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今朝の東京の空は、まるで何事もなかったように澄んでいました。
凄まじいまでの暴風雨で日本列島を恐怖の渦に巻き込んだのに
知らんぷりしている秋晴れ。
やるせない気持ちをこぶしにこめて台風の背中を叩きたい。
親友から届いたメールは
「川を見れば怖いような濁流がうねっていて、
どんどん水位を上げてきますし、うちの前の信楽川も轟々と音を立てていました。
信楽川は比較的深いので大丈夫でしたが、
浅いところでは氾濫して河川敷の畑を飲み込んでいました。
また 南郷洗い堰からこちらが通行止めになって、迂回する車で堰の津峠が大渋滞。
道中、大石川の横を通ると今にも道路に水があふれてきそうでした。。。。
大津の町内は県庁の方から流れてきた泥流で 床下までどろどろになり、
町内総出でドロの掻きだし作業に追われたそうです。」
❤ 頑張れ ❤
奈良大学で学んでいたときに、一般教養は「環境学」を取りました。
温暖化といっても、単に気温が上がるだけでなく、台風の大型化も伴うそうです。
そして寒暖の差が激しくなり、、、四季が薄れていくらしい。
過ごしやすい春や秋が減って、夏は極端に暑くなり、冬は酷寒に近づいていく。
そう言われれば、
今年は春は寒かったし梅雨らしい梅雨もないまま猛暑が続いたような気がします。
以前に「日本人は健忘症だから、「次」を乗り切れる」と聞いたことがあります。
つらいことを忘れることも大切ですが、
人間は、過去の教訓を生かし逆境をばねにして 少しづつ頑張っていくのでしょう。
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昨日はどこにも出かけることもできず、家の中の掃除したり、卒論の準備をしていました。
というのも博物館実習のノートが合格で戻り、残す科目は卒論だけとなったからなんですが。
首尾よくいけば、来年の3月には卒業できそうです。
博物館実習は、思っていた以上に高得点だったので、ノートを何ページか写真に撮りました。
こういう感じで、全部で42ページも手書きしていました。
パソコンで打てばきれいに簡単に早くできますが、手書きはやはり大変で、特に
イラスト・図が必須なのには泣かされました。
講評は「大変緻密で整理された記述で、右側のページもうまく活用されていました」とのことです。
参考にしていただければ嬉しいです。 |
佛教大スクーリング
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スクーリング「日本史文献研究4」 青山忠正先生
青山先生の専門は幕末史で、スクーリングの内容は『続再夢紀事』(越前松平家が記した
春嶽の記録)の文久3年12月に書かれた記録を読み解くものであった。
ちょうどドラマ「八重の桜」の舞台も京都に移ったこともあり、八重とゆかりのある地を
訪ねてきました。
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同志社大学周辺に置かれていた薩摩藩邸。石碑が残る。山本覚馬が幽閉されていた
のもこの辺り。
薩摩藩がなぜ幕末期にあれほど活躍できたのか。
その疑問は町田明広氏(ちなみに町田氏の恩師が青山忠正教授)の『島津久光と幕末政治の焦
点』で解き明かされている。
①徳川将軍家及び摂関家筆頭近衛家との濃密な姻戚関係があったこと
②老中阿部正弘による「安政の改革」が断行され、雄藩の国政参画への可能性が示されていたこと
③島津斉彬の莫大な遺産が残っていたこと
④島津久光自身が見出し、登用した側近が優れていたこと。(西郷・大久保・小松帯刀など)
だから、「島津久光が雄飛し得たのは、本人の資質に負うところも大きかったが、それのみな
らず、これらの前提の上に立てたからこそであったのだ」というのが町田先生の持論です。
幕末期の舞台・・・京都御所
文久3年(1863)8月18日の政変で、長州藩は京都から追放され、藩主毛利敬親とその子定
広も国許での謹慎を命じられ、尊攘派は京における政治主導権を失うことになった。長州藩内
では、鬱憤が蓄積。翌元治元年(1864)には、一気に汚名返上・大勢挽回しようとする積極派
が逆に京に乗り込み、7月19日、ついに禁裏御所周辺で武力衝突が起きる。
