時事放談

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岸朝子(食生活ジャーナリスト)

終戦で自殺した叔父
昭和十六年の開戦の日のことは今でもよく覚えています。冷え込んで空気が冴えわたった朝、「我が軍はハワイを・・・・」というアナウンスとともに軍艦マーチが大音響で鳴り出したのです。私も周囲と同じような軍国少女でしたから、正直に言って胸が鳴りました。そして女史栄養学園に通っていた昭和十八年、二十歳の時に陸軍の中尉とお見合い結婚をしました。

この結婚は不思議な縁によるもので相手を決めたのは私の叔父でした。私が「戦争」と聞いて一番強く思い出すのは、戦争と共に生きたとも言うべきこの叔父の人生です。陸軍大佐だった叔父の親泊朝省は、明治三十六年に沖縄で生まれ、大正十四年に陸軍士官学校騎馬兵科を主席で卒業しました。満州事変に騎馬兵として出兵し、昭和七年の綿州作戦で武勲を立てています。

澤地久枝さんが叔父を描いた『自決、こころの法廷』という本によると、当時の叔父は二枚目で鍛え上げられた体つきをしていて、首里の町を歩けば女学生たちが振り返るほどだったそうです。叔父は昭和十六年十二月の香港攻略戦に陸軍第三十六師団の参謀として参加しましたが、その時の部下だったのが後の私の主人となる岸昭正でした。その後ガダラカナル島の戦いでも、二人は同じ部隊で戦います。昭和十八年二月に帰国した後、叔父は朝日新聞の取材を受けて「餓島」とも呼ばれて多くの戦死者、餓死者を出したガダルカナル島の戦いについて語っています。「一番兵隊が余計食ったの日が、一日僅か一合で、それが三日とつづいていない。3勺四勺という日が、何日も続いた。(中略)骨と皮ばかりになって、真蒼な顔をして、全く人間でないような顔をしていても、眼だけは爛々と光らして、腹の底から、一ツ、軍人は忠節を尽くすを本分ととすべし・・・・と奉誦しているのである」(『自決 こころの法廷』より)。

こうして極限状態の戦場で生死を共にした主人を「姪の婿に」と見初めたのでしょう、「この戦いが終わったら君は結婚することになる。相手はこの家にいるので、東京に戻ったら連絡するように」と私の実家の電話番号を添えた手紙を書き、陸軍工兵学校に入るため戦地から東京に戻る主人の行李に入れたのです。ところがその荷物は主人とは別の船に積まれ、途中で敵の爆撃に遭って海の中に消えたため、幻の手紙となってしまいました。東京會舘で結婚式を挙げたのは昭和十八年十二月、仲人はもちろん叔父でした。

そのころは戦局も悪化しており、私の友達中には防空壕で結婚式を挙げたなんていう人がいたほどです。ガダルカナル島から帰国した叔父は、マラリアにかかって入退院を繰り返していたこともあってか、昭和十九年二月に大本営報道部員となり、新聞はもちろん雑誌にも寄稿して多くの文章を残しました。昭和二十年になると「頑張るということが唯一の道となりましょう」「戦勝は苦難に耐えたもののみが克ち得るのです」などど、国民を鼓舞する文面が多くなってきました。終戦の四、五日前には「最後の兵まで戦う」と国民に書いていた叔父ですが、実は沖縄に米軍が上陸した時に私に「戦争は負けるよ」と要った事がありました。

心でそう思っていても、国民の士気を高めておかなければ国はばらばらになってしまうと考えていたのでしょうか。終戦を知ったときにまず私が思ったことは「叔父さんは生きてはいられないのではないか」ということでした。叔父が自ら命を絶ったのは、昭和二十年九月二日に戦艦ミズリー号の上で降伏調印式が行われた翌日でした。おそらく明け方だったと思います。文京区小石川の自宅で、小学校四年生の娘、小学二年の息子にはサイダーに混ぜた青酸カリを飲ませ、妻と自分は拳銃で、一家四人で自決したのです。

