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1945年までの日本は新しい外地を獲得するために戦争を始めた、その結果は惨めな敗北で終わり日本人全部は焦土の中で茫然自失状態だった。そんなことは小学生でも知っているわいと思っていたら、突然横槍が入り「日本は戦争で敗北していない」と強硬に抗議を受けた。彼のブログを訪れるといるわいるわ日本万歳組の右翼集団であった。

この話しは一旦隅に置いておく、本日の記事の趣旨はそういうものではなく、鳩山新内閣に日本の今度の進むべき道を尋ねたいからである。自衛隊は武装集団ではあるが攻撃集団ではない、その装備は専守防衛専門に作られ敵の攻撃を受けたら直ちに反撃を行うだけの装備を持っている。アジア地域では自衛隊の正面装備は優秀でそれに正面から攻撃を行える国と地域は中国くらいで後は弱小国家ばかりで敵ではない。

鳩山氏も昔日本が戦争をした、それで敗北したいくらいは十分に承知しているはずだと考える。そのために憲法は存在し序文で、日本の対外交戦権を禁止する教えは守ってもらいたいものだ。北朝鮮からミサイルが飛来する大変だと騒ぐのは右翼保守派で、国際情勢を冷徹に分析すればそういう騒ぎは「空騒ぎ」というものだということが一目瞭然である。
常識の研究でとんでも意見を述べる人物から回答が来た。以下にその内容を記す。

「私の歴史観は靖国史観を読みなさい、保守派の活動は日本会議のホームページをまた国防委員会では無い国防協会もホームページがあるから見なさい。それらを見ていかに多数が参加しているか分かるはずだ」:

左派と保守派を分ける物
世の中は考えが違う者同士で成り立っている。左派の考えを聞くと実に面白い。何故彼らは自ら敗北主義に至るのか、昭和史と言う戦争の時代の考え方が保守派に属する私には理解でき無い、大東亜戦争はアジア民族解放の為の聖戦であり、決して侵略の戦争では無い、私が海外に出かける時、日本軍の軍人達が現地でどんな行動をしたのか尋ねる、決まって返る答えは現地人が戦闘に巻き込まれる事を避け堂々と戦い戦死した兵士の話でる。日本の為にアジアの為に戦死した多くの同胞に心から感謝したい。そして反日思想敗北思想を持つ左派をこの国に住むに相応しく無いと思い知らせ排除するべきである。国に誇りを取り戻しアジアのいや世界の太陽とならん日本こそが最高の国であると私は信じる。

それから、君の発言は我々に対する宣戦布告ととらえる、下がれ下郎、お前みたいな人間が私達と議論できる立場の人間だと思ってるのか。爵位を持ち国家に尽くす人間でなければ議論の対象にならんよ、怨むなら滅びた武田の子孫と嘘を言うた君の爺さんに言え。二度と家のブログに来るな。いいなこれは命令だ。野良犬め。

もう一つ私は一応地元の市長の候補だ何故か分かるかこれが我々が進めて来た究極の方法だよ。君らの考えは確実に敗北する。我々にはこの国最高の頭脳を持つ人間がブレーンにいる。シンクタンクで保守で探してみたまえ。そして自分の愚かさを身にしみた味わいたまえ。

やるよ。君のような人間がこの国の歴史に不をあたえてきた各県の教育委員長が今どのような思想を持つ人間が就任しているか見るがいい。君らの思想は敗北したんだ、いい加減眼を覚ませ。これは同情心からの警告だ。馬鹿は死んでも直らんだろうけどね。介錯ぐらいはして。この気違いの売国奴、死んで国にお詫びしろ。

毎回無礼な書き込みどうも。いずれ君の考えが正しいか私達の考えが正しいか決着が付く数こそ力だよくおぼえておきたまえ。何を言うても元来のこの国の支配層を倒す事はできない、我々の最後の戦いはすでに始まっている。負けはせんよ50年間練りに練って計画して来た事なのだから。力こそ正義。

