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板垣征四郎、東条英機が、日本政府の不拡大方針に逆らって、関東軍を動かして中国で戦線を拡大して勝手な行動できたのはなぜか。日本政府が予算を付けなければ、彼らは行動ができないはず。暴走の裏に阿片があったということを「兵士の戦争、NHK証言シリーズ」で紹介していた。二人とも、A級戦犯で絞首刑、靖国神社に合祀。問題の人物である。 満州国という独立国は、日本からは心のトゲのように語られるが、若い人には「満州国って何?」と思われるくらいの存在だろう。満州の位置は北朝鮮の更に北にある中国大地だ。 次に、「関東軍って何?」関東軍:日露戦争後にロシアから獲得した(遼東半島=関東州)租借地と南満州鉄道(満鉄)の守備をする関東都督府陸軍部が前身。1919年改組後は、関東軍として独立。当初は独立守備隊6個大隊と2年交代で内地から派遣される1個師団の編成。と説明しても、それで?と言われるかもしれない。そこで関東軍を勝手に動かして、中国で戦線拡大した、板垣征四郎、東条英機がいた、といってもよくわからないかもしれない。彼らの行動を通して、戦争が起こる原因を追究してみたい。 勝手に出先の関東軍が、日本政府の言うことを聞かないで軍を動かすことができるだろうか、その疑問を解いたのが、NHKの調査報告「日本軍と阿片」だった。勝手に出先の関東軍が、日本政府の言うことを聞かないで軍を動かすことができるだろうか、その疑問を解いたのが、NHKの調査報告「日本軍と阿片」だった。 日本軍は軍隊内で通用する「軍票」がある。しかし、中国内では誰もこの軍票を価値ある貨幣だとは思っていないので、殆ど使えない。軍の権力で通用させて、多くの中国人はこの軍票を持っていて、これを買い取ってほしい、という。現金として物を買って払ったのが軍票なら、それが単に紙切れ・・・となれば、当然中国人は怒るだろう。未だに戦後処理が行われていない、軍の犯罪である。 昭和12年、盧溝橋事件以後、戦線拡大で日本軍は中国内で占領地に傀儡政府を作っては我が物顔をして、中国国土をほしいままに使っていた。清朝が倒れていない、国民政府ができる前の中国は、国自体が疲弊して、押せば今にも倒れそうな状態で、香港、マカオとか、99年単位でイギリスやフランスに立地のいい場所を租借された。99年たって、ようやく香港は中国に戻ってきた。戦前の中国は、西欧列強に食い荒らされた場所だった。 日本政府は、「戦線を拡大する意思はない」不拡大の意思を明言したにも係わらず、関東軍、板垣征四郎辺りの強硬派がどんどん中国内部へ領土拡大していった。そのさい、内地政府から予算が付かないのは当然である。機密費が必要だから、ということで、関東軍の知恵者が阿片に目をつけた。戦時中、日本の戦費は年間予算の70%を越す。そんな状態で戦線を拡大した分に予算が付けられるはずがない。 そこで、阿片を現金代わりに使うのが当然のようになっていた。特務班を中心に、中国人をスパイに仕立てて、敵情を探らせていたが、お金の代わりに阿片を持たせたという。特務班の班長だった人が、阿片はこのくらいだと見せてくれたのはアメの包みだった。これが10粒で、一ケ月の給料くらいした、という。一粒が1万数千円の価値がある、ということだ。軍票をもらうより、ありがたいことになる。
証言している特務隊の班長だった人は、官給品の阿片を10粒、県庁でもらい、それを資金として活動をするのだという。ポケットにそれを入れて、阿片窟へ行って阿片の暗号で小指を立てて「いりませんか。要不要ヨウプヨウ」と取引するのだと説明した。
