いころのマッカーサーの偉大さを覚えていることは確かだった。ジョージ・マーシャルはラッセル委員会で証言するに当たって、マッカーサーの傑出した軍歴のゆえに、かrのいったことに異論を唱えるのはいかにむずかしいかを雄弁に語った。しかし、マーシャルほど長い記憶ををもたず、内心の軋轢も少ない若手の多くは、マッカーサーの命令無視、中国軍参戦のさいに責任を認めようとしなかったこと、軍に対する文民統制を故意に無視したことに激怒していた。 軍隅里(クスリ)や長津湖のようなところで死傷したのは、多くの場合、かれらの同期生や友人たちだった。かれらの恨みは若いころのマッカーサーの記憶ぐらいではやわらがなった。とすれば、これは報いだった。マッカーサーはペンタゴンのいたるところで多くの若手仕官たちから嫌われ、ときには憎まれていた。上院の若いスタッフよりもはるかに記録に精通していた国防総省の若手仕官は、上院議員とそのスタッフに手を貸してマッカーサーの論拠を破綻に導いたのである。 冷戦の教育の場 マッカーサーは日に日に小さくなった。ブライアン・マクマーン(コネティカット州選出)のような上院議員たちが指揮責任の範囲外のことーーーたとえば、ソ連軍への対応ーーーを質問すると、マッカーサーはすぐに後退しはじめた。ヨーロッパを救うためにアジアで共産主義勢力を阻止すること(たとえば恩知らずのヨーロッパ自身が中国との戦争拡大によって救われる重要性を理解しないとしても)についての高漫な説教も今度は聴かれなかった。 ヨーロッパのソ連軍について質問されると、それはわたしの責任ではないと答えただけだった。かれは一戦域司令官にすぎないというのである。しかし、それが問題の核心ではないか。マクラーレンたちはそう質した。トルーマン政府当局者はグローバルな任務に取り組むものの立場から、朝鮮からはるか離れた場所における潜在的な脅威や中国軍よりも危険な敵を意識しなければならないものの立場から、つねに論議を展開していた。政府がわたしの政策ーーーに従ったとしてもソ連は参戦しないだろう、とあなたは明言した。 マクマーンはマッカーサーにそう指摘した。あなたにはそう信じる権利があるが、もし間違っていたらどうするのか。あなたは中共も参戦しないと確信していたのではなかったか、あれは間違っていたのではないのか、マクマーンはそうたたみかけた。「わたしは[中国軍の参戦は]ないと思った」とマッカーサーは認めた。この告白は大きな失点だった。アメリカが中国との戦争を拡大すいる羽目になった場合にソ連はどうするか。という問題について専門家を自認していたマッカーサーの立場を弱めた。将軍はアメリカと連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えられると思うか。マクマーンがそう質問すると、マッカーサーは答えた。 「上院議員、わたしはあなたに何度もお願いした。わたしの責任地域以外のことにわたしを巻き込まないようにと。グローバルな防衛に関するわたしの見解はここで証言すべきではない。こうしたことがらについてわたしはいま権威を気取るつもりはない」そこからは下り坂だった。三日目の証言終わったときのマッカーサーは、ジョセフ・ゴールデンの表現を借りれば、「偏狭な関心と知識しかない司令官だと自ら称していた。世界的な戦略家を気取り、第一生命ビルの聖域からの展望が外交官や他の軍人たちのもよりも優れているなどと主張するわけにはいかなくなった」。
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議会聴聞会での対決 トルーマン攻撃はすぐ始まった。「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」トタイム誌は書いた。発行人へんりー・ルースは将軍本人と同様、中国との戦争にそれほど反対していなかった。タイム誌はさらにいう。マッカーサーは「偉大な人物に指導を仰ぐ多数の崇拝者を従える大人物の具現であり・・・トルーマンはほとんど職業的な小人物だ」。マッカーサーは早速、英雄と殉教者の役どころを(ねらい通り)与えられ、かれを解任して軍に対する文民支配を守った大統領は悪役に去れた。 マッカーサーを熱烈に迎える トルーマンとその顧問たちは深刻な波乱を予想していたが、そのひどさは予想を超えるものだった。