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バス爆発は雲南省で恐れを産む ここ数週間に中国の西行政区新疆での一連の爆破はオリンピックの間にテロ脅迫の恐れをさらに作り出した。中国の全域で安全対策は強化された。暴力が広がっているかもしれないという徴候はまた心配である。 先月、2つの爆弾は中国の南西部の雲南省の通常静かな行政区昆明でバスで爆発した。2人が負傷して死んで多数の死傷者が出た。爆発の数週後に神経過敏の感覚がまだ昆明にあった。雲南省は前に爆弾攻撃をこれまで経験しなかった。多くの人々はショックを受けて怒っている。 悪意? 両方の爆弾はナンバー54のバスのルートで爆発した。それは都心を通り抜けるルートである。私がナンバー54を指摘したとき、乗客は爆破が彼らを心配すると感じているままにしておいたと認めた。いくつかは中国と別の新疆のために戦っているイスラムテロリストを非難した。 他の人はそれが悪意をもつ地元の人であり得ると言う。「富める者と貧しい者間のギャップはとても大きい」と1人の男が私に話した。「人々は不満を持っている、そして何人かは問題を引き起こしたがっている。しかしオリンピックの間に彼らがより多くの注意を得ることができるので、テロリストがこの攻撃を予定したことはまた、あり得ることだ」それで誰が爆弾を仕掛けたのか? 現在、当局ははっきりとは知っているようではなかった。それはよく地元の人または特定の不平をもつ人々のグループである可能性が高い。ここの一般の抗議は上がっている。そして多くが公式腐敗または不正の他の領域に集中している。多くの貧しい人々は彼らが昆明の成長から締め出されたので怒っていると感じている。 分離主義者? 大部分の人々は外国のジャーナリストにこれについて話すのが怖がる、しかし1人の昆明からの中年の女性清掃人は明らかに私と話をした。「人々が裕福ならば誰でも何でも得ることができる」、と彼女が言う。「そして人々は法律の目線で間違ってはいない。たとえばあなたが貧しいならばあなたには何の権利もない。 それが中国にある方法である、そしてそれは好天ではない」しかしさらに悪い説明がまたあることも事実である。爆弾が爆発した直後に比較的新しくて未知のイスラム分離主義者のグループ、トルキスタンイスラム党はインターネットにビデオを掲示した。そして爆破を「雲南での我々のあらゆる聖戦」と表現している。 ビデオの中で指揮官は雲の爆弾がオリンピックを妨害するためのより広い運動の一部であると主張した。動機は新疆行政区の一部のイスラム教徒による独立のためのイスラムの争いであると彼が言う。 そのビデオが現れるとすぐに中国政府はビデオを問題にならないと退けた。そしてグループの主張がとんでもない間違っていたと発言している。 雲南国籍大学のテロ対策と雲南省政府へのアドバイザーの専門家であるチャン・リンピン教授はまた、爆弾攻撃がテロリストによって実行されなかったと主張した。しかし彼はテロ対策処置が近年増やされたと認めた。 『増加している』脅威 雲南省政府は英国、アメリカとイスラエルからテロリズムを防止することについてのアドバイスを受けていると彼は言う、そしてビルマ、ヴェトナムとラオスでその長い国境の安全対策を強化した。雲南省は弱い地理的位置にあると彼が言う、新疆と外界の間で通過地点に位置するからだ。彼は中国が開放され続けてテロ攻撃の脅威が増加していて進化していると付け加えた。 「これまでテロリズムの脅威は外国から多くやってきた」と彼が言う。「開放された中国の方針のためにテロリストには中国に来て、攻撃を予定する多くの機会がある。しかし将来的には中国は政治的なものでない ひずみの中の社会的懸念は発作をより普通に見られるようにするだろう」。 過去には中国の堅い社会統制は、爆破が非常に珍しいことを意味した。現在、すべては変わっている。 中国が流体で空いている社会に発展して、1つの恐れは爆破の現在の波が来るものの合図であり得るということである。 BBCニュース ジル・マクガヴァリング通信員 http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7559157.stm
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生活と文化