阿片はケシの実を傷つけて、そこから出る汁を削り取って貯めると阿片の元になる。そんな説明はあまりよろしくないが、それを軍が目つけた。日本軍は金欠でお金がないから、それで阿片栽培して、それを精製して、機密費にしたり、軍費にしていた。阿片争奪戦(第80話)に詳しい。歴史研究家:岡崎溪子これ阿片の害は、人間を破壊する。ヨーロッパ列強が中国で、阿片戦争をやって、もう骨身にしみていけないもだと、方向転換した後に日本がイギリスの真似をしているわけだ。散々ヨーロッパ列強諸国が甘い汁を吸ったあと、日本が50年遅れてやると、ダメだと文句言われている。満州国設立もヨーロッパの植民地政策の真似。国際連盟の委員会で、非難勧告されて、日本軍はそれをおっぴらにできないから、取り扱うように偽装組織の民間機関に任せた。それが宏済善堂である。アメリカの諜報機関は、既に日本軍は阿片の取り扱いを偽装慈善団体で行う、と報告書に書いている。(戦後資料で発見) 中国戦線が広がると、中国政府は、日本の中国侵略を国際連盟に提訴して、制裁を発動するように求めた。それに応えて、連盟は第16条(経済制裁)を与える権限を与えた。この一連の行動から、ついには連盟の機関との効力関係を停止を通告した。日本が国際的に孤立していく道を選んだ。 益々中国内で占領地を増やして、占領地に傀儡政府を樹立した。その費用にも、阿片から得た利益をつぎ込み、武器弾薬の費用をまかなった。阿片は内モンゴルの農家を動員して大量生産していた。年間33トン、金額にすると、現在の金額で110億円に上った。その当時、阿片で得た金額はほぼ南京政府の年間予算に匹敵した。 宏済善堂の副代表をしていた中国名李鳴(日本名:里見甫)は、東京裁判(国際軍事法廷)で証言している。宏済善堂へ阿片が送られてくると、それを売りさばき、最初は関東軍に治めたが、南京傀儡政府ができると、そっちへ納めたと言う。東條英機、板垣征四郎の関与も証言した。 里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月12日 - 1965年3月21日)は、関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴を名乗って活動した。満鉄総裁に就任した後藤新平は、台湾総督時代に阿片の専売化・漸禁政策により、アヘン戦争以来中国に流入、蔓延していた阿片売買を独占する。満州でも同様の政策を実行し、阿片利権は三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂理事の里見に託される。関東軍の影佐禎昭大佐の指導で中国の地下組織青幇や紅幇とも連携し、上海でのアヘン密売を取仕切る里見機関を設立。阿片によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘政権に回した。(8%が宏済善堂の利益)ウィキペディア(Wikipedia) 興亜院(こうあいん)は、昭和13年(1938年)12月16日に設立された日本の国家機関の一つ。中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えた為、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた。長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された。ウィキペディア(Wikipedia)
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雑誌「WILL」での田母神敏男論文を弁護する日本の最右翼の主張 上智大学名誉教授渡部昇一の主張 問題はシナ大陸 田母神問題が麻生内閣を揺さぶったのは、「日本は侵略国家ではない」という一文でした。この言葉を聞いた防衛大臣、防衛省事務官、そして麻生総理は、富士山で鳥の羽音に逃げ出した平維盛の軍勢のごとく、根拠なく大慌てで田母神氏をクビにしようとしましたが、それもできず肩叩きという姑息な方法に出ました。肩叩きとしては実に俊敏な動きでありました。 彼らが俊敏に動かざるを得なかったのはなぜか、先の戦争だと東京裁判で決め付けられたため、そう思い込んだ日本人がいるかと思います。しかし時間が経つと、侵略したといわれても、フィリピンやビルマは日本人が戦争をしている時に独立させているし、インドの独立のいために日本はインパールまで出て行って大きな犠牲を払っていること、インドネシアにも近い将来の独立を認めていたいたことを思い出します。そして昭和十八年の大東亜会議で実に立派な宣言までしています。 考えて見れば、日本が攻め込んだのはイギリスやアメリカやオランダの植民地であり、イギリスやアメリカやオランダを侵略したとは言えません。