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青いらんくる♪
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書庫記憶(1988年)

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(1988年 秋〜冬にかけて)

LCMから帰ってからは、以前にも増してクラブ行事に積極的に参加するようになりました。
琵琶湖畔でキャンプしたり、クロカン遊びにも徐々にのめり込んでいきました。バンパーを曲げてでも難所を走破できた事を嬉しいと感じるようになりました。(今は嫌です・・・^^;)
なによりもヨンマルで走るのが大好き。そしてみんなと会えるのが嬉しかった。でも・・・やっぱり自分はいつも仲間や先輩頼み。。。自分独りで判断できて行動できるだけの経験が絶対的に不足していました。・・・度胸も。。。
何時間走ってもへこたれない運転、何時間でも仲間について行けるだけの自分になるには、もっと自分自身のスキルを上げるしかありません。以来クラブ行事とはまた別に単独で遠くへ行くことが多くなりました。とにかく場数を踏んで度胸をつけたくて・・・時間が許す限り遠くへ、そして自分の知らない場所へマップルと磁石を頼りに通いました。

独りになると自分がどれだけヘタレなのかよくわかりました。
あるとき、高野山へ上る途中の舗装路で、離合困難な場所でバックしたら後輪を深い側溝へ落としてしまってスタック。。。居合わせたカローラに助けてもらうハメに・・・orz。
和泉葛城山の林道では、左側前後輪を側溝に落としてしまいスタック。。。通りかかったオフロードバイクに麓の村まで乗せてもらい公衆から電話してJAFに助けに来てもらうハメに・・・orz。

重たいヨンマルは、ヘタクソが乗るとどうしようもないクルマに成り下がります。。。(恥)
ランドクルーザーと言えどスプリングシートが地面に閊えてしまうと、たった1輪だけの脱輪でも出られなくなるという事。片側の前後を落としたら無装備では自力では絶対に出られない事を知りました。脚が動く分、重たいアクスルが深々と地面に根を下ろすから厄介です。
車載のボトルジャッキがタイヤ交換意外ではなんの役にも立たない事も思い知りました。

そんな事が続いて・・・ハイリフトジャッキを買いました。。。

休日には和泉葛城山周辺や紀伊山地のマップルで色の付いていないような細い道(=林道)を選って走りに行ったりもしました。当時の古いマップルには細い1本線で描かれた通り抜け不可の道もたくさん載っていました。そういう道の中には、抜けられると思って入った道がいけなくなって500mくらいバックで戻った事もありました。。。

そして、ず〜っと憧れていた砂浜。。。あの遠州灘の砂浜を初めて走ったのもこのころでした。あの雄大な砂浜を軽快に疾走するヨンマルの絵をずっと想い描いていました。期待に胸膨らませて砂浜にいざ下りてみると・・・「なんじゃこりゃ〜!???ぜんぜん走らん!!」っていうのが実感でした。ゆっくり着実に走るのは問題無いようでしたがとにかく鈍重。。。抵抗が大きくてぜんぜんスピード出ません。アクセルは離したら止まるし・・・なんて地味なんだ!、しかもまっすぐ走らんし。。。

ヨンマルで砂浜は楽しくないですね。。。ちょっとガッカリした23歳の私なのでした。。。

砂浜に佇むヨンマル・・・“絵ヅラ”は良いんですがね。。。(遠い目)

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もうすぐLCMですね!。
今年で何回目?。。。23回???。よく続いているなぁと感心します^^。
そしてランドクルーザーもとうとう150系、200系になりましたか。。。

↑写真のプレートは第2回のときの記念品。
長年ヨンマルの室内に貼ってありましたが、ワケあって今は外してあります。下手に剥がしたので凹凸になっていますが大切な思い出の品です。。。


☆The2nd LANDCRUISER’s MEETING
(1988年7月23日〜24日  於 山梨県 本栖ハイランド)