私が母から聞いた話では、叔父は家族三人を送った後でその遺体を整え、最後に自分の頭を拳銃で打ち抜いたそうです。敗戦で少なからぬ人が自宅や皇居の近くで自決しました。私も目にしたことがあります。でも家族全員での自決はあまり聞いたことがありません。叔父も最後まで悩んだでしょう、亡くなる数日前には私の父に「子供たちをよろしく」と連絡を入れていました。父に聞いた話では、八月15日に阿南雅幾大将自決された時に、阿南さんの秘書を兼務していた叔父は「お供させてください」と頼んだそうです。

すると阿南さんは「みんなが騒ぐといけない。調印が間違いなく終わるまで押しとどまってくれ」と言われたそうです。叔父はその言葉を最後まで守ったのですね。私が戦争を通じて学んだことがあるとすればただ一つ、「生きる」ということです。戦争を体験すれば、二度と戦争をしようなんて思わない。叔父の人生もまた、生きることの大切さを私に教えてくれたと感じています。
私の友人の女性がいる、彼女は日本の男に騙され地球の反対側のブラジルからやってきた、37歳で子供は8歳である。いい加減な男は世界中にいるもので日本もその例に漏れない、彼女はアフリカ系ブラジル人で美人だ、最近旦那と離婚したいと自宅を出て一人住まいを始めた、それで我々夫婦はなんとか彼女の力になりたいと奔走を始めたばかりである。

今日彼女と奥さんは町に出かけた、ところが帰宅した奥さんがとんでもないことを言い出した、「彼女に仕事を見つけた」と叫んだ、内容を問いただすと「ナイトクラブでホステスの仕事」と答えた。私は絶句して何も言えない、一体どうやってホステスの仕事を見つけたのかと問い質すと近所に有名なロシアンパブがある、そこで入って仕事はないかと聞くと「どちらの女性?」もちろん若い女性ですと答えるとOKの返事を貰った。本日から仕事だと彼女は聞いて自宅に戻り衣装らしきものに着替えて店に現れた。

ところが店長の面接がまだで彼女が現れて年齢が37歳と聞くと店長は即座に「駄目だ」と答えたそうである。それで彼女はがっかりして再び自宅に現れた、「よかったのかも、あんな店はヤクザが仕切っていて素人衆は怖くて近づけない」と慰めた。「あの店は芸能プロが入っていてブラジルからサンバカーニバルの6人の女を使っているのよ、私は唐が立ちすぎて駄目だって」そう言いながら彼女は肩を落とした。

彼女は現在それどころはないのである、旦那との離婚調停が暗礁に乗り上げてにっちもさっちもいかない、それに子供の親権問題は別で児童相談所ともめている最中である、日本では外国人と日本人の夫婦の場合日本人の肩を持つように周りが動く、それで収まる調停も不発に終わる可能性が大であると知った。子供は女の命である、しかし父親は子度を隔離して合わせもしない、それで激怒した彼女は父親を殺すとまで叫ぶようになった。それはまずいよ、とにかく間に弁護士を立てて父親から子供を取り戻すことが先決だと諭した。

終戦記念日に思うこと

本日64回目の敗戦記念日を迎えた、終戦と敗戦とどこが違いかと問われれば何も変わらず戦争に敗北した日である、狂気の中にいた日本人がハンマーの一撃を脳天に食らって覚醒した日でもある。

日本人はよくドイツ人を「あれはナチスドイツに責任を被せてドイツ人は反省などしていない」というとんでもないことを言う人間をよく見かける、これこそ日本人の本質を吐露する出来事で、日本人がそうだからドイツ人も同じだと言うに等しい。元々頭のおかしい人間が他人を「チチガイ」扱いにすればどうなるか笑える。人は自らの行動を姿勢を正しくして見つめてそれで他人の行動を批判できる、狂人の戯言は感心できないものである、毎年国の追悼式が行われる、そこでは国民は「心を新たにして」犠牲者の供養と二度と再びを宣言するが、世間一般ではそうでもないようである。

