思い出の映画

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シド・チャリシーは名声をテクニカラーミュージカルで発見した、ジーンケリーと踊る

ミュージカルスターのシド・チャリシーはLAで死亡
フレッド・アステアとジーン・ケリーの元共演者のC・チャリシーは87歳でロサンゼルスで死亡したと彼女の出版社の人物が言う。テキサス出身の女優-兼ダンサーは月曜日に心臓発作にかかった後にスギ-シナイ医療センターで死亡が確認されたと彼女の個人的な書籍出版人のジーン・シュワンが言う。
脚の長いスターはいくつかの映画に出演した、しかし彼女の名声は1940年代と1950年代のミュージカルから来た。

彼女は歌って踊るのは雨に唄えばのフレッド・アステアと伝説的なジーン・ケリーと競演した。絹のストッキングを着けてフレッド・アステアと競演。彼女の名声の頂点では映画会社は彼女の長い足が100万ドルで保険をかけられると言う。しかしBBCの通信員は彼女がそのような派手な宣伝活動を必要としなかったと言う、彼女の才能は彼女にテクニカラーのミュージカルの黄金時代の重要な部分を作るのに十分だった。

『美しいダイナマイト』
1921年にトゥーラ・エリス・フィンクレアとして生まれて、チャリシーはティーンエイジャーの時バレエ・ルッセで踊っている彼女の経歴を開始した。ヨーーロッパの旅行の間、彼女がロサンゼルスで訓練を受けた若いフランスのダンサーのニコ・チャリシーに会った。彼らは1939年にパリで結婚した。
彼女は1943年に彼女の最初のハリウッド映画に出演した。そしてミュージカル(叫ぶ何か)のバレエ場面を実行した。

彼女の功績はMGMスタジオの注意を引き付けた。そしてそれは彼女に7年の契約をもたらした、彼女の幼い頃のあだ名シッドのつづりを「シド」に変えた。彼女は第2の夫、歌手のT・マーティンと新しい結婚をしていた。そのとき、彼女は雨に唄えばの中でジーン・ケリーときらめいた。

彼女は後でブライガドーンで再びケリーと働いて、バンド・ワゴンと彼女の大好きな映画(絹のストッキング)の中でフレッド・アステアと組んだ。アステアは後でチャリシーを「美しいダイナマイト」と表現している。「彼女はタップダンサーではなかった、彼女はちょうど美しくて訓練されて、我々がそうしたものは何ででも非常に強いものだった」と彼が1983年のインタビューにおいて発言している。
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T・マーティンとシド・チャリシーの結婚は60年以上続いた 「我々が踊っていたとき、我々はいつも何時であるかは考えなかった」。チャリシーも未完成のダンス、言葉と音楽の中にいた、それは常にダンスへの招待と晴天を表していた。後で彼女はもう一つの町に2週間だけいて、アトランティスの司令官を含むヨーロッパで若干の映画を製作している。またいくつかのテレビドラマに出演した。 彼女はミュージカル(グランドホテル)の中で70才で1992年に彼女のブロードウェー・デビューをグレタ・ガルボの役割を反復しているようにして、小さなテレビで役割を演じ続けた。
BBCニュース  http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7460370.stm
軍旗はためく下に
製作=東宝=新星映画社 
1972.03.12 
2,638m 97分 カラー シネマスコープ

製作 ................  松丸青史 時実象平
監督 ................  深作欣二
脚本 ................  新藤兼人
原作 ................  結城昌治
撮影 ................  瀬川浩
音楽 ................  林光
美術 ................  入野達弥
録音 ................  大橋鉄矢
照明 ................  平田光治
編集 ................  浦岡敬一
出演 ................  丹波哲郎 左幸子 中村翫右衛門 江原真二郎 夏八木勲 山本耕一