上記が私の疑問に対する回答である、彼は日本は戦争で負けはことはない、史実と言うのはそこいらの頭のおかしい人間が読んでそのまま信じたもので、それは史実とは言わない。また国防協会でもホームページがあるからそれを読めとかなりしつこい、保守派とはこういう活動もしている証拠を私は見つけたと書いたが、ぞっとするようなとんでも史実で呆れて物も言えない。また彼は日本は勝利した歴史的な事実は存在するが、敗北しというような事実は存在しないとかなり強硬に述べている。正真正銘の狂人である。

日本が戦争中にした政治プロパガンダ「アジアの解放それは八紘一宇」であった。日本は自らの意図を覆い隠すために国民に嘘を出鱈目を教えてそう教育した事実が存在する。戦前の国会閣議で「南方系の土人の宣撫工作」という名称の小雑誌が各議員に配布された。アメリカから石油も鉄鉱石も輸出を止められ、また西洋から厳しい閉鎖的な経済制裁を受けて日本はどうにも首が回らなくなっていた、東南アジアに軍を進める決心をして、ジュネーブ条約で署名した「不戦条約」は糞で足蹴にしたのが本質だった。そういう条件を何も知らず、この人物は戦時中の政府プロパガンダをそそまま信じ込んでいる、おめでたいというか可愛そうである。それで日本は勝ったとは笑えない、アジア開放は大嘘で日本軍は支配者として現地に乗り込み、現地人を労働でこき使いインドネシアでは実に400万以上を強制労働で働かせて反抗すれば即銃殺した記録が残っている。

靖国史観とは初めて聞いたが、「中国と欧米は敵で、全滅させなければならい」がその根底にあり保守派の一派がそういう活動を公然とやっているとは国民全部が知らなければならない事実である。「日本の日本人による日本のなんとか」こういうことを声高に言う人間は前世紀の遺物で、最終的に抹殺されて当然であろうと考える。

戦死者・犠牲者総数は300万を超える、英霊は現在でも広大な太平洋から日本を目指して歩いている。彼らはいつ日本に到着するのか誰も知らない、それを「靖国史観」と呼べば英霊は永遠に救われない。日本が犯した愚かな戦争で死にたくもないのに死ねと命令され、命を落とした多数の英霊、どんな日本人でもそれを正当化するとは思いたくない、田母神敏男が企業の懸賞論文で自衛隊幹部に応募を呼びかけ、結果的に多数の応募があった。それを政府は重視し、「自衛隊統幕議長としては不適格」と判断して強制的に退職させられたのはつい最近である。

懲りない人間はいつの時代にいるもので、田母神は政府から退職金の返還を求められて「生活が困窮しています、ご勘弁を」と逃げた。それでマスコミの人気者となり日本記者クラブ、在日外国人記者クラブと講演依頼は引きもきらずでウハウハの稼ぎ振りである。

日本では戦争の記憶は年々風化するばかりで若者間には「戦争?何よそれアメリカと戦争をしたウソー」と言う人が増えた。それは仕方のないことで64年も経過すれば当然と言うべきかもしれない。それでも、常識として日本は敗北したくらいは普通ではないだろうか、ところがこの人物は「靖国史観」と囚われ、日本の敗北を頑として認めない、ここまでくればほとんど病気で、それを煽り立てる保守派がいる。若者を教育する立場にいながら、それを意図的に間違った誘導をするとは、私は怒りで腸が煮えくり返りそうだ。

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日本の敗北を認めない馬鹿はこの東京湾で行われた戦艦ミズーリでの降伏調印式まで「歴史の嘘」と言うのだろうか

