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イメージ 1 惨殺された永田鉄山軍務局長

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            永田軍務局長の遺体写真、日本刀で切りつけられた無残な遺体

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                   犯人の相沢三郎中佐

相沢事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
相沢事件(あいざわじけん)は、1935年(昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が陸軍省において、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件である。

概要 [編集]
日本陸軍においては皇道派と統制派が対立し、1931年の三月事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起こる。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は統制派の永田の陰謀と反論する。

義憤を感じたとされる相沢は、台湾転任を前に陸軍省内軍務局長室において永田を刺殺した。事件後の相沢の公判は二・二六事件により一時中断され、翌1936年の5月に第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、同年7月に相沢は死刑となる。

なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英夫大佐が在室していた。相沢の襲撃に気づいた新見大佐は、永田をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。この事情について山田大佐は事件後、「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った(この山田の不可解な行動についてNHKが「歴史への招待」という番組の中で取り上げ、疾病による視野狭窄のために周りがほとんど見えない病状にあったからでは、という説を紹介している)。このため、山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。

主張:
昭和の歴史は血で塗られた無残なものである、国民は軍国ファシズムという妖怪に取り付かれにっちもさっちも行かなくなった、軍部は政治家と企業に取り入って自己保身を図ろうとした、そこに精神主義を唱える思想家が入って「日本の日本による日本の歴史を」と大声で唱え始めた。いわば国民全部が頭が正常ではなくなった、太平洋戦争は当然の帰結だった、逃れる術はなかった、こういう歴史は日本人は誇りにしてはならない、あまりも無残な歴史で正視できないものであった。
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昭和という時代は過ぎ去った、過去形で語るのは簡単である、しかし昭和を忘れては日本史は語れないことも事実である、政治家は国会でいつも遊んでいるように見える、昭和の時代はどうしたかと言えば軍人が銃を構えて突入し重臣たちを殺害した。

二・二六事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

永田町一帯を占拠した兵士
蹶起直後の叛乱軍将兵。昭和11年2月26日
投降を呼びかけるチラシ。昭和11年2月29日二・二六事件 (ににろくじけん、にてんにろくじけん、にーにーろくじけん) は、1936年(昭和11年)2月26日-29日に、日本において、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有のクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。

事件概要 [編集]
大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して


蹶起直後の半蔵門岡田啓介(内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤実(内大臣)
高橋是清(大蔵大臣)
渡辺錠太郎(陸軍教育総監)
牧野伸顕(前内大臣)
の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害、また岡田総理も殺害と発表された(但し誤認)。

その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。

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襲撃決意の背景 [編集]
革命的な国家社会主義者北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする一部の青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。

陸軍はこうした動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていたが、1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で士官学校事件において磯部と村中を免官した。しかしこれによって青年将校の間で逆に上官に対する不信感が生まれることになった。皇道派と統制派との反目は度を深め、翌1935年(昭和10年)8月12日白昼に永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。

五・一五事件 (1932年) で犬養毅総理を殺害した海軍青年将校らが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことが二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断による行動であり、将校としての地位を利用して天皇から預かった兵卒を動員したわけではない。

なお三井財閥は血盟団事件 (1932年2月〜3月) で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた[1]。2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという[1]。

青年将校らは主に東京衛戍の歩兵第1連隊、同第3連隊、近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。そこで第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。

磯部と陸軍幹部の接触 [編集]
この蹶起の前年、磯部浅一は軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。また川島義之陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島陸相は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。また1936年(昭和11年)1月28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。

磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した[2]。

蹶起趣意書 [編集]
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている[3]。

また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。

襲撃目標 [編集]
2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口一太郎大尉は反対した。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた[2]。
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第一次目標 [編集]
岡田啓介(内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤実(内大臣)
高橋是清(大蔵大臣)
牧野伸顕(前内大臣)
西園寺公望(元老)

第二次目標 [編集]
後藤文夫(内務大臣)
一木喜徳郎(枢密院議長)
伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)
三井高公(三井財閥当主)
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)
岩崎小弥太(三菱財閥当主)