いたるところでマッカーサーを一目見ようと大群衆が繰り出した。まず東京では、出発に際しては二十五万人ほどの日本人が街頭に列をなし、その多くが涙を流し、日米両国の小旗を振った。真夜中過ぎに立ち寄ったハワイでも大群衆が集まった。サンフランシスコでは、またもや真夜中すぎにもかかわらずそれを上回る大勢の群集がマッカーサーを出迎えたーー群集が多すぎ、興奮していたので、警備陣は押しとどめることができなかった。ついにニューヨークに入って紙テープの舞うパレードに臨んだときには七百万が繰り出したという。 アイゼンハワーが第二次世界大戦から凱旋したときに集めた群集の2倍である。反響は引き続き感情的だった「(大統領の将軍解任をきっかけに起きた政治的激情の爆発ほど、激しくて自然発生的なものがこの国にあったとは思われない。南北戦争以来、これに匹敵するものはなかったのは確かである」。アーサーシュレジンジャーとリチャード・ロープは両者の対決に関する共署の中でそう書いている。これは最大級の重力をもつ政治的、地政学的対決であり、アメリカ憲政の常道の危機に直面した。UP通信の若手記者だったジョージ・リーディは後に、合衆国政府が本当に危機に陥っていると思ったのは生涯であのときだけだった。 と回想している。リーディはその後、テキサス州選出の進取の気象に富む若手上院議員、リンドン・ジョンソンの広報官になる。リーディは勝ち誇ってワシントンに帰ってきたマッカーサーがペンシルバニア通りを進んでいくのをみながら思った。将軍が『さあみんな、やっちまおうぜ』と呼びかけたら、通りを埋めた将軍の信奉者はかれについていったのではないか」と。 満たされることのない戦後の新しい化身ともいうべき人物の挫折をきっかけに、この国に長く鬱積してきた怒りが爆発しようとしているかに思われた。戦火は国内のすべての断層線を横切って広がったようだ。バーでは知らない者同士が、通勤電車内では昔なじみの友人がけんかをした。ディーン・アチソン国務長官が解任騒ぎの直後、ワシントンでタクシーを拾ったところ、運転手から「あんた、ディーン・アチソンかね」と聞かれた。「ああ、そうだよ。わたしに降りてほしいかね」当時はほとんどだれも分かっていなかったが、ある意味で、これは大規模な反戦運動だった。朝鮮戦争反対だけでなく、おそらくは冷戦反対の運動でもあった。満足できない遠くの灰色の紛争、勝利という点でなほとんどなににももたらさず、奇妙にもわれわれの絶対へいきのも手を出せないように思われる紛争に対する一種の国民的要求不満反映だった。 その敵は強力で本物である。最終兵器をこちらが手に入れ完全なる勝利の前触れとなるはずだった時代に、なぜその敵と向き合って暮らさなければならないかという不満だった。ある意味で、それは別の時代の架け橋だった。第二次世界大戦の偉大な英雄に向けられた最後の歓呼であり、それに超大国という新たな地位を喜ばない国民の力強い本的な抗議が結びついたものだった。それはほぼ相半ばする愛と怒りによって生み出された非常に強力なものだった。 それはまた非常に政治的なものでもあったーーーそれは群集の歓呼、マッカーサーの主義主張に結集した何百万ものアメリカ人の歓呼のことではない。かれらはそれを実態よりもずっと単純なものと考えていた。政治的というのは、共和党右派の挑戦のことである。ハーバート・フーヴァーは不運な大統領を務めた後、(大恐慌に有効な手が打てず一九三二年の大統領選でルーズヴェルトに敗れていた)国の政治的な方向に満身の嫌悪を感じ、自分自身の政治的な生傷をうずかせていた。そのフーヴァーが長いこと打ちひしがれていたあと、いまや上り坂にあると感じている勢力を代弁することになった。 東京から帰国したマッカーサーと会談したかれは「聖パウロが東方から現れた偉大な陸軍将軍の肉体を借りて復活した」とまで語った。当初はすべてがマッカーサーの思い通りにいった。かれはこのドラマを完全に取り仕切り、悪人どもは当分の間、ほぼかれの筋書き通りの役を演じるほかなかった。ドラマの」山場上下両院合同会議での、いささかか感傷t的に走ったきらいはあるが力強い、かれの演説だった、マッカーサーはそこで自説を述べ上下の首尾を収めたかに見えた。