|
本日は、「民俗学研究」の科目試験。
行き慣れた大正大ではなくて、両国第一ホテル内の洗練された一室で行われた。
しかも、今日は結婚式が3組ほど行われるらしく、見た目からしても私たちはいかにも軽装で、
少々場違いな感じがなきしもあらずではあったが、一時限の受験者は100人近くいたので、
気後れもせず堂々と?エレベータに乗りこむことができた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
設題は 墓制研究の歴史と課題を述べるものであった。
新谷尚紀さんの『両墓制と他界観』を参考にして仕上げた解答案をそのまま書けたので、
大丈夫だろう! と安心している。
婚姻類型論については仏教大の八木透先生の著書を参考にして解答案を作った。
しかし、、、他の設題項目の宮座と当屋制とか、民俗化した仏教とか、生業とムラ関係だったら、
書けないことはないが、ちょっと自信もなかったので、今日は運がよかった!! (*^^)v
さあ、あと残るは「考古学」と「東洋文化史」
10日までにレポートを提出しないと12月の試験が受けられないので、今週も気が抜けないな。。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
両墓制の成立は、新たに石塔という要素が導入されてから、その石塔の需要の仕方によって、
単墓制、両墓制、無石塔墓制に分かれたらしい。
実家は単墓制であるが、滋賀の近隣地区は埋葬墓地と石塔墓地の両方をもつ両墓制が多く存在する。
つまり埋め墓と詣り墓の両方を持っているのだ。
新谷氏の説によれば、9世紀後期から10世紀にかけての摂関政治の確立を画期とする平安貴族の觸穢思想とと
もに歴史的に形成され、墓地が死穢の充満する忌避すべき場所に変わっていったことによる。
だから、近畿地方に両墓制の濃密な分布がみられるのだ。
しかし、戦後の高度経済成長期以降、かつての自宅の死から、病院での死にかわり、血縁関係者や地縁関係者
を中心とする近隣の相互扶助的な葬儀から、葬儀社などの業者が提供する葬儀へ「死と葬儀の商品化」が見ら
れるようになった。そして、公営火葬場の建設が増え、土葬にともなう禁忌の伝承が消滅し、人々の死霊畏怖や
死穢忌避の観念も変わっていった。特に2000年以降は、墓制の変化が急速かつ大幅に進行し、近畿地方の村
落社会においても長い歴史を持っている土葬が消滅しつつある。
私の祖父母は、白装束の野辺送りした後、土葬された。
でも町が市にかわり、いまでは市営の火葬場で葬儀が行われているという。
両親の場合はどうするのかと尋ねたら、献体後比叡山にお守りしてもらうと言っている。
このように葬送儀礼の変化が各地で起こっている。つまり、長年培われてきた民俗がいま消滅しつつあるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
民俗学研究の解答案をつくっている間に、普段気にもかけなかった老い・死・葬送について
いろいろと考えざるを得なかった。
|
佛教大試験
[ リスト | 詳細 ]
|
こんなに猛暑が続いては、集中力なんてなくなりますね。
いつもは、何度も確認する暗記チェックも、今回は 「なんとかなるさ〜」・・・(^^ゞ
自由になった時間が増えても、根気度は下がる一方。うまくいかないものです。
本日出た設題は「飛鳥宮跡から平安宮跡にいたる宮構造の変遷とその意義について説明せよ」です。
すぐ解答案が作れそうなのに、一番最後まで残ってしまった設題でした。
時代の範囲も広いし、都城構造ではなくて、宮構造? わかっていたようでわからなかったところでした。
スクーリング2日目(8月14日)の午後いっぱい、佛教大の図書館で粘って、関連書物を手当たりしだい
集め、、、京都見物は棚上げです。(^_^メ)
結果・・・
宮の三要素である内裏・朝堂・曹司のなかで、最も顕著に変化したのが、朝堂・朝堂院の形態と機能だっ
たので、朝堂の変遷について時代ごとの特徴に触れながら、その意義をまとめました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
試験会場の大正大学までは自転車で20分ほどで行けますが、行きはずっと上り坂なので
会場に着くまでに、汗とともに暗記した項目も流れていったような疲労感がありました。
遠くへ行きそうな記憶を呼び戻して、用紙の表いっぱい埋めた後の開放感はたとえようがありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先日のスクーリングのレポート提出が24日までなので一度帰ってから、今度は都立中央図書館へ。
ここで一気にレポートを片付ける予定だったのに、パソコンに何行かうっているうちに
目がとろーん。。結局、都立中央図書館には居眠りをしに行きました。。。。。。。とさ。
終わりよければなんとか、、、なのにね。
☆ おまけの画像 「幽霊子育飴」
|
|
佛教大の「考古学研究」の科目試験設題は
6問中5問は、古代都城についてなので、今日も暑い中、都立中央図書館へ出向いて
解答案作りをしてきた。
「藤原京における景観と都市構造について」とか「平城京の条坊制の特色について説明せよ」の
解答案を作る時、参考図書を検索するにあたって、
真っ先に脳裏に浮かんだ先生は、奈良大の寺崎保広教授だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
寺崎教授のスクーリングを受けたといっても、卒論指導的な内容だったので、
教授の研究成果のこ教示をいただけたわけではなく、それがすご〜くもったいないような、残念なような。
入試を受けて通学生になれば、東野教授とか寺崎教授の生の講義が受けられるかも・・・
今から受験しようかしら、、、と考えたほどだった。
