|
アナマ桟橋での歓迎
地元の子供達の歓迎
日本人墓地の清掃
斜古丹幼稚園
斜古丹幼稚園
対話集会
アナマ桟橋での見送り
終戦から64年という歳月が流れた、政府はロシアとの間に「ビザ無し交流」という新しい企画を設けて国民を北方の旧領土に送り出している。私が日本政府は常識があるのかと疑問を出したのには理由がある。IBから「北方領土に白人がいることが、根本的に間違っている!!!!」と異議が出された、これは歴史的な経過を知らないから言える事で日本政府の主張と同じで非常識この上ない。戦争の結果で領土は移動する、これは世界中で同じで日本だけの例外は認められない、それを理解している日本人はごくごく少数である。日本で北方領土と言われる古い領土を管轄しているのはロシアのサハリン州で州議会が強力な発言権を有しロシア政府も無視できない、日本が主張しているのは2島、3島返還要求でサハリン州議会は「非常識な要求である」とこれを突っぱねている。旧ソ連は北方領土を占領し本土から新しい移住者を募り補助金まで出している。 そして64年が経過して島では新しい歴史が刻まれた、貧しいがロシア人は島を返せと日本が要求していることさえ知らない、昔からロシアの領土でそれを返せとは日本人はとうとう頭がいかれたか、くらいにしか思っていない。 ロシアは皇帝の時代から南下政策を採り続けやっと日本海に到達した。そこで北海道まで手に入れるつもりでWW2で上陸しようと試みたが思わぬ横槍が入った、アメリカのマッカーサー元帥である。戦後に元帥は在日していたソ連軍の駐日代表を呼び出し「ソ連が北海道上陸を狙っているというのは本当か?」と質した。「モスクワからはそう聞いていますがね」と将軍は答えた。元帥は少しも慌てず「それならば米軍は北海道でソ連軍をお迎えすることになるがモスクワにそう伝えてもらいたい」 顔色を変えたのは将軍で直ちにモスクワに打電した、ナホトカ港には兵士を満載した船団が待機中でモスクワはアメリカと事を構えるのはよしとしなかった、それで上陸作戦は中止された。それで北海道はドイツの二の舞は避けられた、そういう歴史的な経過も知らず北方領土はわが国の領土とは笑わせる。北海道にロシア軍がいないのは幸運である、国際政治というのは些細な事実は歯車で噛み砕く残酷なものである。「呼び戻そう北方領土」の政府のキャンペーンは非常識だと断定せざるを得ない、日本人の国際感覚は今問われている、世界から笑いものになるようなことを平気でやってシラッとしているのは「厚顔無恥」である。 「日本の常識は世界の非常識」これくらいは覚えておいて損はないだろう。
|
時事放談
[ リスト | 詳細 ]
|
世界的な名優である仲代達矢 古い映画なので若い人は知るはずもないが、五味川純平の力作を映画にした「人間の条件」は日本の昭和史を赤裸々に、また歴史文学を語るものとしてお進めである。 昭和の日本が目指した中国大陸の野望を赤裸々に、また日本人が発狂していく顛末が見事に描かれていて、現代人が知らない日本が見えてくる。歴史とは好き勝手に解釈するものではない、ただ事実のみが重要でそれを映像で示したのがこの映画である。昭和の日本人は欧州とアメリカに翻弄されて目的を失っていた、そして大陸への進出(侵略)を大義名分として掲げて、日本の武力進出の正当化を図った。 中国大陸は混乱の極みにあった、そこで日本の財閥と軍部と一部の政治家は大同団結して大陸への足がかりとして満州を狙った。国内では満蒙開拓団が編成され、国民は大陸へと出かけるのが本筋とされた。そこには中国は外地などという考えは微塵もなく、支那人は蹴散らせ、邪魔をするようなら遠慮なくぶっ殺せと言われた。こうして満州開拓が始まったのだが、映画では日本企業の残酷さ、非情な企業精神の発露を容赦なく浮き彫りにしている。開拓には多数の人間が参加している、関東大震災でアナーキストと呼ばれた大杉栄と伊藤野枝を殺害した憲兵隊の甘粕正彦や、前総理大臣の安部晋三の祖父である岸信介など東京裁判で雁首をずらりと揃えていた人物がどういう悪事を働いたか見事に浮き彫りにした。 