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法務当局の驕りと矛盾を指摘できない新聞の劣化を憂う 作家・ジャーナリスト・門田隆将
もう最近、産経もイデオロギー的にバラッバラで統一感がまるで無いのですが、だからなのか、今日は珍しくまともな記事が配信されてました。
当ブログで度々主張してる事に、社会の左傾化批判が有ります。
これは主に、左翼による誤謬観念の常識化で、基本的人権が奪われ、情治社会化していく、国民情緒法の韓国と同じになって行く事の危険性を訴える事が多いです。
それはつまり、「国民vs国民」による権利衝突を「人権侵害だ」とごり押しし、相手の基本的人権を奪う左翼行為によってなされます。
例えば、「加害者の人権ばかり尊重されてて、被害者の人権が蔑ろにされている」なんて主張も誤謬観念で、根本的には左翼思想です。
何度も説明して来た通り、人権とは、国家権力の抑圧から自由を守る為に存在する権利であって、国民を相手に主張する権利では有りません。
容疑者が逮捕されると、そこから国家権力の管理下に置かれますので、容疑者や裁判に於ける被告には「国家に対する人権」が発生します。
一方で、被害者が国家に何か圧力を加えられるのでしょうか?
例えば、被害者が警察、検察、裁判所から、問答無用で呼び出しが行なわれた場合、これは「被害者の人権」を主張出来るでしょう。
しかし、「裁判に参加させろ」「被告の量刑をもっと厳しくしろ」と言うのは、むしろ国民が国家権利を弾圧してる構図であって、決して国家が被害者を弾圧してる構図では有りません。
左翼思想ですから、むしろ被害者が加害者の権利と衝突させた主張も多くなってます。
本来比較対象にならない「基本的人権」と、本来存在しない「民間人権」を比較させる所から左翼活動は始まります。
例えばヘイトスピーチ問題では「国家から言論の自由を奪われない権利」と言う基本的人権に対して、本来存在しない「国民からヘイトスピーチをされない権利」を比較、衝突させるのが左翼です。
そして国家権利を弾圧して強引に「国民からヘイトスピーチをされない権利」を法整備させます。この時点で、国家は法律によって国民の言論の自由を制限する訳ですから、基本的人権が侵害されてます。
つまり、左翼思想とは、自由民主主義を破壊する思想でしか有りません。
近代法倫理は理性と合理性、そして自由民主主義を根幹にしていますが、これが破壊されると、情治主義による人民裁判化、つまり韓国と同じ野蛮な国になって行きます。
左翼思想が蔓延し、左翼活動家やマスコミがオールインで左翼思想を常識化させています。
「被害者の権利を尊重しろ!」と叫び、国民感情による「正義の制裁」を広める。
これこそが韓国の国民情緒法と全く同じ思想であって、国民感情が法よりも優先されるべき、むしろ法を国民感情に合わせて改正すべき、と言う思想です。
それこそが左翼思想・韓国人思想の根幹。
自由民主主義を擁護すべき保守層として本来主張しなければならないのは、そんな国民情緒法を求める左傾化社会批判、そしてポピュリズムに流される政治批判のはずです。、
しかし、産経も普段は朝日・毎日と一緒になって左翼思想を広めるだけのメディア。
そんな中で異例の硬派保守記事、これこそが本来あるべき保守系新聞社の姿勢の見本だと思える記事でした。
今は多くのアホウヨが味噌も糞もごっちゃにして「人権派弁護士(左翼弁護士)」と罵る事が多いですが、違います。
人権派の中でも加害者の権利を守ろうとする側は自由民主主義を重んじる保守層です。
人権派の中で、被害者や民間人同士での権利主張を通そうする人権派弁護士こそが左翼弁護士です。
誤謬観念に騙されない社会になって欲しいと切に願います。
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法律・裁判
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強制わいせつ「性的意図」は不要 最高裁大法廷、約半世紀ぶりに判例変更
この「性的意図が無いと強制猥褻罪は適用されない」と言う判例が維持されるか否か注視していました。
もし判例が覆されるのなら、それは50年前の司法レベルから現代の司法レベルが下がり、幼稚化した事になると思ってたからです。
で、結果は残念な事に、司法がポピュリズムを受け入れ、法よりも情緒法を優先させる韓国化の方向性と言う情け無い結果になりました。
信じられない事に、最高裁の15裁判官全員一致の結論、との事で、溜息しか出ません。
