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ドイツ戦艦グラーフ・シュペーの自沈、艦内に大量の爆薬を仕掛けての自沈はドイツの騎士道精神の現れであり、イギリス側の作戦にまんまと騙されたドイツ人が哀れに見えてくる

背景

「アドミラル・グラーフ・シュペー」の行動
ドイツ海軍の戦力はイギリス海軍に対して劣っていたため、第二次世界大戦では通商破壊を基本戦略とした。ポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」(艦長ハンス・ラングスドルフ大佐)は第二次世界大戦開戦前の1939年8月21日に、同型艦の「ドイッチュラント」はその3日後に、それぞれドイツ・ヴィルヘルムスハーフェンを出港した。9月3日の開戦時には「アドミラル・グラーフ・シュペー」はアゾレス諸島南方沖に、「ドイッチュラント」はグリーンランド沖にあった。

通商破壊戦は9月24日に許可された。「アドミラル・グラーフ・シュペー」は9月30日にブラジルのペルナンブコ沖でイギリス商船「クレメント」を撃沈したのを最初に、10月5日にセントヘレナ島北で「ニュートン・ビーチ」を捕獲(9日撃沈)、7日に「アシュリー」を撃沈、10日に「ハンツマン」を拿捕した(17日撃沈)。10月14日に補給艦「アルトマルク」と合流し、16日に補給を受けた。

いっぽうの「ドイッチュラント」も通商破壊戦を行った。10月5日にバミューダ諸島沖で「ストーンゲート」を、14日にニューファンドランド島沖で「ローレンツ・W・ハンセン」をそれぞれ撃沈したが、機関の不調もあって11月15日にドイツに帰投した。

「アドミラル・グラーフ・シュペー」は10月22日に「トレバニオン」を撃沈した。その後インド洋へ向かい、11月15日にマダガスカル島南で「アフリカ・シェル」を撃沈した。再度大西洋に向かい、その途中の11月16日に「アルトマルク」から補給を受けた。12月2日には「ドリク・スター」を、同月3日には「タイロア」をそれぞれ撃沈した。12月6日に「アルトマルク」から補給を受け、同月7日に「ストレオンシャルー」を撃沈した後、ラプラタ川河口へ向かった。ちなみに沈められた船の乗員は「アドミラル・グラーフ・シュペー」に救助された。

対するイギリス軍は大西洋からインド洋にかけて5つの部隊(その後、9つに増強)を配備し、ドイツ軍の通商破壊艦を捜索していた。12月2日に撃沈された「ドリク・スター」や10月22日に撃沈された「トレバニオン」は「アドミラル・グラーフ・シュペー」の位置を打電しており(「ハンツマン」も救難信号を発信したが誰にも受信されなかった)、その情報を得たイギリス海軍G部隊(重巡洋艦「エクゼター」、重巡洋艦「カンバーランド」、軽巡洋艦「エイジャックス」(旗艦)、「アキリーズ」)のH・ハーウッド准将は「アドミラル・グラーフ・シュペー」がラプラタ川河口へ向かうと予測した。12日、「エクゼター」、「エイジャックス」、「アキリーズ」はラプラタ川河口沖に集結した。なお、この時点では「カンバーランド」はフォークランド諸島で整備中であった。


戦闘経過

海戦の経過12月13日05:52(現地時間、以下同じ)、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は右舷前方約31,000mに敵艦のマストを発見した。最初は敵艦隊を軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻と誤認し、これらを船団護衛部隊と考え接近したが、06:10、それらが重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻であると確認した。いっぽう「エイジャックス」は06:09に煙を発見し「エクゼター」を分派、06:14に「エクゼター」はそれが「アドミラル・グラーフ・シュペー」であると確認した。

06:17、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は距離17,000mで軽巡2隻に対し砲撃を開始した。それに対してイギリス艦隊も順次砲撃を開始した(「エクゼター」は06:20、「アキリーズ」は06:21、「エイジャックス」は06:23)。06:25、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は「エクゼター」に砲撃を集中させ、これにより「エクゼター」は大きな損害を受けた。06:32、「エクゼター」は魚雷2発を発射したが命中しなかった。06:36、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は煙幕をはり、北西へ転進。イギリス軽巡洋艦2隻もこれを追撃した。06:38、「エクゼター」はさらに2発の命中弾を受けた。大きな損害を受けた「エクゼター」は06:50に煙幕を張り離脱を図った。7:30、「エクゼター」は浸水のため戦闘不能となり、フォークランド諸島へ撤退した。