スタッフ 監督:深作欣二 脚本:新藤兼人、長田紀生、深作欣二 美術:入野達弥 音楽:林光

出演:三谷昇、内藤武敏、夏八木勲、江原正二郎、藤田弓子、小林稔持、中原早苗、丹波哲郎、ポール牧、関武志、中村翫右衛門

本日の深作まつりは超異色作の「軍旗はためく下に」。1972年に東宝で封切されています。深作監督が自分の金で映画化権を購入して新星映画に持ち込んで作った自主映画です。当時、東映で厭だ厭だと思いながら仁侠映画を撮っていたことに対する鬱憤が溜まってか、その出来栄えは異色のものとなっている。深作作品は常に戦後や焼け跡の匂いを漂わせているのですがこの作品は正面から戦争と向き合っています。

「誇り高き挑戦」で左翼映画評論家から一目置かれていたのもあったんでしょうが、1972年のキネマ旬報2位に選出されています。但し、興行的にはもう一つで、社会派の映画と評価されたのは(当時の映画評論界は、左翼的な作品が評価されており、娯楽性よりも映画の中で如何に政治を語るかに評論の中心がおかれ小難しい作品が高い評価を受けていた。後に売れっ子となる淀川長治は異端とされていた、そんな時代があった。どれだけ東映のヤクザ映画が多くの客を集めようとキネ旬では評価されなかった。)深作監督にとっては決して嬉しいものではなかったようです。その苛立ちは次回作「現代やくざ 人斬り与太」につながっていきます。

主人公は左幸子演じる戦争未亡人。昭和27年、戦没者遺族援護法が制定され、遺族への金銭的な援助が始まった。が、左幸子の旦那の丹波哲郎は戦死でなく、敵前逃亡による処刑であったために”英霊”に加えられることはなく、援護法の規定からは外れていた。しかし、丹波はどのように処刑されたのか、何も出てこないのだ。

軍の命令で処刑されたのなら、軍法会議の判決文ぐらい出てくるはずだ。それが何もない。彼女は金銭的な問題よりも自分の夫が何で死んだのか、「何故父ちゃんは天皇陛下から花をもらえないんだ」(終戦記念日に天皇は戦没者に花を供える)悔しくてどうにもやりきれない。近所から「わずかの銭取ろうと思って」などと陰口を叩かれながら彼女は厚生省に日参していた。幾度、通っても厚生省の返事は「無罪を立証する証拠なし。」が、彼女の粘りは遂に一つの道筋を切り開いた。丹波が所属していた部隊の生存者の中で当局からの照会に返事を返さなかった者が数名いる。彼らなら何かを知っているのではないか、尋ねてみてはどうか。

彼女は次々と彼らを尋ねていく。ある者はゴミの山で養豚場をやり、あるものは漫才師になり、ある者は戦後のメチルアルコールで視力を失っていた。彼らの言う丹波の姿はバラバラでどれが真実かわからない。上官殺害、捕虜処刑、そして人肉を食った話。。。彼らはいまだに戦争の影を引きずり、戦後を送っていた。そして彼女は旦那が上官殺害事件に関与していたことを知る。。

映画の中で横井さんをネタにしたコントが出てくるのですが横井さんが「恥ずかしながら・・・」と帰還したのはこの1972年。なお、この年は沖縄が返還された年でもありました。戦後、既に27年。世は田中角栄の「日本列島改造論」に夢を託し、先進国への道をひた走っていました。ゴミの島で豚を育てる三谷昇がポツリとこぼす、「戦後はごちゃごちゃで自分の居場所があった。が、世の中が綺麗になって俺たちの居場所はなくなった」という台詞が印象に残ります。深作監督が「仁義なき戦い」に託した「もう一つの戦後史を作りたい」という思いはここにも出てきています。