西園寺公望襲撃計画 [編集]
西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀宅での会合で決まり、翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し、同意を得る。対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した[4]。西園寺はなぜか事前に事件の起こることを知って、神奈川県警察本部長官舎に避難した。


事件経過 [編集]

陸軍将校の指揮による出動 [編集]

占拠した山王ホテル前を見張る兵士反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。

歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。[5]事件当日は雪であった。

反乱軍は圧倒的な兵力や機関銃を保有しており、概ね抵抗を受けることなく襲撃に成功した。但し、総理官邸、渡辺大将私邸、高橋蔵相私邸及び牧野伯爵逗留地では、警備の警察官•憲兵の激しい抵抗を受け、これら警察官•憲兵を殺害又は重傷を負わせている。また、渡辺大将自身も拳銃で応戦したとされている。

政府首脳・重臣への襲撃 [編集]

岡田啓介 [編集]

岡田(左) と松尾(右)天皇大権を掣肘する「君側の奸」として内閣総理大臣・予備役海軍大将の岡田啓介が襲撃の対象となっている。

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ソロモン諸島は現在は平和である、かってこの地でアメリカと激烈な戦争をやったとはとても思えない、しかしジャングルの中に一歩入ればそこは紛れも無く激戦が展開された場所であると気がつく。この写真は米軍に追い詰められた島の住民が祖国を拝んで崖の上から投身自殺を図った「バンザイクリフ」の場所である。島の住民にとっては戦争で敗北した日本はもはや地上にに存在しない幻で生きる意味さえなくなっていた。



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サイパン島に残る旧日本軍の司令部跡地、日本からの観光客は元気にはしゃいでいるがそこはまぎれもなく戦場だった、砲弾がうなり飛行機は爆弾を落とし島民を地獄に突き落とした。


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放置された旧日本軍の戦車、「戦いにはせ参じる国民汝は臣民なり、敵を打ち抜き破壊して陛下のみ心にそぐわん」と歌われた。無駄な戦争だったと断定するのは早計だ、広い太平洋には200万以上の日本人の墓場である、英霊はもはや帰らない、我々の繁栄は彼らが戦ったからこそ今がある。

もう亡くなった私の義兄の父親はニューギニアで戦死していた、その父親と同じ部隊にいた戦友が無事に帰国してその様子を語ってくれた。戦友はジャングルでの戦闘が終わって帰国するのと入れ替えに父親がジャングルに入っていったと語る。

戦友「終わったよ、これで帰国できる」

父親「ご苦労さん俺たちはこれからだよ、兵隊は命令があれば移動する、しゃあねぇやね」

それが最後の言葉で父親の遺骨はどこにあるのかも分からない、義兄の葬儀で年を取った母親と会った、母親は「可哀想に、苦しかったのね」と声をかけた。歯科医の娘だった母親は婿取りで父親と結婚していた、しかし父親の戦死で実家を出て教員と再婚していた、義兄はその母親の旧姓を名乗っていたが生前から「爆弾」と呼ばれていたニトログリセリンを飲んでいた、そして旅先でポックリ死んでしまった。私は義兄の葬儀の場で耐えられず声を出して号泣した。

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娘婿のアフガニスタン行きが決定した、早ければ6月にも出発すると娘から連絡が入った。兵隊は命令で動く、しかし海軍なのに陸上勤務とは解せない。留守家族として娘はつらい毎日になるだろう、無事に帰国するまでは安心は出来ない、来年の正月までは帰国できないと娘は話した。

