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過去のナチスドイツと一緒の行楽地 それは長い白い砂浜と数キロの美しい損なわれていない海岸線を持っている、しかしプロラはドイツのバルト海沿岸地帯のルーゲン島で旅行者のパンフレットで大きな位置を占めてはいない。恐らくそれはその歴史に大きく関係する事であるからだ。ナチスドイツの行楽地・保養地として有名だったからだ。 しかしルーゲンの地方自治体は新しい歴史を作ろうとページをめくる時間であると思っている。プロラを現代の観光地に変える計画を承認した。浜辺に沿って歩いて行くと人々は松の森に部分的に隠れている斬新なコンクリートの建物を見かける。人々が砂丘の上を歩くとプロラは過去にドイツのナチの不気味な名残の圧倒的なスケールに打たれる。 手足を伸ばしている長さ5kmの海岸線で現在5つの同一の6階建の建物に遭遇する。当初は8つの建物があったが2つは現在は荒廃して見る影もない。 大規模な観光旅行 ナチスは大量殺人を予定した、そして全てのドイツの住民を教化する彼らの試みの一部として彼らも大規模な観光旅行を予定した。2万人の訪問客に対応するようになっている広大な総合ビルはナチスの「喜びのための強さ」(「クラフト・ドウッチ・フラウデKdF)計画の一部だった。 狙いは余暇の活動をドイツの労働者に提供することになっていてナチ宣伝を広げることになっていた。喜びの周遊船による強さがドックに入る所で、計画は映画館、宴会場、プールと埠頭を含む大規模なものだった。 ナチスは1936年にプロラを造り始めた。しかし同時にヒトラーは戦争の準備を始めていた。プロラ計画は優先権があった、そして大きい建築の計画は決して終わらなかった。連合軍の猛烈な爆撃を逃れて多くの難民はここに避難した。 戦争の後プロラが東ドイツの軍のために軍の最先端として使われた。しかし1990年のドイツの再統一以来、建物は空のままだった。 野心的な計画 今日、小さな博物館とディスコを除いて全部の場所はまだかなりさびれていて、まるで妖怪が出てくるような雰囲気が漂う。地方住民はプロラを「巨像」と呼んでいる、そして人々はその理由が分かっている。それは巨大なナチスの記念碑であり構築物だからだ。心ない破壊者によって壊された無数の部屋、何百もの空室部屋がある。 長年の議論の後、計画では現在プロラを最新の休暇村に変える計画が進行中である。5ブロックのうちの4つは個人投資家とルーゲンの地区評議会に売られた。これはナチスが彼らを教化するのと同じくらいよく人々を養って楽しませたかった所でもある。しかしそれは本当に休暇中の目的地ではなかった。 ハイケ・タグソルド、プロラの歴史家 議会では500ベッドのユースホステルを1ブロックごとに建設したい。そしてそれにはおよそ1千500万ユーロがかかる。(1300万ドル)「プロラはルーゲンの島で最も美しい浜辺のうちの1つを持っている。そのすばらしい白い砂でプロラはカリブ海の浜辺のようなものよ」と地元の議員のシェシュティン・カスナーが言う。 「浜辺でそのような大きな美しい空間を持っていてもうれしくはないので、我々は命をこの地域に戻さなければなりません」と彼女が付け加えた。開発者には新しい展望がある。何千もの訪問客を引きつけるために喫茶店、ディスコ、ホテル、スポーツホールとプールで彼らは何百もの休暇中のアパートを建設したい。 「我々はできるだけ速くプロラを改造したい」とビンツのホルスト・シャウマン市長が言う。 「我々は将来3,000人にここで住宅を供給することができる。我々は、たくさんの若者たちと観光客にここに来てこの平和なリゾートで彼らの休日を楽しんで欲しい」と彼が付け加えた。 こもごもの思い 新しい手段での建設は来年始まることになっている。しかしプロラを観光名所に変えるというアイデアは論争の的であると分かっている。ビンズの近くの海辺の町では地方住民は新しい計画についてこもごもの思いを持っている。 「我々にすでに十分な観光客がここで持っている、そして我々はこれ以上の訪問客を必要としていない」と1人の男が言う。 「プロラは過去を思い出させるものとして去られなければならない、そしてそれはパッケージツアーの行楽地になってはならない。我々は我々の歴史を忘れてはならない」、と小売店経営者のカトリーンが言う。 「プロラが表すもののために私は新しい手段をここで構築するのは正しいとは思わない」とプロラのドキュメンテーションセンターの歴史家のハイケ・タグソルドが言う。私は休暇で人々がにここに来ることを想像することができない、そして私は人々がこの場所で楽しい時を過ごさなければならないと思いません」と彼女が言う。 