むしろ、そこで搾取されていた植民地の人々たちを独立させた。今になってみれば誰にも分かる話です。問題は、「大陸を侵略したのではないか」という疑念です。このことで未だに文句を言い続けているのは韓国と中国です、韓国については大昔の話であり、しかも韓国併合はイギリスやアメリカなど全ての関係諸国が後押しをしており、日本がごり押しをしたというわけではありません。 日本が侵略したわけではなく、むしろ褒められて併合したといっても過言ではまお。それに反対の声はロシアや清国(中国)の国からも出なかった。さらに、アメリカはフィリピンから略奪しましたが、日本は韓国に持ち出しで投資を行いました。ですから日本が侵略をして問題になるのはシナ大陸なのです。塩川正十郎氏が自治大臣の時に、数人の物書きや学者を呼んでの食事会があり、私は外務省高官と同席しました。 その時にこの外務省高官が、「中国には何を言われても受け入れなければならない。それだけのことを日本はしたのです」という趣旨のことを言いました。この人が後で駐米大使になっていることを考えれば、彼のような考えが外務省の中心的な意見です。そして、それが」「村山談義」を生み、安倍内閣、麻生内閣まで縛っていたことが田母神問題で明らかになりました。ですから、日本を卑屈にして唯一の原因は、日本の「大陸侵略」という神話だと言えます。その時に問題になってくるのが一つは満州事変、もう一つはシナ事変です。 満州族の独立 満州事変は、東京裁判で一級資料であるジョンストンの「紫禁城の黄昏」(Rジョンストン署、中山理・渡部昇一訳、完訳版は祥伝社刊)を証拠として取り上げなかったことから、日本が侵略したように決め付けられました。しかし、「紫禁城の黄昏」を読めば、実際はまったく違う。辛核革命という名の下に、シナ人は満州政権に対する独立運動をした、それによって皇帝の座を追われた満州人皇帝溥儀が、信頼する家庭教師・ジョンストンと共に命からがら日本大使館に転がり込んできたことが満州事変に繋がる事件の始まりであることは誰が読んでも明らかです。 溥儀と共に行動を共にしたジョンストンが記しているのです。「紫禁城の黄昏」が、もし三年早く出版されていれば、リットン報告書も不要でした。ジョンストンは本の中で、リットン報告書を書いた人たちはあの辺りの状況をまるで知らないと書いているほどなのです。ただし、そのリットン報告書ですら、「満州事変は、いわゆる侵略だとは間単に言えないと記しています。いわんや、その後、間もなく満州は独立したのですから、そこで起こった様々な事件は満州族独立ということに集約するわけです。 一つの国の誕生物語になるだけの話です。侵略とはなんら関係はありません。満州国は日本の傀儡政権だったという人もいますが、そんなことを言うのであれば今のイラクも傀儡政権です。また、現在中国のチベットやウイグルに対する行いに比べれば、日本と満州国の関係は比較にならないほど立派なものです。 満州国については侵略だと言うならば、これは歴史に対するまったくの無知を表明することに他ならない。張作霖爆殺事件が歴史的に確定したというような不正確なことを言って、日本の侵略を証明しようとする歴史家がいます。近年、ロシアから出ている資料や中西正輝教授が研究されているように、張作霖爆殺事件はむしろロシア勢が引き起こした可能性が高いと私は思っていますが、もし日本が行っていたとしても、それは満州独立のための一歩だったと言えます。 続く 論評:
いやいや驚いた、右翼で国粋主義の渡部昇一の驚くべき主張には毎度ながら脱帽ものである。日本は明治の昔から富国強兵思想で国を独立を維持してきた、そこで天皇は最大限に利用された、軍が政府の言うことを聞かず「統帥権」を楯に暴走した事実を忘れたか意図的に隠している。まず最初に日米開戦の前にABCD包囲網は完成していた事実を隠している、蒋介石が日本の武力による野心に苦慮し欧米に助けを求めていた事実を「意図的に」隠している。インドのインパール作戦は方面指令の牟田口中将が言い出したことで欧米の蒋介石援助を絶つための作戦だった。 