人間は勝手なもので歴史を観察して正しい判断を下す段階で多くの過ちを犯す、日本は戦争に敗北した、これは疑い似ない事実で、日本だけではない世界中が知っている事実である。それを否定して日本は勝利したとはこの段階で正常な思考を持たない人間と断定せざるを得ない。日本が勝利したと主張して一体どんな利益があるのだろうか、日本とドイツは現在でも世界中から監視されている、東西ドイツの統一問題で当時のサッッチャー首相が苦しんだのは記事にした。日本ではドイツは反省などしていない、全てナチスのせいにして国民は反省などしていなと公然と発言する人がいる、これこそ日本人の最大の勘違いで、だから日本は戦争による反省などまったく必要としないと言いたげである。

そこを保守派は突いて「日本擁護論の一環として戦争で反省などとんでもない」とはならないのである。日本の戦後は反省と謝罪、それから賠償責任を完全に行って現在の繁栄がある、死者に鞭打つような日本擁護論など論外である。


私は百姓じゃないよ君はよほど日本語を理解できない人間らしいねまるで在日の人間のようだ。企業を経営してると言うたはずだよ。君は既に負け組みだよ。君が望むように国から退去したまえ。売国奴め。死んで国家にお詫びしろ。二度と今度こそ来るな。君を負け犬で君を野良犬で君を国賊と言わず誰を言う。君が武田の子孫な私は平家の一族にして松平いや徳川の一族だ。徳川松平一門の会を見てみろ、だから負け犬と言う。さがれ下郎。思い知れ。はっはっはっ

この男は正常な人間と考えてはいけない、妄想と現実がない交ぜになりそれで「日本は勝利した万歳」という言葉が出てくる。強度の精神病患者でそれで社会に放置されている、日本は精神病患者は治療もされず放置されて各自治体はその内情さえ知らない。「触らぬ神にたたり無し」で人は精神病と聞いただけで逃げ出す、こういう人物は的確な治療とケアが必要だがそういう人物がブログにどんどん出てきている、ぞっとする話ではないか。

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東チモールの死を徹底調査するオーストラリア

オーストラリア警察はジャーナリストの「バリバ 5」グループのうちの1975年に東チモールで戦争犯罪調査の死について調査に乗り出した。2007年にオーストラリアの検死官は彼らがバリバの町でインドネシア特殊部隊によって処刑されたと判明した。彼らが東チモールの間近に迫ったインドネシアの侵入の詳細を現すのを止めるために死んだと思われている。

インドネシアは男が十字砲火において死んだと主張している。当局者はジャカルタにはこのケースの調査を再開する意図がないと言う。連続したオーストラリア政府は出来事でインドネシアの見解を一度は受け入れた。6月に東チモールのジョセ・ラモス・ホルタ大統領 (その時にチモールの抵抗指揮官)は、インドネシアの兵士がジャーナリストを拷問して故意に殺したとして訴えた。「海外で犯される戦争犯罪の申し立ては、調査することに決める前に法執行機関によって慎重な考慮を必要とする複雑な法律で事実の問題を引き起こす」とオーストラリア連邦警察(AFP)が声明において言う。

精力的な映画

AFPは十分な資料が「犯罪行為または犯罪行為の本当の可能性」を示すために発見されるならば、それがオーストラリアの主任検察官に戦争犯罪容疑者が置かれなければならないかどうか考えるよう頼むだろうと言う。「刑事訴訟手続の証明の標準は、高くてコロニアルlな質問のそれと異なる」とそれが付け加えた。
質問は精力的な映画(バリボ)の最近の封切りに続いた。そしてオーストラリア人グレッグ・シャクルトンとトニー・スチュワート、英国人ブライアン・ピータースとマルコム・レニーとニュージーランド人ゲイリー・カニングハムの死亡を表した。映画では彼らがインドネシアの陸軍士官の命令で撃たれることを示した。しかしインドネシア外務省スポークスマンのテュック・ファイザシャは彼の国のためにこのケースが閉じられたとBBCに話した、そして政府はその調査を再開しなかった。