授業料+引越し+退職、、、このデメリットの大きさを考えれば、、、、
はかなく消え去った夢の夢、、、だったけれど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それは、さておき
寺崎保広教授著作の『古代日本の都城と木簡』(吉川弘文館)を参考に解答案作りをしていると、
この図書の後ろに、富本銭についての寺崎教授の見解が載っていた。
「古代都城」そっちのけで、パソコン入力したのがこちら。
1996年に刊行された東野治之『貨幣の日本史』(朝日新聞社)の中で、東野はそれまで
の成果を踏まえて、次のように主張した。
1・富本銭は8世紀初めまで遡り、和同銭と同時期か、これに先立つ貨幣となる。
2・富本銭は流通貨幣でなく、厭勝銭である。
3・日本が手本とした先進国中国の例では、漢代以来、流通貨幣とともに厭勝銭
が流布しており、そのことは、7・8世紀の日本人は知っていたはずである。
4・当時の日本の流通経済からすると、いまだ貨幣を必要とする段階に達していなかった。
5・したがって、古代の日本においては、流通貨幣に先行して厭勝銭があった可能性を考えるべ
きである。
しかし飛鳥池調査は、富本銭の出土点数が最も多い、第二・第三層から見つかる土器の年代は大
半が藤原宮遷都(694)以前である。木簡も「丁亥年」(687年)と書いたものが第二層から出土した。しかし、
若干ではあるが、藤原宮期の特徴をもつ土器が多数含まれているので、わずかな可能性として710年まで下
ることを否定できない。ところが、最下層の第四層は、藤原宮期の土器が含まれず、694年以前であるという
結論に達した。したがってこの層から出土した富本銭は間違いなく和同銭より古いことになる。さらにもう一つ
の根拠としてこの上に堆積する第三層に東南禅院用に葺かれた屋根瓦の不良品が大量に廃棄してあっ
たことをあげることができる。これは東側丘陵裾部の、工場跡に近接するところで見つかった瓦窯からの廃棄
であることが確かめられた。東南禅院は道昭が居住するために飛鳥寺の一郭に設けられた場所であるが、
その道昭は700年に没しており、東南禅院用の瓦窯は当然、その生前に操業していたはずで、それは第三
層に対応しているのである。したがって、この点からも第四層が700年より確実に古いことは動かない。
以上のように慎重な検討の結果、富本銭の年代が7世紀に遡ることが裏づけられ、当然ながら、
天武朝以下の史料にでてくる銅銭も富本銭のこととして理解できるようになったのである。
問題は、東野説のように、富本銭が厭勝銭であったかどうかである。この点は今後も議論が出
てこようが、私は流通貨幣とみて良いと考えている。以下、簡単にその理由を列挙してみよう。
1・富本銭=厭勝銭という説は、これが奈良時代の銭貨であり、流通貨幣たる和同銭と平行して
行なわれた、ということから導き出された見解であり、この点が崩れれば、あえて流通貨幣以外
の用途を認める必然性がなくなる。
2・銭貨とは、本来様々な機能ないし用途があり、流通貨幣として以外にも価値基準・蓄財・まじないなど実際
には様々な使われ方がなされたことは周知の通りである。
3・そうした中で、あえて流通貨幣か厭勝銭か、という議論をする場合、「その銭貨が当時どのように使われた
か」をもって判断すべきではない。もし、この基準をもとにすれば、和同銭も地鎮具などに用いられたり、また
流通が不十分であったことから、「日本における流通貨幣のはじまりは宋銭から」などとなりかねない。
4・判断の基準は、「その銭貨を発行した主体が何を意図していたか」に求めるべきである。そうした場合、発
行主体は、飛鳥池工房の性格に関わってくるが、さきに述べたように大和朝廷の官営工房である、時期的に
は天武・持統朝の政府と見るべきである。
5・当時の政府は、律令国家の建設にむけて様々な制度をつくっていた時期に当たる。律令の編纂、国史の
編纂、大規模な都城の建設などがそれであり、その実現は若干遅れるものもあるが、そうした「国家」として必
要不可欠な要素の一つとして貨幣発行が考えられていたのであろう。
6・したがって、政府としてはあくまでも流通すべき貨幣として富本銭を発行したのであり、最初からまじない用
として作成し、これを各所に配ったというように矮小化すべきではない。
7・ただし、政府の意図はともかくとして、実際に富本銭がどの程度流通したのか、という問題は別である。東
野も言うように、当時のわが国の流通の度合いからみて、それほど広範囲に行き渡ったとはとうてい思えな
い。
8・富本銭の作りがきわめて丁寧であることも特徴であるが、発行量もおそらく和同銭と比べものにならないほ
ど少なかったであろう。したがって、流通貨幣として十分に機能したとは言えないが、そのことが必ずしも厭勝
銭の根拠とはならないであろう。
以上から、天武朝に日本で初めての流通貨幣として富本銭が発行されたが、それはあくまでも
発行することに意味があり、その拡がりはごく限られていたと判断する。銭貨が実際に機能しは
じめるのは、和同銭が発行され、その奨励策がたびたびにわたって講じられ、平城京を中心とし
て、流通経済がある程度発達して以後のことであると考える。ただしそのことによって、富本銭
の歴史的価値が減じることはない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本章の初出は1999年だから、寺崎教授がまだ奈良国立文化財研究所勤務の頃の論文だと思われるが、
『古代日本の都城と木簡』(2006年刊行)で全く手直しされていないところを見ると、富本銭=流通貨幣説は
揺らいでいない様子。寺崎教授の論旨は明快で、納得しやすい。
奈良大の「史料学概論」の設問に確か富本銭についての設題があったと思うが、
現奈良大通信生さんは、どのように解釈されるのかなあ????