日本は中国大陸で好きなように悪事を働くのを誰も止めなかった、ところが欧米は見事に注目していた、まず日本が満州を侵略したことに警鐘を鳴らしている、欧米は自ら中国進出は無理だと知っていた、多数の中国人の反乱で膨大な死者を出しアヘン戦争の二の舞は御免だと思っていた。ところが日本は違っていた、支那人はどんどん殺せと吹聴し最大で200万もの軍隊を投入したのである。 企業、軍、政治家の企みは成功したように見えた、しかし西洋は満州の張作霖爆破事件で日本の企みだと知っていた、そこで英国のリットン卿を首班とする調査団を送り込んできた。さらに再調査の名目で再び調査団を派遣した、まずい展開になった、このままでは日本は窮地に立たされる、そこで日本が考え出した窮地を救う案とはなんとドイツ、イタリアとの三国同盟だった。日本人はこの時点で盲目になった、後は暴走機関車でまっしぐらに坂道を転がり落ちるだけだった。 昭和に入ってからの日本はまるで流行性ウイルスに冒されたごとく戦争だ戦争だと叫んでいた、それはナチスドイツの大進撃に日本人全部が完全に虜になり敵は欧米なりが標語とまでなった。軍国ファシズムの台頭で、ドイツ人と同じく日本人全員が狂いだした、戦争反対を叫ぼうものなら「非国民」扱いでそれだけで村八分にされた。人間は簡単に狂うものでそれは軍部の責任ではなく、国民自らが求めた日本の落日の序曲だった、だから戦争では戦犯というのは国民全部と考えるのが正しい。 作者の五味川はそういう日本人の人間としての内面にスポットを当て中国人との対比で「人間の条件」を書いている。主人公の梶が戦争を鋭く批判したのに対して、友人の佐田敬二は「戦場では俺は古参兵を最も信頼するがね」と答えている。どうにもならないジレンマに陥った梶はソ連軍の捕虜収容所を脱出して満州の荒野の中で猛吹雪の中で妻の名前を呼び映画は終了する。 人間が人間でなくなった昭和の時代では人の命は二束三文で叩き売りされた、戦争が終了しても人は覚醒するどころか益々混迷の度を深めている。五味川はそういう日本人に警鐘を鳴らすために書いたとしか思えない、優れた作品だが現代人には何処まで通じるのか疑問が残る。 人間の條件 (映画) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 人間の條件 監督 小林正樹 製作 小林正樹 若槻繁 脚本 松山善三 小林正樹 稲垣公一 出演者 仲代達矢 音楽 木下忠司 撮影 宮島義勇 配給 松竹 公開 1959年〜1961年 上映時間 9時間31分 製作国 日本 言語 日本語
表・話・編・歴
人間の條件(にんげんのじょうけん)は日本映画。全6部構成で、1/2部は1959年(1月)、3/4部は同年(11月)、5/6部は1961年に公開された。五味川純平の同名小説の映画化。優秀映画鑑賞会特選 文部省選定 都教育庁特選 都民映画コンクール金賞 第23回ベニス国際映画祭 サンジョルジュ賞(銀賞) パンネッティ賞(映画批評家賞) スタッフ 基本情報に含まれないスタッフは以下の通り。 原作 - 五味川純平 中国語監修 - 黎波 ロシア語監修 - 小泉健司 美術 - 平高主計 録音 - 西崎英雄 照明 - 青松明
キャスト
梶 - 仲代達矢 美千子 - 新珠三千代 影山少尉 - 佐田啓二 金東福 - 淡島千景 楊春蘭 - 有馬稲子 珠代 - 山本和子 丹下一等兵 - 内藤武敏 弘中伍長 - 諸角啓二郎 寺田二等兵 - 川津祐介 朝鮮に行く兵長 - 高原駿雄 匹田一等兵 - 清村耕治 井出一等兵 - 広沢忠好 達子 - 岸田今日子 梅子 - 瞳麗子 石炭屋 - 上田吉二郎 石炭屋の妻 - 石本倫子 老教師 - 御橋公 老教師の妻 - 南美江 雑貨屋 - 坊屋三郎 雑貨屋の妻 - 中村美代子 永田大尉 - 須賀不二男 桐原伍長 - 金子信雄 福本上等兵 - 平田守 避難民中年の女 - 菅井きん 避難民少女 - 中村玉緒 避難民少年(弟) - 真藤孝行 朝鮮人[1] - 成瀬昌彦 小椋上等兵 - 陶隆 洞窟隊長 - 石黒達也 避難民・長老 - 笠智衆 避難民・中年の女 - 高峰秀子 吉良上等兵 - 山内明 捕虜隊長野毛少佐 - 二本柳寛 輸送将校 - E.キーン 工藤大尉 - 城所英夫 日野准尉 - 多々良純 土肥中尉 - 松本克平 橋谷軍曹 - 内田良平 小野寺兵長 - 千秋実 吉田上等兵 - 南道郎 板内上等兵 - 植村謙二郎 新城一等兵 - 佐藤慶 円寺二等兵 - 小笠原章二郎 鳴門二等兵 - 藤田進 小原二等兵 - 田中邦衛 佐々二等兵 - 桂小金治 見習士官 - 安井昌二
