世界を斜めから見る

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ユーラシア大陸の地図を見ればロシア大陸を除けば半分は中国。あらーこれは驚いた、地球人口の5人に一人が中国人だとすると中国の目的は見え見えでこれはやばいんではないの。独身時代には給料を貯めては気の向くままにあちこち旅行に出かけた、国内と海外、海外ではやたらと目に付いたのが「韓」という漢字と模様をあしらった中華レストラン。シナ人の目的は随分古く、世界の人間の胃袋を占領すればもうこっちのもだと考えている。恐ろしいことだ、現在世界で一番偉そうな顔をしている米国人は昼飯に中華ランチを食べている。しかもご丁寧に箸で食べている馬鹿ではないか、米国はシナ人に占領された。

アメリカ人は中国にマクドナルドとコカコーラで中国人の胃袋を占領したと威張るが、古代にシナ人が人間の料理を発明して西洋にまで伝えたことを知らない。米国人が大好きなピザは元をただせば餃子の皮が西洋に伝わって様々に変化を遂げた枝葉に過ぎない。シナ人は異民族に中華料理を提供して数百年もじっと耐えてきた、世界中の民族が中華ランチを食べるのを待ったのだ。日本?誰か中華ラーメンを嫌いな人知ってる?ラーメンは日本の発明だけど本家がいるから発明できた。今更じたばたしても無駄なことだ、世界中にラーメンを輸出して儲かってるくせに中国を偽者天国と非難している。

さてここから中国人と呼ぼう。中国の古代からの遠大な計画はまず世界人の胃袋を制覇することで、次の段階から本格的な目的に着手し始める。中国人には政治鉄則がある、指導層が交代しても中国の最終的な目的は変えるなという壁に貼られた鉄則である。1970年までは中国は国内は大混乱で壁に貼られた鉄則を見ている暇もなかった、毛沢東という革命の英雄をその役目を終えたので蹴落としてやっと中国は近代化の道を歩き始めた。古代から古い中国人が世界人の胃袋を苦労して手なずけれくれたので基礎は出来上がっていた。

世界の商人は中国人

さて長い冬眠から目が覚めると中国人は活動を開始した。商売人という別働隊を組織して世界各地に送り出し始めた、中国人の商売のうまさは血統的なもので原価が100円の品物を5000円で売りつけるのは朝飯前だ。相手の顔色を伺って100円の品物を5000円から200円まで値段を変えるのである。こうして現在は世界中に中国製品があふれていて、中には中国のラーメンを食べて死んだり犬用のドッグフードで愛犬が軒並み死んだりするが中国人は気にしない。

金の無い国は中国製の安い品物で助かっていると知っているからだ、日用雑貨を売り込みに行ったアフリカでそこが紛争地域で住民が武器をほしがっていると知ると「武器?お安い御用です。優秀なチャイナ製品のAK47自動小銃、バズーカ砲、軍用トラック、なんでも揃います」とたちまち武器商人にはや代わりするのも朝飯前である。カモを見つけると中国人はひとりで2時間3時間しゃべりまくって狙った品物を狙った値段で売りつけてしまう。売りつけられた本人が騙されたのじゃないかと調べると中国人はとっくの昔にトンズラしていて、中国はおかげで世界一の貿易大国になった。

私は想像で書いてはいない、その実例があるので紹介しましょう。うちの奥さんはブラジルの出身で中国人の商売の巧みさに圧倒されて旦那の選定を間違えたというくらいだから私はおもしろくない。ブラジルは現在でも世界から移民を受け入れていて、近年になって大量の中国人が押し寄せた。ブラジルでは洋服の元となる生地の生産とその縫製そして末端のファッションまでアラブ系かイタリア系が市場を占領していた。