5月にやらかした事故のショックもまだ癒えぬ7月。
LCMの日、会社はホントは勤務日でした。入社3年目で仕事も半人前の私は、恐い上司に「休暇を下さい」とは言えず「・・・し、親族の結婚式で…ゴニョゴニョ〜」とつい嘘ついてしまいました。。。
悪い事とは分かっていてもどうしても行きたかった。。。
第1回LCMの時とは違いタイヤも大きくなりました。今度は無線機を備え、みんなと繋がっての移動です。
みんなの声が聞こえる安心感は運転に余裕を与えてくれ、真夜中の長距離も楽しく運転できました。独りで必死でついて行くのとは大違いです。。。それに目立つツートンカラーになってちょっと嬉しかったりして(笑)。
特に印象的だったのは、真夜中の高速道路がランクルだらけだった事!。名神〜東名を何台ものランドクルーザーが『ズウォォォ!!』『ズウォォォ!!』とタイヤを唸らせ列を成して東へ向かって行きます。主なサービスエリアはすでにLCMの様相!。興奮しました(笑)。

第2回LCMは本栖ハイランド。7月とはいえとても涼しく、到着した未明には冷たい雨が降っていました。
雨は閉会まで止むことはなく、何もかもが湿気ていて寒かったと記憶しています。真夏なのに。。。
キャンプサイトとして与えられたエリアは辺り一面墨汁を流したように真っ黒な泥の海。。。
私は生まれて初めて火山灰の泥を経験しました。先輩方家族連れはここにテントを張るしかありませんでした。。。私は今回からはちゃんと長靴も持ってきたし!、この時はまだテントを持っていなくて車で寝るからその点だけは気楽でした。先輩たちが持ってきているテントの多くはダンロップ製!。このテントは優れもので、とにかく防水がしっかりしていて底が浸みません。テントは自分のみならず家族の健康状態をも左右する。家族が快適に過ごされる様子を見て、安易に安物に手を出さず、高価でも良いテントを買おうと思いました。

クラブでは一番若い私。今までさんざん迷惑を掛けているのでこの時こそ日頃のご恩返しをするべく、率先してお手伝いを申し出ましたが・・・。

先輩「じゃぁツーバーナー点けてくれる〜」。

私「・・・ど、どうやって点けるんですか???」。

先輩「・・・・・」^_^;。

・・・相も変わらず、独りではなんにも出来ないヘタレな私なのでした。。。

親切に教えてもらってポンピング。。。
そ〜〜っとコックをひねりオヨビ腰でライターで着火→『シュ〜〜〜…ゥボッ!!』、
「ひっ!!」と飛びずさり、メラメラ上がる火柱におののく私。。。
「・・・どんくさいやっちゃなぁ。。。」と言われながら。。。そして夕方・・・

先輩「じゃ〜ランタン点けてくれる〜」。

同じ要領でポンピング、コックをひねって着火→「シュ〜〜〜…ゥボッ!!」、
指の毛がチリッと焦げて『熱っつ!!』と飛び上がる。
生ガス多過ぎて“火達磨”になっているランタンにおののく私。。。

「・・・要領の悪いやっちゃなぁ。。。」と呆れられて(大恥)。。。

会期中はお好み焼きに精を出し、先輩の杯をありがた〜くお受けし、会場整理のお役を仰せつかり、
クラブ間の伝令に走ったり、。。。おかげで結構忙しく写真を撮る間がほとんどありませんでした。。。

LCMに於ける団体対抗ゲームやランクルコンテストのようなものが多彩になっていったのも2回目からでした。

☆タイムトライアル   
80年代の半ば頃から4駆のトライアルがあちこちで盛んに行われるようになり、専門誌でもJFWDA戦よりも目立つようになっていました。その形式に則り、コーステープを張って減点法で走るスタイルが定着しつつありました。

☆ランクルミートまんじゅう  
各団体からショートのヨンマルバンを1台出して、その中に何人入れるかを競うゲームです。たしか二十数人っていう記録がありました。。。

☆怪力5人衆      
各団体から力自慢が5人出て、決まった距離を人力で押してそのタイムを競うというもの。

その他、ドレスアップ、ミュージアムコンディション、などを参加者の投票で選ぶコンテストもありました。奇抜な改造を施した厳ついやつが『マッドマックス賞』っていうの貰ってたっけなぁそういえば。。。