しかしこの作戦は大失敗に終わり日本軍の死者は実に7万2000名に及ぶ、山越えの作戦なので食料は生きた牛を連れて行ったほどだから先は見えていた、牟田口は軍内部で「鬼畜牟田口」と呼ばれて更迭されている、ビルマの山越えの街道は別名「白骨街道」と呼ばれおびただしい日本兵の死者で埋め尽くされた。現地のビルマ人は「可愛そうに、はるばる日本から来て白骨をさらすとは」と日本兵を丁寧に弔った。 張作霖爆殺事件がソ連のコミンテルンの仕業とは田母神の主張と同じで大笑いである、日本軍の川本大佐が東京裁判で上部の命令でやったと証言している、上部とはもちろん石原莞爾である。右翼とはこのように日本はどこも悪くはなかったというネタを何処からか引き出して来る、まったく懲りない連中で渡部はその筆頭だろう。軍部はなにがなんでも満州がほしかった、辛核革命は中国の内部の問題で日本はそれに乗っかって利用しただけである。また企業の要望が軍部以上に強かった、軍は表に立ってやったので悪さが目につきやすいが、裏で動いていたのは財閥の企業集団である。その事実については五味川純平の「人間の条件」に詳細が描かれている。 |
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日本の戦時犯罪記録 1、中国関係 2、東南アジア関係 3、GHQと政府の取り決めと政府の秘密 4、なぜ中国は秘密にされたか 5、何も知らない国民、田母神論文が出てきた背景 6、国民は目隠しをされて教育された、政府の責任追及と今後の動向 序文: 我々日本人は日本は歴史のある国、誇りを持つ国として認識している。象徴天皇がいて政府の行事に様々な形で出席され国は安泰しているように見える、しかし近代の日本は残念ながら誇りに思ってもそうのような形ではなかったというのとを認識したい。この歪みはすべて欧米諸国との対立で生じたもので、愛国者が欧米を非難する最大の根拠になっている。日本は近代の歴史を進む過程で道を踏み外し暴走機関車になった、ブレーキがまったく利かない無人状態の機関車で地獄への線路をまっしぐらに暴走、国家は破綻滅亡してしまった。 昭和の時代に入ってから日本は自他共に「列強」と見なされる強国にのし上がった。欧米と肩を並べて世界を歩く日本は様々な国際条約に署名している、そのひとつが「毒ガス条約」でこれは第一次世界大戦でドイツが大規模に使用してその非人間性と残虐さゆえに製造と使用は禁止された。日本も当然署名をして批准しているが、国内では密かに製造され中国戦線では大規模に作戦で使用し多数の犠牲者を出していた。 中国の現在では内モンゴル自治区に日本は大規模な毒ガス実験場を建設した。これはソ連を想定したもので気候と地形がソ連に似ているために選ばれた。広大な地域で連日マルタと呼ばれていた支那人が毒ガスの実験体として使用され、穴を掘りそこに支那人を押し込めて毒ガスを注入、どのように苦しむか何分で死ぬか実権が行われた。国内では広島県の瀬戸内海の小島に製造工場が建設され先日のテレビで当時の働いていた人で、「人間の悪魔の工場」と呼びこのような工場は二度とあってはならないと強調していた。 石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。階級は陸軍軍医中将功三級医学博士。千葉県加茂出身。 731部隊の創設者として多くの人体実験を行い細菌兵器を開発したことで知られる。 生い立ち 石井四郎は、千葉県山武郡芝山町(加茂)の旧家主、父・石井桂と母・千代の間に四男として生まれる。少年期より秀才ぶりを発揮し、県立千葉中学から金沢の四高を経て、京都帝国大学医学部を首席で卒業。 長男・彪雄は日露戦争で戦死し、次男・剛男は陸軍嘱託、三男・三男は陸軍技師として後に731部隊隊長となる。 性格は知能は高いがエキセントリックな人物であったとされる。例えば、研究予算を獲得するために小便から抽出した塩や、汚水や尿をろ過した水をデモンストレーションで飲食する事があったという(なお、このろ過器は「石井式ろ過器」として戦地ので給水に活躍することになる)。また、京大医学部を首席で卒業しながらも、当時の軍医は中将までしか昇進しないことに強い不満を持ち、革新的な研究成果を欲していたとされ、これが731部隊での研究を行う動機に繋がったとも言われる。 