07:25、「エイジャックス」は命中弾をうけ砲塔2基が損傷した。07:40頃、「エイジャックス」、「アキリーズ」は追撃を中止し、煙幕を張り東へ反転した。しかし「アドミラル・グラーフ・シュペー」も戦場を離脱しラプラタ川へ向かったため、ハーウッド准将は「アドミラル・グラーフ・シュペー」の追跡を再開した。軽巡洋艦2隻が「アドミラル・グラーフ・シュペー」の25km後方から追跡した。


モンテビデオ港
14日00:50、「アドミラル・グラーフ・シュペー」はウルグアイの首都モンテビデオに入港した。ウルグアイは中立国(ただし親独)であり、国際法では中立国の港に停泊できるのは24時間以内となっていた。しかし、損傷のため出港できないときはその国の同意があれば延長可能ともなっていた。ドイツはウルグアイと交渉し、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は72時間の停泊が認められた。イギリス軍は2隻の軽巡洋艦でラプラタ川河口の封鎖を行い、「カンバーランド」をフォークランド諸島から呼び寄せ、さらに空母「アーク・ロイヤル」、巡洋戦艦「レナウン」を含む有力なイギリス艦隊が集結中であるという偽の情報を流した。

自沈する「アトミラル・グラーフ・シュペー」「アドミラル・グラーフ・シュペー」の砲術長はモンテビデオ港外に「レナウン」を発見した。これは誤認だったが、ラングスドルフは脱出が困難であると判断し、自沈することを決めた。乗員のうち戦闘員約700名は油槽船「タコマ」に移り、退去期限の12月17日18:00に「アドミラル・グラーフ・シュペー」はモンテビデオ港を出港した。19:28、艦内に設置された爆薬が爆発し「アドミラル・グラーフ・シュペー」は擱座した。脱出したラングスドルフ以下約150名はアルゼンチンの海防艦「リベルタッド」に救助された。また、「タコマ」はウルグアイの練習巡洋艦「ウルグアイ」に抑留された。なお、このとき港外にいたのは重巡洋艦1隻と損傷した軽巡洋艦2隻のみであった。「アーク・ロイヤル」、「レナウン」がモンテビデオに向かっていたのは事実であるがこの時点ではまだはるか遠くにいた。

20日、ラングスドルフ艦長はブエノスアイレスでドイツ第二帝国海軍旗を体に巻きつけピストルで自殺した。


結果と影響

その他
「エイジャックス」と「エクゼター」の乗組員は海戦の翌々月の1940年2月23日の金曜日にロンドンに凱旋帰国し、叙勲式に臨み、市庁舎であるギルドホールでの市長主催昼食会に招待された。エリザベス王妃とジョージ6世は多数の乗組員と握手し、健闘を称えた。出席していたチャーチル首相は開戦後初めてイギリス勝利に涙を流したと「アキリーズ」の乗組員であった弟を亡くした式典出席者の一人は伝えている。「アドミラル・グラーフ・シュペー」と交戦した3隻の巡洋艦のうち「エクゼター」は1942年3月1日、スラバヤ沖海戦で日本海軍によって撃沈された。2004年2月、「アドミラル・グラーフ・シュペー」の残骸の引き揚げ作業が開始された。2007年に完了予定である。


記事:
1929年のヒットラー政権の誕生によりドイツではナチスを嫌う知識人あるいはユダヤ人などが大量にドイツを脱出して南米に向かった。その中でもアルゼンチンはドイツ移民が多いところで社会の至る所でドイツ移民は活躍した、戦艦グラーフ・シュペーの艦長であるハンス・ラングスドルフ大佐はナチスの第三帝国を信じた一人で、ブエノス・アイレスで壮絶な自殺を遂げたのも哀れである。信じた相手がヒットラーでは救われない気もするが、それは日本も同じで国民全部が戦争戦争と叫び出して潰される運命であるとは知る由もなかった。
http://www.geocities.jp/torikai007/war/100/apa2008.html