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ロシア軍とグルジャ軍が衝突した、カフカス地方の悲劇は繰り返される、日本のように海がない場所では逃げることは不可能だ。人は土地に線を引きここまでは私の土地だと主張する、土地は元々人のものなのか、あるいは神が与えたものなのか定かではない。なぜ人は争うのか、人間が地上に住む限りは永遠に争いは絶えないのだろう、そしてまた思い出した、イスラエルの悲劇を。 東京新宿の四ッ谷駅の近くに私の行きつけの店がある、店の親父はもう生きているかどうかは定かではないが、私は長い間常連客の一人だった。店はエスニック料理を出す外国情緒豊かな店として評判だった、もう随分前のことだが店にイスラエルからやってきた女の子がいた、年のころは23くらいかイスラエルで兵役が終了して旅に出たと本人が言っていた。 名前はデボラ、ユダヤ人にしてはすごい美人である、生まれたのはブラジルと聞いて私は飛び上がるほど驚いた、ブラジルは私が十数年住んでいた、妻も子供もブラジル人である。「両親は私が12歳の時にイスラエルに移住したのよ」とデボラ。ユダヤ人が多いブラジルでは珍しいことではない、デボラはブラジル語に難があった、大人の会話が理解できないのである、12歳なら無理はない私は教えながら会話を進めた。 デボラの一家はイスラエルでキブツ農場に住んだ、キブツは海外の移民が集団を作って生活する共同体組織である、土地をアラブ人から奪ってそこに農場を建設した。当然アラブ人が反発する、農作業も銃で武装したままで行うので気が抜けない。デボラは何度も銃撃された、そのたびに親しい友人が命を落としたと語ってくれた。 女でも兵役がある、国の命令で兵役につくが穏やかな雰囲気ではないと言う、国全体が臨戦態勢では穏やかなはずがない、周囲は敵のアラブ人ばかりで、ぽつんとイスラエルという自由の国が存在すれば目障りである。何度も何度も攻撃され銃は片時も手放せない、デボラは戦場で兵士が取り付かれる重度の心的障害に襲われていた、親しい友人の度重なる死はデボラに回復不能なまでにダメージを与えていた。 「あなた自身がユダヤ人であることを疑問に思うことは?」 「それが問題なの、答えは簡単には出ないと思う、自分が何者で何をやりたいのか・・・・・」 「厳しい状況の中ではブラジルに住んでいたことが懐かしく思い出されるだろう」 「それは当然よ、平和だったしなによりも安全だったわ、銃なんて見たこともなかったわ」 「言葉では一番楽なのはやはりヘブライ語かな、それとも・・・・」 「一番楽なのは英語、ヘブライ語はあまり得意じゃないわ、ブラジル語は姉や兄はペラペラしゃべるけど私は大人の言葉は苦手・・・・」 「あはははは困ったねえ、英語はアメリカに娘が住んでいるけど私は苦手、イスラエルのデボラの実家とは何語で話せばいいの?」 「あああ姉や兄がいるからブラジル語でどうぞ、彼らは感激して泣くかも」 デボラは空白の時間が欲しいと言う、立ち止まって自分自身を考える。これからアメリカに向かうと述べた。それもいいだろう、自分を探す旅になれば人生は見えてくるものだ。国家という「タガ」を外されれば、ユダヤ人という運命は変わらずとも、自由が手に入る、すばらしいことだ。
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アメリカLAに住んでいる娘一家は少し陽気が緩んでくるとたちまちこのようになる。 今年2歳になる孫娘を飾り立てておもちゃにしてしまう、英語での生活、アメリカの生活にどっぷりつかっている。先日はネットに入った途端に呼び出しがあり何やら訳の分からないことを言う、電話代を払わなかったので切られた。後日通じたときにママに電話する云々、アメリカの生活も楽ではないようだ。娘の国際電話は独身時代から有名で給料のほとんどを国際電話に使いいつもピーピーしていた。
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アジア情勢を見るときに中国だけが特出して見えるのは日本人の過去を忘れた思いからだろうか、かっての日本は世界的に有名な侵略国家であった、イエローのくせに白人を気取るとんでもない奴として2度と白人の真似はしないと約束させられ今日に到る。 20世紀の日本史を見るまでもなく1945年までの日本は戦争で経済が動いていた。驚くなかれその相手は中国だった、日本は中国の蒋介石政権を認めないと主張し続けた。中国というものは列強が好きなように扱っていいものだと主張して自ら墓穴を掘り続けた。重慶にあった蒋介石政権を1943年までお中元お歳暮ののしがみをつけて爆撃し続け多大の死者を出している。 今日の日本は国家ですらない、欧米の後ろに隠れて国家の顔だけを時々覗かせる卑劣漢である。中国の北京オリンピックに何やら言いたそうであるがまるで迫力がない。1980年のモスクワオリンピックもソ連軍のアフガニスタン侵攻でボイコットが騒がれただけで体勢には影響はなかった。 チベット問題を心象膨大に描くのはどんなものか、かって日本が中国でしてきたことはまさに小さなチベットそのままであった、重慶は地上からは難攻不落の要衝でありどうしても蒋介石を殺害したい日本はしつこく爆撃を繰り返した。中国は今でも重慶から一代使節団を日本に送り込んで爆撃の保証を求めているが日本は戦時中のことは取り合わないのが通例である。そこでフリーチベットという西洋の絵巻物をもちだして日本で旗を振れとは奇妙な按配になった。少なくても日本ではチベットにうんぬんするべき根拠を何一つ持たない。毒餃子もうやむやに逃げられてしまった、腰の据わらない日本外交は一時が万事この調子で得点を稼げない哀れなていたらくである。
