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統合参謀本部も解任でまとまる だが、トルーマンは慎重に行動した、マーチン発言があったのは木曜日だった。その翌日の金曜日、つまり四月六日、トルーマンはマーシャル(国防長官)ブラドレー(統合参謀本部議長)アヴァレル・ハリマン(元国務長官で政権の重鎮)と会議を開き、何食わぬ顔をしてどうすべきか意見を求めた。マーシャルは依然慎重だった。アチソンはマッカーサー解任を望んだが、「閣下の政権は必ず最大級の戦いに見舞われる」と警告した。ハリマンは、トルーマンは一九五0年八月以来マッカーサーという難物と苦闘してきたと指摘した。トルーマンはその日、全員に後で再度会うように求め、マーシャルはワシントンとマッカーサーとの間に交わされたすべての通信記録を再調査して、マッカーサーが実際に不服従だったかどうかを点検するよう要求した。 ブラドレーは、きたるべき政争に死活的に重要な統合参謀本部の意向を探るように命じられた。その後の日曜日、ブラドレーは三軍の参謀総長と会談した。かれはマッカーサー解任の賛否を問われることを避ける方策をなおひねり出そうとした。高級軍人にとって最長老軍人を相手にするひどくいやな決断だったからだ。マッカーサーを朝鮮の司令部から切り離し、日本防衛だけをかれに残す話もあったが、マッカーサーがそのような解決策を受け入れないことは分かっていた。結局、参謀総長らはマッカーサー解任に同意し、それをもってマーシャルと会談した。沈んだ重苦しい会談だった。マッカーサーを解任するということは、もっとも大切にしている歴史書の数ページを破り取るようなものだった。マーシャルは一人ひとりのところに行ってトルーマンがマッカーサーを解任したら、決定に同意するかと問うた。各人はブラドレーと同様に同意すると答えた。 それぞれの瞬間 四月九日の日曜日、トルーマンはマッカーサーを解任すべしというかれの立場を始めて明らかにした。リッジウェイを彼に交代させ、ギリシャ内戦で頭角を現したジム・ヴァン・フリートを在職の第八軍司令官に就任させる。これは、基本的な憲法上の処理にかかわることであって政治的には関係がない、とかれは述べた。トルーマンが決定を発表する直前にスピーチライター一人に与えた軽い叱責ほど彼の態度をはっきり表したものはなかった。ホワイトハウスの上級スタッフ、チャーリー・マーフィーと若手スタッフでハリマンの子分、テド・タネンウォールドとの間で発表をめぐって論争があった。タネンウォールドは、決定は統合参謀本部と大統領の文民閣僚メンバー、とくにマーシャルとの全会一致の同意で下された含めるように求めた。 マーシャルという名前はまだ多くのアメリカ人には真の権威はを残していた。声明文をめぐる最後の会議の最終場面で大統領は会議室に足を運んだ。タネンウォールドは、大統領がこの決定を統合参謀本部と政権当局の満場一致の提案で行った事実を加えるように再度提案した。しかし、トルーマンは再度口を挟んだ、それは大統領としてかれが堪能したもっともすばらしいばめんだったかもしれない。大統領の職とは何であるかを本当に理解し、その必要にこたえるかれの稀有な映し出したものだった。「きみ,今晩はそうする必要はない」とトルーマンはネタンウォールドに告げた。 「その点については後でいくらでも時間がある。しかし、今晩、わたしはアメリカ合衆国大統領としてわたし「自身の責任においてこの決定を下したい。わたしはだれかと責任の分担を図っているなどとだにも思われたくない。それは四十八時間か七十二時間したら「すべて」明るみに出るよ。だが、今晩のところは、これはわたしの決断だ」それで決まりとなり、大統領は全国民に演説する準備をした。