石井は中国での戦線拡大に伴う物資不足を解決するため、当時国際的に禁止されていた細菌兵器に目をつけ、鉄資源に乏しい日本において細菌兵器は安上がりで最も有効な兵器と提唱し陸軍のトップを動かす。軍令により1936年、関東軍防疫給水部(大日本帝国陸軍731部隊)が設立され、隊長としてハルビンにて細菌兵器を開発していくことになる。飛行場、神社、プール等もある巨大な施設で冷暖房も完備された近代的な施設を持ち、監獄も完備してあり、少なくとも3000人近い人を実験により殺した。 施設の中心のロ号棟(ろごうとう)でペスト菌や炭疽菌、チフス、凍傷、毒ガス等の人体実験を行った。1940年当時、年間予算1000万円(現在の90億円)が会計監査なしで支給されていた。石井の娘は後に「映画風と共に去りぬに出てくる大農場主の豪邸を思わせるような大邸宅に石井家は住んでいた」と語っている。ロ号棟の中庭にある特設の監獄2棟に日本軍に抵抗したとして捕らえた中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人等を人体実験のために収容し、その囚人をマルタと呼んだ。憲兵・警察等が裁判を行わずに容疑者を731部隊に移送できる特移扱(特別移送扱い)という制度まであり、憲兵は特移を増やせば出世していた。マルタに対しワクチンが聞かない細菌製造のため、より毒性の強い細菌を注射し、感染して発熱すると大喜びした。 瀕死の状態の時に解剖して内臓から菌を取り出した。1940年から1942年にかけて井本熊男の作戦の元、ペスト菌を中国にばらまくことになる。1945年8月、大本営作戦参謀朝枝繁春より撤退を告げられ、石井の命令により、施設を証拠隠滅のため根こそぎ爆破、収容していた人体実験用の中国人ら約400人をガスで殺した後、自らの家族と幹部らともに特別列車で引き揚げた。 戦後は石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い偽の葬式まで千葉で行い行方をくらまし、米兵相手の売春宿を経営してひっそりと暮らしていた。石井の右腕であった内藤良一がマレー・サンダース軍医中佐と交渉、人体実験の資料と交換条件として731部隊関係者は戦犯免責となった。近隣の住民が怪我や病気になると無償で診察、治療を行ったと言う。特に子供の患者については後々までも気にかけ、命を救うことが出来ると「本当によかった」と漏らしていたという。また晩年にはキリスト教を信仰しており、罪滅ぼしの意識が働いていたのではないかと考察されている(2007年6月12日付朝日新聞)。 国際条約に署名し批准したにもかかわらず日本は平気でそれを破る、これは当時としては当たり前のことで日本はいささかも恥じていない驚くべき神経ではないか。ドイツ軍の破竹の進撃で目潰しを食らった日本政府は怖いものは何もなかった。軍部は中国で暴走していた、独断専行で政府の言うことを聞かず中国の抗日戦線には大規模な派兵で答えていた。このような中で南京事件は発生し政府は首都南京を制圧せしめたりと大々的に報道させた。 南京事件を歴史を元に考察すると様々な矛盾点が浮かび上がってくる、日本軍の攻撃部隊は総数で15万だったが、これが全部投入されたわけではない。蒋介石は南京を逃げ出している、その残存部隊は戦闘意欲はもはやなく日本軍に降伏している。しかし支那人には異様な習慣があった、敵と対峙して逃げ出す兵士は後ろから射撃を加える。日本軍が南京城に入城した時には膨大な支那兵の遺体が遺棄されていた、さらに膨大な捕虜を捕まえて現場指揮官は戸惑ったに違いない。当時の日本軍は原則として捕虜は取らない、食料の余裕もまったくなかったという悪循環が指揮官の判断を狂わせたと見ていいだろう。 指揮官は独断で捕虜の射殺を決定、揚子江の岸辺に捕虜を一列に並べて撃てと命じた、機関銃が捕虜の列をなぎ倒した。プカプカと揚子江を流れる人間、兵隊はそれを黙って眺めていた、処刑された兵士の数は分からない。無数に流れていく遺体、人が人ではなくなった瞬間がそこにあった、兵士は上官の命令には忠実に従う、そう訓練されていた。南京には日本はあらかじめ安全区を設けて一般人を避難するように誘導していた。