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人工内耳手術をうけた病院に勤務しておられる言語聴覚士のN先生から借り受けた
書物の紹介をしたいと思います。
『冬芽を想う−難聴者とその支援者による体験談集』です。
これには、私が所属している手話サークルの上部団体である
東京都中途失聴・難聴者協会のUさんが寄稿されています。
Uさんの寄稿文を引き、自身の聴覚障害歴と重ね合わせて
半世紀を振り返ってみたいと思います。
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●私は2歳のとき、病気治療のために使ったストレプトマイシンの副作用で聴力が低下し
ました。言語獲得の時期に少しずつ聞こえなくなっていったようです。保育園年長組の
ころには、呼ばれても気づかない、集団行動ができないことを保母さんから指摘され、
親にあちこちの大学病院に連れていかれましたが、どの病院でも、聴力回復は無理、補
聴器を使った方がいいと勧められ小学校入学時から補聴器を使うようになりました。
・・・私の場合、難聴の原因は不明ですが、Uさんと似たような状況でした。
全く違うのは補聴器を使ったのは25歳からというところでしょうか。
小中高校と公立普通クラスだったので、聞こえないことでいっぱい恥をかいてきました。
「親にあちこちの大学病院に連れていかれました」というところは「うん」「うん」と
うなずいてしまいました。医者にさじを投げられていたのですね・・・
●体育の授業で号令にあわせて動く時、皆と同じ行動ができずよく叱られました。
叱られている内容が聞こえないので何度も同じ失敗をしてしまい、運動会前の体育の授
業は恐怖以外の何ものでもありませんでした。
・・・ここは少し違います。 なぜならば、頭はともかく運動神経には自信の
あった私。体育の授業は聞こえなくても張り切っていました(笑)(^^ゞ
座学の勉強は聞こえないので眠くてしょうがない。体を動かす体育や
手を使う美術、ピアノがひけたので音楽の時間は楽しかったです。
●自分は他の人と何かが違うと思っても、それがなぜなのかわからずもやも
やしたものをいつも抱えていました。
一生懸命友達の口元を見ていても話が聞き取れない、
会話に入っていけない、みんなは何を話しているんだろう、仲間外れになるのは寂し
い。みんなが笑っている時、理由がわからないけれど一緒に笑う。
見えている範囲での思考。
・・・「見えている範囲での思考」 聴覚障害者の思考をこれほどまでに端的に
言い表した言葉はないでしょう。
テレビでも字幕がつくようになりましたが、画面と字幕、つまり目からの
情報で私たち聴覚障害者は思考しているのですね。
喧嘩をすれば助けてもらえなくなるので友達とは絶対喧嘩をしない、
人のお尻についてくだけという生き方が自然に身についていきました。
行き詰り感のなかで、本能的な自己防衛行動に出ていたと思います。
●補聴器をつけていることで目立つため、男の子からよくいじめられました。
箱型補聴器のコードをハサミで切られたり、ドッジボールのときには胸ポケットに入れ
ている補聴器にめがけてわざとボールをぶつけられることあります。
リアクションが大きい人、口の形が分かりやすい人とだけ友達になれました。
●この頃は、自分に親切にしてくれる人が良い人と思っていました。
相手が本当に私のことを考えて苦言を呈してくれていたとしても、言われたことの表面
だけとらえてその人は悪い人、嫌な人と考えていました。
コミュニケーションが充分に取れないことから、話の枝葉や経過がわからず見えている
範囲、結論だけとらえる理解のしかたで、いつも会話が不完全燃焼でした。
自分と同じような難聴の人がいることも知らず、自分の障害をキチンと理解する機会が
ないままに成長したことは自尊感情を失う積み重ねだったともいえます。
親は○○と仲良くしてやってねと友達に鉛筆やノートをなどの物をあげたりしていまし
た。私も人に助けてもらうためにはそういうことが必要なのだと思っていました。
したがって、物とかお金とかではなく、本当の意味で心と心を通わせる人間関係という
ものを大人になるまで知らないで育ちました。難聴なのに頑張っていると言う褒め言
葉、励まし、同情、親切などはたくさん受けましたが、どこか寂しさを抱えたまま、た
だただ本能的に生きてきたようで、その頃の事は今思い出すと、消しゴムで消してしま
いたいような気持になるのです。
・・・このあたりまで読むと、間にはさんだ自身のコメントがばからしく見えてきま
す。私は今でも「自分に親切にしてくれる人が良い人」という観念から抜けることがで
きず、私のことを思って苦言を呈してくれていたとしても
なかなか自分の中で消化して受け入れることができません。
大人になりきれていないのです。
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Uさんは、先ほども書いたように自身の所属している手話サークルの上部団体の
理事さんで、中途失聴・難聴者で知らない人はいないというくらい有名な方です。
『冬芽を想う』は、岩波新書『音から隔てられて』の現代版といっていいでしょう。
最後まで読んでいくと難聴とはどういうことなのかほぼ理解できると思います。