最後の段階になって、アヴァレル・ハリマンはリッジエェイがマッカーサーに交代することに声明で触れていないことに気がついた。それでその部分は手書きで加えられ、新しい時代の到のが告知が追加された(リッジエェイがマッカーサーの執務室に電話を引き、司令官と外部世界とを結ぶことだった)。 大統領は、この決定を下した理由は政策をめぐる歩み寄りがたい相違であるとし、さらにこう補足した「マッカーサー将軍のわが国の歴史上最大の司令官の一人としての地位は十分に保全される。将軍が重い責任ある地位にあって祖国に尽くした躊躇にして類まれな貢献に対して国民は恩義を感じるものである、それゆえ、わたしは本件で余儀なくされる行為を必用としたことに重ねて遺憾の意を表明する」 マッカーサーは対決を望んでいたに違いない、と大統領は職員たちに語った。「わたしはあのろくでなしがわれわれをどう裏切ったかを示すことができる。マッカーサーが解任されることを望んでいたのは間違いない。かれはマクラレンよりも悪質な裏切り者と見なされるだろう。さらに、だれも「わたしにかれを解任する勇気がないと思っているらしい。われわれはそう思わせておいて、解任を発表するのだ」ともらした。 後にトルーマンがマッカーサーについて内輪で語ったことばはもっとあけすけだった。「かれが地方総督、つまり、極東の帝王たらんとしたのは困ったことだった。かれは、自分が総司令官たるアメリカ合衆国大統領配下の陸軍の一将軍にすぎないことを忘れていた」マッカーサーは解任が近いことを知っていた。解任の前日、かれは取り巻きの一人のネド・アーモンドに会い「わたしはもう君に会えないかもしれない、だから、さようならだ、ネド」といった。ネドは何のことか分からず、どういう意味かと質問したころ、マッカーサーは「わたしは政治にかかわったから大統領に解任されるかもしれないのだ」と答えた。 そんなばかな、とアーモンド言い張った。ニュースが公にされたのはワシントン時間で十一日午前一時、という異例の時刻帯での記者会見で、東京には本人に公式に通告される前にラジオ放送で届いた。ホワイトハウスは無神経きわまりない、マッカーサーは犠牲者との印象をいっそう深めてしまった。マッカーサーが解任されるときでさえ、かれの副官たちは、マッカーサーは偉大なマッカーサーであることに変わりはないと言い張った。マッカーサー自身は当初は新聞記者に会わなかったが、側近の一人コートニー少将は記者たちに会って語った。「わたしは今しがた将軍と別れたばかりだ。将軍は大統領の司令官解任ことばを堂々と受け取り、眉一つ動かさなかった。将軍の武の資質がこれほど顕現されたことはない、−−将軍の最高にすばらしい一刻であった」
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マッカーサーのコミュニケがワシントンに届いたのは三月二十三日の夜十時ごろだった。ディーン・アチソン(国務長官)ボブ・ロヴェット(そにころ,国務省のナンバーツーだった)ディーン・ラスク(極東担当国務次官補)はアチソンの私邸にいた。だれもが激怒した。「重大な妨害行為」だとアチソンは言った。トルーマンはつぎにとるべき処置について自らの決定をほのめかすようなことはしなかった。 だが顧問として大統領をもっともよく理解していたと思われるアチソンが後に書いたところでは、大統領の心理状態は「不安と抑えた怒りのかたまり」だった。トルーマンの娘のマーガレットが後年明らかにしたとろによると、トルーマンはこ怒りを爆発させたのだという。「あのコミュニケのせいで中国側にメッセージを送ることができなかった。やつ「マッカーサー」はまさにそこで停戦を阻止したんだ。やつを蹴飛ばして北シナ海に落としてやりたい」このコミュニケは大統領と将軍との闘争を新たな水準に引き上げた。 