会津が守る蛤御門のあたりで激戦が繰り広げられた。戦闘の激しさは、
今も、蛤御門に残っている弾丸の跡から窺うことができる。
蛤御門はもともとは入口入って左のここ↓
にあったが、出入りに不便だったため、現在の位置に移動した。
二条城・・・
もともとは、永禄12年(1569)、織田信長が第15代足利義明の居城としてこの石碑を中心に
役390m四方の敷地にほぼ70日間の短期間で築いたもの。
しかし室町幕府の滅亡にともなって廃城となり、
天正4年(1576)に解体され、安土城築城に際し、建築資材として再利用された。
大政奉還の行われた現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居城として慶長7年
(1602)に築かれた。
徳川慶喜の大政奉還を受け、朝廷は王政復古の大号令を発するとともに今後の政策を論じるた
めに雄藩の藩主や公家を交えての小御所会議を開いた。そこに徳川慶喜の姿はなく、武力討幕
を主張する岩倉具視らが徐々に平和的な新政権樹立を主張する松平春嶽や山内容堂らを圧倒し
ていった。
京都市歴史資料館の「岩倉具視の幕末維新」特別展を観覧した。
「岩倉具視関係資料」(ほぼ重要文化財・京都市指定文化財)が前期は7月27日〜9月4日で、
後期は9月7日〜10月16日にわけて公開される。
「岩倉具視日記」「叢裡鳴虫」(具視が蟄居の際に書き記した意見書)など達筆な墨書だった
ので感動したが、圧巻だったのは具視に宛てられた「倒幕密勅薩長連衡御請誓書」とか「大久
保利通書状」だった。
岩倉具視は、和宮降嫁に賛成して東下に随行したいわゆる「公武合体派」であり、尊王攘夷派か
ら憎まれていた。「天誅」が始まると身の危険を知り、辞官落飾して岩倉村で蟄居していたが、
密かに政治活動を行っていたことを、これらの資料が物語っている。
新島襄旧邸。
明治7年、アメリカから帰国した31歳の襄は、学校を設立すべく宣教師たちの待つ大阪へと出
立した。そこで旧知の木戸孝允の支援を受け、資金の寄付も見通しが立ったのだが、時の大阪
府知事の渡辺昇はキリスト教に理解を示さなかったという。そこで、襄は京都に足を運び、山
本覚馬と運命的に出会った。襄の熱意に感銘を受けた覚馬は自ら所有する土地を提供し、明治8
年、官許同志社英学校が開校した。この時教師は襄とデイヴィスの2人だけ、生徒も8人だけと
いうささやかな出発であったとされている。
同志社大学
↓八重が教鞭をとっていた女学校=女紅場(にょこうば)跡。
現在でも京都府立鴨沂高等学校(おうきこうとうがっこう)として存続していて、京都御苑の
東隣にあるが、石碑は鴨川の丸太町橋西詰、旧京都中央電話局上分局の横に立っている。
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昨日は慈雨の恵みもあり、東京はしのぎやすい日曜日となりました。
ブログの更新がなかなか進まず、自己嫌悪に陥っていましたが
忘れないうちに後学の参考になるように
佛教大の博物館実習とは、どのようなものかお伝えしたいと思います。
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「博物館実習2」の講義日程は以下の通りです。
7月29日
★誕生日だったのに(笑)・・・9時から夜の7時まで、一日座学でした。
Ⅰ・Ⅱ講時(9:00〜11:30)門田誠一先生
講義内容:①博物館実習とは②実習の項目と留意点③実習を受ける際の注意事項④資料の取り扱い④博物館資料の多様化と変化
Ⅲ・Ⅳ・Ⅴ講時(11:40〜16:10)牧伸行先生
講義内容:①古文書の取り扱い方②書誌学③文書の劣化と損傷の防止
Ⅵ・Ⅶ講時(16:20〜18:50)清水真澄先生
講義内容:仏像の見方(仏像の種類・材質と造像技法・保存状態・製作年代)と取扱い方(養生梱包・輸送・調査)
7月30日
①興福寺国宝館②奈良国立博物館③佛教大学宗教文化ミュージアム
(引率教員 植村拓哉先生)
仏像の展示法について・・・興福寺の仏像は、鑑賞ではなく信仰の対象として鎮座されていま
したが、奈良国立博物館の「特別展みほとけのかたち」は仏像に込められた先人たちの思いと
その芸術性の高さを「かたち」に見ていくというものでした。佛教大ミュージアムの展示では
「自分自身で考える力や比較分析できる力」を養ってほしいために、敢てキャプションをつけ
