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【北京=野口東秀】中国を訪問しているペロシ米下院議長は28日、北京市の清華大で講演を行ったが、中国の人権問題に関する言及はなかった。対中批判の急先鋒(せんぽう)と期待されていただけに、人権改善を求める中国国内の民主活動家や陳情者の間に失望感が広がっている。

AP通信によると、約200人の学生らを前に講演したペロシ議長は、地球温暖化の問題を主に取り上げ、「環境対策は人権問題に取り組むことでもある」という趣旨の発言をしただけで、中国の人権状況の改善に関する具体的言及はなかった。

 中国国営新華社通信によると、27日に胡錦濤国家主席らと会談した際も、地球温暖化対策での米中協力を確認するにとどまった。

ペロシ議長は1991年に訪中した際、天安門広場で「中国の民主化のために犠牲になった人たちへ捧ぐ」と中国語と英語で書かれた幕を掲げ、天安門事件の弾圧を批判したことがある。昨年も中国の人権問題を理由に、ブッシュ前大統領に北京五輪開会式の出席をボイコットするよう迫るなど、対中姿勢の厳しさで知られていた。

今回のペロシ議長の訪中に合わせ、北京市内の陳情窓口では25日から28日にかけて、数百人が「中国人権SOS」などと書かれた横断幕を掲げて抗議行動を展開。国務院新聞弁公室庁舎前でも、地方からの陳情者たちが「ペロシさん、中国の人権に関心を!」と連呼した。

こうした中、ペロシ議長の一連の発言内容が伝わると、陳情者からは「期待外れだ。米国がこれでは中国を勢いづかせる」との失望の声が上がっている。

24日から始まったペロシ議長の訪中目的が主にエネルギー問題にあったとはいえ、議長が今回、人権批判を事実上“封印”した背景として、米中新時代を掲げるオバマ米大統領の意向をくみ、天安門事件から間もなく20年となる敏感な時期の発言を抑制したとの見方が浮上している。

一方、中国当局はペロシ訪中に合わせるかのように、天安門事件関係者に対する警戒を強化し始めた。25日ごろから、事件の被害者の親族や、政府の対応を批判する著名知識人ら少なくとも8人に対し、外出禁止や24時間の監視などの措置を取った。同事件で失脚した趙紫陽元総書記の元秘書、鮑●(=杉の木へんを丹に)(ほう・とう)氏も、当局の要請で北京を離れたようだ。

産経ニュース

論点:
中国共産党はナンシー・ペロシ米下院議長の訪中に神経を尖らせている、北京の中南海(共産党幹部が多く住む北京の特別区)での意見が割れることを極度に警戒している。アメリカに楔を打ち込む意味で人権問題で批判は許さないという意味である。オバマ政権の重要な人物を迎えてアメリカ側はトーンダウンしたのは米中がぎくしゃくするのは避けたい、そこで今回は中国側に花を持たせようという算段である。

世界を動かすのは米中でヨーロッパでもロシアでもない、そういうメッセージが込められた今回のペロシ議長の訪中だと思う、日本など隅に追いやられて見る影も無い哀れである。世界の動きを掴めず国内の派閥政治にうつつを抜かしている、麻生も鳩山も世界で通用する政治家ではない、あれはドングリの背比べで誰がやっても同じとは情けない泣ける話ではないか。
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                     アメリカ海軍によって回収された小型特殊潜航艇


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日本軍部は愚かにも真珠湾に突入した10人の軍人から捕虜になった1名を除いて「9軍神」として全将兵に訓示を垂れている。捕虜は最大の恥じであるという東條英機の「戦陣訓」の教えを忠実に守ったことになる。

酒巻和男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。徳島県阿波市出身。

来歴・人物

アメリカ軍によって回収された小型潜航艇1940年(昭和15年)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)。太平洋戦争(大東亜戦争)では、帝国海軍によるハワイ・オアフ島のアメリカ軍基地に対する真珠湾攻撃に先立ち、1941年(昭和16年)12月8日に小型潜水艇(特殊潜航艇)に乗り込み湾内に奇襲攻撃を行なう。しかし、アメリカ海軍の駆逐艦の攻撃や羅針儀の故障などにより潜水艇が座礁する。

その後、潜航艇の鹵獲を防ぐ為に時限爆弾を仕掛け、同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出するが、漂流中に稲垣兵曹ともはぐれ(稲垣はその後行方不明)、自身も失神状態で海岸に漂着していた所を発見され太平洋戦争(大東亜戦争)での日本人捕虜第一号となる。

この時真珠湾攻撃で使用された小型潜航艇は全部で5艇(乗員10名)であったが、酒巻以外は稲垣を含め全員戦死扱いとされ、大本営は戦死した9名を「九軍神」として発表した。アメリカ軍のラジオ放送から唯一捕虜となったことが分かった酒巻は、その存在が極秘とされた(当時、戦死者は英雄で捕虜は屈辱という価値観が喧伝されていた)。