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                       東條英機と娘の勝子と孫の東條由布子


あの有名な田母神敏男前統幕議長を持ち上げる記事を見つけた。この記事を書いたのは私にとって有名な「獨評立論」である、彼は田母神と同じく右翼系の人間で田母神を気さくでユーモアがある人物と評している。

日本の戦争が終了して64年が経過した、現在では戦争は過去形で語られ現実問題にはならない状況を呈している。私は日本の戦争を30数年研究してやっとある結論に達した、日本の法律では「戦犯」なるものは存在しないと言われる、それも道理で国民は戦争の片棒を担いだ共犯だった、共犯ならば戦犯がいるはずがない、それで国民は戦争の記憶を忘れ去ったのである。これはまったくのご都合主義で日本人特有の「自己保全」の結果とも言える。

日本の戦争をどう評価するのかは議論が大きく分かれている、左翼系と右翼系では意見が真っ二つで私のブログで私を左翼だととんでもないコメントを残す人物も存在する。戦争を評価する場合に日本国内の議論を聞いても仕方がない、世界的にどう評価されているかが問題でその議論をする人間を私は知らない。

何度も書いているが日本の戦争は東京裁判という名前の国際法廷で裁かれて記事は世界中に配信された、その記事は各国政府の記録として厳重に保管されている。東京裁判はハリウッドの三流の茶番劇でフセイン裁判と同じ種類だった、だからあの裁判はまやかしだ、「東京裁判史観」が出てくる理由とはならない。

昭和の時代に突入してから日本は突然狂い出した、歴史を詳細に調べれば日本人が明らかに発狂していった足跡が明確に読み取れる。これはファシズム軍国主義のせいである、戦前の日本には自由主義の空気は存在せず集団指導体制による高圧的な専制主義の空気で満ち溢れて、国民は憲兵隊の監視と特高警察の厳しい尋問を受けていた。このファシズム軍国主義は軍隊の中から生まれたものではない、国民自らが選択した「亡国の思想」で国民は自らの首を絞める結果を選んだのである。

田母神は「日本ははたして侵略国家だっかのか」どいう題名で記事を書きそれである企業の懸賞大会で見事に優勝している。問題なのは彼の立場で航空自衛隊の統幕議長で幹部を教育する立場であったことだ。自衛隊の幹部にも多数応募するように呼びかけて「日本の戦争参加は間違っていない」その旨の主張を繰り広げた。これは政府見解と明らかに対立する主張で、思想的に好ましからざる人物として懲戒解雇が言い渡された。彼は外国人記者クラブにも出かけて日本擁護論を展開したからたまらない、世界が日本をどう見ているかという基本的な思想を無視したために、各国の記者は先を争って本国に記事を送った。恥の上塗りという言葉を知らない人物である。

「獨評立論」は右翼らしく田母神を擁護している、日本が侵略国家だったのは明確でそれを否定する主張は世界では通らない、日本国内の主張は世界の非常識だと言われる原因でもある、アジアの半分東南アジア全域を巻き込んだ戦争が侵略戦争でなかったとは神経を疑う、戦後に日本が土下座外交をアジアで繰り広げた事実を無視するのか!中国や東南アジア諸国に莫大な日本の資金が投入されて各国のインフラ整備に使われた事実は否定できない。
【湯浅博の世界読解】悪魔は二度と地下に潜らない

それが可能であるなら、「核の廃絶」を望まぬ者などはいない。だが、良心的な核の開発者が手を引いたとして、良心的でない核開発者が代わってその開発に携われば事態は少しも変わらない。むしろ、「事態は悪化する」と見破った大論争家がいた。

戦後保守主義の論客、福田恆存(つねあり)である。そこから導かれる結論は、「『悪魔』は一度地上に出現してしまった以上、二度と地下には潜らぬであらう」という過酷な現実である。悪魔とは核兵器のことであり、これほどさめた目で核技術の本性を見極めた論者は少ない。福田が挑発的な論文「現代の悪魔」を発表したのは、半世紀近くも前の昭和36年のことだった(『福田恆存評論集』麗澤大学出版会)。