戦争中の日本人は正気ではなかったと何度も書いたが、それをどうしても認めない人間がいる。戦争というのは正常な精神状態でできるものではない、狂気の出来事だから人間もそれに合わせて狂気だからできるのである、この単純明快なことを理解できないとは正気とは思えない、日本人が狂気の中にいたことは世界中が知っていることだ、真珠湾を攻撃し仏印に大兵力を投入して占領した事実を知らないとは言えまい、それとも都合よく戦争の記憶は忘れてしまったのか、これこそご都合主義というものであろう。
富田メモの発見
「富田メモ」も参照

2006年7月20日に、1988年当時の宮内庁長官であった富田朝彦が昭和天皇の発言・会話をメモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを示す発言をメモしたものが残されていたと日本経済新聞の1面で報道された。このメモ(富田メモ)は、富田朝彦の遺族が保管していた手帳に貼り付けてあったものである。以下、そのメモの記述の一部を示す。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか易々と、松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている。だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ。「松岡」とは、松岡洋右元外務大臣、「白取」とは、白鳥敏夫元駐イタリア大使、「筑波」とは、靖国神社宮司で1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった筑波藤麿を指すと推察される。1965年6月30日の靖国神社の総代会で合祀する方針が決定されたが、合祀の時期は宮司に一任された。合祀強行派の中には、「戦争責任者として合祀しないとなると神社の責任は重いぞ」と主張する者がいたが、当時の宮司であった筑波藤麿は「ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい」と引き取り、結局任期中に合祀を行わなかった。「筑波が慎重に対処してくれた」とは、このことを指すと考えられる。「松平」とは終戦直後の最後の宮内大臣であった松平慶民、「松平の子」とは慶民の長男で1978年にA級戦犯を合祀を決断した当時の靖国神社宮司、松平永芳(1915-2005 元海軍少佐・一等陸佐)を指すと推察される。


富田メモの発見を受けた議論
メモの内容が、本物であるかどうかは現在のところ不明である。このメモを昭和天皇の意思を正確に反映した信用に足る史料とみなしている論調もある一方、現段階ではメモ自体の真偽を含め内容に関する検証が行われておらず、また、天皇自身の参拝こそ行われていないものの、1975年以後も、春秋の例大祭などにおいては勅使が遣わされていることなど矛盾や疑問点を指摘し、信用に足る史料との断定は早計であるという意見を出すものもいる。

その発言部分のメモが、手帳に貼り付けられているものであり、また文字のインク・用紙の質という点から真偽を疑う声がある。また本物であるとしても、徳川義寛侍従職参与(当時)の発言ではないかと見る向きもある。具体的な個人名を挙げていること、昭和天皇独白録における東條英機への感想との相異があることから、A級戦犯全体への論として扱うべきはないという見方もある。

仮に富田メモが天皇の発言を反映しているとしても、メモの発見によって靖国参拝を取りやめたりA級戦犯の分祀をするようなことがあるならば、天皇の発言に政治的影響力があることを内外に示す結果となってしまうとしてこのメモを無視せよとの意見もある。結果的に、このメモが発見されたことで、解決への模索が難しくなったと主張するものもいる。同じことは中国、韓国との外交においても言えると主張するものもいるが、逆にこのメモによって参拝を中止しても中国、韓国の圧力によるものではないから中止しやすくなったと主張するものもいる。


富田メモ研究委員会による最終報告
富田メモ(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は2007年4月30日、最終報告をまとめた[1][2]。(以下、「」内は同記事よりの引用。)

同委員会は2006年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に2006年7月、日本経済新聞が報じたA級戦犯靖国合祀に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。また昭和天皇が靖国参拝に対し、「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」(1988年5月20日)と書いた部分も発見され、 同委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と判断した。最終的に富田メモは、富田家が公的機関への寄託などを検討している。