概要
主人公の梶を通して戦争における人間性を描いた作品。当時の多くのスター俳優/女優をキャスティングした大作映画。全6部の総上映時間は9時間38分に及び、制作当時は商業用映画としては最長の長さであった(ギネスブックにも掲載されていた)。また、本作の全6部を一挙に上映したことが、日本の映画館でのオールナイト興行の走りといわれている。旧満州帝国を舞台とした作品であるが、当時の国際情勢から本来の舞台である中国でのロケは不可能だったため、主に北海道で撮影が行われている。 戦闘シーンは陸上自衛隊の協力で撮影された。劇中に登場する九九式短小銃は、分解清掃や戦闘の場面では同自衛隊から貸し出された実銃が使用された。射撃の場面では空砲を使用している。 第4部の戦闘シーンでは同じく自衛隊の協力でブローニングM1919重機関銃が登場する。ソ連軍との戦闘シーンでは、草で擬装され輪郭を隠したM4中戦車がソ連軍戦車として登場している。 ソ連兵が装備するシュパーギンPPSh-41短機関銃の小道具が登場するが、第4部では弾倉が逆に付いている。第5部の発砲シーンでは実物に近い形の物が登場するが寸法が大きい。
|
|
世の中には常識の嘘の100や200は存在するが、日本政府ほど堂々と嘘を並べて国民を鼓舞する政権を他には知らない、戦争によって変更された領土は再び戦いを交えて取り返すしかないというのが世界の常識である。それなのに日本政府は堂々と非常識なことを国民に宣伝してそしてロシア政府とも交渉を行おうとしている、これは仰天すべき事柄でまったく話にはならない。 1945年8月9日ソ連軍は満州国境をなだれを打って超えた、ついでにナホトカ港から大船団を日本の北方海域にだして瞬く間にこれを占領した、ソ連はついでに北海道も占領するつもりで大船団の兵士を満載して向かせる予定だった。しかしここで思わぬ横槍が入った、マッカーサーが日本に到着してソ連が北海道を狙っているという情報を手に入れていた、それで日本在住のソ連軍司令官を呼び出し脅しをかけた。 この様子はグレゴリー・ペック主演の映画「マッカーサー回顧録」で詳細に述べられた。日本占領はアメリカの仕事でソ連ではない、間違えるなと脅迫している。この事実から北海道はソ連占領から免れた幸運というにはあまりにも歴史の重みを感じさせられる出来事だった。 戦後にアメリカが乗り込んできて日本をがんじがらめに縛り付けた、民間機の飛行も米軍の飛行の邪魔にならないように設定された、自衛隊の行動は米軍と同時で単独で動けないように決められた。それはアメリカの歴代政権が踏襲した政策で、今後も大きな変化はありそうもない。一方ソ連は戦後に巨大な土地を手に入れた、それをもてあましてゴルバチョフ政権の時代に正直にソ連邦はもはや維持できないと述べた。そしてソ連から各連邦を離脱するように進めた、巨大な図体を維持できなくなり共産主義政権はこうして自己崩壊してしまった。 一方戦後の自民党政権は長期にわたり国民は文句も言わず唯々諾々と従っている、政権を維持できる野党を育てていない状態で政治をやらせて外交で大恥をかいている、それが北方領土である。北方領土問題を「常識」と考えてはならない、あれは非常識で日本の大部分の考えは世界の非常識である。それが理解出ぬ人間は人間ではない、私は心に病を持つ異常人間と断定する、日本の世論は狂気に満ち溢れている。
|
|