彼は出来事の目撃者の多くがもはや生きていないかもしれなくて、調査がいずれにしろ非常に難しいと述べた。インドネシア政府は調査についてAFPから通知を受け取らない、問題に関して説明を求めている。
オーストラリアの検死官の調査は彼らがバリボの境界町でインドネシアの兵士に降伏しようとしたので5人の男が殺されたと確定した。検死官はユヌス・ユスフィア(その時に将軍の階級に応じて立ち上がって、1990年代後期に情報大臣として勤めた責任者)を含む数人のインドネシアの特殊部隊警官に対する告訴を戦争犯罪に推薦した。彼はバリブへのインドネシアの攻撃に関与しているのを認めたが、ジャーナリストの死との関係を否定した。

ポルトガルが1975年に引き下がった直後に、インドネシア軍は東チモールを襲った。そして450年のその群体統治者として終了者として終了している。少なくとも10万人がインドネシアの25年の仕事の結果として死んだと見積もられた。そしてそれは2002年に東チモールの独立で終了した。

BBCニュース
64年前の9月2日に日本は白人国家に破れ白旗を揚げて「降伏します」と自らが述べている。日本がアメリカの奴隷になった歴史的な日だった。なぜこのような屈辱を進んで受け入れたのかは説明はつく、国民全部が発狂して白人国家に脳天に一撃を食らった、それで正気に戻ったかどうかは定かではない。64年たってもまだ日本は敗北していない、あの戦争は日本にとっては正義の戦いだったと主張する大馬鹿者が存在する。


戦後にアメリカは学者や専門家を大量に日本に送り込んで日本人の精神分析を試みている。これはGHQの専門部署が日本人に直接聞き取り調査を実地したもので各部門で専門家が分析調査を行っている、それによれば以下の結果が出ている。

1、日本人の精神構造、特に情緒面で特筆すべき特徴
2、日本の習慣、無謀な戦いを行った習慣としきたり
3、日本の「談合社会」の構造とそのメカニズム
4、財閥社会の構造と軍部との繋がり、政治家の国民に対する影響力
5、国民が波のように震撼する原因とその構造のメカニズム

これらの構造を徹底的に分析して日本人そのものを素っ裸にしている、この研究では日本専門家のドナルド・キーンなどが協力を惜しまずその後の日本人研究に弾みがついた総合的な分析結果が出ている。

「日本人とは不可解な民族でありどうしても解明できない」この白人の思いはそのまま私自身の疑念であり、その分析を試みている。それは私自身の内面を探る旅でもあり、自分を見つめて他人の思いを知る方法でもある。私は海外で日本人の疑問にぶち当たった、「なぜなぜそうなるの?」その結論にはまだ到達していない、自国民から離れて海外で一人暮らしを始めて様々な疑問に突き当たった思いは日本の人には分かるまい。

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ミズーリ (USS Missouri, BB-63) はアメリカ海軍の戦艦。アイオワ級戦艦の3番艦。艦名はミズーリ州に因んで命名された。その名を持つ艦としては3隻目。太平洋戦争での日本の降伏調印式場となる。当時の大統領トルーマンの出身州に因んで同艦が選定された。1999年からは、ハワイ州パールハーバーで記念艦として保存されている。

艦歴
「Mighty Mo」あるいは「Big Mo」の愛称で呼ばれたミズーリは1940年6月12日に建造発注され、ブルックリンのニューヨーク海軍工廠1941年1月6日に起工、1944年1月29日にメアリー・マーガレット・トルーマン(ミズーリ州選出上院議員ハリー・S・トルーマンの娘)によって命名、進水する。1944年6月11日にアメリカ海軍最後の戦艦として就役する。


第二次世界大戦
ニューヨーク沖での慣熟訓練及びチェサピーク湾での戦闘訓練の後、ミズーリはノーフォークを11月11日に出航、パナマ運河を11月18日に通過しサンフランシスコで艦隊旗艦としての最終調整を行う。就役直後は灰色2色に黒を交えた雲形迷彩 (Ms.32/22D) が施されていた。サンフランシスコを12月14日に出航し、12月24日に真珠湾に到着する。1945年1月2日にハワイを出発し1月13日にウルシー泊地に到着、そこでマーク・ミッチャー海軍中将率いる第58任務部隊臨時司令部に任ぜられる。ミズーリは1月27日にレキシントン任務グループの護衛任務に出発、2月16日に空母部隊は1942年4月1日のドーリットル空襲以来の日本本土空襲を行う。