ところが、中国人が大量に流入し始めてからどうも様子が変になった。中国人が札束で生地生産工場そして縫製工場をアラブ人とイタリア人から買い取りだし始めた。アラブ人とイタリア人は政府に猛烈に抗議して、我々を市場から締め出すのかと大問題になった。政府としては、商取引だからいかんともしがたいと返答した。中国人が工場を手に入れてからやったことはアラブ人ともイタリア人とも違っていた、まず売れるデザインとファッションの市場調査を徹底的に行った。若い層をターゲットに何が売れるか調べて実際に工場で生産して様子を見たのである。これがバカ当たりして「洋服はシナ人に任せるに限る」という評判を勝ち取った。

ポルトガル語では中国人はCHINESで昔の日本のシナ人の言語となった。おかげでアラブ人とイタリア人は洋服業界から締め出され生地工場と縫製工場は中国人がすべて取り仕切っている。中国人はそれぞれに出身の省で団結している、しかし商売ともなると相手が同じ中国人でもライバルであり敵でもある。香港人と福建人それに上海人は仲が悪い、ケンカをする中国人を四川人がじっと見ているのを私が実際に見ている。

売れるものなら何でも売っちゃうのが中国人でうるさい母親でも値段をつけかねない。ない物、存在しないものまで売るのは中国人は得意で、それによく引っかかるのが日本人である。一度か二度は実際に品物を届けて日本人を信用させる、三度目のもっと大きな取引を結ぶと中国人は金だけを受け取りドロンしてしまう。

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ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ (Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa, 1955年1月28日 - ) は、フランスの政治家。フランス第5共和国第6代大統領(2007年5月16日 - )及びアンドラ公国の共同元首。国民運動連合党首。フランスの大統領としては異色の新保守主義者、新自由主義者で、親米派とされる。

経歴:
1976年パリ大学在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合(RPR)へ入党する。1977年パリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選する。同年共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長。1981年に弁護士資格を取得し、不動産を専門とする法律事務所をパリに共同で開設する。1983年、28歳でイル=ド=フランス地域圏議会議員、ヌイイ=シュル=セーヌの市長に当選する( - 2002年)。犯罪の減少など一定の成果を上げる。

1988年国民議会(下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職する。 1993年バラデュール内閣の予算相として初入閣。同年、ヌイイ市内で発生した幼稚園立てこもり事件が起こる。この事件では、市長として犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献して全国的に有名となる。 1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワに付いてバラデュールを支持する。しかし決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。

2002年5月ラファラン内閣の内務・治安・地方自治相として入閣する。2004年、財務大臣に異動。同年11月29日、RPRの流れを組む国民運動連合(UMP)の党首選挙において、85%の得票率で党首に選出される。サルコジの権力増大を恐れたシラクによって財務相を辞任する。

2005年5月31日よりドミニク・ガルゾー・ド・ヴィルパン内閣の内相に就任する。同年発生したパリ郊外暴動事件の鎮圧にあたる。この際、暴動に加わった若者に対して、「社会のくず」などと発言したことが物議を醸すが、こうした強硬な態度がかえって世論の支持を集めた。

2007年フランス大統領選挙に立候補。同年5月6日の決選投票で、社会党のロワイヤル候補を下し、大統領に当選する。同月16日、フランス第5共和政下の第6代大統領に就任。

人物:
パリ出身。カトリック教徒。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ=シュル=セーヌで過ごす。父方はハンガリーAlattyánの下級貴族の家系。父パル・ノジ=ボウチャ・イ・サルコジは、ソ連軍に占領された祖国を逃れ、仏軍占領下のドイツに渡り、そこでフランス外人部隊の傭兵となる。新兵教育を受けるも不適格とされ、1948年にマルセイユで除隊。名前をフランス風に、ポール・サルコジ・ド・ナジ=ボクサと改名する。広告業者となった父ポールは1949年、パリ17区の医師の娘で、法学部の学生だったアンドレ・マラーと出会い、結婚する。母方は、テッサロニキ出身のギリシア系ユダヤ人で、祖父の代にカトリックへ改宗している。