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3月8日の今日は、小説家・五味川純平の1995(平成7)年の忌日 <78歳> 五味川純平は、1916(大正5)年3月15日、中国大連に近い寒村に生まれる。1933(昭和8)年大連一中卒業。満鉄(南満州鉄道)奨学資金給付生となり、東京商科大学(現一橋大学)予科入学するも、中退。東京外国語学校(現東京外国語大学)英文科卒業後、旧満州)・鞍山(現在の遼寧省)の昭和製鋼所に入社。1943(昭和18)年召集を受け、満州東部国境各地を転々とし、1945(昭和20年)年8月のソ連軍の満州侵攻時には、所属部隊はソ連軍部隊の攻撃を受けて全滅に近く、生存者は五味川以下数名だったという。捕虜となり、1948(昭和23)年の引き揚げ後、自らの従軍体験を基にして、非人間的な軍隊組織と個人との闘いをテーマに書き下ろした『人間の條件』(全6部。三一新書が1956年−1958年発刊)が1,300万部を超える大ベストセラーとなり、一躍人気作家となった。 この『人間の条件』がベストセラーとなったきっかけは、1958(昭和33)年2月16日号の「週間朝日」のトップ記事、「隠れたベストセラー」で、7ページにわたって扱われたことによるという。このことについて、朝日クロニクル週間20世紀(1958年号)には以下のように書いてある。“ その記事の前文には、「新聞の広告にも出ない、批評家にもほとんど問題にされない1冊の本が、いま農村で、町で、職場で、家庭で読まれている。無名の新人五味川純平氏の『人間の条件』(六部作)」がそれである。この1年間ですでに19万部売れ、しかも尻上がりに次第に版を重ねているという。この本のどこが現代人に訴えているのであろう」。僥倖(ぎょうこう=思いがけない幸運)とも言うべきヨイショだった”・・・と。そして、“この本は、いくつもの出版社をタライ回しにされた後、三一書房へ持ち込まれた作品だったが、社長の竹村一は、1、2巻の900枚を一気に読み終え、その場で出版を決めたという。何が彼を?そこには、「無辜(むこ=〔「辜」は罪の意〕罪のないこと。また、その者。)な中国人に対する日本帝国主義の侵略戦争であることを知りながら、日中戦争(支那事変)へ一兵士として駆り立てられた2人であった。その心の傷の共有は、同時代の人間の域をはるかに超えた厳しさと連帯があった」という竹村の共犯意識があった。”からだと・・・。 三一書房は、竹村一が1945(昭和20)年に、京都で創業。後、東京に移転。会社名は、日本の朝鮮統治時代に、1919年(大正8)3月1日から約1年間にわたって起こった朝鮮「民族」の独立運動「三・一独立運動」(以下参考に記載の「※三・一運動」など参照)に由来している。出版物は、おもに社会問題に関する書籍、概ね反体制・反権力的な姿勢を貫いたものが多いようだ。 その後も五味川は同じ、三一書房から大作『戦争と人間』(全18巻。1965年−1982年)を発刊しているほか『ノモンハン』(1975年文芸春秋)、『ガダルカナル』(文芸春秋、1980年)など、数々の戦争文学を世に問う。これらの中、『人間の條件』は、小林正樹監督により、同名で全6部構成で映画化され、1/2部は1959年(1月)、3/4部は同年(11月)、5/6部は1961年に公開された。反戦思想を持ちながら、日本の傀儡国家・満州の国策会社満鉄に勤めていた主人公の梶は、大儀名分のない太平洋戦争に刈り出され、ソ連国境で敗戦を迎える。生き残ったのは僅か3人。死地を逃れ挙句にソ連兵の捕虜となる。収容所には生き延びた3人の中の1人桐原がいて、捕虜を管理していた。その桐原を殺して、逃げ出した梶は愛妻美千子のもとへたどりつこうと荒野をさまよいついに命はてる。戦争文学ではあるが、戦時中の日本軍の暴虐と、それに反抗したインテリ兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描いた作品であり、当時の多くのスター俳優/女優をキャスティングした大作映画で、総上映時間は9時間38分に及び、制作当時は商業用映画としては最長の長さであった。第23回ベニス国際映画祭サン・ジョルジュ賞(銀賞)を受賞している。 『戦争と人間』も、1970年〜1973年に、山本薩夫監督により同名で、史上最大の9時間23分にわたる戦争大河超大作(3部構成で、第一部「運命の序曲」 1970年/197分 、第二部「愛と悲しみの山河」 1971年/179分、 第三部「完結編」 1973年/187分) として製作され、日活配給で公開された。大規模な戦闘シーンは、ソ連軍の協力で撮影された。当初は4部作を予定していたが、豪華キャスト(ここ参照)・本格的な戦闘シーン・海外ロケと日本の映画史上でも屈指の大作であったため、当時の日活の財政事情もあり結果的に予算が続かず、第3部で完結を強いられたのだという。 