それはだれが最高司令官かという問題まで発展した。翌日、トルーマンは最高首脳の会議を開き、和平提案構想は取り下げられた。それにともなって、中心問題はマッカーサーを解任するかどうかではなく、いつ解任するかになった。いつもは控えめなロヴェットが即刻解任したいといった。ジョージ・マーシャル(国防長官・元元帥)はそのような処置が議会の怒りに火をつけることを懸念し、それが軍事費予算法案に及ぼす影響についていら立った。アチソンは政治的余波が広がるのを心配した。また、統合参謀本部の問題もあった。−−−かれは異論を唱えずに同一歩調をとるだろうか。軍幹部に自分たちの仲間の一人を攻撃させるのはつねに微妙な話である。 参謀が一人でも歩調を合わせなければ、マッカーサーの立場は大いに強くなるだろう。しかしまた、トルーマンはすでに決断済みで時期を待っているにすぎないことも疑いなかった。その時期はすぐにやってきた。ほぼ同じころ、マッカーサーは下院の共和党内総務、ジョー・マーチンから一通の書簡を受け取った。マーチンは蒋介石の熱心な支持者でチャイナロビーのメンバーである。書簡はアジアについてマッカーサーの見解、とりわけ蒋介石の部隊を使って中国軍に対する第二戦線を開くことについて見解を求めた。マーチンはこれに大賛成だった。 「あなたは多数の信奉者がいて、多大の尊敬を集めています」とマーチンは述べ、回答は非公開でも公開でも構わない、とつけ加えた。たいがいの軍人なら、、海千山千の政治家が無邪気で世間知らずの将軍に仕掛けたワナだと思っただろうが、マッカーサーには絶好のチャンスにほかならなかった。マッカーsクァーは三月二十日に回答したがマーチンがそれをどう使うかについては、なんお制限も設けなかった。マッカーサーはその手紙で「兵力には最大限の対抗兵力で立ち向かうべきことである。過去には必ずそうしてきた。台湾の国民政府軍を利用することについての見解は、論理に反しないし、この伝統とも矛盾するものではない」とぶちあげ、ついで、いまやおなじみになったくどくどしい説明と不満を述べ立てていた。 朝鮮戦争マッカーサー神話の嘘 解任 マッカーサーの思惑通り、ジョー・マーチンは餌に飛びつき、四月五日、下院の議場でマッカーサーの書簡を読み上げた。四面楚歌の政府にとってこれほど政治的に、また潜在的に有害な有害なものはなかった。(同様にアメリカの同盟国にとってぞっとするものはなかった)。さらにもう一つ、公文書ではないが、そのころトルーマンとかれを取り巻く首脳らがマッカーサーは不良将軍であるとの意見を醸成するのに強く影響したものがあった。世界中の秘密通信を所管する極秘機関、国家安全保障局が厚木基地のなかにある傍受局から入手した傍受記録である。この傍受局は主として中国軍に関する情報の盗聴に使われていたが、ときには友好国にも聞き耳を立てた。一九五十年〜五十一年の晩秋、同所の要員らは東京在住のスペイン、ポルトガル大使館から出た一連の通信を傍受した。マッカーサー9は両大使館とは、フランシスコ・フランコ、アントニオ・サラザールというそれぞれの国の独裁者びいきのチャールズ。ウイロビーのおかげでワシントンよりも緊密な関係を持っていた。 スペイン、ポルトガルの外交官らは本国の通信でマッカーサはかれらに朝鮮戦争を中国との戦争拡大に転換できると請け負った、と伝えた。国務省政策企画局のポール・ニットと福局長チャールズ・バートン・マーシャルは最終的にこの通信文を読むことになる。大統領にも渡った。ジャーナリストのジョセフ・ゴールディングによえると、トルーマンはこれを読むと、トツーマンはこれを読むと、怒って机をぴしゃりとたたき、「これはあからさまな反逆だ」と叫んだ。 マーチンが将軍の書簡を明らかにした翌日、トルーマンは日記に次のように書いた。