父ポールは、ニコラ・サルコジが5歳のとき、妻とニコラら3人の子供を見捨て離婚。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは、母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母アンドレは、苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラ・サルコジは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。なお、ニコラの兄ギヨーム・サルコジは繊維会社の社長で、フランス経団連 (MEDEF) の副会長も務めた。また、弟フランソワ・サルコジは、小児科医を経て生物学者となっている。

中学、高校の成績は悪く(日本の中1にあたる学年で留年している)、政治エリートコースの一つであるパリ政治学院に在学していたこともあるが、途中で法律家やジャーナリズムに関心を抱き、結局弁護士となった。そのため、アラン・ジュペ元首相などフランス政界で影響力の高いENA出身のエリート政治家には複雑な感情を抱いているといわれる。なお、親英米と言われるが英語があまり堪能でなく、パリ政治学院では英語の成績が悪かったと伝えられる。この点でシラク前大統領が英語に堪能でありながら人前で話すのを避けていたのと対照的といわれる。

ハンガリー移民であり、パリ大学卒。弁護士でもある。移民2世という出自であり、高級官僚を養成するフランス国立行政学院出身の官僚的な政治家が支配的なフランス政界の中で、庶民派というイメージを強く打ち出している。演説や語りも、他の政治家(ライバルでもある貴族出身のド・ヴィルパンが典型)が使うような文学的な修辞表現を用いずに、庶民にもわかりやすい単純で率直な言い回しを好み、ポピュリスティックに国民に直接訴えかけるスタイルである。

「ナポレオンより背が低い」と言われるほど、平均的なフランス人(男性の平均身長175.6cm)に比べて身長が低い(165cm)。そのため、フランスの有料チャンネルテレビ局Canal+の政治風刺人形劇『les guignols de l'info』の中では、シラク大統領(当時)人形がサルコジ人形を「スマーフ (Schtroumpf)」と呼んでいたこともあった。

2度結婚しており、前妻マリーとの間に2人、現在の妻セシリアとの間に1人、合わせて3人の子供がいる。前妻マリーは、コルシカ島の寒村の薬局の娘で、1982年に結婚し、ピエールとジャンの2男をもうけた。現妻セシリアは、作曲家イサーク・アルベニスのひ孫にあたり、モデルや元老院議員秘書を経て、テレビ司会者と結婚し、2女をもうけていた。セシリアとは、双方ともに配偶者のいる中、不倫愛をつらぬき、1996年に結婚。1998年には息子ルイが生まれる。サルコジは、内務省に席を設けるなどしてセシリアを厚遇する。しかし、セシリアは2005年、支持者の実業家とニューヨークへ駆け落ち。

ド・ヴィルパン首相(当時)からは、「妻を魅了できないで有権者を魅了できるのか」と皮肉られた。夫妻は2006年に復縁したが、セシリアは現在、夫とは別行動を取っており、ファーストレディとなることも拒絶している。大のタバコ嫌いでワインを含め酒も飲まない。好物はチョコレート。大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機とマルタの豪華ヨット(全長60メートル、推定賃料週20万ユーロ=約3240万円)でクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判された。これに対し彼は「何が問題か。私は逃げも隠れも謝りもしない」と反論した。

主張:
シラク政権のイラク戦争反対により冷え込んだ対米関係の改善と、フランス伝統の平等主義を捨て自由競争を重視する英米型の新自由主義経済政策路線を提唱している。サルコジの政策は、米国と距離を置きフランス独自の外交政策を目指し国内経済に積極的に介入する保守派主流思想のド・ゴール主義とは一線を画している。そのため、親米派とみなされることが多く、対米追従を拒否していたシラク大統領は後任として首相ド・ビルパンを推したため、内務大臣であり大統領を目指していたサルコジとシラク、ド・ビルパン間には不協和音が目立っていた。

強気な姿勢は国民からも一定の人気がある。移民が数多く暮らしている治安が安定しない地域を視察し、彼等を「社会のくず」「ごろつき」呼ばわりした事は大きな波紋を呼んだ。こうした発言はフランス各地で起こった若者達による暴動激化の一因だとされている。しかし彼はそれでもその姿勢を崩さず、批判を浴びてもそれを物ともしないばかりか、逆にますます過激な強硬発言を増やしている。