そんな福田が、オバマ米大統領によるプラハの「核の廃絶」演説を聞いたら、どう考えただろう。一般的に「不戦の誓い」「核廃絶」など政治家の吐く理想主義ほど疑わしいものはない。そうあってほしいと願うが、国益を担う政治指導者が廃絶に言及する以上、腹にどんな一物を抱いているか分からない。

大統領が「核廃絶」に触れて以来、世界中から称賛の嵐が起きた。やがて、時間がたつうちに国際社会はその真意を探り、隠れた意図が何であるかの論争が起きた。福田が生きていれば、「悪魔は二度と地下には潜らぬよ」と冷笑していたに違いない。数ある論評の中で、インタビュー記事として13日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルに掲載された元国防長官のシュレジンジャー氏の見解が、この福田説に近いことをある賢人の指摘で知った。

シュレジンジャー氏は核廃絶論について「米国の理想主義と米国が田舎者であることとが結合してできたもの」と、その幻想論を非難する。続いて、1928年の「ケロッグ・ブリアン条約と同じではないか」と突き放した。

当時のケロッグ国務長官はフランスのブリアン外相とともに、「紛争の解決は戦争によらず、平和的手段による」というパリ不戦条約を主導した。だが、英独仏はたとえ不戦条約を結んでも、「自衛権まで否認しない」と条件を付けている。彼らの腹の中には、ソ連の対外行動を封じる一物があったのだ。案の定、条約はすぐに破られた。

シュレジンジャー氏は核についても、「核廃絶を願うのは構わない。でも、それが実現しないことを祈るべきだ」と痛烈だ。なぜなら、「核のない世界」が実現したら、常にだれかがひそかに核兵器を造っていることを心配しなければならないからだという。

福田恆存が「良心的でない核開発者がひそかにつくる」と指摘したのと同じ議論だ。いまや、それが北朝鮮、イラン、もしかしたらテロリストであることを私たちは知っている。福田はまた、ある軍縮案を相手国が受け入れるのは、それが相対的に自国の軍拡につながる場合だけであるという。だから彼は、軍縮とは「天使」のものではなく、「悪魔の化身」であると注意を喚起する。

実際に、オバマ提案にそって核全廃が成功したとして、米国は通常兵器でもなお優位に立つ。老朽化する核ミサイルを持つロシアは、廃棄分も削減数に数えられるから米国だけが実質的に減らすことになるとほくそ笑む。米国は日本を含めて世界の30カ国に核の傘を提供している。冷戦中に西にあった核の脅威はいま、中国や北の核により東に移った。アジアに悪魔の跳梁(ちょうりょう)がある以上、日本は「悪魔の化身」にまどわされまい。(東京特派員)

産経ニュース

論評と主張
1945年アメリカが初の原爆実験に成功した、それは世界が「悪魔の申し子」の誕生を見た瞬間だった。ソ連は間髪をいれず1949年に実験に成功、続いて中国も1964年に成功している。核という武器は戦争では使えない武器で国際間の緊張緩和に好んで使われる取引の道具である。持っているのと持たないのでは国際間の発言で重みがまるで違ってくる、北朝鮮のキム・ジョンイルが他の全てを犠牲にして国民が飢えるのも気にしないで核をほしがった理由は最大の切り札になるからだ。

アメリカが核保有国と認めてそう発言するのを待っている、ところがアメリカはそれを発言したら全てが終わりだと知っているのでどうしても認めない。空中に多少の放射能が出たくらいで核保有国とはとんでもない、アメリカはいつでも平城(ピョンヤン)を叩ける、それがアメリカの本音である。日本は戦争をした国で世界の核競争から最初から参加していない、ドイツと同じく(札付きの国)として世界的に監視されている。

日本の核保有論者はそういう実態には眼をつぶり核がなければ一人前ではないと非常識なことを平気で述べる、核とというのは持った国のステータスが上がるのではなく、どのように核をちらつかせて交渉を有利に運ぶかで試される。日本人は先天的な外交音痴である、交渉のこ字も知らず出たとこ勝負の外交でやる全て連戦連敗でマストに日の丸が揚がったためしがない、核を持って誰がボタンを管理するのか、その維持とメンテナンスはどうするのかという議論さえ出てこない。「日本に核は過ぎたる武器なり」この一言で決まりである。