その後ミズーリは空母部隊と共に硫黄島に向かい、2月19日の上陸作戦に対して支援艦砲射撃を行う。第58任務部隊は3月5日にウルシー泊地に帰還し、ヨークタウン空母任務グループへ配属される。3月14日にウルシー泊地を出航、部隊は日本本土に向かう。3月18日に開始した瀬戸内海沿岸に対する攻撃で、ミズーリは4機の日本軍機を撃墜した。

瀬戸内海および本州南西部の飛行場、海軍基地に対する攻撃は継続された。日本軍の反撃により3月19日にフランクリン (USS Franklin, CV-13) が2発の爆弾を被弾し大きな損害を受ける。フランクリンは14ノット(26km/h)の速度で重巡洋艦ピッツバーグ (USS Pittsburgh, CA-72) に牽引された。ミズーリの空母機動部隊はフランクリンの護衛を3月22日のウルシー泊地到着まで行う。その後沖縄攻略前の艦砲射撃のため再び日本に向かう。

ミズーリは3月24日に第58任務部隊と共に沖縄南東部海岸に対して砲撃を行う。海兵隊と陸軍部隊が4月1日の朝に上陸を決行すると、ミズーリは空母護衛部隊に再び合流する。空母艦載機部隊は4月7日に戦艦大和を撃沈し、3隻の駆逐艦を大きく破壊、4隻の駆逐艦が長崎の佐世保へ後退した。

4月11日午後、ミズーリに対して特攻機(爆装零戦)1機が低空飛行で右舷甲板に突入する。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり燃料に火が引火した。艦は表面に損傷を受けたが、速やかに鎮火した。この攻撃の跡は現在も船体に残っている。突入機の飛行士の遺体の一部が40mm機銃座から回収され、ウィリアム・キャラハン艦長はこの飛行士を、名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定する。乗組員からは反対もあったが、艦長の命により翌日水葬が執り行われた。この飛行士の官姓名は長らく不詳であったが、ミズーリ記念館の調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹の機であったと判明した。(同時に突入した、同じく第五建武隊の石井兼吉二等兵曹の可能性もある−突入できなかった機は、対空砲火により撃墜された) ミズーリで行われた葬儀はこの1回のみであった。


ミズーリへの特攻機の突入4月17日23:05ごろ、ミズーリは艦隊から19kmの水域に敵潜水艦を発見する。その報により空母バターン(USS Bataan, CVL-29)および4隻の駆逐艦による対潜水艦攻撃が行われ、部隊は伊号第五六潜水艦を撃沈した。

ミズーリは5月5日に沖縄沖で空母機動部隊から離れウルシー泊地へ向かう。沖縄戦でミズーリは5機の敵機を撃墜、6機の破壊を支援し、空母機動部隊に対する敵の12回に及ぶ昼間攻撃と4回の夜間攻撃を撃退した。その主砲による砲撃でいくつかの沿岸砲台、多くの軍事施設、官庁および産業施設を破壊した。

ミズーリは5月9日にウルシー泊地に到着し、18日にグアムのアプラ港に到着する。同日午後、第3艦隊司令長官 ウィリアム・ハルゼー提督は提督旗を掲揚しミズーリは艦隊旗艦となる。5月21日に出航し、5月27日には再び沖縄近海で艦砲射撃を行う。ミズーリは第3艦隊を率いて6月2日、3日の両日にわたり九州南部の飛行場に対して攻撃を行った。6月5日、6日は嵐を避けて出港し、いくつかの固定器具が破損したものの大きな損害は受けなかった。艦隊は6月8日に再び九州を攻撃し、その後レイテ島に向かう。レイテ島のサンペドロ湾には6月13日到着する。