一旦建築での仕事が始まれば博物館がプロラのままかどうか明らかではない、しかしタグソルドさんはそれがそうしなければならないと主張している。「極右のグループはドイツで有力な力を持っています。我々は人々が何がプロラであったかについて理解することを確認しなければならないので、我々はこの博物館を保持する必要があります」と彼女が言う。 新しい手段の計画はまだ未定である、そして地方自治体と開発者は博物館の運命をまだ決定していない。 「我々はプロラの歴史を無視できない。建物の正面が保存されるように、それは記録された資産でもある」とビンツ議会からゲドラン・ライマーが言う。しかしプロラが人気がある休日に変わることができるかどうかに関係なく、目的地はまだ白紙状態である。 |
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2008年12月13日
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日本の戦時犯罪記録 1、中国関係 2、東南アジア関係 3、GHQと政府の取り決めと政府の秘密 4、なぜ中国は秘密にされたか 5、何も知らない国民、田母神論文が出てきた背景 6、国民は目隠しをされて教育された、政府の責任追及と今後の動向 序文: 我々日本人は日本は歴史のある国、誇りを持つ国として認識している。象徴天皇がいて政府の行事に様々な形で出席され国は安泰しているように見える、しかし近代の日本は残念ながら誇りに思ってもそうのような形ではなかったというのとを認識したい。この歪みはすべて欧米諸国との対立で生じたもので、愛国者が欧米を非難する最大の根拠になっている。日本は近代の歴史を進む過程で道を踏み外し暴走機関車になった、ブレーキがまったく利かない無人状態の機関車で地獄への線路をまっしぐらに暴走、国家は破綻滅亡してしまった。 昭和の時代に入ってから日本は自他共に「列強」と見なされる強国にのし上がった。欧米と肩を並べて世界を歩く日本は様々な国際条約に署名している、そのひとつが「毒ガス条約」でこれは第一次世界大戦でドイツが大規模に使用してその非人間性と残虐さゆえに製造と使用は禁止された。日本も当然署名をして批准しているが、国内では密かに製造され中国戦線では大規模に作戦で使用し多数の犠牲者を出していた。 中国の現在では内モンゴル自治区に日本は大規模な毒ガス実験場を建設した。これはソ連を想定したもので気候と地形がソ連に似ているために選ばれた。広大な地域で連日マルタと呼ばれていた支那人が毒ガスの実験体として使用され、穴を掘りそこに支那人を押し込めて毒ガスを注入、どのように苦しむか何分で死ぬか実権が行われた。国内では広島県の瀬戸内海の小島に製造工場が建設され先日のテレビで当時の働いていた人で、「人間の悪魔の工場」と呼びこのような工場は二度とあってはならないと強調していた。 石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。階級は陸軍軍医中将功三級医学博士。千葉県加茂出身。 731部隊の創設者として多くの人体実験を行い細菌兵器を開発したことで知られる。 生い立ち 石井四郎は、千葉県山武郡芝山町(加茂)の旧家主、父・石井桂と母・千代の間に四男として生まれる。少年期より秀才ぶりを発揮し、県立千葉中学から金沢の四高を経て、京都帝国大学医学部を首席で卒業。 長男・彪雄は日露戦争で戦死し、次男・剛男は陸軍嘱託、三男・三男は陸軍技師として後に731部隊隊長となる。 性格は知能は高いがエキセントリックな人物であったとされる。例えば、研究予算を獲得するために小便から抽出した塩や、汚水や尿をろ過した水をデモンストレーションで飲食する事があったという(なお、このろ過器は「石井式ろ過器」として戦地ので給水に活躍することになる)。また、京大医学部を首席で卒業しながらも、当時の軍医は中将までしか昇進しないことに強い不満を持ち、革新的な研究成果を欲していたとされ、これが731部隊での研究を行う動機に繋がったとも言われる。 石井は中国での戦線拡大に伴う物資不足を解決するため、当時国際的に禁止されていた細菌兵器に目をつけ、鉄資源に乏しい日本において細菌兵器は安上がりで最も有効な兵器と提唱し陸軍のトップを動かす。軍令により1936年、関東軍防疫給水部(大日本帝国陸軍731部隊)が設立され、隊長としてハルビンにて細菌兵器を開発していくことになる。飛行場、神社、プール等もある巨大な施設で冷暖房も完備された近代的な施設を持ち、監獄も完備してあり、少なくとも3000人近い人を実験により殺した。 