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◆靖国神社・無名戦士の墓:戦没者追悼施設・玉砕と特攻・極東国際軍事裁判

靖国神社本殿;東京都千代田区九段にあり,祭神は,護国の英霊とっている246万柱,1869年(明治2年)東京招魂社として創建された。悠久の歴史のある神道であるが,神社自体の歴史が浅いためか,建築物は国宝にも重要文化財にも指定されていない。

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1945年9月3日戦艦ミズーリ(missouriDDH-63)艦上でマッカーサー司令官とサザーランド中将が梅津美治郎の降伏調印式を見守る。
梅津美治郎(うめづよしじろう、1882年1月4日 - 1949年1月8日)は,二・二六事件後に陸軍次官として陸軍内を粛正した。また,ノモンハン事件後、関東軍総司令官に就任し,関東軍の粛正にも関わった。終戦時の御前会議では本土決戦を主張し,降伏調印式への出席も最後まで拒んでいた。

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第二鳥居と神門の参道両脇に,日本陸軍と日本海軍の物語を彫った燈籠がある。戦時下でも,ここの金属は供出されずに,残されたようだ。1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致――三勇士の忠烈」「3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。----訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。

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1941年12月7日に真珠湾の米軍艦艇を雷撃するために湾内に侵入しようとしたが果たせなかった。真珠湾種攻撃の翌日に米軍により,半分埋もれた船体が引き揚げられた。特殊潜航艇「甲標的」(乗員2名)の実戦での初使用は,1941年12月7日の真珠湾奇襲攻撃である。真珠湾の湾口に待機していた伊号潜水艦5隻から各1隻,合計5隻(10名)が発進した。1941年12月7日(現地時間)のことである。

特別攻撃隊(司令佐々木大佐)は,伊22の岩佐直治大尉と佐々木直吉一曹,伊16搭載の横山正治中尉と上田定二曹,伊18搭載の古野繁実中尉と横山薫範一曹,伊20搭載の広尾彰少尉と片山義雄二曹,伊24搭載の酒巻和男少尉と稲垣清二曹の合計10名である。空母艦載機による空襲前に,特殊潜航艇が,米軍哨戒機に発見され,米海軍駆逐艦に撃沈された。残りの甲標的は1-2隻が真珠湾内突入し,米艦船を雷撃したようだが,戦果はなかった。

日本では,特殊潜航艇も真珠湾の米艦船撃沈を成し遂げたように公表した。潜航艇搭乗員10名のうち,9名は戦死・行方不明となり,「九軍神」とされた。ただし,特殊潜航艇搭乗員酒巻和男少尉だけは,捕虜となったため軍神から除外された。酒巻少尉と同じ特殊潜航艇に搭乗した稲垣ニ曹は,行方不明,海軍二等兵曹から二階級特進し兵曹長になり,軍神として讃えられる。
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米国でも、犠牲者を勇士として顕彰し、戦意高揚を図っている。戦争プロパガンダは、宗教的体裁を採って行われることも多い。たしかに、Japan and the Second World War in Asia ;Fujita Tsuguji, "The day of the Saipan gyokusai [Saipan-to gyokusai no hi]" (oil). Theodore F. Cook, Jr. William Paterson Universityでも、多角的視点から藤田の戦争画を取り上げている。特攻という生命を祖国に捧げる行為を正当化するのには,宗教にも似た家族愛、祖国愛、天皇などの高次元の精神を体現する必要があろう。

連合艦隊司令長官山本五十六大将は、1942年2月11日、ハワイへの特別攻撃隊は「多大の戦果を揚げ、帝国海軍軍人の忠烈を中外に宣揚し、全軍の士気を顕揚したることは、武勲抜群なりと認む」として、感状を授与した。日本側は,真珠湾攻撃で,未帰還機29機(戦死49-54名)の損害を受けたが,敵艦や敵航空施設に体当たり自爆した指揮官(海軍兵学校出身者)は,勇気と戦功を評価され、戦死後,二階級特進の扱いを受けた。真珠湾攻撃時の二階級進級者は,少なくとも7名いる。有名なのは「海鷲三士官」で,海兵60-65期出身である。

わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない」(『大阪毎日』引用)