また、それだけでなく、これからの聴覚障害者としての生き方はどうあるべきなのか
聴覚障害者に対する「未来の提示」が読みとれます。
次回はこのあたりを詳しく載せたいと思います。
↓この写真は、本文とは全く関係がありません(笑)(^0_0^)
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日々の記録
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半年ぶりに手話べり友達が集いました。
私たちは自分たちのことを「熟女」と呼んでいますが、(笑)(^^ゞ
初めて知り合ったのが、昨年10月の
「手話コミュニケーション指導者養成講座」(東京中難協主催)で、
今年2月に第1回目の熟女会として芝公園近くでランチしたことはブログにも
載せましたね。
その第2回目の熟女会が、練馬区にある「ラ ベントゥーラ」でのランチでした。
練馬区といっても西武新宿線の都立家政駅(中野区)が最寄り駅で、
そこからは15分〜20分ほど歩くでしょうか、かなり不便な所にあるのですが、
ラ ベントゥーラ近辺は閑静な住宅街で、緑の多さといい、まさしく大人のための
隠れ屋的な場所だったと思います。
1階はパン屋&喫茶店、レストランは2階、そして向いが花屋と多角経営
されているようですね (^^♪。
↓ 私の数少ない「言葉のキャッチボールができる友達」です。
聴覚障害の状態は4人まちまちですが、聞こえない状態が一番長く続き、
聞こえのレベルが最も悪かったのが私です。(右端で〜す(^^ゞ))
私は両耳とも110デシベルで障害者手帳第1種2級、聴覚障害では最も重い障害
を持っていました。 ちなみに健聴者は0デシベルです。
しかし3ケ月ほど前に人工内耳を埋め込み、まだリハビリ中ですが
聴力が回復してきました。デシベルでいうと40〜50デシベル、つまり
健聴者と聾者の中間くらいの聴力といいますか、そのくらいまで回復してきました。
人工内耳の機械自体、そして施術技術も10年前に比べると
進歩してきているようです。
人工内耳のリハビリとは聴力だけではなくて聴能という、
遠い過去に聞いた音を思い出しながら、少しずつ少しずつ手繰り寄せて、
機械で聞いた音と脳内の自分の記憶音を重ね合わせて獲得していきます。
余談ですが、友人たちも私の聴力回復にびっくり(@_@;)していたみたいです!
これらの料理にフォカッチャ(パン)がついて1.800円とリーズナブルです。
聴覚障害を持つものどうしなので、お互いの苦労も不便さも
いちいち説明しなくても分かり合える貴重な友達です。
秋にはまた再会を約束しました。
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洗濯物も1週間に2・3度干すことができるかどうかというスケジュールで、
2月から外壁補修工事が始まりました。
例年と違って富士山はおろか、桜並木もベランダから楽しめる機会は
今年はなさそうです。
こうした悪条件が重なり 気にはなっていたのですが、蓮入りバケツは手つかずのままでした。
しかし、せっかく雀様から頂き、昨年には一輪でしたが見事に開花しましたので、
植え替えることにしました。
といっても、ここは東京都内の団地で地面に足がつかない高層階。
15㎏の重いバケツを上下にひっくり返せる場所もありません。
バケツの下方に巣くった蓮の根を掘り出すべく、
ビニール手袋をした手をバケツの中に突っ込みました。ウ〜〜ン。
何かヘドロの臭いが漂ってきます。
いくらかき回しても蓮の根の感触がつかめず、
とうとう、ビニ手を脱いで、生手を肘までズボーン。
乱暴に扱うと芽が壊れてしまうかもしれないので、
そうっと蓮根を引っ張ることにしました。
肘までヘドロに浸かりながらも蓮根は手ごわくてなかなか姿を現してくれません。
堆積している泥を少しずつ横に掻きだして ようやく表れたものがこちらです。
重い筈です。絡みに絡み合って、リース状態のぐるぐる巻き(@_@;)
西陽しか当たらず、肥料も与えない「冷たい親」の仕打ちにも負けずに
立派に根を育んでいました。感動ものです。(#^.^#)
ホースのシャワーを浴びさせてきれいにしてあげたいけれど、
団地のべランダは防水が施されているものの、じゃぶじゃぶ水を使うことはできません。
蓮根を 洗うために台所へ持ってきました。これ、家族には内緒です。(^^ゞ
ヘドロ臭が気になるようで、ぬくちゃん
鼻をクンクンさせていますが、手早く洗い終えました。
できるだけ頑丈そうなのを残して、10㎝から15㎝、5本に切り分けて
その後は昨年と同じように、
肥料入り培養土6割・腐葉土2割、赤玉土2割(小粒がいいそうですが、なかったので中
粒)で配合したものに水を入れながら糠床の軟かさまで捏ねて、
その上に蓮根を置き、また泥で被せて、
5㎝から10㎝の水を張れば植え替え終了です。
興味のある方は、ブログリンク項にある「雀の問答」さんのブログの
記事に詳しくガイドされていますので、覗いてみてください。
外壁補修工事の黒い幕が外されるのは5月なので、
それまでは陽もろくに当たらない環境で申し訳ないけれど・・・
悪条件はベランダ仲間の薔薇やジャスミンやアジサイも一緒だから、頑張って大きくなってね!