戦争が終わって既に何年も立ち、戦争の傷跡を見つけることは難しくなりました。が、今もなお戦争がもし起こったら、どうなるのかという想像力だけは持っておかなければならないと思う。この映画は決して空想事ではない。飢え死にするぐらいならば、隣の戦友の食料を奪うのがやはり人間だと思う。人間はあさましいのだ。戦争の恐ろしさは人間をそこまで追い込むところにある。左幸子にしても三谷昇にしても顔を真っ白に塗りながら「あそこで死んでればよかった、と本気で思いますよ」と呟く関武志にしても、戦争により心に癒えぬ傷を負い、苦しんでいます。

大多数の人間はどこかで見切りをつけて、戦争を過去のものにしている。が、彼らには見切りをつけることなんかできなかった。深作欣二も15の年に迎えた敗戦に見切りをつけることができず、その鬱憤を映画に昇華していきます。この作品はそうした深作欣二の思いをストレートに出した作品です。

写真もふんだんに使われて、特に序盤の終戦記念日式典はよく使えたなと思います。前進座の中村翫右衛門が戦犯容疑を逃れた上官の役で出演しています。戦前は「人情紙風船」などの山中貞雄の作品に出ており、戦後は左翼の立場から演劇をやってた人で中国に亡命したこともあります。この前進座の歴史も語り始めると実に面白いです。脚本は新藤兼人で音楽は林光。左幸子も深作作品はこれ一本だしね。フィルム状態も悪いし、ビデオもなかなか見つからないと思いますが深作を知る為に欠かせない一作であります。
20世紀に入って世界は政治的にも軍事的にも急速の発展を遂げた、西洋の植民地主義は急速に終わりを遂げて世界中で新しい国家が誕生した。その中で日本も近代化を図ろうと試行錯誤を繰り返すが悪い手本をソックリコピーするという大失敗をやってしまった、西洋の植民地主義をそのままお手本にして新参者がものの見事に大失敗してまだ立ち直れずにいる。

21世紀に入って世界は激動の世界に突入している、その中で日本は生き残りをかけて世界情勢に立ち向かっているわけだが、どうしようもないことに国家建設をいまだに達成できずにおたおたしている。福田や小沢などでは政治が理解できるとは思えず国民の政治意識も極めて低い。中国から国家主席が来日しているが国民の評判は最低でまるで敵国扱いだ、どうしようもない政治的な得点が稼げないこともさることながら、国家たる威信を示せないことに苛立ちが募っている。戦後の政治ではどんな得点を対中国に挙げたかというとなにもない。

米中のはざ間に沈みこんで日本は出る幕がない始末ではもう少ししっかりしろと怒鳴りたくなる。思えば中国はアメリカに太平洋を真ん中にして縄張りを分けようと提案している、これは大胆な提案で日本はすっかり見放された証拠である。中国は海に出てくる、東シナ海は中国の海であり日本には勝手なことをさせるつもりはない。台湾から東シナ海までが中国の海ならば日本はどうしようもない。

政治的な観点から軍事的な要素を見れば中国の目的ははっきりしている、まず拠点を押さえて次に周辺諸国を懐柔していくやりかただ。新疆ウィグル自治区もチベットもそれで征服され現在は国内問題となっている。そのやりかたを今度は東シナ海に適用しようともくろんでいる、海洋国家中国の誕生だ、日本は尖閣諸島のガス田でもたついている場合ではない、押しの強さが中国の特徴ならば次の手は何かを考えないと後手後手に回って軒先を貸して母屋を取られる羽目になる。

このように日本も近代化の段階で中国を無視して少数民族化の扱いをしているので強くは言えない経過がある。加えて日本は強大な武力で中国を従わせようとした、このことはシナ人は200年は忘れないだろう。戦前の日本の行いがすべて対中国関係に投与されていることを忘れてはならない、そのことを戦後の我々の世代はあまりにも無視している。中国に関しては戦前と戦後を分けて考えることなど不可能である、どこかの馬鹿な政治家が日本の核武装を唱えているが戦前に日本が中国に何をしたかを考えればおとぎ話である、米軍が何のために日本に駐留しているのか考えてみるまでもないことだ。日本は札付きの前科もちのレッテルはまだ有効である。