1931(昭和6)年の満州事変前夜から1939(昭和14)年のノモンハン事件までを背景に、様々な層の人間の生き様から死に様までを描いた複雑多岐な人間群像ドラマであり、その後の太平洋戦争に至る経緯について丁寧に表現されている。 日本の立場を侵略行為と明確に定義付け、歴史的検証に基づいて製作されたという。 五味川純平の生涯のテーマは、戦争の非人間性、不条理さを描くことにより、戦前日本を告発することであった。彼は、冒頭の経歴にも書いたように、ソ満国境各地を転戦し、1945(昭和20)年)8月、ソ連との交戦で所属部隊は全滅し、捕虜となっている。そんな彼の『人間の条件』に繋がる戦争体験を短編小説化した作品『不帰の暦』が、1977年夏『別冊文藝春秋』(140号)に掲載された(以下参考に記載の「日本ペンクラブ:電子文藝館」に『不帰の暦』が掲載されているので参照)。 その中には、実際に体験した者でなければ決して描くことの出来ない、人間尊厳の極限を克明に描写してる。 映画好きの私は、五味川純平の小説は読んでいないが、「人間の条件」も「戦争と人間」も映画は見た。 「戦争と人間」三部作の中でも、完結篇を見れば映画は見たと言えるかも知れない。この完結篇の中で、反戦活動を問われ、同志の田島とともに投獄された伍代俊介は、伍代家の威光で、拷問と闘う田島を残して獄から解かれた。自らの矛盾に悩む俊介は、対ソ戦の第一線に一兵卒として銃を取る。昭和14年の満州と外蒙古の国境ノモンハンでの国境紛争からソ連軍との間に大規模な戦闘が開始されるが、この戦いで、日本軍は高度に機械化された物量を誇るソ連軍、つまり、とっても勝てるはずがないソ連軍に惨敗。俊介の所属する部隊も、ソ連の戦車軍団によって徹底的に壊滅する。青年将校柘植(伍代家の長女・由紀子が愛していたにもかかわらず、政略結婚のため結婚できなかった相手)は、砲弾が炸裂する中を、ソ連軍の陣地に斬り込み、壮烈な最期をとげた。戦いというよりも、日本軍司令部の苛酷な命令に従った死の突撃だった。天を焦がすどす黒い硝煙の下、累々と地を覆う日本兵の死体。ノモンハンの荒野は墓場と化し、生き残った僅かの帰還部隊がハイラルの街を行く。放心した隊列の中に俊介の姿もあった……。この時、ヨーロッパでは、ナチスがポーランドを占領。やがて、大戦の炎は、不気味に膨張した日本ファシズムを捲き込んでいった……。ノモンハンでの俊介は、まさに、『不帰の暦』の中で昭和20年8月にソ連と戦った“私”・・・つまり、五味川の体験したことであろう。 総力を挙げて小国を守り抜こうという気風は日露戦争まで続いていた。大山巌も児玉源太郎もかって維新で山野を駆け巡った無名の青年で、この戦争の難しさをよく知っており、だからこそ戦争の終わらせ方についての政府の苦悩を分かつことが出来た。「終戦」という言葉は、大東亜戦争(太平洋戦争)にではなく日露戦争の終りにこそふさわしいものであったはずであり、乃木希典にもこの苦悩はわかっていたであろうが、彼の作戦はたくみであったとは言えなかった。しかし、その作戦上の失敗は、日露戦後の陸軍の総花式の勝利美化の正史の中に隠され、そのような集団が一丸となって仲間の失敗を隠す風習は、やがて、陸軍幹部と報道陣を巻き込み、行き詰まった日中戦争を打開するためにより大規模な戦争への道へと進み、昭和14年、ノモハンでの、全く戦力的に太刀打ちできないソ連・外蒙軍と日本陸軍が衝突、そこで大失敗した事実を隠し通すという集団犯罪ともいえるものに発展した。その当時、ヨーロッパで第二次大戦が勃発し、ドイツは翌年5月にオランダ・ベルギー、6月にはフランスを降伏させた。ノモハンの敗北によりソ連との戦争(北進)を数年間控えなければならなくなった日本の支配層は、ドイツの勝利に便乗し、ドイツと提携してフランス・オランダ・イギリス支配下の東南アジアへの進出(南進)をはかろうとし、9月、日本軍は北部仏印に進駐し、さらに27日ドイツ・イタリアとの三国軍事同盟に調印し、日米関係を緊張させた。以後、日本陸軍は日中戦争の戦火に固執して、日米交渉を決裂させ、対米海戦に追い込まれてゆく。 もし、ノモハンでの大敗の事実が国民に知らされていたとしたら、「大東亜戦争」は、少なくとも開始しにくさを増していたであろうことは、私の持っている蔵書「週間朝日百科・日本の歴史」にも書いてある通りである。ノモハン事件と同じ様に戦力面で勝てるはずもなく負けると分かっている戦争に刈り出され、その様な戦争に疑問を持ちながらも自分が負けるとわかっていながら不条理にも部下に対して戦うことを命令し大勢死なせてきた。そのような地獄を見、体験してきた五味川は、生き残ったものの勤めとして、どうしても、その様な戦争を始め、多くの国民を死なせた日本の支配層(天皇をも含む)を糾弾せずには居られなかったのだろう。 彼の反戦思想で書かれた『人間の条件』などは、当時のマスコミには、取り上げられることもなかったものが、僥倖にも、三一書房の竹村一によって出版されたということである。人間が人間として生きる。そのための人間の条件は・・・?