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☆ ル・パン・コティディアン芝公園店
昨年の初秋に参加した「手話コミュニケーション指導者養成講座」で
知り合ったメンバー3人と一緒にランチ兼手話ベリを楽しんできました。
知り合って半年も経たないのに、旧知の友達のように話が弾みます。
月2回の三田のサークルや月1回集まる地域の友達以外の新たな出会い。
いくつになっても新鮮です。
知り合ったきっかけは、「手話コミ指導者養成講座」で同じグループになったことから
始まるのですが、グループ分けは、最初から苗字別、
つまりア行グループとかマ行グループで分けられていたので、
「人との出会い」は神様の悪戯というか天の思し召しなのでしょうか。講座開催日は、
お昼も一緒、終わってもお茶(ケーキ&コーヒー)でご一緒して、
「この講座が終了しても、再会しておしゃべりしましょうね」
という約束が実現したというわけなんです。
私たち聴覚障害者が友達になる手段の一つとして「手話ができて会話が弾むこと」が
第一条件になりますが、手話が上手でも話が弾まないこともあり、
それは一般の健常者の方も同じだと思うのですが、
要するにフィーリングも大切なんですよね。
手話で冗談も言えて腹蔵なく話せて、そしてランチのお店の開拓もしながら、
細く長く…「一期一会」が「百期百会」にできればいいなあ、と思いつつ
「ごきげんよう」の挨拶をかわしたのでした。
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本日、飛鳥山博物館講座の「王子狐の黄表紙をよむ」に参加しました。
講師は博物館に勤務されている増田由貴氏でした。
若い方でしたが、周到に準備されたレジメやよどみない話しぶりから、「落ち着き」が
感じられました。
江戸時代の特に「黄表紙」を専門に研究されているのでしょうか。またお話しをうかが
いたいものです。
いただいたレジメを質問形式に直して説明いたします。
Q:黄表紙とは何?
A:江戸時代の娯楽読み物で、黄色の表紙をかけるのを通例としたもの
Q:使用された資料の『一狂言狐書入』はどのようなもの?
A:これは「ひときょうげんきつねのかきいれ」と読みます。上・下2巻あります。
著者は南杣笑楚満人(なんせんしょうそまひと)で画は歌川豊国です。
寛政10(1798)年に刊行されました。黄表紙は当初、「戯謔」を特色としたものでした
が、寛政初年の幕府の弾圧によって、しだいに教訓的な傾向が強くなります。
国会図書館、京都大学頴原文庫、早稲田大学、都立中央図書館加賀文庫等に
版本が存在します。
講師の増田氏によると早稲田大学のHPで鮮明な画像が見られるそうです。
Q:どのようなあらすじですか?
A:麻布のあたりに住む法印の「万公院」と友人の「京意」の二人が、飛鳥山の花見へと
出かけた際、野道で万公院が狐に悪戯をし、その帰り道に万公院が金を拾って、
二人は吉原へ登楼することに。
一方、悪戯された狐が仲間に打ち明け、吉原で万公院に仕返しをしようとします。
拾ったはずの金は木の葉だったことから、万公院が茶屋の者たちに打擲されそうに
なりますが、京意が実の金を払ってその場を収めるというもの。
☆「萬」と書かれた衣服を着ているのが「万公院」で
「意」と書かれたものを着ているのが「京意」です。
☆狐たちが花魁に化けようとしているところ。
☆江戸時代の仮名文字を解読するのは難しいのですが、
絵付なので、情景がわかりやすいですね。 |