「マッカーサーは下院共和党の院内総務ジョー・マーチンを通じてまた爆弾を放った。これはどうやら我慢の限界を超えるものだ。ひどい不服従である」ついで、大統領は自分用にマッカーサーのそれまでの行動のいくつかを列挙したうえ、日記の最後にこう締めくくる「わたしは極東のわが大将軍を召還すべしとの結論に達した」しかし、トルーマンは政府首脳との会談ではなお慎重で、自らの決断に対する言葉を飲み込んだ。大統領とそのその周辺の高官たちは双方が共倒れになる状況にあることが分かりすぎほど分かっていた。 明るい側面がなかった、きわめて不人気な戦争の最中に尊敬を集める有名将軍のクビを切ったら,大統領は短期的に傷つかざるを得ない。当面の政治的な影響は疑いもなく将軍に有利であろう。歴史となると別である。トルーマンは自分が解任した後、歴史家たちが登場して助け舟を出してくれると確信していた。もっとも、歴史家たちはその目鼻を付けるのに好きなだけ時間をかけるかもしれない。トルーマンは自分の政権の時価での支払いは高くつくことを知っていた鋭敏な政治家だった。それでもやはり、かれはゆるぎがなかった。マッカーサーの振る舞いは軍に対する文民支配という民主社会の根幹そのものを傷つけるものである、とトルーマンは信じた。そういうことがみな選択を驚くばかりに容易にした。トルーマンも進行中の事態には歴史上妙な前例があると思った。 マッカーサーがワシントンとリンカーンの直系子孫を自任していたとすれば、トルーマンはマッカーサーを見栄えのしないジョージ・マクレガン将軍現代の生まれ変わりと見なしていた。マクレランはトルーマンの見方によれば、戦場でリンカーンの足を引っ張っただけでなく、あからさまにかれをばかにし、予定された面会にわざとかれを待たせたこともたびたびあった。マクレランはリンカーンを「奇抜なゴリラ」と公然と呼んだ。1九五0年から五十一年にかけての冬、トルーマンは三十六歳のホワイトハウス職員ケン・ヘクラーに命じて議会図書館の書架に残るリンカーンーーマクレラン関係資料を調べさせた。 ヘクラーは二人の問題将軍が驚くほど似ていることを発見した。ヘクラーのメモは、大統領と将軍との間に交わされた長文の通信、一年間続いたけんか口調のやりとがエスカレートしてとうとう一八六二年十一月、マクレランをポトマック軍(南北戦争時の首都防衛の北軍)司令官から解任するリンカーンの決定に至った経過を詳述していた。ヘクラーが調査結果をトルーマンに大統領に提出したところ、驚いたことに大統領はそのほとんどを知っていて、すでにそこからになにがしの慰めを得ていた。結局のところ、ほぼ九十年後、リンカーは歴代大統領の最上位に称揚され、マクレランへの評価は軍人中最下位である。大統領は理解したこと。それはこの場合、歴史は将来かれの味方になるということ、かれは優越感を持つ将軍といざこざを越した初の大統領ではなかったことだった。
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コーンパイプをくわえたマッカーサー元帥(1945年) 間もなく新しいパターンがみられるよういになった。リッジウェイが大攻勢を計画して、それが始まる間際になるとマッカーサーと取り巻きの幹部らが突然当該本部に飛来し、ただちに記者会見を開いてーーーますますリッジウェイを信奉するようになった記者団を奪い返そうとするようにーーー計画を立てたのは自分たちだと主張するのである。リッジウェイのキラー作戦が発動されようとしていたとき、マッカーサーは水原に飛んで攻撃を命じたのは自分だと発表した。リッジウェイが後に怒りをこめて書いているように、マッカーサーもマッカーサーの幕僚たちもこの作戦計画にはまったくかかわっていなかった。 