当ブログでは度々法律関係の記事を書いてますので、以前の記事を読んだ方はご存知でしょうが、そもそも法に於ける構成要件では「意図」「悪意」、つまり自覚の有無が大切な要素になるべきで、だからこそ、強制猥褻罪と言う犯罪構成要件には、猥褻行為を行う意図が必要である、と言う当たり前の話がこれまでの判例だった訳です。
この産経記事によると、最高裁は判決の際に、
「被害者の受けた性的な被害の有無や内容、程度にこそ目を向けるべきだ」と指摘。判例を支える根拠を見いだすことは難しく、「判例はもはや維持しがたい」
と述べたらしいですね。
この「被害者に目を向ける」と言うのは、まるっきり情緒法の理屈です。
根拠なら幾らでも有るでしょう。
・「強制猥褻」を目的としてない犯罪である。
・判例を変えると言う事は、これまでの判決を受けた被告者と待遇の差異が発生し法の下の平等に反する事になる。
・この様な判例を示すと、加害者の行為によって罪が決まるのでは無くて、被害者の被害意識如何で罪が決まると言う法治国家の崩壊につながる。
などなど。
確かに被害者側が被害を受けたと主張するのは自由であり、それもまた権利が有る話ですから、被害者に泣き寝入りしろと言う話をするつもりは毛頭有りません。
ただ「強制猥褻罪」の構成要件の論理性を「世論や被害者優先で」崩すのはいかん、と言う話です。
だから、強制性暴力罪を新設するとか、民事裁判で訴えるとか、そう言う方向性なら私はなんら言う事は無いです。
もう何度も書いてますが、日本の刑法がどんどんと、本来なら民法で争われるべき情緒的な部分に侵食されてる感じで、このままでは韓国の事を国民情緒法国家とか揶揄出来なくなって来ます。
日本も同じ道を歩んでるって事ですからね。
何度も言いますが、本来、刑法や刑事裁判では被害者云々を抜きに裁判をすべきです。
純粋に加害者と加害行為、そして被告の態度や更正可能性など、加害者のみを見つめてやるべきです。
それが「法の下の平等」でしょう。
被害者が騒げば罪が重くなるとか、被害者のロビー活動が激しければ罪が重くなるとか、どこの韓国だよ、と思います。
被害者は民事裁判で思う存分暴れれば良いと思います。
自民政権になって、憲法解釈の変更に肯定的な最高裁判事を選んだ弊害なのか?
と穿った見方をしたくなる結果です。
論理を無視して強引に解釈を変更する。
まぁ、憲法解釈の変更は良いです。
安保に関わりますから、この際、実利優先って事で。
でも、法律解釈を司法界、しかも最高裁の人間が勝手に変更するのはいかんでしょう。
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産経も最近はめっきりネトウヨ色が強く、アホな記事が量産されて来ている一方で、良質な記事も少し増えて来た気がします。
これなどは司法システムの問題提起として非常に良い記事だと思いました。
ただ、こう言う記事を配信するなら、まずは産経から事件記事を常日頃、もう少し考えて書かないとダメじゃないの?と思いました。
問題点は色々有ります。
まず、検察システム。
検察は本来、「事実と真相を追究して罪を問う」のが役割のはずなのに、「有罪にする事が使命」となってしまっている、ある種のサタニスト集団化してるのが大きな問題です。
次に被害者感情。
昨今、被害者感情を煽る事が「正義」と言わんばかりのメディア論調のせいで、世論がそう言う方向に傾き、それによって検察が被害者感情を晴らすのが大きな使命になってしまっている、と言う部分。
本来、被害者感情は「宥める」のが正義のはずなんですけどね。
そして、真実や真相を追究する事よりも、罪人を憎む心を煽る事を優先させるマスコミの事件報道。
これによって裁判官を含む司法システムそのものが、「憎む対象を確定させ事件を解決する」方向性に、世論によって動かされます。
結局、この手の話は、司法システムの問題では無く、その根幹となる「世論」の問題なんだろうと思います。
世論がもっと冷静、冷徹に事件を眺める事が出来る様になって、世論が「犯人をすぐに断罪するのでは無く、犯人の心境、犯行の情況や必然性、事件発生の原因・要因分析をしっかりやれ!」と言う声が大きくなれば、司法もそう言う方向に流れるでしょうし、そうすれば、この記事で書かれている様な冤罪も少なくなるはずです。
それを抜きに「司法よ、もっとしっかりやれ」と言っても無理ゲーです。
だって世論が許しませんもの。
犯行状況や犯行心理など丁寧に検証する過程は、一見、犯人擁護に見えてしまいますから、世論がファビョって「検察や裁判官は悪人の味方なのか?日本は本当に犯罪者に優しく、被害者に厳しい国だ!」と騒ぎます。
こう言う、魔女裁判化を肯定する世論をなんとかしない限り、司法は変わりたくても変われないでしょう。
そう言う事で、裁判結果の出ていない事件記事に於いて、犯罪者を一方的にバイアスだけで断罪する記事は、まずは産経から自粛してはどうでしょうかね。