ていないそうです。実習簿記入の際、寺院付属博物館・国立博物館・大学付属博物館の展示方
法の違いを明確にするように留意しました。
7月31日 ①龍谷ミュージアム②茶道資料館③京都文化博物館
(引率教員 牧伸行先生)
龍谷ミュージアムは大谷探検隊(シルクロード)の史料等を豊富に持ち、龍谷大学生向けとい
うよりも、一般の観覧者に門戸を広げた博物館運営を展開しているように思われました。茶道
資料館は裏千家のセンターとして運営されていますが、入館者には抹茶と季節の和菓子のサー
ビス(入館料500円)があり、一服目当ての入館も可能なのでお得感があります。京都文化博
物館は「八重の桜特別展」が開かれていました。これは私が東京江戸博物館で見たものと全く
同じで、新聞社や放送局などのメディアが自社の事業企画としてプランニングした展覧会で
す。博物館業務である資料のリストアップや出品交渉等の事務的作業はほとんどなく、広告宣
伝もメディアがやってくれるので、かなりの集客力が得られるなどのメリットがあります。実
習簿記入にあたっては、各館の運営上の工夫を捉えるように留意しました。
8月1日 ①京都市考古資料館②向日市文化資料館③サントリー京都ビール工場
(引率教員 笹部昌利先生)
①は発掘された実物の展示がメイン。新聞でも話題になった「いろは墨書土器」が飾られてい
ました。②はレプリカ・模造品・3Dバーチャルを活用した子供たちにも分かりやすい展示が
特徴。③は企業系博物館。もちろんビールの試飲3杯までオッケーでした。
8月2日 ①平等院鳳翔館ミュージアム②山城郷土資料館③奈良国立博物館
(引率教員 近藤謙先生)
①は寺と博物館の融合形。平等院を観てからミュージアムへ足を運ぶ人が多いそうです。平等
院の景観を損なわないように地下室になっていますが、国宝類の保存管理は勿論のこと、「魅
せる演出」がなされています。②ここは京都府立博物館。主に調査研究の成果が展示されてい
ます。特別企画では、過去の山城地域水害の史料が展示されていました。③は奈良国立博物館
学芸員さんから組織・運営についての説明を受けました。
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奈良大学のスクーリング3日間のうち1・2回は見学が挟み込まれていましたが、佛教大のスク
ーリングはすべて座学。今回のようなバス旅行・見学は初めてだったので、うきうきの4日間
はあっという間に過ぎました。
大変だったのは、「実習簿」作成でした。
1館につき見開き2ページ、左ページは文章で、右は絵・イラストで、実習簿を作成しなければ
ならないのです。もちろん鉛筆、手書きで12館×2の24ページ。実習しているときは自前の
ノートにメモをとり、終わってから実習簿に清書するのですが、門田先生は「実習簿はきれいに
書いて下さい」とおっしゃっていたのが頭にあって、「東京に戻ってから、落ち着いて仕上げれ
ばいいわ」とのんびり構えていました。
そのうち、、、、記憶も感動も薄れるわ、走り書きで書いたメモが読めないわ、
日本史ゼミのスクーリングがあるわ、写真撮影が禁止の館の絵がなかなか描けないわ、、、で、
提出締切8月20日の3日前あたりから必死になって泣く泣く仕上げました。
採点された実習簿は返却されるので、その「苦労?の跡」を写真に撮って、後日ブログに掲載
したいと思います。
☆ なお、奈良大学通信学部の博物館実習については、ブログリンクにある
かるほさんの「奈良大学お勉強日記(奈良大好き☆お勉強日記)」2007.7.31〜8.4に
親切丁寧に書かれていますので、参考にされるといいと思います。
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8月4日〜6日の午後の日本史ゼミ4の内容を書いてみたい。講師は町田明広氏。
上智大→慶応大→佛教大で博士になられて、現在は佛教大非常勤講師であるが、籍は明
治学院大学にあるとか、、、、と聞いた。
江戸時代の特に幕末は煩雑過ぎて、今まであまり興味が湧かなかった。龍馬ファンから叱られ
そうだが「龍馬伝」も興味なし、「篤姫」も、、、見ていなかった。
ましてや「新撰組」など見向きもしなかった。
それほどの幕末オンチの私が、町田氏の講義を受けて、著作を読み漁っている。