かれは多くの信奉者への手紙に書いてきたのと同じように、勝利に変わるものはない、といった。 この問題全体については、統合参謀本部は完全にわたしと同意権である。面識のある軍部指導者ほぼ全員が同様である。マッカーサーはそう主張した。わたしに見えているものが見えない人々、朝鮮でアメリカの全兵力を使いたがらない人々は宥和政策(アピーズメント)の罪を犯している。Aの字(原子爆弾)も数回飛び出した。かれの標的については疑うまでもなかった。「中共に宥和政策を取ろうとする」人々は「歴史の明快な教訓が読めないのである」歴史は宥和政策がさらにあらたな血なまぐさい新たな戦争を引き起こすだけであるはっきりおしえている」と主張した。 「われわれはヨーロッパとアジアの両方で共産主義を抑えるだけの兵力がない、と考えるのは間違いである。こうした見解以上の敗北主義の表明は考えられない」とマッカーサーは断言した。自分が望んだ兵力増強は、ワシントンから認められなかった。台湾の国民党軍六十万を使いたかったが、それも許されなかった。あたかも、たこつぼ壕の一般兵士と無数の会話を交わしたことでもあるかのような口ぶりでいった。「部下の兵士たちはわたしが聞く。まぜ戦場の敵に軍事的に有利な条件を引き渡すのか、と」わたしはかれらにかれらに答えられなかった。マッカーサーはそう力説した。 その日は、かれが最後の締めくくりにはいる前から万雷の拍手が起こった。すでに守勢にあった民主党議員たちは議席で静まり返っていた。ついでかれは意味深長で力強い熱弁を振るった。懐古と感傷に満ちたものだったが、その場の感動を盛り上げるには、ほとんど抗しがたくて完璧なものだった。「老兵は死なず。ただ消えていくのみ。そう、あのバラードの老兵のように、わたしはいま軍歴を終えて消えていくのですーー神に光を与えられて自らの義務を知り、その義務を果たそうとした老兵として。さようなら」 この国でもっとも厚かましい部類にはいる人物のことばとしては、一見控えめなことばだった。かれには消えゆくつもりなど毛頭なかった。だが、議場の反響は圧倒的だった。ミズーリ州選出のヂューイ・ショート下院議員はこう言った。「われわれは神の化身を見たのだ、われわれは神の声聞いたのだ」しかし、トルーマンは予想通りこう言い捨てた。「たわごとにすぎないね」多くのアメリカ人にとって国の政策がこれほど誤っているかのように思われたことはめったになかった。 また、一人の人物ーーー勲章をたくさんぶら下げた有名な将軍ーーーが、より容易な方針だと思われるもの、アメリカ人の流血をはるかに少なくして戦争を早急に決着させる方法について、これほど自信たっぷりに語ったのもめったにないことだった。こうしたことのすべてが民主主義国家における画期的瞬間を用意したのである。もっともその時点では、それをそのようにみたアメリカ人は多くはいなかった。かれらにとっての画期的瞬間は感情の高ぶったマッカーサーの演説だった。 だがその後で起きたこと、突きつけられた選択肢の結果についての上院公聴会での討議は、同様の魅力には欠けていたが、実際にはこのほうがはるかに重要だった。当初、それは必ずしも公平な討議にはみえなかった。一方の陣営は熱気のすべてを独占し、地方の陣営は不人気な戦争のために不人気な論拠を示さざるをえなかった。それはだれも聞きたくないこと、要するに局地戦争に限定するだけで勝利であり、勝利とはいまや単に生き延びることだ、ということだった。 マッカーサーの嘘が暴かれる 近く起こるべき事態を真剣に考えていた人々には、マッカーサーの次回のワシントン訪問がそれほど愉快でもなく、英雄的でもないことを示す重要な兆候がみえていた。六か月前、トルーマんとマッカーサーがウエーク島で会談したさい、ヴァーニス・アンダーソンが会議室の開いたままの外にたまたま(怒った将軍一派が後日主張したところでは、たまたまではなかったが)座っていて会談内容を速記録に残していた。そのなかには、中国は参戦しないと保障したマッカーサーの尊大な発言も含まれていた。アンダーソンが記録をとったことは必ずしも秘密ではなかった。トルーマン一行のワシントン帰着後、彼女のメモがタイプされ、承認を求めるため、マッカーサはじめ会談参加者に送られていた。
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