捕虜収容所では酒巻も自決を試みるが思いとどまり、また同じく自決しようとした日本人捕虜の説得にもあたり多くの日本人を救っている。通訳としても働き、捕虜としての態度は大変立派であったためアメリカ軍関係者も彼を賞賛した。その後ハワイでの捕虜収容所から本土に移され、終戦後の1946年(昭和21年)に復員を果たした。


復員後
復員後はトヨタ自動車工業に入社し、輸出部次長など勤め同社のブラジル現地法人であるトヨタ・ド・ブラジルの社長に就任する。また同地にて日系商工会議所専務理事も兼任し、1987年にトヨタ自動車を退職。1999年11月29日に愛知県豊田市にて81歳にて死去。

注記:
酒巻元少尉がブラジル・トヨタの社長に就任した時は私はブラジルにいた、その時現地日本人社会では様々な臆測が流れた、「捕虜としてどういう生活を送ったのか、軍人ならば捕虜とは不名誉な身分ではないか、けしからん」などなど。ブラジルでは戦後に日本が勝った勝ち組と負けを認めた負け組の間で壮絶な殺し合いが発生、およそ20人が殺害されたことで有名である。地球の反対側でも戦争の影が色濃く残されて悲劇になった、日本の敗北を絶対に認めない日本人が多く認める人との間で恐ろしい殺し合い合戦が始まった。ブラジル政府は逮捕した殺人犯をリオ・デ・ジャネイロ沖合いの無人島の監獄に放り込んだ。この話はブラジル日本人の間ではタブーで現地の邦字紙もあえて無視する有様である。

ドラマ化
酒巻の捕虜になるまでの過程を、TBSテレビで放映されていた『ギミアぶれいく』内でドラマ化されて放送された。TBS側は酒巻に対しドラマ化の許可を打診していたが回答が無く、ドラマ内では『酒巻氏にドラマ化を黙認されたと了解し制作しました』のテロップが流れた。

著作集
[編捕虜収容所での生活や苦悩を書いた「捕虜第一號」を1949年(昭和24年)に出版している。
タタール人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タタール人(-じん、Tatar xalqı)は、おもにロシア・CIS諸国(旧ソ連)に居住するテュルク系民族。


分類と分布
タタールという名は、もともとキプチャク・ハン国支配期のロシア人によって東方・南方の草原地帯に住むモンゴル帝国のモンゴル系・テュルク系の人々を漠然と指す民族名称であったのが、ロシア帝国の拡大とともにロシア支配下の旧キプチャク・ハン国系のテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の人々を指す語に転じ、やがて自称としても用いられるようになったものである。

もともと他称的な総称であるため、タタールと呼ばれる人々は広い分布範囲の中でいくつもの集団に分かれており、おおよそ居住地域によってカザン・タタール人、カシモフ・タタール人、シベリア・タタール人、アストラハン・タタール人、クリミア・タタール人、リトアニア・タタール人などに区分される。この中でも最大の人口を持つのはカザン・タタール人を中心にロシア連邦内の国、タタールスタン共和国を形成するヴォルガ・タタール人であり、単純にタタール人と言った場合は多くヴォルガ・タタール人を指す。


ヴォルガ・タタール人
ヴォルガ川中流地方を原住地とするヴォルガ・タタール人は、カザンを首都とするタタールスタン共和国を中心に、ロシア連邦の各地に住む民族である。統計上の総人口はおよそ550万人で、ソ連崩壊後のロシアにおいてロシア人に次ぐ第2位の人口を有する。ただし、クリミア・タタール人以外のタタール人はみなヴォルガ・タタール人と同じタタール人として計上しているためヴォルガ・タタール人単独の数値ではない。

タタールスタン共和国の人口380万人のうち、50%強がタタール人で、タタールスタンはロシア連邦の非ロシア系民族の国の中では特に高い経済力、政治的発言力を持つ有力な連邦構成主体である。また、およそ5000人のタタール人が中国の新疆ウイグル自治区に居住し、タタール族(塔塔爾族)と呼ばれて中国55少数民族のひとつに数えられている。

タタール人はスンナ派のムスリムを主体とする。周辺の諸民族との通婚が進んでいるため、形質的にはまったくのコーカソイドで、外見でロシア人との見分けをつけることは外国人には難しい。


歴史
この節では主に、ヴォルガ・タタール人の歴史について扱う。タタール人と呼ばれる諸民族全体の歴史については、タタールを参照されたい。

もともとフィン・ウゴル系民族が主体であったヴォルガ地方にテュルク系民族が流入するのは7世紀のことである。この頃、アゾフ海北岸から黒海北岸の方面で遊牧国家を形成したテュルク系のブルガールが分裂し、西進した人々はドナウ川流域にブルガリア帝国を建設してスラヴ化してゆくが、東進した人々はヴォルガ川中流の屈曲部に定住してヴォルガ・ブルガールと呼ばれる王国を建国、ヴォルガ川下流域に勢力を拡大したテュルク系の遊牧国家ハザールに服属した。10世紀にハザールが衰退すると、ヴォルガ・ブルガールはハザールに代わって中央アジアのイスラム勢力と、西のルーシ(ロシア)の人々との間の仲介交易に携わるようになって繁栄した。