「マッカーサーの記者会見でわたしの虚栄心が傷ついたわけではない、むしろ、わたしの知っていたマッカーサー、ほとんど忘れていたあのマッカーサーを思い出し、いやな気分になった」それは「つねに世間体をよくしておく」ことに熱心な将軍の姿だった。 ワシントンを挑発 一きゅう五一年始めの数ヶ月、これまでになく不満を募らせたマッカーサーは合衆国大統領との歴史的対立に突き進む。十年以上にわたって、二代の大統領とその閣僚たちは自らの犠牲において、マッカーサーがもてはやされるのを許してきた。第二次世界大戦後の時代、かれらは将軍の才能をそれほど必要としなかったにもかかわらず、将軍を恐れて対決を先延ばしにした。その理由は、将軍があまりにも高い名声を得ていたことにあった(トルーマンはルーズヴェルトが将軍を神格化したことによく不満をもらし、ルーズヴェルトはバターンで日本軍にマッカーサーを捕らえさせるべきだった、などと内輪で話していたが、かれもまたマッカーサーとの対決を恐れ、神話の存続を許した)。 ワシントンにとっては、年を追って代価が上昇しただけでなく、タイミングも不利になった。将軍と同盟する政治勢力が一段と力をついけてきたからである。そしてこのゲームが終わりに近づき、代価を支払う以外に選択の余地がなくなったときには、その代価は桁外れのものになっていた。自己神格化の手のこbだプロセスが、ほとんどは政府の犠牲において、非常に長く進行していたからである。いまやそのつけを払わなければならない。しかし、マッカーサーに統合参謀本部のだれいかを味方に付ける可能性があったとしても、それはリッジウェイの成功とともに消えてしまった。 参謀本部のなかではおそらくもっともタカ派だった海軍作戦部長のフォレスト・シャーマン海軍大将は、朝鮮半島から追い落とされる、などといった論議がかしましかったころ、一時はマッカーサーの同盟者とも思われるものの、いまや逃げ腰になっていた。こうしてマッカーサーは狙いを定めて、政府当局者と大統領本人に攻撃の矛先を向けるにいたった。 かれらこそマッカーサーの意思を妨害し、最後の勝利を盗み取り、マッカーサーの伝記作家ウィリアム・マンチェスターの表現を借りれば「かれの最後の聖戦(クルセーダ)を台無しにした張本人たちだった。そこで始まったのは、大統領にマッカーサーの解任を迫る意図的な作戦、とまではいわないにしても、それに限りなく近いものだった。朝鮮で思い通りにできないのであれば、、その邪魔をす連中を引き摺り下ろすために、できることはなんでもしてやろう。具体的には、(朝鮮に関する政策発言に際しては国務省の許可を得るようにという)トルーマンの十二月六日の指示に計画的に違反し始めた。緘口令などは笑い種だ。 「七一歳の年寄り」だから、そんなものは無視したって損することはなにもない。首にするならすればよい。かれは昼食会の客の一人にそんなことをいった。たとえば、三月七日、朝鮮での記者会見の冒頭マッカーサーは自分に押し付けられたと称する重大かつ異常な抑圧、増援部隊の欠如、そのほかワシントンから課せられた制約に言及して、トルーマン大統領に製肘(せいちゅう)を加えた。さらに、ワシントンが北京を和平交渉のテーブルにつかせる試みを真剣に考えてはじめていたまさにそのとき、マッカーサーは中国軍の失敗と限界を嘲笑したーーー自分を敗北させた誇り高い敵をあざけったのである。そのこ自体、大統領を大いに怒らせた。マッカーサーが対中交渉をひどくむずかしくしたからである。 ぶち壊れた和平への端緒 重要なのはワシントンに中国側と話し合う用意があったということだった。トルーマンは近い将来、重要演説を行い、双方が交渉のテーブルについて戦争開始の地点あたりで終わりにすることを提案する意向だった。