イメージ 6 写真(左):沖縄戦当時の首相鈴木貫太郎;慶応3年(1867)12月24日〜1948年4月17日。大阪生まれ。海軍軍人。明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。1898年海軍大学校卒業。日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任。1925年海軍軍令部長。1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の1936年、2・26事件の襲撃を受け、生き残るも引責辞職。1944年枢密院議長、1945年4月7日という沖縄戦の最中に組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣。戦後,組閣とともに終戦に奔走したようにいわれるが,有利な条件で和平交渉を切り出すために,沖縄戦での大戦果を期待していた。ポツダム宣言受諾後、130日で総辞職。

イメージ 7写真(右):小磯国昭;1930年軍務局長。陸軍次官、関東軍参謀長、第5師団長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年大将となる。1939年平沼内閣の拓務相、1942年朝鮮総督。1944年東条内閣辞任のあとを受けて首相に就任した。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間もたたないうちに辞任。戦後,A級戦犯として、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けるが服役中に病没。1945年1月25日の最高戦争指導会議「決戦非常措置要綱 」では,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とした。

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長らく遊就館に野ざらし展示していた貴重な日本陸軍の実戦使用火砲が,2002年に増設されたガラス張りホールに,展示された。サイパン島から奇特者が自費返還を図った戦車ですら,それまで野ざらしにしたままだった。写真は、日本陸軍の九六式15サンチ榴弾砲(手前)と八九式15サンチ加濃(カノン)砲で,1945年の沖縄戦で米軍に鹵獲されたものである。本来,砲兵部隊に軍旗は無かったが,「砲=軍旗」であり,砲兵は最後まで砲とともにある(死ぬ)べきとされた。しかし,これらの砲は,ほとんど無傷で,米軍に奪取されてしまった。戦後,日米安全保障条約のよしみで,自衛隊に返還され,それが遊就館に展示されている。後方は,タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で活躍した1936年製の蒸気機関車C56。戦後もタイ国内を走っていたという。いずれにせよ,このように歴史的な兵器を戦争遺物として施設内に保管・展示するようになったのは,戦後50年以上たってからである。愛国心を鼓舞し国民的な靖国総参拝論を主張する政治家・実業家たちでも,戦争遺物に無関心で,予算措置も労力も惜しんだ。多額の政治献金を受けながらも、エセ愛国者は、日本兵器の保管・展示には関心なく、そのための資金提供をしなかった。

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1945年8月9日長崎で午前8時02分その時父は会社で仕事中だった。右側の遠景の3人の人物は何が起こったのか分からず呆然としていると写真説明にあった、爆心地から4kmの地点で原爆の存在すら知らなかった人々の茫然自失が伺える。

ピカッとフラッシュが光ったその瞬間父は咄嗟に会社の机の下に隠れた、私は子供心にできすぎた話だと思った。私ならそんなことしないし隠れる必要もない。しかし父は戦争中でもありアメリカな何か企んでいると考えて母と私の姉兄を無理やり隣町に疎開させていた。次の瞬間ドーンと爆発があり爆風が会社の窓を襲った、若い女の子が勤務中だったがガラスの破片が体中に刺さり血だらけになった。それからの父は無我夢中で走り回ったそうである。

爆風は長崎の町を吹き飛ばした、そのすごい火炎は町を荒れ狂い終日人を寄せ付けなかった、父は1日待ってから火災が収まってから町に出かけた、黒焦げの死体がいたるところに転がり地獄を表していた。「水をください水を」いたるところで声を聞いたと父は言う、父が水筒の水をあげると「有難う」とおいしそうに飲んでそして必ずこときれると父は話した、それからはどんなに水をほしがってもあげなかった、死を見取るのは辛いと父は話した。長崎医大にインターンだった母の従兄弟がいた、爆死していたと父は話した、気の毒に母が可哀想である。長崎から25km離れた町で母と姉兄たちは無事に過ごしていた、その町に無蓋貨車に山積みにされた被爆者が続々と到着していた。

姉は小学校の校庭に山積みにされた遺体を目撃していた。首から下しかない遺体も多数あったと私に話した、ガソリンとか灯油はないので山から切り出した蒔きが遺体の焼却に用いられた。ひどい匂いが充満していたと姉は語る。

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