しかし兵士の略奪、暴行、残虐行為は留まるところを知らず安全区でも例外ではなかった。 ナチスドイツ党員だったドイツ人のラーベは安全区の委員を務めていた。日本軍がやってきていきなり略奪行為を始めた、ラーベは日本兵にものすごい声で怒鳴りつけた、驚いた日本兵は何も取らずに引き上げていった。西洋人から怒鳴られて驚く日本兵がいるだろうか、しかし確かに効果はあったとラーベは日記に記している。ニューヨークタイムスの記者で当時南京に駐留していた人物は南京から日本軍は異様なほどに変わって凶暴になったと述べている、捕虜の大量処刑、そして略奪、暴行、便衣兵の捜索と処刑が各地で行われた。「南京事件幻派」には悪いが、日本軍の行為はひとつもほめられたことはやっていない、当時の日本人の支那人に対する侮辱と軽蔑と悪影響がそのまま兵隊に現れて、人でなしの行為をそのままやって恥じる気持ちすらなかった。
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しかし、8月9日の最高戦争指導会議において首相就任時に聖戦完遂を叫んだ鈴木が、最早戦争の継続は不可能であり、ポツダム宣言を受諾するほかないと判断していた52)ように、広島への原爆投下とソ連の参戦に衝撃的な打撃を日本支配層は受けていた。このような状況の中でのこうした訓示は、国民を欺瞞し、ただいたずらに犠牲者の山を築くだけにすぎなかったが、これは太平洋戦争に突入したファシズム体制の当然の帰結であった。 またポツダム宣言受諾の決定も余りに遅すぎた。9日午後から開かれた閣議においても、最高戦争指導会議の議論がむしかえされ、鈴木は外相東郷とともに天皇に御前会議の開催を願い出た。御前会議は、同日の深夜11時50分から皇居内の防空濠で開かれ、皇室の安泰を条件にポツダム宣言の受諾を決定、10日「(ポツダム)共同宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に帝国政府は右受諾する」との日本側申入れが、中立国政府を通じて連合国側に伝えられた。これに対してアメリカ政府は、英・中・ソの承認を得て11日、「降伏の時より天皇及日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国最高司令官に従属するものとす・・・・日本の究極の政治形態はポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」との回答(いわゆる「バーンズ回答」)を行うことになる。 国全土が焦土化しつつあり、また戦争の犠牲者が膨大な数になっており、しかも戦争の行方は誰がみても明確になって久しい時期に、この回答を巡って外務省と陸軍が対立、またしても閣議で無毛の果てしない議論が12日、13日と続行され、その間にも犠牲者は増え続けてゆくのであった。 8月14日午前、天皇が直接招集する異例の御前会議が開かれ、遂にポツダム宣言受諾を決定することになるが、それにしても余りに遅すぎる敗北宣言となった。 そして8月15日正午天皇ヒロヒトが戦争終結の詔書を放送、ここに太平洋戦争と第2次世界大戦は、ファシズムの完全敗北で終わることとなる。 実に第2次世界大戦の戦禍は、世界の人口の5分の4をまきこみ、1億1千万の兵士を戦場に送り、軍人・市民あわせて2,200万人が死亡し、3,440万人が負傷した。 破壊された財産は、ヨーロッパだけでも3,949億ドル、中国は500億ドルにのぼった。日本では、陸海軍人の死者156万人、一般国民の死者30万人と政府は1947(昭和22)年発表したが、事実上あわせた死者は300万人に達すると推定されている。 敗戦時1945(昭和20)年の日本人の平均寿命は男子23,9才、女子37,5才であったが、これが約15年間にわたる侵略戦争の結末であった。 後書き: 戦争は空しい、日本国民が焼野原でポツンと空を眺めて溜息を漏らしたのはつい63年前のことだ。ひどい戦争だったもうこりごりだと誰もが思った、思い出すのも嫌だ靖国神社クソ食らえ、これからの日本は戦争とは無縁にやるべきだ。そうすると少し元気が出てきた、無気力とノンポリが世の中を支配した。