その為、暴動を起こしている若者達、また彼らを心情的に支持する層からは憎悪の対象となっているが、自らも移民2世であり、「私は移民反対のジャン=マリー・ルペン党首(国民戦線)とは違う。この国には優秀な移民が必要だ」と主張しており、人種間の機会を平等にするために大学の入学者枠を人種ごとに設定するアファーマティブ・アクションの導入を訴えている。

2004年1月に香港を訪問した際、「率直に言って、日本よりも中国の方が好きだ。香港は魅惑的な都市だが、東京は息が詰まる。京都御所はうらぶれている。有名な庭園も陰気だった」「ポマードをなでつけた太った男同士が戦うことがなぜそんなに魅力的なのか。(相撲は)インテリのスポーツではない」などと、日本をこき下ろす発言をしたと報道される。この報道に対しサルコジは平林博駐フランス大使との会談で、「これら一連の発言はしていない」と釈明した。

対立するシラク大統領が親日家であることから大統領に対する牽制の意味合いが強いとされている。なお、この発言は麻生太郎外相から、「フランスからそう言われたからって、どうして気になるの。ついこの間まで(フランス人は)『生の魚を食うのはおかしい』と言っていたじゃないですか」と皮肉られた。ただ、日本の国連安保理常任理事国入りには賛成との見解を公している。トルコのEU加盟に反対しており、トルコはイスラムであるのでヨーロッパに相応しくないと明言している。フランス国内でのイスラム移民への反感を反映している。

出典:フリー百科事典Wikipedia
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温家宝

温 家宝(Wen Jiabao, ウェン・チアパオ、おん かほう、男性、1942年9月 - )は、中国の政治家。国務院総理 (首相)。

1942年9月、天津郊外の教員の家に生まれた。天津南開中学卒業後、1960年北京地質学院(現・中国地質大学)に入り、1965年中国共産党入党、1967年研究生課程を卒業して地質関係の技術者となった。甘粛省で地質工作に従事し、胡錦涛と同様に、当時の甘粛党委書記だった宋平に抜擢された。14年間にわたり勤務した甘粛省では地質局副局長、地質鉱山部副部長などを歴任。

孫大光地質部長の賞賛を受けて政界入り。胡耀邦、趙紫陽、江沢民の三人の下で中央弁公庁主任を務め、1989年の天安門事件では趙紫陽の秘書として、共に学生の元へ向かったものの、当時の立場や自己批判が考慮され、失脚することなく続投。1993年、経済、農業分野に責任を負う。1998年、副総理就任と共に農業、金融を担当。呉邦国、李長春らと争って、総理となる。2003年に就任。政治局の序列は第三位。

趣味はランニング。外遊に出た際も早朝のランニングは欠かさず行っている。また、以前は野球をやっていたとのことで2007年の来日の際に、立命館大学の学生と野球を楽しんでいた(ちなみに左投左打)。

訪日
2007年4月11日に訪日。温はこの訪日を「融氷之旅(日中の冷えきった政治的関係を氷に例え、その融解への旅)」と位置付け、「政冷経熱」の日中関係を打開する道筋をつけようとした。12日の国会での演説では「日本の過去への謝罪」を評価(!)する一方で「それを行動で示すように」とした(これは靖国神社参拝を自粛することを求めているということ)。また、「戦後、日本が平和発展の道を歩んだことを中国人民は評価する」という原稿を読み飛ばしてしまった。

天皇との会談では明仁(今上天皇)に「北京オリンピックの開会式に召喚したい」と述べ、外務省の困惑を誘った。他にも、主要政党の首脳や創価学会の池田大作とも会談した。
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胡錦濤