ところが、マッカーサーにとって、そのような引き分けは敗北をほかならなかった。ワシントンの意向を通告されたかれは、きわめて意図的にそれを妨害し始めた。三月二十四日、マッカーサーは朝鮮を訪問するのに際して、こミュニケを発表した。またもや中国の軍事指導部をからかう内容だった。それは著しく侮辱的な驚くべき文書で、北京とワシントン二つの首都を攻撃したものだった。これが発表されたために、和平プロセスへの第一歩を踏み出す機会は、当面のところは失われてしまった。歴史家のクレイ・ブレアの表現を借りれば、トルーマンの指示に対す「この上なく露骨で挑発的な」冒瀆だった。
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コーンパイプをくゆらすマッカーサー元帥(1945年) 「ここはまさしくわたしが七ケ月前、この聖戦(クルセード)をスタートさせた場所だ。しかし、いまや戦いの目標は一朝鮮にとどまらない、自由アジアの実現だ」「聖戦」の一語と「自由アジア」への言及は、イギリス人ジャーナリストたちによって即座に取り上げられ、ロンドンの新聞で報じられてイギリス政府をあわてさせた。東京のマッカーサーは戦争の拡大、おそらくは中国との全面戦争を望んでいるらしい、トイギリスは感じ取った、まさにその通りだった。マッカーサーは朝鮮で形成されつつある事態が理解できなかった。他の軍高官のほとんど、そして統合参謀本部には、それが分かっていたにもかかわらず・・・・。 マッカーサーは自分の司令部以外に関心をもたなかった。ソ連がヨーロッパに与えるかもしれない脅威にはなんの関心もなかった、アメリカが朝鮮の戦争をエスカレートさせれば、ソ連は容易に対抗処置を取ることが出来る。そのことをつねに意識していたトルーマンは、ベルリン、インドシナ、ユーゴスラヴィア、そしてとりわけイランでの危機発生を懸念していた。ささいな事件を起こしソ連は、それを介入の口実にするだろう。大統領はよくそう口にしていた。マッカーサーは中国の都市に爆弾を投下した後におこることをまつたく理解していない、とトルーマンとその周辺は考えていた。その次には国連軍がソ連のウラジオストック港とシベリア鉄道を爆撃する話が出てくるだろう。 ソ連が送り込む物資はすべて鉄道で輸送されるからだ。これが戦争をエスカレートさせ、最終的には日本の諸都市をソ連の報復攻撃の危険にさらす、だが、マッカーサーはそんな事態はぜんぜん想定していないのではないか。トルーマンはそう疑っていた。東京での最後の数か月、マッカーサーを突き動かしたものがなんであったかについて、当時統合参謀本部の議長だったオマー・ブラドレーは、将軍が他の将軍を評するにしては非常に厳しい言葉で後年こう書いている。 「マッカーサーの反発の原因は、少なくともその一部は、かれの軍人としての伝説的プライドが傷ついたことにある、と私は確信する。中京軍は無謬の『軍事的天才』をばかにして笑いものにしたのである。そのころにはマッカーサーにも、仁川上陸のあと北朝鮮軍を追って第十軍団を派遣しなかったこと、兵力を二分して第十軍団を雲山(ウンサン)派遣したことがはっきり分かっていたはずである・・・・それに加えて、中国軍はかれの情報評価を笑いものにした。鴨緑江鉄橋の北朝鮮側部分の爆撃はじめとする全面空爆によって朝鮮半島北西地域を不毛の地とすると自慢し、わが軍の兵は鴨緑江まで進んで『クリスマスまでに帰国する』と断言したことを嘲笑した。 失われたプライドと軍事的名声を取り戻すためにマッカーサーに残され唯一可能な手段は、かれを愚弄した赤い中国の将軍らに圧倒的な敗北を見舞うことだった。