幕末専門の奈良大学の佐々木克教授のオーソドックスな見方に対し、町田先生の論の新鮮な
こと。良かったら一度お手に取って下さい。面白さは保障します。
聞きなれない朝陽丸事件こそ、幕末長州藩史における対幕府戦につながる直接的起点として、
また、藩内抗争の火種となったという点で注目すべき事件であった。
史家の間でもあまり注目されていなかった朝陽丸事件が八月十八日の政変の動機となったこと
を、先生はそれこそ史料を駆使して論を展開されている。
歴史好きでなくても引き込まれるドラマ性と筆致の上手さで読み手をぐんぐん幕末へ引きずり込
む名文だと思う。
その中で龍馬の対外思想にも触れられている。龍馬は史料の少なさが制約して、司馬遼太郎
が書いた『竜馬がゆく』のイメージが固定化してしまっているのではないだろうか。
ペリーによる開国よりもずっとはやくロシア船が東北に出没し、知識人(経世家)たちは国家防衛
の警鐘を唱えていたとか、
西郷や大久保の影に隠れてしまった島津久光こそ文久時の薩摩藩の最高責任者であり、幕末
の行く末を決定づけた人物であるとか、
日本人は当時は皆「攘夷」であって、一般に言われる尊王攘夷派VS 公武合体派の抗争といわ
れる単純な図式ではなかったとか、、、 ともかく目からうろこのとても面白い幕末史に仕上が
っている。
これは空論ではなくて、史料を丹念に精査されてこその論であるからいっそうの読み応えがある
と思う。
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8月4日〜7日まで、夏季スクに参加してきた。
4日〜6日までは、午前は日本史ゼミ3、午後からは日本史ゼミ4の3日間連続の講義を受
けた後、7日は専門総合1を受講してきた。
順序は逆になるが、専門総合1の講義のことを先に載せたいと思う。専門総合は1単位×4
科目で、専攻科目に捉われずに自由にテーマ選択ができる。
今年の専門総合1は岡崎祐司教授の「地域再生とこれからの「まちづくり」」であると佛大通信で
知ってからは、この講義だけは絶対に逃さないと前々から決めていた。
というのは、、、、、
今年の1月に勉強計画を立てたときに、このような文章をブログに書いていた。
11月〇日
今日は自宅から地下鉄で15分ほどの市ケ谷・日大会館の「通信制大学院合同説明会」まで
行ってきた。参加申し込み不要、入場無料、入退出自由と3拍子揃っている気楽なイメージが気
に入って、顔を出してみることにした。・・・中略・・・
私は福祉関係に興味があったのだが、とりあえず一番奥の佛教大へ足が自然に向かってしま
った。そこも受付は誰もなし。気づいたところで私よりも10ほど年配らしい男性が一人、教授と長
談義しておられた。
さて、受付前でうろうろしていると事務局員らしい男性が。
紙に「耳が全く聞こえないのですが、奈良大を今期末卒業予定で、もう少し勉強を続けたいの
が、奈良大には大学院がなくて仏教大のホームページをみて尋ねてきました」
と紹介すると、事務局の男性が丁寧に筆談してくださる。お話を伺っているうちに佛教大通信部
には今、聴覚障害者が10人ほどおられ、ノートテイクも手話での講義保障も大学が主となって
やっているらしい。
この、、私が事務局の男性と勘違いした人こそ岡崎教授だった。。。
そのときにとても丁寧に対応してくださり、ノートテイカーさんも大学が保障しますよ、との言葉
で、迷いなく佛教大に決めたといういきさつがあったのだ。
☆ 岡崎祐司 社会福祉学部 社会福祉学科教授
講義内容もすばらしかったのだが、課題レポートの提出締めきりが
迫っているので、今、あたふたしているところ。
できれば後日に講義内容を載せたいと思う。
☆ 当日の受講者は300人ほどだとか。
午後からは10人ほど受講者にマイクが回された。
社会福祉に関心を持っている人の熱心さが伝わってくる。
☆ 1日手話通訳してくさった
左 関西大学卒 Uさん 右 京大四年生 H君
言葉に表わすことができないほど上手な手話で、「岡崎学」を堪能させてくださいました。
☆ ノートテイカーの学生さん。佛教大社会福祉学科で勉強されています。
お世話になった手話通訳さん、ノートテイカーさん、顔ぼかしてごめんなさい。
そして、いつもありがとう。
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