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日本人は呑気である、敵に外堀を埋め立てられたことすら気がつかない、中国の世界攻略作戦の一環としてまず日本攻略がある、中国は人海戦術でまず外堀から埋め立てを始めた、城を守る日本人に気づかれないように極秘で作業は進められほぼ完成している。

日本は哀れである、東南アジア諸国連合(ASEAN)は中国の独壇場で日本が入り込む隙間さえない、それから中国は「上海協力機構」を作り上げ麻生首相の「自由と繁栄の弧」を粉々に打ち砕いた。日本人が知らないうちに中国は日本を包囲していた、それを指摘する日本人は今のところは見当たらない。

中国が大量の学者を日本に送り込んだのには理由がある、学者に街頭に立たせて中国と日本の密な連帯を呼びかけた、呑気な日本人はすぐ騙される、支那人(中国人)はものすごい狸で人を騙すことでは世界一であろう、また香港に海上自衛隊の艦船を入港させて香港紙に「大歓迎」のすごい歓迎ムードをわざと出させた。その昔の戦争中には日本海軍は「悪党の代名詞」だったのはおくびにも出さない。

日本人はいい加減に目を覚ませ、このまま中国の言いなりになるな!中国が狸ならばせめて狐くらいにならないと勝負にはならない。それには日本人が完全に脳味噌を入れ替える覚悟が必要だ。中国の学者が街頭で演説を始めたら徹底的にやじり倒せ!「日本は中国には負けない」くらいの意見を出すべきだ。日本を愛しているならそれくらいはするべきだ。北京オリンピックで代々木公園で中国の学生が大勢で騒いだことを忘れてはならない。中国でも大量の日本人観光客が日章旗をもって練り歩くくらいのことをやらないと日本は負けてしまう、中国の公安が出てきて逮捕されたら「俺は日本人だ文句あるか」ことぐらいは言って欲しい。

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