胡 錦濤(こ きんとう、フー チンタオ)、北京語ピン音: Hú Jǐntāo, 1942年12月21日 - )は、中国の政治家。 中華人民共和国主席、中国共産党中央委員会総書記、中華人民共和国中央軍事委員会主席、中国共産党中央軍事委員会主席。 清華大学卒業。

1942年江蘇省姜堰に生まれる(祖籍は安徽省績渓)。1956年7月江蘇省泰州市第二初級中学(中学校)卒業、1959年7月泰州中学(高校)卒業。1964年中国共産党に入党し、また清華大学水利工程系卒業。水力発電所の技師となる。安徽省の中国共産主義青年団で政治活動を始め、抜群の記憶力で急速に昇進の道を歩んだ。

経歴
1984年、中国共産主義青年団中央第一書記に就任。
1985年9月、中共中央委員会の常任委員に昇進。同年、貴州省の共産党書記に抜擢される。(42才)
1989年1月、チベット自治区の共産党書記に就任。
1989年3月7日、ラサに戒厳令を布告する。 当時のチベットは独立を求める民族独立運動が激しくなりつつあり、この運動を押さえ込むよう弾圧すべしとの共産党中央の基本政策に忠実に従い、党指導部の信頼を勝ち得た。
1989年6月、天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防御するため、ラサを戒厳令下に置いた。 チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行し成果をあげた。
1990年10月、チベット軍区中国共産党委員会の第一書記の兼任を任命される。
1992年10月、中共中央政治局常務委員に任命される。
1997年9月、第一五回党大会で政治局常務委員に再選。
1998年3月、全人代で国家副主席に選出。
1999年9月、軍事委員会副主席に選出。
2003年11月15日、中共第16期中央委員会第1回全体会議(第16期1中全会)にて、新総書記に選出され、中国の最高権力者の地位に上った。
2004年9月19日、中共第16期中央委員会第4回全体会議(第16期4中全会)で、党の中央軍事委員会主席に就任し、党・政府・軍の権力の全てを事実上掌握した。
2005年3月13日、全人代で国家中央軍事委員会主席に選出。

事績
チベット問題を武力で押さえ込むことで党指導部の信頼を得ることに成功し、権力の座への階段が開けた。就任当初、胡錦濤は中国国内でも海外でも開明的なイメージでもって紹介されることがあったが、国内の諸問題に対しては強権的な態度で臨まなければならない事態も起きている。

1990年代以降、中国社会では改革開放政策に起因する経済的な地域格差の拡大、また貧富の差の拡大などの矛盾が表面化し始め、それが官僚の腐敗、民族対立などと相まってデモ・暴動・騒乱が増加し、胡錦濤が最高実力者になってからは海外でも大規模な暴動が報じられるようになった。特に2004年10月末に発生した四川省漢源の暴動は建国以来最大規模のものだった。

また、中国では地方の住民が中央政府に対し地域の諸問題を直訴する制度があるが、これら陳情団が拘束されたり、極端な場合は殺害されることもある。胡錦濤の党内での権力基盤にも変化が生じ始めた兆候も見られる。

1990年代の江沢民政権期、中国国内の教育は愛国的な色彩を強め、インターネットが普及すると「愛国者同盟網」「中国民間保釣連合会」「反日先鋒」など愛国的な団体の運営するウェブサイトが立ち上げられるようになった。これら有力な愛国的サイトは民衆の社会不満を政治運動に結びつける可能性があり、胡錦濤が党総書記に就任して以降閉鎖や活動停止に追い込まれた。

ところが、これらの愛国団体のウェブサイトは2005年春以降次々と復活し、各種メディアでも愛国的な記事や戦時中の日本軍の侵略行為の特集が見られるようになった。また、各地に「旧日本軍がおこなった残虐行為」を掲示する記念館や博物館を大量に建設しはじめた。