施設の中心のロ号棟(ろごうとう)でペスト菌や炭疽菌、チフス、凍傷、毒ガス等の人体実験を行った。1940年当時、年間予算1000万円(現在の90億円)が会計監査なしで支給されていた。石井の娘は後に「映画風と共に去りぬに出てくる大農場主の豪邸を思わせるような大邸宅に石井家は住んでいた」と語っている。ロ号棟の中庭にある特設の監獄2棟に日本軍に抵抗したとして捕らえた中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人等を人体実験のために収容し、その囚人をマルタと呼んだ。憲兵・警察等が裁判を行わずに容疑者を731部隊に移送できる特移扱(特別移送扱い)という制度まであり、憲兵は特移を増やせば出世していた。マルタに対しワクチンが聞かない細菌製造のため、より毒性の強い細菌を注射し、感染して発熱すると大喜びした。 瀕死の状態の時に解剖して内臓から菌を取り出した。1940年から1942年にかけて井本熊男の作戦の元、ペスト菌を中国にばらまくことになる。1945年8月、大本営作戦参謀朝枝繁春より撤退を告げられ、石井の命令により、施設を証拠隠滅のため根こそぎ爆破、収容していた人体実験用の中国人ら約400人をガスで殺した後、自らの家族と幹部らともに特別列車で引き揚げた。 戦後は石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い偽の葬式まで千葉で行い行方をくらまし、米兵相手の売春宿を経営してひっそりと暮らしていた。石井の右腕であった内藤良一がマレー・サンダース軍医中佐と交渉、人体実験の資料と交換条件として731部隊関係者は戦犯免責となった。近隣の住民が怪我や病気になると無償で診察、治療を行ったと言う。特に子供の患者については後々までも気にかけ、命を救うことが出来ると「本当によかった」と漏らしていたという。また晩年にはキリスト教を信仰しており、罪滅ぼしの意識が働いていたのではないかと考察されている(2007年6月12日付朝日新聞)。 国際条約に署名し批准したにもかかわらず日本は平気でそれを破る、これは当時としては当たり前のことで日本はいささかも恥じていない驚くべき神経ではないか。ドイツ軍の破竹の進撃で目潰しを食らった日本政府は怖いものは何もなかった。軍部は中国で暴走していた、独断専行で政府の言うことを聞かず中国の抗日戦線には大規模な派兵で答えていた。このような中で南京事件は発生し政府は首都南京を制圧せしめたりと大々的に報道させた。 南京事件を歴史を元に考察すると様々な矛盾点が浮かび上がってくる、日本軍の攻撃部隊は総数で15万だったが、これが全部投入されたわけではない。蒋介石は南京を逃げ出している、その残存部隊は戦闘意欲はもはやなく日本軍に降伏している。しかし支那人には異様な習慣があった、敵と対峙して逃げ出す兵士は後ろから射撃を加える。日本軍が南京城に入城した時には膨大な支那兵の遺体が遺棄されていた、さらに膨大な捕虜を捕まえて現場指揮官は戸惑ったに違いない。当時の日本軍は原則として捕虜は取らない、食料の余裕もまったくなかったという悪循環が指揮官の判断を狂わせたと見ていいだろう。 指揮官は独断で捕虜の射殺を決定、揚子江の岸辺に捕虜を一列に並べて撃てと命じた、機関銃が捕虜の列をなぎ倒した。プカプカと揚子江を流れる人間、兵隊はそれを黙って眺めていた、処刑された兵士の数は分からない。無数に流れていく遺体、人が人ではなくなった瞬間がそこにあった、兵士は上官の命令には忠実に従う、そう訓練されていた。南京には日本はあらかじめ安全区を設けて一般人を避難するように誘導していた。しかし兵士の略奪、暴行、残虐行為は留まるところを知らず安全区でも例外ではなかった。 ナチスドイツ党員だったドイツ人のラーベは安全区の委員を務めていた。日本軍がやってきていきなり略奪行為を始めた、ラーベは日本兵にものすごい声で怒鳴りつけた、驚いた日本兵は何も取らずに引き上げていった。西洋人から怒鳴られて驚く日本兵がいるだろうか、しかし確かに効果はあったとラーベは日記に記している。ニューヨークタイムスの記者で当時南京に駐留していた人物は南京から日本軍は異様なほどに変わって凶暴になったと述べている、捕虜の大量処刑、そして略奪、暴行、便衣兵の捜索と処刑が各地で行われた。「南京事件幻派」には悪いが、日本軍の行為はひとつもほめられたことはやっていない、当時の日本人の支那人に対する侮辱と軽蔑と悪影響がそのまま兵隊に現れて、人でなしの行為をそのままやって恥じる気持ちすらなかった。
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