金だ金、金と人々は奔走し始めた、戦争は過去の出来事、そこから反省する気分もいつか忘れ去られた。 世の中は移り変わり田母神航空統幕長の論文が世間を騒がせた。戦争は大昔の出来事だから人は懲りないものでまた日本の戦争を擁護するグループが出てきた。 「あれは自衛の為の戦争だよ、日本は何処も悪くはない、欧米にけしかけられて始めたもので日本こそ被害者だ」 「そうだ日本は被害者だ、悪いのは欧米でやつらはいつも正義感を振りかざす、欧米の正義感というものはクソだ何も違わない」 その昔日本人が発狂したように戦争に突入したことを人は知らない。知らないと何でも勝手に解釈、田母神論文が勝手に一人歩きを始めた。テレビでは田母神氏は徹底的に叩かれる、人はこれを「言論封殺」と呼ぶ。自由な発言を封じるのはいかがなものか、一見耳障りの良い意見で同感だと人は頷くが、戦争の美化は禁物だと人は気がつかない。 日本の戦争は侵略戦争でそれに真っ向から異議を唱えたのが田母神氏なのだ、政府は日本の戦争でアジア諸国に何度も謝罪している、「日本は貴国を侵略しました、そして日本軍は多大の犠牲を貴国にかけて独立して発展する機会を台無しにしました」これが政府の公式な見解である。 日本ではよくドイツ人は反省していない、一部の勢力に責任をおっかぶせて一般国民は平気であるという意見をよく見る。これこそとんでもない誤解で日本を擁護したいが為の言い訳であり卑怯である。ドイツはEU諸国から監視されている、反省と謝罪それから戦時補償問題はドイツにとっては重大問題で国民が知らないフリをするのは日本だけだ。問題を摩り替えて「日本擁護論」を展開するとは呆れた所業である。 私のブログに仲間の女性がいるが彼女がドイツ人について書いているので紹介する。「こないだも来日するたびに政治問題で突っ込むドイツからの友人たちに、どんだけアソーの件でおちょくられるかと心配だったが、ご飯を食べながら、小泉政権のときほど最早何も聞かれなかった。質問にも値しない総理ということか。(笑)」。
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そして、4月30日ヒトラーが愛人と自殺、5月2日ソ連軍がベルリン占領、同日英軍がラングーンを占領、5月7日イタリーに続いてドイツも無条件降伏する。枢軸国のうち2ケ国までもが完全な敗北を喫し、また日本の敗北が決定的なことが軍部にも十二分にわかっていたにもかかわらず、一億総玉砕を叫んで日本は戦争を継続し、大量の犠牲者の山を築いたのであった。これは狂気の結末の空恐ろしい事実である。 4月12日アメリカ大統領ルーズベルトが脳溢血で死去、アメリカ憲法の規定に従い、大統領に就任したトルーマンは、5月8日日本政府に無条件降伏を勧告するが、日本はこれを無視、翌9日日本政府はドイツ軍降伏という現実に接しながらも、「帝国の戦争目的は固より其自存と自衛とに存す、是れ帝国不動の信念にして、欧州戦局の急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化を與ふるものにあらず、帝国は東亜の盟邦と共に東亜を自己の恣意と暴力との下に蹂躪せんとする米英の非望に対し、飽く迄も之破碎し以て東亜の安定を確保せんことを期す」と声明して、戦争継続に狂奔するのであった。 アメリカ軍は5月25日東京を大空襲、強風で大火災が発生し残存市街地を焼き尽くし、宮城内の表宮殿と大宮御所などが炎上、29日にはサイパン、テニアンからの500機以上のBー29と護衛する硫黄島からの100機のPー51戦闘機が横浜を白昼爆撃し、死者は4,600人以上、負傷者14,000人以上に達し、市の3分の1が焦土と化した。また同日南九州にアメリカ軍のPー43、Pー47等の小型軽飛行機が来襲したが、これは沖縄基地からの慣熟飛行であり、沖縄が事実上アメリカ軍に占領されたこととの証明であった。 すでに日本軍による組織的抵抗が不可能となった5月19日司令官牛島満は、大本営に総力挙げて支援を要請するが、沖縄戦を本土決戦の時間稼ぎと位置づけ、全員玉砕を規定の事実としていた大本営はなんらの支援もしなかった。