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大日本国防婦人会の活動(その1)

満洲事変後、戦争協力のための婦人団体が幾つか誕生したが、陸軍軍人の妻を正副の会長として発足したのが大日本国防婦人会だった。以下の写真は、その1935年の活動に関するものである。いずれも、大日本国防婦人会が1942年に刊行した『記念写真帖』より取ったものである。

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(左)会長の武藤貞義夫人(右)副会長の1人・荒木貞夫夫人、
大将クラスの陸軍軍人の妻が、何人も副会長に名を連ねた。



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川崎支部の救急法講習(1935年5月26日)


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京都地方本部の分会員による水害被災者救護''(1935年6月末か)

注記:
戦時体制が強まり国民総動員体制が強化される。
戦争をすることが国民の義務でありそれを怠れば非国民呼ばわりされる、誰も非国民とは呼ばれたくないだから唯々諾々と従った。兵士は戦死すれば靖国神社に祀られる「靖国で合おう」が若者の合言葉になった。国民は選択する自由さえなかった、軍国ファシズムとは恐ろしい、女は男の言う事を聞いて各地の婦人会で忙しく立ち働いた、「なんでそうするの?」は禁句で黙っていることが最高だとされた。
小林多喜二の拷問死

プロレタリア作家の小林多喜二は、日本共産党に入党したために、潜行生活を強いられていた。そして1933年2月20日に、密告によって赤坂区福吉町付近で逮捕された。小林は築地警察署に連行され、特高の毛利基・中川成夫・山県為三らの拷問によって、その日のうちに殺された。小林は、まだ満29歳の若さだった。

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急を聞いてかけつけた母・セキ(1933年2月21日夜)
秋田県の小作農の子に生まれ、34歳の時に小樽に移住した。1950年に、『新日本文学』の座談会で、小林多喜二の死について語った。(『小林多喜二』より)


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小林が殺された築地警察署
小林以外にも、多数の共産党関係者がここで殺害された。(『小林多喜二』より)


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自宅で遺体を囲んで(1933年2月22日未明)
右から、原泉(中野重治夫人、プロレタリア演劇家)、岡本唐貴(プロレタリア画家、白土三平の父)、
上野壮夫(プロレタリア文芸家)。(『小林多喜二』より)


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小林多喜二の遺体
拷問は、こめかみ、首、背中、太もも、陰部などに加えられ、手の指は反り返されていた。拷問の責任者の特高部長・安倍源基、特高課長・毛利基らは、このような共産党弾圧の「功績」で、出世街道を歩んでいった。(『小林多喜二』より)

注記:
前にこれと似たような記事を載せた、そうすると次のようなコメントの書き込みがあった「戦前の日本は自由で民主主義の自由な国だった、大正デモクラシーの影響だろう」私はこれを読んで絶句してしまった。何処のバカか知らないが右翼が書いた「とんでも本」をパラパラとめくってそういう結論に達したのだろう。日本の歴史はそういうものではない、憲兵と特高警察(特別高等警察)に国民は監視されて息もできなかった。そういう世界を作り出したのは国民自身だった、いわば自分で自分の首を絞める行為でバカのやることだ。歴史は繰り返されると言うが、そうならないためにはどうすればよいのか国民はもっと真剣に考えなければならない。
リットン調査団の活動と日満議定書

リットン調査団は、日本と中国を往復しつつ調査を続け、1932年10月2日の公開に向けて報告書を書き上げた。斎藤内閣は、報告書の公開前に満洲国を正式承認してしまおうとして、全権・武藤信義大将を派遣した。そして、9月15日に日満議定書への調印を終えた。

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再度東京にやって来たリットンたち(1932年7月4日)
一行はこの後、もう一度中国に戻り、調査書を書き上げた。彼らは法律に強く、満鉄並行線が違反ではないこと(条約にはなっていない)や、関東軍の駐屯の違法性(駐屯は治安回復までの約束の筈)を見抜いていた。(『近代百年史』13より)

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日満議定書の調印式(1932年9月15日)
左が、特命全権大使・武藤信義大将、右が、満洲国総理・鄭孝胥。この議定書には、日本軍の実質的支配を認める溥儀の書簡に効力を持たせる条項が入っていた。そのため鄭総理は、最後の最後まで出席を嫌がった。(『世界画報』1942年11月号より)

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記者団に、満洲国の正式承認を伝える内田康哉外相(1932年9月15日)
(『国際写真情報』1932年10月号より)


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日満議定書調印の後(1932年9月15日)
調印の後の記念写真。溥儀の左が鄭総理、右が武藤大将。(『国際写真情報』1932年10月号より

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第1次武装移民団の明治神宮参拝(1932年10月2日)
第1次移民団は、東北地方を中心に約500人の在郷軍人が応募し、チャムス方面に入植した。その際、水豊村の住民を二束三文の代償で立ち去らせた。(『近代百年史』13より)

注記:
日本は近代国家に脱皮するのに苦しんでいた、欧米は警戒感を強め再度リットン調査団を差し向けた、日本は近代国家とはいえない状況だった、軍部は横暴で文民政府はそれを制御しきれなかった。後に松岡洋祐外相が国際連盟に出かけて日本を脱退させてしまう(後で記述)そこにはヒットラーの大躍進に目を奪われた日本人の哀れな姿がダブって映る。
ヒトラー、大統領選で敗退

ドイツ・ワイマール共和国の第2代大統領のヒンデンブルクは、任期切れに伴う大統領選に臨んだ(1932年4月10日)。対抗馬のナチ党・ヒトラーも力を伸ばしてきており、満84歳のヒンデンブルクが再選されるかどうかは不明瞭だった。結局、左派の社会民主党がヒンデンブルクの支持にまわったことで、辛うじてヒトラーを退けた。
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大統領選に臨むヒトラー
ヒトラーはオーストリア生まれであり、ドイツの大統領選に出馬するために、2月に急遽国籍を変更した。この選挙では、飛行機を用いて、各地を演説してまわった。(『国際写真情報』1932年5月号より)


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再選を果たしたヒンデンブルク大統領
大統領選でヒトラーと競ったが、ナチ党に批判的ではなかった。再選後、ナチ突撃隊を禁止していたブリューニング首相を罷免し、中央党のパーペンを首相とした。(『国際写真情報』1932年5月号より)



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ナチ党の大会
(1932年秋頃)中央の無帽がヒトラー。
(『歴史写真』1933年4月号より)
張作霖の爆殺


国民革命軍は北京に迫り、中国北部に君臨してきた張作霖は追い詰められた。

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滄州から出撃する張作霖派の軍隊
張作霖派の軍は、山東省での防戦を断念し、早々に北京の手前に退却した。そして、滄州(北京・天津と山東省の間)に防衛線を引こうとした。(『国際写真情報』1928年7月より)

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張作霖
日本は、満洲の軍閥である張作霖を支援して、同地の権益の維持を図ってきた。しかし、満鉄並行線の建設や、土地獲得の抑圧などの件で、現地の関東軍などは不満を強めていた。(『山東派遣軍記念写真帳』より)

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爆破現場(1)
実行部隊の東宮鉄男大尉らは奉天郊外の満鉄本線と京奉線がクロスする場所で、大量の爆薬を爆発させた。(『山東派遣軍記念写真帖』より)

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爆破現場(2)
鉄橋が落下しただけでなく、列車も吹き飛ばされた。張作霖は重傷を負い、数時間後に死亡した。(『山東派遣軍記念写真帖』より)

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爆殺現場(3)
(『国際写真情報』1928年7月号より)

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