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速水藤右衛門。これは私の家の屋号です。
私はこの名前、とても気に入っています。
私の歴史。私が今ある由来をお話しましょう。
この屋号の発祥は、歴史を遡ること大阪城落城の話から始まります。
千姫の教育係をしていた老中速水甲斐守守久が千姫を徳川陣屋に
送り届けた後、淀と秀頼と最後を共にし自刃。
その後しばらく、数名の家臣を引き連れ農村に身を隠していた三男保久・四男貞久が
夏の陣から三年後の1618年、越後村上城に引き取られ生き延びました。
三男は清和天皇の子孫であり、学術に秀でた武士で、元服し村上城主から領地をもらい、速水藤右衛門と名を改め領主になりました。
私の祖母が速水藤右衛門の11代目、母がいて、私が13代目です。
清和天皇からは祖母が30代目、母がいて、私が32代目です。
私の祖母のおじいさまは、高島嘉右衛門の番頭で、熱田セメントの経営一切を任せられていました。もう一つの顔は二松学舎大学を経営側から支えた草創期の重要人物です。学祖三島中州先生を支え學舎の会計を担当し昭和7年まで40年間もの長きにわたり二松學舎理事を務めました。皇居へは正装をし、シルクハットをかぶり、大正天皇に漢学を教えに行っていたと、今は亡き祖母から聞いています。祖母は東京のお屋敷の跡継ぎでした。
上の写真は二松学舎の私の曾おじいさまです。
清和天皇には子が19人いました。その流れの一つが私の家系です。
現在では清和源氏の流れを汲む家系は約740あると聞いていますが、
実際、家系図が残って言い伝えられているのはどのくらいあるでしょうか。
毎日、大波小波、いろいろ人生には起こるけど、
ルーツを知ってる事で、
いつも心でご先祖様に感謝し、
ずっと、温かく見守って応援してくれる両親に
心から熱く感謝の気持ちをもてて、
私はとても嬉しく感じています。
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