合祀されているA級戦犯
靖国神社に合祀されているA級戦犯は以下の14人である。

刑死した者
東條英機(内閣総理大臣・陸軍大臣・陸軍大将・絞首刑)
広田弘毅(内閣総理大臣・外務大臣・駐ソヴィエト大使・絞首刑)
土肥原賢二(陸軍大将・奉天特務機関長・絞首刑)
板垣征四郎(陸軍大将・支那派遣軍総参謀長・絞首刑)
木村兵太郎(陸軍大将・ビルマ方面軍司令官・絞首刑)
松井石根(陸軍大将・中支那方面軍司令官・絞首刑)
武藤章(陸軍中将・陸軍省軍務局長・絞首刑)

刑期中に病死した者
平沼騏一郎(内閣総理大臣・枢密院議長・終身刑)
白鳥敏夫(駐イタリア大使・終身刑)
小磯国昭(内閣総理大臣・朝鮮総督・陸軍大将・終身刑)
梅津美治郎(陸軍大将・関東軍司令官・陸軍参謀総長・終身刑)
東郷茂徳(外務大臣・駐ドイツ/駐ソヴィエト大使・禁固20年)

戦犯指定を受けながら判決前に病死した者
永野修身(海軍大臣・海軍大将・海軍軍令部総長)
松岡洋右(外務大臣・南満州鉄道総裁)

後記:
平成19年度の天皇誕生祝賀会のご挨拶で天皇は次のように述べられた、「国民の皆さんは昭和史を正しく学ばれて、あの惨劇と困難を忘れはなりません、それは私の真実の叫びです」この言葉の意味するところは説明するまでもないだろう。昭和天皇がA級戦犯を勝手に合祀した事実に激怒した、それ以来靖国神社への天皇参拝は永遠に中止された、国民の勝手な昭和史への解釈に天皇は「切れた」のである。昭和天皇と戦争指導者の仲たがいは有名で、戦争が敗北すると分かって、それで最後は天皇にゲタを預けるやりかたにどうにも我慢がならなかった、その上A級戦犯の勝手な合祀とくれば、昭和天皇は無視された上に勝手に利用された操り人形ではないか、それで息子の天皇のあの言葉が出てくる、人間として当然過ぎる身上であろう。
A級戦犯合祀問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
靖国神社問題 > A級戦犯合祀問題
A級戦犯合祀問題(-きゅうせんぱんごうしもんだい)とは、A級戦犯が靖国神社の祭神として合祀されている問題のことである。

問題の経緯 [編集]
太平洋戦争(大東亜戦争)後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において処刑された人々(特にA級戦犯)が、1978年10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として合祀されていた事実が、1979年4月19日に報道されて国民の広く知るところとなった。

戦前に軍国主義の立場から利用されたと国会答弁でも指摘された靖国神社が、A級戦犯を昭和殉難者と称して祭神として合祀しており、「国策を誤り、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人びとに対して多大の損害と苦痛を与えた」とした1995年(平成7年)8月15日の社会党の村山富市首相談話に基づいた政府見解に反するとして問題視する意見がある。また、天皇の靖国神社参拝は1975年11月21日が最後となっている。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたとの意見が指摘されていた。

近隣諸国の反発
対外的には、1964年、日本社会党の佐々木更三委員長が毛沢東国家主席に「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶したところ、「何も申し訳なく思うことはありませんよ。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではありませんか。皆さん、皇軍(日本軍)の力無しには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう」と半ば皮肉まじりに発言している。1978年のA級戦犯合祀時点での諸外国からの抗議も皆無だったなど比較的穏健な態度を保っていた。だが、1985年(昭和60年)に中曽根康弘が首相として公式参拝を表明し実施して以降、中華人民共和国・大韓民国などから抗議を受ける事があり(靖国神社問題をめぐる日本国内の一部報道が影響しているとの指摘もある)、その度に日本でも問題として取り上げられる。政府間ではA級戦犯が取り上げられているが、中華人民共和国の報道ではBC級戦犯についても問題とされる場合もある。

