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書庫思索・インスピレーション00

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 事実は一つということに当てはめることができない能力である。

 人間の能力であるので、五感と同じく抑えるべきではない。例えば、視力を弱めるようなことはしたくない。

 悪魔のささやきなどの事例を真実として、個人を特定できない。法で裁けないということ。個人に押し付けたりできないということ。

 超能力は個人の力ではないということ。個人の力ではないことから、だれでも持っている、あるいは持ちうる力であること。さらに、シンクロしうるということ。強力な、物理的な力でないこと。たとえば、故意に物を人に向けることができないこと。人を扇動することぐらい、そんな力を使わなくても口から出る言葉、目に見えることば耳に聞こえる言葉でできる。

 上記を受けて、思想は抑えられたり自由であったりする。言葉にできたり、できなくても、考えたり、思ったりはできる。

 とにかく、自分のこころを、他人に押し付けることはできるが、個人に特定はできない。自分ではないと思えることはできるが、自分だと思うことも違ってくる。だが、自分だけが考えていることではなく、だれもが考えうることなのである。同じ人間なのだから。同じ環境で生活していれば、似たような形態が現れても何ら怪しくもない。反対に当然である。

 口は禍の元。これは、仏陀の最後の毒キノコからも言えてしまう。余談だが。冗談ですむだろうか?

 言葉にする、思想家、あるいは、扇動家が好かれない国がある。

 話が飛躍しすぎたか。

 精神的指導者、例えば、宗教家。これも少し話が外れている気がする。

 だが、両方排除している国があるような気がするが。

 しかし、こんな六感以上の力が何だというのか。
 
 言葉にしない、思想家でもない、宗教家でもない。

 雰囲気か、オーラか。

 先導するのなら。啓蒙するのなら。言葉にする。

 陰謀論?陰謀話。

 世界教師、マイトレーヤは弥勒菩薩。そう来れば、阿弥陀も同じだろう。キリストも似た神話になる。仏陀は、もっと人間的で、どちらかといえば啓蒙である。文字にしないが、言葉は発した。そして、毒を口にしたが。

 しかし、神とか、仏とかの世界教師とかからの啓示は、あるいは、他人の所為にはせず、高位の霊性の所為にしてというか、そのようにして、無我になる。すでに、真実の思索で、「我」でさえ怪しくなっているので、説明は省こう。他人からの受け売りでさえあるのだから。

 自分はいったい誰なのか。といえばいえる。どこからきて、どこへ行くのかは分からない。自分ではないのだからわかるはずがない。

 この思索はいったい何なのか。自分なのかも分からない、言葉にしないほうがいい。口にしないほうがいい。他人なのか自分なのかもわからない力。真実がない。
 

 

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