戦争の暗い影は地球をグルっと回った南米でも繰り広げられた、この悲劇は1945年の終戦の後におこったものでブラジルでは有名な「勝ち組と負け組の伝説」と呼ばれている。 ブラジルでは1908年に第1回目の移民船笠戸丸で初めて日本人がブラジルの大地に渡っている。現地の法律でアフリカの奴隷が正式に禁止されたので、日本人はその労働力の穴埋めに当てられた、当然奴隷代わりだから労働は過酷で熱帯の疫病も加わり日本人の状態は最悪であった。そこに第二次世界大戦が勃発、ブラジルは連合国側について参戦した、その時点で日本人は敵側の人間と称された、道を歩くのも3人以上は禁止、日本語の会話も禁止された、短波ラジオも没収された。 なにせ地球の反対側だから情報は交差した、どの情報が正しいのかさっぱり分からない、戦争は終了したと現地の新聞は伝えた、ラジオも同じことを伝えていた、そこから現地日本人の悲劇が始まった。交差する情報を信じる人間と信じない人間に二つに分かれた、「あれは敵側の宣伝で騙されるな」と主張するグループと「いや日本が敗北したのは事実だ、これほど世界中でデマを流すとは信じられない」と主張するグループの対立で一発即発の事態に陥った。 これを現地に住み事態を見守った日本人は「勝ち組と負け組の戦争」と呼んだ。日本の敗北を真摯に受け止め敗戦を信じた人間の中に日本陸軍退役の大佐がいた、彼は日本は負けた、その敗北を正しく受け止めようと負け組の指導者となった。敵の宣伝に騙されるなと信じない勝ち組にとってはこれは裏切り行為で許すべからざる人物だった。現地で生まれた日系二世を中心としたグループがいた、ある日退役大佐の自宅を訪れた、本人が応対のために出ると「大佐失礼します」と叫ぶと拳銃一発が発射された、大佐は声もなくどっと倒れた。それが口火となり勝ち組と負け組の間で激しい殺し合いが始まった、戦争が終わった後の話だ。 戦争中にはブラジルでは様々ないかがわしい人物が横行して現地日本人から金品をふんだくる行為があった。ある人間は「サントス港に日本の潜水艦が密かに浮上する、国民を日本に連れて行くためだ、日本政府は国民募金を呼びかけている、志だけでもよい、そうすれば日本はこの戦争に勝利できる」その言葉を信じた人間は大金をはたいて募金に参加した、騙した人間はそのまかドロンしたということだ。この手の話は私は現地で腐るほど耳にした、老人はこうつぶやいた「この話は日本人の恥だから誰も話したがらない、誰に聞いても話してはもらえんじゃろうて」日本人の心に傷になっている、現地の同人雑誌にたまに小さく乗るだけで現地では未だにタブーである、この勝ち組と負け組の戦争で20数名が殺害された、ブラジル政府は犯人を逮捕してリオの沖合いにある「監獄島」に島流しにした、見せしめの意味合いが強い処置だったと言われている。
|
|
ドナルド・キーン(日本文学研究者) 捕虜に教わった横光利一 アメリカ海軍の対日情報担当将校として先の大戦に参加していた。日本語文献の翻訳のほか、捕虜になった日本人の尋問が主な任務であった。十八歳のとき、タイムズスクエア古本屋で出会ったアーネスト・ウエイリー訳の『源氏物語』、そしてコロンビア大学で受講した角田柳作先生の「日本思想史」、当時は日本研究に人気がなく私と先生の一対一の講義が数週間続いた、ーーーに触れていたこともあり、私は日本語に親しんでいた。だから海軍日本語学校の存在を知るや海軍省に手紙を送り、入学した。 そして二十歳のときに海軍ミニッツ提督司令部に少尉とし配属されたのであった。1943年二月のことである。私は日本人に関する多くの文献に接した、有名な「戦陣訓」の「生きて慮囚の辱めを受けず」という一節や「日本人は狂信的で、平気で命を捨てる」という言説。だが、終戦までの二年間、さまざまな日本人捕虜に出会い、それらのテクストに書かれている日本人像は、多くの場合真実に基いていない、ということに気がつかされた。四十五年の四月一日沖縄上陸作戦に参加した私は読谷(よんたに)に到着した。 読谷から程ないところに捕虜の収容所があった、真珠湾の指令本部では「オキナワには毒蛇がたくさんいるから気をつけろ」などと言われ恐怖に慄いていたが、そんなことはなかった。