ミズーリは第3艦隊を率いて日本本土に対する攻撃の準備を行う。艦隊は7月8日に日本本土に接近し、10日に東京への攻撃を行う。その後7月13日から15日にかけて北海道室蘭市の製鉄所を砲撃する。(室蘭艦砲射撃)これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃であった。7月15日午前9時35分ごろ砲撃は始まり、およそ800発の砲弾が撃ち込まれた。この砲撃で日本製鋼所、日本製鉄輪西製鉄所が破壊され、多数の死傷者が出た。室蘭八幡宮にはこの艦砲射撃による犠牲者の慰霊碑が建立されている。

7月17日、18日には茨城県日立市の工業地帯を砲撃する。その後7月25日まで艦載機による空襲が継続され、ミズーリは空母護衛任務に当たる。7月末にもはや日本軍に制海権は無く、アメリカ艦隊は日本近海で自由な活動を行った。

北海道および本州北部への攻撃は長崎原爆投下日である8月9日に再開する。翌日の20:54、ミズーリの乗組員は非公式ニュースとして天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができていたという知らせを聞き衝撃を覚える。8月15日の07:45、トルーマン大統領は日本の無条件降伏の受諾を発表した。


降伏文書調印式

降伏文書調印(中央で署名を行っているのは重光葵外相、その左後方に侍しているのは加瀬俊一)
調印する梅津美治郎
祝賀飛行する米軍機編隊
日本代表団の退艦イギリス海軍提督ブルース・フレーザー卿(イギリス海軍太平洋艦隊司令官)は8月16日にミズーリに乗艦し、ハルゼー提督に大英帝国勲章を授与した。ミズーリは8月21日に東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士をアイオワ(USS Iowa, BB-61)に移乗させる。その後8月29日に降伏調印式準備のため東京湾に入る。

大日本帝国の降伏文書調印式は9月2日に東京湾(浦賀水道内の城ヶ島と館山の間あたりの海域)に停泊するミズーリの甲板上で行われ、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドが調印して日本の降伏を受け入れた。全ての連合国軍高官がミズーリに乗艦した。チェスター・ニミッツ海軍元帥は08:00直後に乗艦した。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は08:43に乗艦し、日本側全権代表団は08:56に到着した。代表団は重光葵政府全権(外務大臣)と梅津美治郎大本営全権(参謀総長)、随員は参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(豊田副武軍令部総長は出席拒否、次長の大西瀧治郎中将は自決)、内閣情報局第三部長加瀬俊一、大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎、大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍参謀杉田一次陸軍大佐であった。09:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。式中ミズーリの甲板は2枚の星条旗で飾られた。1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物(連邦48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚は1853年の黒船来航で江戸湾に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物(連邦31州の星が描かれた星条旗)であり、90年越しの勝利として日本に屈辱を与えた。

マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文章に調印し、コレヒドール島で自分に代わって指揮をとったウェンライト、シンガポールで降伏したパーシバル、ウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校にそれぞれ1本ずつ贈り、1本は妻のジェーンに残したという話は有名である。

なお、09:25の調印式終了とともにグラマンの編隊とB-29が祝賀飛行を行ったが、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。

具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのイシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的にカナダ代表の欄が空欄となった。

その後、マッカーサー元帥の調印式終了宣言が行われ、各国代表は祝賀会の為に船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、アメリカ軍参謀長のサザーランドen:Richard K. Sutherland中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、不備な文書では枢密院の条約審議を通らないと重光葵がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてサザーランド中将はこれを拒否。結局、サザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、09:30に退艦した。

9月5日の午後、ハルゼー提督は旗艦をサウスダコタ (USS South Dakota, BB-57) に移し、翌日早朝ミズーリは東京湾を出航する。途中グアム島で乗客を乗せ、続いて随行艦なしでハワイの真珠湾に9月20日到着する。9月28日の午後にはニミッツ提督の提督旗を掲揚する。

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