そのためなら、かれはわが国と中共との、さらにおそらくは、ソ連との、全面戦争に突入させ、第三次世界大戦と核による大虐殺(ホロコースト)への点火線に点火することも辞さなかった」 リッジウェイの作戦を横取りする マッカーサーが最近まで全く不十分と考えていたのと同じ兵力レベルでリッジウェイが研平里(チビヨンニ)その他の地域でほとんど即座に成功を収めたことも、どちらかといえば、事態を悪化させた。他の者には限定的な勝利と映った事態も、マッカーサーのプライドにとっては、事実上、もう一つの大敗北だった。リッジウェイは戦場での成功と歯に衣着せぬ率直な姿勢によって新聞記者団にファンを作りつつあった。その事実もマッカーサーを傷つけた。マッカーサーは脚光を浴びたかったが、その軍歴の終わりに近い区なって、それを部下に奪われることになった。 以前には決して許さなかった事態である。記者たちはリッジウェイが好きだった。プロの軍人で率直、任務に全身全霊を打ち込んでいる将軍であり、記者たちには正直でぶっきらぼうに話し、(蒋介石の国民党軍の顧問を務めた)ジョセフ・スティルウエェルと似ていなくもなかった。リッジウェイのもっぱらの関心事は戦争自体であって、記者たちの記事に自分がどう描かれているかではなかった。手柄があると、惜しげもなく部下の仕官たちのものにした。新聞報道の調子でマッカーサーがとりわけ嫌ったのは、よいリッジウェイが悪いマッカーサーと交代する、事情に通じたものがどうしようもなく事情に疎い者と交代する、とそれとなく匂わせるものだった。
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コーンパイプをくゆらすマッカーサー元帥(1945年) デイヴィット・ハルバ−スタム(ジャーナリスト) 解説:萩原遼、翻訳山田耕介、山田侑平 偉大な将軍マッカーサーの実像を日本人は知らなさすぎた。戦後日本に君臨してその骨格を作った英雄の仮面が剥がれていく。 『ベスト&プライステスト』(千九百七十二年)でベトナム戦争を『覇者の驕り』(千九百八十六年)で日米自動車戦争を描くなど、現代史の骨太なテーマを次々にものしてきたハルバースタムが最後に選んだテーマは私たちの隣で起こった戦争だった。十年の歳月をかけて取材執筆、ゲラに最後の筆を入れた翌週、不慮の交通事故で逝去、文藝春秋はその直後から遺族らと版権交渉をし、日本語版権を独占入手。 今回お届けするのは、その『ザ・コールデストウインター朝鮮戦争』(小社より今月十五日刊行)のハイライト部分である。毛沢東とスターリン金日成の虚虚実々のかけひき、あるいは、毛沢東が、海軍力を持たない中国は台湾ではなく朝鮮半島であれればアメリカに勝てると考え、参戦を決意することなど、本書の魅力はきわめて立体的だが、なかでも日本人にとって衝撃的なのは、日本人が畏怖の念をいまだに持ち続けるマッカーサーとその総司令部の内実を徹底的に暴露したことだろう。 マッカーサーはアジアの情勢を楽観視し、ワシントンの許可を得ずに勝手に動員解除をぶちあげ、その結果朝鮮戦争の開戦時の極東米軍の兵力と質はお寒いばかりだった。案の定、あっという間に釜山まで追い詰められるが、現地指揮官のウォルトン・ウォーカーの頑張りで橋頭堡を持ちこたえる。さまざまな幸運が重なり、敵の背後を突く仁川上陸作戦が成功するが、その成功がマッカーサーを再び慢心させる。「クリスマスまでに戦争は終わる。中国軍の参戦はない」として、指揮権を分割、一方の軍を自分の腰巾着であるネド・アーモンドにまかせるなどして鴨緑江をめざすが、中国軍の待ち伏せにあい、国連軍は壊滅的な打撃を受ける。中国軍参戦の度重なる諜報を総司令部で握りつぶしたのは、あのG2(諜報担当)チャールズ・ウィロビーだった。 東京の総司令部は、マッカーサーがかくあれかしと望む現実を見せる者だけが出世し、本当のことを言う人間は遠ざけられていたのである。