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私の妻はいわゆる白人と呼ばれる民族で宗教はカトリックである。日本では神も仏も信仰は自由で日常会話で信仰が関係する言葉はまず出てこない。しかし妻の考えでは「人は神の子で罪深いから悔い改めなければならない」となる。 西洋から初めて来日した神父・宣教師はまず日本の信仰と戦う羽目を嫌でも味合わされる。日本の信仰とは言うまでもなく「日本教」である、その日本教の中で仏教派、カトリック派・ルーテル派・パブテスト派などに分派しているが、本元は「日本教」という宗教であるとイザヤ・ベンダサンが書いている。妻はカトリックだから聖書と神の言葉には詳しい、新約聖書と旧約聖書にも造詣が深く私は時々たじたじとされる場面に出くわす。 私自身は神も仏も一切頭に置かない主義でよく妻の信仰をからかう、それで喧嘩となるがそれも長い間の習慣でシャンシャン手拍子で和解する術を学んだ。私が妻をからかうのは妻は朝おきた直後と夜寝る前に祈り欠かさないからだ、結婚当初は異様な気分にされた、しかし妻には当たり前のことでそれをしない人間は妻は軽蔑する、この頑固な宗教は妻の生きがいであり、人は日の出と共に起き日没と共に寝る習慣の人間生活の基本だと心得ている。 私は海外で10数年を過ごした、妻はその国の人である。カトリックの国でそこで様々な宗教様式を学んだ、私は長崎の生まれで幼少より教会の鐘と葬式までカトリック形式が普通で、私と兄は教会の聖歌隊にに所属し、兄はラッパを吹いてそれが高じてジャズメンになった、一生の仕事が教会で形ずけられたとは不思議な縁だが、父は浄土真宗で母方は新宗のお払いをする家系である。明治時代の「廃仏ししゃく」で仏教と新宗が統合し緩やかな日本の「日本教」が誕生した。 カトリックの神父はまず来日すると神の教えを説く、そして避けて通れないのが「聖マリアの処女懐妊」の教えである。それを聞いていた人はクスクス笑いを始めた、「それは大変じゃのう、娘がててなし子を孕んで、親父さんは激怒したはずじゃ」周りからどっと笑いが出た、神父はそういう試練と苦労して戦って、カトリックの教えを広めたのである。 妻の国では人々はそれほど信仰心が厚いわけではない、よく強盗犯罪人が罪を犯して教会に行き神父に”懺悔をした”と語られる冗談を耳にする。馬鹿らしいと思ったものの、最近ようやくその実態が見えてきてなるほどと感心しだした。かの国では日常会話で「神の思し召し、神の罰が下る、御心は大きい、神の許しを」など頻繁に神が登場する。それは宗教心から出たもので、人がそれほど信仰厚く生活しているわけではない、ただ神は犯さざるべきもので、正面から否定することは厳罰とされる、それがカトリックの国の定めで神父は社会で大きな力を保持している。 日本のように神も仏もあるものか、「人間全てが塞翁が馬」ではないのである、社会のモラルの根幹として宗教が果たす役割は日本では考えられないほど巨大で、それは人々の暗黙の了解を得ていると考えるのが正しい。 言いたい放題:
民主党政権がまた在日の地方参政権問題をまた持ち出してきた、私の意見ではこれは日本の政治そのものの危機で、朝鮮半島の策略であると断定する。在日というのは日本人が強制的に連行したものではなく彼らが好きで日本に居座った結果である、それならば彼らが地方参政権をよこせと要求するのは筋違いで、日本国民は断固拒否しなければならないと考える。日本は戦後に政治が極端に弱まり断固とした態度が取れないために多くの”売国奴”を育んできた。何が売国奴なのかそれすら理解できない国会議員が多数ではおしまいであると考える。 |
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2009年09月16日
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