河を渡って辿り着いた鉄条網の中に、二人の日本人がいた。陸軍中尉と海軍少尉だった。だが、陸軍中尉は「俺、捕虜第一号だろう?」となんとも陽気で朗らか。「捕虜になることは恥」と叩き込まれているはずと思っていた私は意表を突かれた。彼は戦後私に手紙をくれたが、やはり「捕虜第一号です」と書き添えてあった。一方で海軍少尉は捕虜になったことをやはり恥じているようで表情もムスッとしたままだった。 ところがある日、「敵としてではなく、お互い一学徒兵として話がしたい」と話しかけてくれた。「自分に生きる理由はあるのか」と問いかけられ、二十三歳の私に語るべき世界などなかったが、「生きて日本に帰り、戦後の日本のためになれ」ということは伝えた。彼が生きて東京にいることを知り、戦後こちらから手紙を出すなどしたが返事は来なかった。一度NHKの番組で彼を訪ねたが、入院中で再開することは叶わなかった。彼の妻が「主人は戦争の話はしない人でした」と語っていたが彼にとっては私との出会いも懐かしむようなことではなかったのかもしれない。 ただ彼の自宅には、私の「日本との出会い」が置かれていた。私の名前は覚えていてくれていたのだろうか。日本に対する敵愾心がなかったため、私の軍務は「尋問」であるはずなのに、いつも自然と文化交流になってしまった。捕虜が不意に何かを漏らすことを期待して、わざと文化的な質問をしているのか、と探ることもあったが、こちらは純粋に聞きたいことだけを聞いていただけである。いま日本で読まれている小説家は誰か」と尋問して、はじめて横光利一の名前を教えられた。すぐにハワイ大学の図書館で「機械」を借りて読んだ。ある海軍将校の捕虜は私の「尋問」に、好きな音楽としてベートーヴェンの「交響曲第三番」を挙げた。 私は彼らにレコードによる演奏会を聞かせたいと思いついた。そしてホノルルで日本の流行歌のレコードを何枚かと、「エロイカ」の五枚組SP、そして新しいレコード針を買い求めた。会場は音の響きがよいシャワールームにした。日本の流行歌が聞けると集まった日本人たちだったが、ベートーヴェンが始まってもほとんどそのままの残り、一人のアメリカ人と六、七十人の日本人は静かに音楽を聴いていた。演奏が終わると私はたくさんの質問を受けた。日本人はこれほどまでにクラッシックに造詣が深いのかと感動した。 日米開戦前にディアナ・ダーヴィンが主演し、ストコフスキーが振った映画「オーケストラの少女」が日本でも公開されていたから、ファンが増えていたのかもしれない。「指揮者はあの映画と同じ人か」というものから「レコード針はどんなものを使ったのか」という専門的な質問まであった。灯火管制下の夜だった。真っ暗闇の中収容所から司令部へ向かう車の中で、古い小型の蓄音機とレコードを私は大切に抱えた。運転している将校へ馬鹿正直に「日本人に音楽を聞かせたのだ」と告げるとひどく怒られた。今となっては指揮者がストコフスキーだったとかトシカーニだったかおぼろげだ。 どんな針を使ったかも憶えていない。ただ、レコード針の美しい輝き、そしてテクストの外で「生きている」日本人たちが、私とともに得がたい時間をともにしてくれたこと、それだけは生涯忘れ得ぬたしかなことである。 文芸春秋九月特別号より抜粋 視点:論点 ドナルド・キーン氏は日本在住の優れた歴史文学者である、多数の本を出版している、優れた作品が多数ある。現在の日本はその歴史解釈ででたらめである、歴史とは解釈するものではない、事実が何であったかを検証するもので、そこに歴史文学者の出番がある、ドナルド・キーン氏はその分野では日本有数で文学的な視点で歴史を教えてくれる。 現代は「歴史の勝手な視点・勝手な解釈」が主流になっているが、それだと正確な歴史の学問が歪められて間違った結論を引き出してしまう、昭和史は依然謎に包まれている、それは戦後の日本政府が蓋をして国民の視点から遠ざけてきたからだ。それを厳しく文学的な見地で分かりやすく説明したのがドナルド・キーン氏などの功績である。
|