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここでちょっと一休み。
☆ 以下の写真は本文とは全く関係ありません。先週の京都行きの写真から・・・
↓ 大文字山
☆車中からの琵琶湖 ・・・さざなみ街道を北上して高月に行ってきました。
その記事はのちほどアップしたいと思います。
|
|
新緑うるわしい5月のはずが GW最終日は、竜巻、春雷、暴風雨・かんかん照り・・・と散々で
した。白山での天候異変による遭難、そして今日の関東竜巻被害。
地球環境の異常を感じるのは、私だけでしょうか?
「温暖化」と一口で言っても、地球環境悪化の一つで、台風・竜巻の多発大型化、干害や水害も
すべてCO2の増加と関係があるそうです。
地球の悲鳴にもっともっと耳を貸して、何をすべきか、何ができるのかを考えなくてはいけないで
すね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日「博物館学」の試験を受けてきました。新課程からの問題が出るかもしれないと
戦々恐々していたのですが、今回は過去に出題されていた
「博物館の人文系資料について、調査・研究の観点から論述しなさい」でした。
変わった点といえば、ずっと解答用紙の「裏面使用不可」だったのに、
今回はその指示がなかった事。
佛教大の解答用紙は、表は1行30字程度×24行。
解答案もぴったり表面に納まるようにまとめたのですが。
そんな努力は無意味だったのですね (^_^;)
☆科目試験東京会場の大正大学の中庭です
気候のいい日は、試験開始前はここで暗記のおさらいしています。
☆ 夕べ、やってきたピーちゃん。ベランダから我が家を窺っています
☆ 躾がいいのか、いきなり入ってきたりはしません
☆ ピーちゃんに対しては、土足でも大目にみています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆試験の帰り道に通る「音無親水公園」の写真を撮ってきました
☆↑ ということは、試験を受けるのに、、一眼レフを持っていったってこと? (^^ゞ
☆ 夏になるともっと水が湛えられて、子どもたちの川水浴が見られますよ
|
|
明日の1時限目に「博物館学」の試験があるというのに、今日のような気持ちのいい五月晴れの
誘惑の眼差しには勝てなかった、明日香です。
5月1日〜10日締め切りのレポートを仕上げてから愛車(チヤリンコ)に乗って出かけたのは、ここ
「名主の滝公園」です。
いつも通う区立中央図書館への道を右に行かずに、左に切れると、我が家からはわずか
10分でたどり着くことができます。この雰囲気はまさに都会のオアシスそのものですね?
☆ 華麗な花は一切ありませんが、歩くだけでフィトンチッドを浴びて健康になりそう・・・・
☆ ここが一番の見所かなあ?都会の風景ではないみたいですね。
☆苔むした石畳がなんともいえません
☆カメラ片手にバシャバシャやっていると「もう、閉館ですからお引取りください」と
言われてしまいました。。。
☆閉館間際、最後まで粘って、地面視線で撮りました。
☆ご覧のとおり、「本日、閉園しました」の札が。
横に映っているのが、私のママチャリです。
(娘の中学時代の自転車なのですが。。。(古っ! (^^ゞ) )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明日「博物館学」の科目試験があるのだけれど・・・大丈夫かなあ??
今日は暗記どころか、5月10日締め切りの「博物館学Ⅱ」のレポートを頑張って提出し
おまけに、これから「イ・サン35巻」のDVDを見ようとしているし。
余談ですが・・・
☆先日の主人の出張土産です。抹茶は苦手なのですが、これはくどくなくて
あっという間に平らげてしまいました。かの「ねんりん屋」さんにも負けない味だと思っています。
茶摘み作業は、悪天候により遅れがち。GWは帰郷の必要がなくて5月6日から本番との事。
GW毎日出勤の主人。6日以降に年休を取って静岡へ帰るそうです。
頭がさがります。
|