中国にも祖国統一勢力は存在する、その勢力が中国の強大な対外政策を維持しているのでありそれは共産党とは別の組織だ。対日政策もそこで決定され下部に下りてきて対日外交が展開される。今のところ対日政策は一枚岩ではないということだ、関係する各部門の綱引きがあり流動的である。ただ日本のように売国奴の政治家はいないので内部抗争だけで済むだろう。中国の内部抗争は激烈で血で血を洗う争いになると簡単には収まりがつかない。そこは日本とは違うところで最後まで争わないと決着はつかないことになる。
1908年、日露戦争でロシアから取り上げた船に600数十名を乗せて南米のブラジルに最初の「棄民」が送り出された。これをモチーフにしてブラジルのチズコ・ヤマザキ監督が映画「ガイジン」を完成させた。

この題名のガイジンは日本人のことである、日本人がブラジルに渡りそこの現地の人間がガイジンであったために真実のガイジンとは実は自分たち日本人の意味だった。日本人の立場をひっり返せばブラジル人にとってのガイジンとは日本人のことだという意味だ。ヤマザキ監督は日系二世でもう70歳に近い、日本の海外移民は棄民であることに気がついている。日本の国策として余剰な国民を海外に引き取ってもらう感覚は現代では理解できる人はほとんどいない。

私の家にはスカパーテレビがある、ハリウッド映画を見るために契約したが多数のチャンネルの中に在日日系人向けのブラジルチャンネルがあった、妻は純粋なブラジル人なので日本のテレビはほとんど見ない。今日ガイジンが放映された、現地のポルトガル語と日本語が入り混じった映画で秀作である。
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ジャズピアニストで作曲家のオスカー・ピーターソンは、カナダのトロントの彼の家で腎不全のために82才で死去した。ピーターソンはジャズ界の最も賞賛された音楽家のうちの1人であって、彼の「速く遊んでいるジャズ」は巨匠スタイルとして有名だった。

彼は200曲以上のアルバムを製作している、そして8つのグラミー賞を獲得した。1997年には生涯の「名誉達成」の賞を贈られた。彼は19才で彼の最初のシングルをリリースしている、彼は偉人、例えばディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、デューク・エリントンとナット・キング・コールに並び称されている。カナダのソングライターの栄誉の殿堂は先月、2008年にピーターソンにその創設者の賞を贈ることになっていると発表した。

これは「音楽の巧みさと精力的なパフォーマンス」を示した「才能のあるジャズピアニストと作曲家」を祝うことになっていると発表された。ピーターソンはモントリオールで労働者階級の躾を受けて育った。彼が14才のとき、カナダ放送協会(CBC)によって組織された才能コンテストで優勝している。

「世界は重要なジャズのプレーヤーを失いました」と、ピーターソンの親友でオンタリオ州ミシソーガ市長のハゼル・マッキャリオンがCBCニュースに話した。「彼は最後の数ヶ月はひどく具合が悪くて、そしてそのまま行ってしまいました」と彼女が付け加えた。彼のスタジオで一緒に仕事したメンバーですでに鬼籍となったパートナーは、エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロング、カウント・ベーシーとスタン・ゲッツなど草々たる顔ぶれである。

カウント・ベイシーは、かつてピーターソンをエリントンが「キーボードのマハラジャ」として彼に言及する間、「私がこれまでに聞いた最高の象牙の箱を持っている人物」と誰かれに話している。即席の演奏に才能があって、ピーターソンは2005年にライブフリー形式のジャズがどのように「出てくる偉大な美人の瞬間」を可能にすることができるかについて詳しく話している。彼はカナダで国の最も高い一般人の名誉の誉れの対の一方を構築した。そして彼は切手に印刷された初の生きているカナダ人だった。ピーターソンには4回結婚している、5人の子供たちはいずれも彼の初の妻との間に生まれている。


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