13世紀初頭、東方の草原地帯にモンゴル帝国が起こるとヴォルガ・ブルガールはその進攻を受けるようになり、1236年にバトゥ率いるヨーロッパ遠征軍の最初の標的とされてバトゥの立てたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)に併合された。モンゴルの支配下でヴォルガ地方には、ヴォルガ下流域のテュルク系遊牧民キプチャク系の人々が盛んに流入するようになり、民族の混交が起こって言語的にもキプチャク化していった。ヴォルガ・タタール人の先祖となる人々はこうして形成されたが、言語的にテュルク諸語のうちでも特殊なグループに属するブルガールの言葉の特徴を残しているのは、ヴォルガ・タタールよりもむしろ北に住むチュヴァシ人である。

キプチャク・ハン国時代は南の草原地帯が諸勢力の興亡の舞台となったため、ヴォルガ中流は歴史の中心から外れていたが、15世紀にチンギス・ハーンの末裔同士で草原で繰り広げられていた王位争いに敗れた王族ウルグ・ムハンマド(大ムハンマド)という人物が1438年にヴォルガ中流域に後退してカザンで王位につき、カザン・ハン国を建国した。カザン・ハン国は南の草原から持ち込んだイスラム教を支配下のヴォルガ中流域に広め、東西の中継交易を掌握して繁栄したが、16世紀に入ると王位を巡る争いから衰退し、1552年にロシアのイヴァン4世によって征服された。こうしてロシアの支配下に入ったカザン・ハン国の遺民のテュルク系ムスリムがカザン・タタール人となる。

ロシア帝国のもとでカザンにはキリスト教の文化が持ち込まれ、ロシア人が流入してきたためにタタール人はロシア帝国の各地に拡散していった。一時はイスラム教の信仰も廃れ、キリスト教に改宗してロシア化してゆく者も増えたが、18世紀に入ると、エカチェリーナ2世らの啓蒙専制君主のもと、ロシア帝国はイスラム教の抑制を改め、ロシア文化に親しんで「文明」化したムスリムであるタタール人のイスラム信仰を保護し、いまだ「野蛮」な中央アジアやカフカスのムスリムの教化にあたらせようとする政策に転じたため、ヴォルガ・タタール人はロシア帝国下のムスリムの最先進民族として優遇されるとともに、中央アジアやカフカスの各地で商業・交易活動に従事して富裕な共同体へと発展していった。19世紀末から20世紀初頭にはロシア帝国のムスリム諸民族の教育・文化を改革し、ロシア帝国の枠内での自治を認めさせることを目指す運動の主導的役割を果たし、一部は中国領の東トルキスタン(新疆)にまで進出して新疆の民族運動に加わった。

ロシア革命では、ムスリム諸民族を統合した連邦をつくりソビエト国家の枠内での自治を実現しようとするタタール人共産主義者ミールサイト・スルタンガリエフらが活躍したが、ロシア人主体のソビエト政権は民族ごとの自治領域を設定してムスリムを民族ごとに細分することにし、1920年にタタール人の自治領域としてタタール自治共和国が現在のタタールスタン共和国の地に建設された。

また、ロシア帝国の末期頃から、ヴォルガのタタール人はブルガール人の末裔であると主張して、ブルガール人の自治実現を目指す動きも起こっていたが、タタール自治共和国の建設ともにこれまで漠然とタタールと呼ばれていた人々をまとめて指す民族名としてタタール人という名が公式に設定され、ヴォルガ・タタール人のみを指すブルガールの民族名は否定された。その後、ソ連末期に比較的大きな人口を持つクリミア・タタール人がタタール人と別民族であることを認められたが、現在もその他のタタールはタタールと総称されたままである。

著名なタタール人
ヴォルガ・タタール人 ソフィア・グバイドゥーリナ - 作曲家
ディナラ・サフィナ - テニス選手
マラト・サフィン - テニス選手
ミンチメル・シャイミーエフ - 政治家
ルドルフ・ヌレエフ - バレエダンサー
チュルパン・ハマートヴァ - 女優

ロシア化したタタール人を先祖にもつロシア人
アンナ・アフマートヴァ - ソ連の詩人
フェリックス・ユスポフ - 帝政ロシア末期の貴族
セルゲイ・ラフマニノフ - ロシアの作曲家・ピアニスト

チャールズ・ブロンソン - アメリカ タタール人の子孫 の俳優(祖先がリトアニア系のリプカ・タタール人)
ロイ・ジェームス - タレント(両親がカザン・タタール人、本人は日本生まれ)

要するにタタール人とはモンゴロイド(北方系アジア人)の目が狐目でほほ骨が高くのっぺりした中国人、朝鮮人、日本人の特徴を備えた民族の子孫のことである。この民族は北はフィンランドから南は南米最南端のホーン岬まで分布する世界最大の民族である。

フィンランド在住のタタール人は先住民族で北方アジア系の特徴を色濃く残している、彼らはコーカソイド系の民族で狩猟を得意とする、チンギス・ハーンの西方遠征よりはるかに古くかなり昔から西洋に分布していた。民族の混合をあまりしていなくて古いタタール人と呼ばれている。

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