中国政府の抗議として、もっぱら首相以外の靖国参拝への抗議はしていなかった。しかし、2005年2月22日の春の例大祭にみんなで靖国神社に参拝する国会議員の会数十名が集団参拝したことに対して、中国共産党政府の秦剛副報道局長が中国外交部を代表して強烈な不満を表明した。その直後、王毅駐日大使が自民党の外交調査会での講演で、かつて政府の顔である首相、官房長官、外務大臣の3人は在任中に参拝しないという紳士協定があったとしている(裏を返せば「それ以外の人間の参拝については言及しない」ということとも解釈できる)。このことから、秦剛副報道局長のみんなで靖国神社に参拝する国会議員の会などの参拝についての言及については矛盾しており、主張が二転三転しているとの指摘もある。

戦没者の靖国神社合祀に関連して、1956年(昭和31年)遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局から、都道府県に対して靖国神社合祀の事務に対する協力について通知が行われた。後にこの通知は、1971年(昭和46年)に「合祀事務」や「祭神名票」など不適切な用語が用いられていたとして廃止された。その後、遺族援護事務としての一般的調査回答業務とした形で1986年(昭和61年)まで続けられていた。なお、1985年(昭和60年)には政教分離に反する不適切な通知だったと当時の厚生大臣が国会で答弁している。

この引揚援護局からの通知に基づいた祭神名票(戦没者身分等調査票)は、靖国神社側が合祀を判断するため、戦没者あるいは一定の合祀資格条件に該当する者かどうかなど、照会があって調査作成されていたものである。合祀予定者の調査を靖国神社ではなく行政府が行っていたという経緯から、「合祀は日本政府の指示によるものではないか」という意見もある。しかし、政府の出した名簿が全て合祀された訳ではなく、2002年(平成14年)7月の国会答弁では「国として靖国神社の行う合祀には関わりを持っていない」事が確認されている。

靖国神社の照会により引揚援護局が作成した祭神名票には、改正された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給改正法」の支給根拠である「戦犯は国内法で裁かれた者ではない」という解釈から、東京裁判における戦犯も除外なく記載されている。靖国神社では1959年(昭和34年)にBC級戦犯を合祀した。A級戦犯については合祀のための照会をしていなかった。だが、1965年(昭和40年)に厚生省に戦犯を含む資料の送付を依頼。翌1966年(昭和41年)厚生省引揚援護局調査課長が「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」の通知に基づき祭神名票を送付。1970年(昭和45年)に靖国神社の崇敬者総代会でA級戦犯の合祀が決定された。ただし、当時の宮司預かりとなり、合祀はされていなかった。1978年(昭和53年)になって新宮司が就任。A級戦犯の受刑者を昭和殉難者と称して合祀した。また、靖国神社は、東京裁判の有効性や侵略の事実を否定するなど、「A級戦犯は戦争犯罪者ではない」として名誉回復の方針を見解として打ち出している。A級戦犯合祀問題の背景には、靖国神社などによる「A級戦犯は戦勝国による犠牲者」とする意見と、侵略戦争を認めた政府見解や、国民への多大な犠牲などから「侵略・亡国戦争の責任者である」と一般の犠牲者である軍人・軍属などと一緒に祀り、顕彰することを問題視する意見の対立があると思われる。1963年以降、8月15日に開かれている政府主催の全国戦没者追悼式の戦没者の対象にA級戦犯も含まれているが、問題視されていない。全国戦没者追悼式は追悼であり、靖国神社は顕彰しているという理由からである。


天皇の参拝停止
昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度、靖国神社に親拝したが、1975年11月21日を最後に参拝が行われなくなり、今上天皇も参拝を行っていない。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを理由とする主張と、三木武夫首相(当時)が同年の終戦記念日の参拝の後、「総理としてではなく、個人として参拝した」と発言した事を理由とする主張とがあった。昭和天皇が合祀に不快感をもっていたことを記録した富田メモや、内容を裏付ける卜部亮吾侍従日記の発見によって、A級戦犯の合祀が天皇の参拝を妨げていることが明らかになった。

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