5月28日首里前面の防衛線が崩壊、首里城にアメリカ軍旗が翻り、敗退した日本軍と非難民は南へ南へと後退を余儀なくされた。だが、南端の海岸にはアメリカ艦艇が待ち受けており、背後にはアメリカ軍が押し寄せてきていた状況では、降伏のほか道はなかった。しかし、アメリカ軍は”鬼畜“と教えられ、捕まえられれば殺されると信じさせられていた住民にとっては、アメリカ軍の投降勧告には応じることより、自決の道を選ばざるをえなかった。 住民をまもるべき軍が住民を楯に戦い、集団自決を強要したことに「捨て石」戦であった沖縄戦死闘の悲劇があるが、空襲に次ぐ空襲と疎開で東京の人口も1945(昭和20)年6月現在において、前年度2月の3割(220万人)に激減していた。 同年6月6日天皇臨席の最高戦争指導会議が開かれ、今後採るべき戦争指導の基本大綱(本土決戦方針)を採択、あくまで戦争を完遂することを決定、15才から60才迄の男子、17才から40才の女子を国民義勇隊に編入する一億戦闘配置の大号令である義勇兵役法を施行した6月23日、沖縄の日本軍守備隊が全滅、沖縄戦での戦死者は19万人(内沖縄出身者12万2千人)にのぼり、沖縄本島の全部が焦土と化した。 国家崩壊の危機に直面した日本は、7月10日最高戦争指導会議においてソ連に和平斡旋依頼を決定、近衛文麿を特使に任命して13日に申し入れたが、18日ソ連はこれを拒否、7月16日にアメリカは最初の原爆実験に成功する。広島・長崎の悲劇は目前にせまっていた。 同月17日米・英・ソ3国の首脳会議がポツダムで開かれ、26日ポツダム宣言(太平洋で戦った米・英・中国の対日最後通告)を発表した(日本は27日早朝のアメリカの放送を受信して知った)が、首相鈴木はこれを黙殺、戦争邁進と記者団に対して談話、28日付朝日新聞は「多分に宣伝と対日威嚇」と読売新聞は「笑止、対日降伏条件」と報道した。 ポツダム宣言発表直前の7月14日から15日にかけてアメリカ軍は東北・北海道を空襲、また14日は釜石を15日には室蘭を艦砲射撃する。16日には1等10万円の「勝札」(宝くじ)を発行したが、皮肉にも抽選日は敗戦の日の8月15日であった。 そして8月6日午前8時15分、Bー29「エノラ・ゲイ号」が広島に原爆を投下、大本営は翌7日「1、昨8月6日広島市はB29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり2、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」と発表、8日付朝日新聞は、「落下傘つき空中で破裂ー人道を無視する残虐な新爆弾」、翌9日付同紙は、「敵の非人道、断固報復ー新型爆弾に対策を確立」と報じたが、一瞬にして死者は実に24万人(推定)に達した。 8月8日にはソ連が対日宣戦布告(モロトフ外務人民委員が8月9日以降ソ連が日本と戦争状態に入る旨の宣戦布告文を8日夜佐藤大使に通達)、この報に日本が接した9日午前、最高戦争指導会議構成員会議が開かれ、ポツダム宣言受諾のための条件について、「皇室の安泰」とか、「本土占領の制限」などといった議論が行われているさ中の11時2分、今度は長崎に原爆が投下された。 西部軍管正司令部は、「1、8月9日午前11時頃敵大型2機は長崎市に侵入し新型爆弾らしき物を使用せり 2、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」と発表、これを10日付西日本新聞が報道(朝日新聞の報道は12日付であり、しかも小さい見出しであった)した51)が、長崎の死者は12万人を超えた。 長崎原爆投下報道の代わりに、10日付朝日新聞は、「東西から国境を侵犯ー満州国内へ攻撃開始。我方、自衛の邀撃戦展開」とソ連の対日宣戦布告を大見出しで報道した。同日情報局総裁下村宏は「戦局は最悪の状態」との談話を発表、陸軍大臣阿南惟幾は、全軍将兵に「死中活あるを信ず」と訓示し、「・・・・全軍将兵宜しく1人も残さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」との激を飛ばした。
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