厳しく言えば、冤罪も実際に有りえますし、冤罪とまでは行かなくても、犯行の背景を精査し切れず量刑過多な誤審だって有り得る訳ですから、結審した事件でも出来れば犯罪者の断罪記事はやめるべきだとは思いますし、また、犯罪者の断罪記事はどの様な物であれ、世論に「正義の制裁」と言う魔女狩り思想を蔓延させる弊害も大きいですから、断罪記事そのものを無くす方向性が一番望ましいのですが、まぁ、そこまでは取り合えず望みません。
ですのでせめて、結審前の事件記事だけでも、まずは断罪記事を無くす様に気を付けて欲しいと思います。
それをしなければ、せっかく上記の様な良質な記事を配信しても意義が有りませんから。
※:ここで言う断罪記事とは、被害者・警察・検察視点のみでの事件報道も含みます。上記の産経記事の例で言えば「強姦されたと被害を訴えている」とか、殺人事件なら「●●が死亡した。検察は××が殺害したと疑って起訴した」とかなら、ただの事実報道だと思いますが、大抵の事件報道は、もうその被告が犯人である事を前提とした記事ばかりですからね。
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この記事を読んで、改めて動物愛護法を考えて見たのですが、考えれば考えるほど、悪法なのでは無いか、と言う気がして来ます。
本来、法律と言うのは「人間社会の為の人間社会によるルール」が原則で、人間と一見関係ない法も、実は間接的に人間の利益に結びついていたりするものです。 つまり、法とは「人類至上主義」を全肯定してるからこそ有り得ると言っても過言では有りません。 キリスト教などでは、善悪を決めて良いのは神のみである、と言う思想を持っていますが、キリスト教圏である欧米までもが法を持つと言うのは、その神の立場に人間を置いた事を意味します。 人間社会が無ければ法も存在しておらず無法です。そこには自然環境による弱肉強食ルールのみが存在します。 しかし、人間は知性を持った為に法を作りました。 でもそれは、極力、人間社会にクローズさせ、法の支配を人間社会以外の自然界に及ぼしてはいけません。 それは、動物が殺人を行っても人間は法的罰を与えてはいけない(同じ動物同士としての殺し合いは可)だと思いますし、動物を被害者とする様な権利もまた与えてはいけないと言う事です。 (仮に動物に権利と責任を与え法の適用範囲にしてしまうと、動物が動物を殺した際に論理破綻して困ってしまう事になります。動物にも食料調達目的外の他動物殺害は有り得ますし、中には娯楽殺害も有り得ます。) 例えばガードレールを悪戯に壊せば器物破損罪となりますが、これも人々の安全を守る為にある公共物を破壊し、人々を危険に晒した事による罪であり、設置されていない製造されたばかりのガードレールを製造元の許可の下に破壊しても、当然ながらそれは罪に問われません。 つまり、物を壊した事が罪なのではなく、人に迷惑を掛けた事が罪な訳です。 ではなぜ、物を壊す事自体に罪が発生しないのか、と言えば、それは物には人権が無いから、と言う事になります。 この論理は動物にも当てはめる事が可能です。 日本国憲法では国民の人権を保証していますが動物に権利は与えていませんし、前述の通り法とは人間社会の為の定めですから、それで間違っていません。 よって今回の記事でも、異臭により人間に迷惑を掛けた、と言う点で検挙されたのなら納得するのですが、人権の無い動物を被害者とする観点で人権のある人間を罰するのは違憲なのでは無いか、と思う訳です。 例えば動物の絶滅危惧種を保護する法などは良いと思うのですよ。 それも鑑賞、観察、科学的用途、食物連鎖のバランス調整などなど、人間社会に貢献する目的が有りますから。 また、占有動物を人の財産と見做す事は可能ですから、他人によるペットなどへの危害は、これも罪に問うて良いと思えます。 しかし、自分のペットの生存与奪権は飼い主が握っているべきで、それを含めて他人へ迷惑を掛けない様に責任も発生すると考えるのが法倫理に則していると思えます。 つまり、ペットが他人の家で糞をして迷惑を掛けたら、それは当然飼い主の責任です。 それの対応の為にペットを殺処分するしか方法が無いなら、飼い主は自由に殺処分出来るべきですし、ペットが病気に掛かって回復の望みが薄いなら、当然ながら安楽死などの判断も自由に出来るべきです。 動物愛護法の様に憲法や法倫理を逸脱して動物に人権を付与する様な法を作ってしまうと、話がややこしくなります。 飼い主はペットを自由に殺せなくなりますし、その飼い方に対しても虐待だ的な「人の価値観の違いによる偏見的批判と対立」を許し、逆に人間社会を不安定化させます。 