同年4月には北京で反日デモが発生し、一時政府の制御が及ばない事態となった。翌5月、日本の産経新聞や香港紙「成報」は、胡錦濤が党内の保守派に詰め寄られたという記事を掲載した。胡錦濤が影響力を持つ「中国青年報」は愛国的な報道を控えていたが、翌6月には他紙と同様の傾向を見せるようになった。中国では法制上あらゆるメディアが中国共産党の意向を受け入れなければならないため、「中国青年報」の変化や愛国的サイトの復活は胡錦濤が党内の保守的なグループに一定の譲歩をしたことを示している。

その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。同年8月には人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになり、これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。2006年9月には陳良宇上海市党委員会書記が汚職の疑いで解任され、胡錦濤の政敵となりうる最大のグループが勢力を失った。

2003年以降の中国の輸出拡大により、米国など諸外国から中国に対し人民元の切り上げまたは変動相場制移行を求める声が強まっている。国内経済の軟着陸は胡錦濤政権の課題の一つであるが、人民元切り上げは中国経済に大きな影響を及ぼしかねないため、胡錦濤政権はこの問題に対し慎重な姿勢を示している。

国内の経済や産業の安定した発展、不平等の改善、社会不安の解消など取り組むべき問題は多く、胡錦濤政権は難しい舵取りを迫られている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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白雪姫を模倣したとみられる石景山遊楽園内の像=北京市内














模倣キャラクターで注目の遊園地が「緊急対応」 中国
2007.05.10
Web posted at: 15:58 JST- CNN/AP

北京──北京市郊外にある国営遊園地「石景山遊楽園」は、今月初旬のメーデー休暇中に多くの来場者でにぎわった。しかし日本のテレビ局が、園内にはんらんするディズニーや日本のアニメなどの模倣キャラクターについて伝えたことから、同遊園地は対応を余儀なくされたようだ。

園内には以前、「ディズニー(ランド)は遠すぎる」などと書かれた横断幕が掲げられていたが、9日に外された。模倣キャラクターも一斉に姿を消した。関係者は、キャラクターショーが休暇シーズンのみの開催だと主張。同遊園地の弁護団は米娯楽大手ディズニーと現在交渉中で、「結果は数日中に明らかになる」(関係者)という。

ディズニーの広報担当者は具体的言及を避けたうえで、知的財産権の侵害に厳しく対応していく方針を明言した。同遊園地の関係者は、ディズニーアニメのシンデレラを模したとみられる園内の像が「中国の田舎娘風」だとしている。眠れる森の美女らしき像は9日にハンマーで取り壊されたが、理由は明らかにされていない。


コメント:
日本の近代化は西洋のそっくり模倣で出発している。日本人は小手先が器用で西洋の工場でできた製品を持ってきてまず工場で分解した、そして正確に図面を書きそっくりコピーを製作する。昔は特許という言葉は知ってはいたが誰も気にする人間はいなかった、欧米から訴えられて初めて驚いて対処していたのだ。

面白い話がある。ホンダの創業者の本田総一郎は戦争が終わったときにバイクの修理工場を持っていた。彼はバイクが死ぬほど好きでやがて自分で生産を始めた、しかし輸入物のバイクと比べると彼のバイクは性能でも見劣りがしてとてもかなわない。そこで会社の予算を大幅に出してもらって世界の市場調査に出かけた、彼は出発前に特別製のポケットだらけの服を作ってもらって、ドイツのBMW、イギリスのローバー、アメリカのハーレーなどの部品を現地で手に入れてその服を着て雪だるま状態で帰国した。

日本で彼はその部品の徹底的な検査と研究を重ねた、こうして世界一のホンダバイクは完成した。今ではホンダに食われた欧米のバイクメーカーは軒並みに倒産か規模を縮小して細々とやっている。真似をさせたら中国人など日本人の足元にも及ばない。日本人は本家より優秀な製品を作り出すからだ、これは全ての産業分野でも同じで、日本の技術の元々の本家は欧米なのである。現在の日本は途上国から真似される立場にありおかげで大損害で、その昔欧米から訴えられて青くなったのに、今では中国に真似されて訴えても平気な顔をしているので今度は激怒してゆでだこみたいな顔になった。

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