絶望的な戦況に、トルーマン政権は、マシュー・リッジウェイを現地指揮官として投入。リッジウェイは、中国軍をいまいちど押し戻し戦線は38度線で膠着する。出番のなくなったマッカーサーは、大統領の指令を無視し中国との全面戦争を大っぴらに主張。トルーマンに決断の時が訪れる。 マッカーサーは全面戦争に突き進む 戦況の改善で東京とワシントンの間の緊張がなくなったわけではなかった。マッカーサーはむしろ前よりもワシントンに手を焼かせるようになった。トルーマン政府の戦争戦略を公然と批判し、リッジウェイの成功についても(それを自分の手柄にする場合は別として)大っぴらにおとしめるようになった。そしてついには、あけっぴろげに政治的となり、大統領の権限の下にある司令官でありながら、あたかも議会共和党司令部に雇われた軍事顧問を兼ねているかのようだった。つい最近までトルマン大統領と統合参謀本部に異議を唱えて、中国軍の膨大な規模からすれば、アメリカは大規模な兵力増強か、核兵器の使用抜きでは朝鮮半島に留まることはできない、と不吉なことを主張してにもかかわらず、いまやマッカーサーの論旨は様変わりした。 彼は自分に同情的な編集者や右派の政治家に語った。私が不満なのはアメリカが朝鮮で勝利する意欲を失ったからだ、と。たとえ、かれらのいう勝利がアジア大陸における中国との全面戦争を意味するとしても、そうだというのである。 堕ちた偶像 中国軍の緒戦の大攻勢とかれの部隊の退却とでマッカーサーの評判は痛手を受けた。ワシントンの軍の同僚たちはかれに注意を払わなくなり、マッカーサーが無理だといっていたやり方でリッジウェイが中国軍を立ち往生させると、今度はマッカーサーはワシントンと一戦を交えたくてうずずしている様子だった。この一戦は軍事的というよりも政治的なものだった。争点は戦争拡大、場合によっては全面戦争の是非で、その相手はホワイトハウス(と統合参謀本部)が脇役と見なしている敵だった。すなわちソ連ではなく中国だった。その中国は日本との戦いで、際限のない数の日本軍を飲み込んでしまった実績を持っていた。日本軍が自分たちが勝っていた思っていたときでさえ、実は、中国がそれをのみこんでいたにすぎなかった。 ここで注意しなければならないのは、リッジウェイの成功も民主党政府になんらの政治的な利益をもたらなかった点である。四面楚歌の政府は四面楚歌のままであり、不人気の戦争は相変わらず不人気だった。戦争が長引けば長引くほど、求められる政治的な代償はそれだけ大きくなる。統合参謀本部および大統領との関係では守勢に立たされていたとしても、マッカーサーには、アメリカ本国で自分を指示する人々が増えていると信ずべき理由があった。マッカーサーはかれらの政治学的なヴィションを体現しているかに思われたのである。 それこそマッカーサーの最悪の面を間違いなく発揮させる状況にほかならなかった。ワシントンから孤立し無視されたマッカーカーサーは一戦を交えたくてしかたがなかったのである。トルーマンとその側近が我慢しがたかったのは、軍事情勢がマッカーサーの誤算のために一段と悪化したこと、いことだったてその張本人があろうことか政治的反対陣営に身を投じ、その責めを負うことになんの関心を示さないことだったこれらすべてのことが、大統領との決定的な衝突を不可避にした。 マッカーサーを抑制するものはいまや何もなかった。千九百五十一年一月には、かれがこまでになく公然と戦争を拡大を推進する決意であることを示す兆候がみえてきた。マッカーsクァーが水原に飛び、リッジウェイが出迎えた一月二十八日のことである。詰め掛けたジャーナリストたちはマッカーサーが飛行機を降りながら発したことばを耳にした。
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