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ボルガ川沿いの長い旅:ソビエトの偶像 ロシアの大統領選挙が迫って、BBCのルパート・ウィングフィールド・ヘイズはプーチンのロシアでの生活のスナップショットを撮るためにボルガ川に沿って車で長い旅に出た。ニジニノブゴロド市からこれは彼の最初の旅の部分である。 私はニジニノブゴロドの郊外の荒々しい産業の中に位置する質実剛健なたたずまいのホテルの部屋に座っている。ソビエト時代の間に、ロシアの最も有名な20世紀の作家のうちの1人を記念して、ボルガ川の岸の200万人のこの都市はゴーリキーと名前を変えられた。マキシム・ゴーリキー、彼の時代は終わりを告げた、おそらく国民を扱いにくくてヨシフ・スターリン時代は大量虐殺体制であった。そのお返しにスターリンは都市に彼の名をとって名づけた。50年後にゴーリキー市はもう一度短く世界で名声をとどろかした。 クレムリンの長老が彼らの不正と腐敗している体制をサハロフの雄弁な非難の言論を抑圧するために勝ち目のない戦いをした。ロシアのノーベル賞受賞者アンドレイ・サハロフ博士と彼の妻はそのために国内での亡命を余儀なくされた。1985年にミハイル・ゴルバチョフは権力を握ってサハロフを自由にした。6年後にソビエト連邦は崩壊した。ゴーリキーはニジニノブゴロドに帰ってきた、そして昔のように静かに無名な都市のたたずまいを見せている。 ソビエトのステータスシンボル それで何なのだ?とあなたは思うかもしれないが、だから私はここに来たのである。2つのもの。ボルガ川とボルガ。最初は川で、二番目は巨大な産業で躍進するソビエトの象徴である。それは全てBBCモスクワ局の私の同僚のうちの1人計画したもので、我々がボルガ川沿岸を旅行するのに車を購入してそれを運転しなければならない。まったくひどい計画から生じた苦労の旅だった。 ボルガ川旅行の車の「ボルガ」はまだソビエトの象徴でもあった。それは誰でも所有することを切望した車で、しかし少数の人しか所有できない車でもあった。ロシア国民には彼らの大衆車「ラダ」に対する多くの愛着が不足していた。しかし「ボルガ」は特別な車だった、それはソビエト時代のメルセデスベンツでありローバーまたはビュイックと同等だった。それは彼らの黒い革のコートを着たKGBの上級者か、または彼らのグレーのホンブルク帽をかぶったクレムリン官僚だけに運転される車だった。 60年の間、彼らはニジニノブゴロドのこの厳しい自然の郊外の工場で「ボルガ」は製造された。そういうわけで私はここにいる。そして私のボルガを拾って、それと同じ名前の川の下流に沿って私の旅行を開始する。 資本主義的変身 真冬のロシアでは「ひばりのさえずり」は聞こえては来ない、氷に閉ざされた道路と鉛色のどんよりとした空はこれからの旅を考えると、背筋に氷を入れられたような気分になる。ボルガ川はアメリカのミシシッピ川または西ヨーロッパのライン川に当たる国の大河である。バルト海の近く始まって、それがアストラハンの塩生沼沢の南でカスピ海に注ぎ空になるまで、ボルガ川は南東に約3,000kmにわたってうねって流れている。 その流れに沿ってカザンとサマラ、ウリヤノフスクとサラトフのような名前を持つ都市が点在している。私はもう一度、スターリングラードとして知られて有名なニジニノブゴロドからボルゴグラードまでその長さの2,000kmを運転するつもりだ。その狙いはロシアがモスクワ環状道路の向こうで広大な地域を温存していることを発見すること、8年のプーチン大統領の後でのロシアでの生活のスナップショットを撮ること。 どのようにロシアは経済的に変化したのか?普通の地方のロシア国民はプーチン氏の後で生活について何を考えているか?反米反英感情は再開されたのか?もしそうならばなぜ?途中で私は、自動車工場、軍事基地、戦没者墓地ともう一人のウラジミール・レーニンの出身地を訪問する予定だ。最初のものは明白訪れる予定。 この地方の都市での生活はサハロフが30年前ここに追放された日から、当局が目障りだと判断したものは意識的に取り除かれている。今朝、私はモスクワで私の車に乗り込んでここに運転してきた。特別なものは見せられない実証されない、許可は出なかった。しかしKGB職員は私の後を追わなかった。少なくとも私にはそう思えた。 終りのない灰色のアパートのこの郊外でさえ、明るく照らされたショッピングセンターが現在資本主義のドライブインやマクドナルドとか喫茶店、ピザ専門店などの華やかさを見せている。ここは紛れもなくロシアである。私のホテルのテレビはケーブルテレビで、アメリカの安っぽいMTVとポルノさえ示している。少なくとも表面ではロシアは非常に変わりつつある。しかし表面の下ではどうなのかな? |