ある人は、他人の家に糞をするペットを殺したくないから、仕方なく檻に閉じ込める対策を取るかも知れません。 ある人は、その檻に閉じ込められている動物を「虐待だ!動物愛護法違反だ!」と糾弾するかも知れません。 最初から動物愛護法なんて物が無ければ、後者の動物愛護者は、そりゃ気分が悪いかも知れませんが、少なくとも法を楯に怒るほど感情的にならずに済んだかも知れませんし、ペットの飼い主も不愉快な思いをしないで済みます。 よって、動物愛護法は「動物の命を尊ぶ」と言う様な情緒教育的なメルヘンは排除し、あくまで法論理として理論化すべきだと思います。 つまり、人間社会にマイナスになる側面から立法すべきです。 よって、他人のペット(=占有動物=実験動物や畜産動物含む)への危害などは不法行為としても良いでしょう。 と同時に、ペットによる他人への被害も不法行為にすべきです。(ただバランスは難しいですけどね、異臭まで迷惑として不法行為にすると農家が困っちゃいますから) そして、食物連鎖バランスを壊す様な動物虐殺も違法にして良いと思います。 それ以外は合法にすべきでしょう。 現状では動物愛護法で外来種の駆除などを明確化してますが、そんなの不要です。 外来種の駆除も害虫の駆除も人権の下で合法であるべきなのですから。 (驚愕すべき事に、現状の動物愛護法では害獣や害虫の駆除でさえ違法と解釈する余地が有ります。これを楯に害虫・害獣駆除を非難する狂気染みた動物愛護思想者まで出現する始末。) 問題は、過去に稀にあった猟奇事件ですね。 学校の校庭に猫のバラバラ死体を放置するとか、それ系の事件です。 これは明らかに「人間に対する嫌がらせ行為」ですから、動物愛護法とは違う趣旨で違法化すべきでしょう。 当然、学校で飼育してる動物を殺害すれば、それは他人の占有動物を殺害したとして、不法行為にしても良いと思います。 そんな感じで、もっとスマートに理論体系化しないとダメでしょう。 法に感情を入れ込む事ほど危険な事は無いと思いますので、今の動物愛護法は危険だと思いますし、違憲でも有ると思います。 |
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私が若い頃、良く母親に、「飲むなら乗るな、乗るなら飲むな、自転車で行きなさい」などと諭された記憶が有ります。
でまぁ、最近は自転車に乗る事もめっきり無く、全く気にしていなかったのですが、ふと たかが自転車の衝突事故と侮るべからず の記事を読んで、「ええええええ?????」と思い、最新の道交法を確認して見たら、本当に自転車での飲酒運転が禁止されていました。 しかも罰金や懲役規定まで有ります。 いやぁ、驚きました。 まぁ、警察とかが自転車による事故が多くて危険性を訴えた結果だと思いますし、それは理解出来ます。 でもね、最近の法曹界は、なんかとち狂ってると言うか、法倫理を無視してぐちゃぐちゃにしてるだけ・・ って気がしてなりません。 整合性が取れてないんですよね。 多分、昔なら立法時に最高裁で却下される方向性の法律だと思えます。 この傾向は、飲酒運転の同乗者に対する罰則が出来た時点から思ってた事です。 例えば、自転車で通行人を怪我させた場合など、刑法の範疇で過失傷害罪を問う事などは、問題ないと思うんですよね。 その延長線上で、自転車飲酒運転による傷害は重過失傷害罪にしても、まぁ、納得出来る範疇かなと思います。 しかし、道交法ですよ? 自動車やバイクなどは、道交法を守らせる為のライセンス制度なんじゃないか? だから、ライセンスがいらない自転車に道交法を準義務以外で強制執行するのは間違ってると思うんですよね。 これはもちろん、飲酒運転の同乗者に対する罰則にも言える事で、同乗者が自動車免許を持っているなら、多少の罰則が有っても、道交法を知る人間としての義務違反と言う道理も立つかも知れません。 でも、ライセンスを持っていない同乗者に罰則を適用するのは、おかしいでしょう。 じゃぁ、それが赤ちゃんだったらどうするのさ・・って話で。 だから、整合性を取ろうと思うなら、同乗者も自転車も、難易度設定は別にしてもライセンス制を導入しないと整合性が取れない・・って事になるはずです。 法律は、複雑な案件では確かに整合性や論理性を保つのが難しい局面も有るのだろうとは思いますが、出来る限り、整合性や論理性を維持しないと、法倫理そのものが崩壊してしまい、それはもはや法治国家とは言えません。 まぁ、昨今の民間人権問題の刑法化なども同じ事が言えるんですけど、やっぱり、こう言う現状を見ていると、最高裁の主席検事の総入れ替えとか、三権分立の確立とか、本当に必要だよなぁ・・・ と思ってしまいます。 まぁでも、いずれにせよ、自転車まで飲酒運転取締りされる世の中って、なんか世知辛いなぁ・・と思いました。 |