キレイな古いFJ40はこの時もうすでに羨望の眼差しを受けてましたねぇ。

このLCMの帰り道、じつはアクシデントがありました。
1台の41がエンジンをブローさせて帰れなくなったのです。この41は、第1回LCMの時にも行きの高速でブローさせた“前科”がありました。原因はターボを付けた事によりエンジンに無理が掛かったこと。あのころの後付けターボって今から思うとけっこうやばかったのでしょうね。。。

まだ携帯電話なんて『名前』すら無かったあのころ、無線が何よりも頼りになりました。しかし無線も一長一短、ある程度以上離れてしまうと届かなくなり交信不能になります。トラブルを起こした41はクラブ中では最後尾におり、離れて前を走っていた人が煙を上げて失速していく41をミラー越しに見ていたらしい。。。高速道路上なので止まったり引き返したりできません。連絡しようにもリーダーのいる先頭集団との距離が開いていて無線が届かず発覚が遅れました。本人からの無線も途絶え、何処にいるのか?、止まってしまったのか?、まだ辛うじて動いているのか?、どうするつもりか?などの情報が錯綜しました。助けに行くにしても何処まで戻ったらいいのか判りません。。。先を走るそれぞれが直近のサービスエリアに入り暫し情報待ち。。。後からサービスエリアに入ってきた他所のクラブの人などから情報を貰い、41は他所のクラブのランクルにサービスエリアまで牽引してもらったようでした。41はそこに残して誰かに乗せてもらって高速を西へ向かっているいるらしいとのこと。。。どこの誰に乗せてもらっているのかは不明。。。連絡がとれない以上やむを得ず、けっきょく本人の所在が分からないままクラブは京都へ帰還しました。このときの“行き違い”が後日クラブ内で物議を呼ぶことになりました。。。
不測の事態だったとはいえ、このアクシデント最大の問題は“中途半端な改造”による、起こるべくして起こったエンジントラブルでした。去年にも同じトラブルを起こしたにも関わらず、再び同じ事を繰り返したオーナーの“甘さ”や“見識の低さ”が仲間に多大な迷惑を掛けたのです。

私もさんざん迷惑を掛けている身、このアクシデントを間近で見ていてけっして他人事ではないなと思いました。もし、取り残されて独りぼっちになってしまったら自分ならどうするだろうと悩みました。はたして仲間は気付いてくれているのか?、待ってくれているのか?、助けに戻ってきてくれるのか???、そんなことはとうてい予測できるものではありません。

今のように携帯電話があれば、こういう状況に陥ってもぜんぜん違った対応ができたでしょうが。。。

(この41は今でも走っています。1FZ載せて。。)

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(写真は1988年 6月)

☆大転倒の後。。。

クラブツーリングで大転倒をやらかし、さんざん迷惑を掛けながら京都へ帰還したのは夜。
その足で『お近くのトヨタ』へ直行。先輩方の尽力で営業時間外ながら待っていて下さり車を預かっていただきました。
この日はGW最後の日、翌朝2時間掛けて大阪の堺へ出社しなければいけない私に、先輩T/M氏が自分の大事なヨンマルを黙って貸してくれました。事故を起こしたこんな私に貸すなんて・・・それはそれは心穏やかではなかったでしょうに。。。そんな先輩の事を思うと大変申し訳なくそして有り難く思いました。おかげで連休明けは無事に出社でき、精神的ショックを引きずりながらではありましたが努めて仕事に精を出しました。
次の週末、大切にお借りしたヨンマルを先輩に返しに京都へ戻り、公共交通機関で堺へ戻りました。

返す返すも自分の未熟さ不甲斐なさが悔やまれました。クラブに入って1年、整備知識も工具類もナイナイ尽くしの私。。。遠出するのも、オフロードでのスタックリカバリーも自分独りでは何ひとつ満足に出来ないで居ました。ヨンマルどころかクルマの運転そのものに自分は向いていないんじゃないのか???。そんな事も考えました。『先輩たちのようになりたい!』そのためにはどうすればいいのか?。・・・この事故を機に思い悩む日々が続くこととなりました。

ヨンマルが無い間、ツーリングに行く前から決まっていたアマチュア無線の試験を受けに行きました。
今後もクラブにお世話になる以上はぜったいに無線機が必要だと考えていました。奇しくもこのたびのツーリングで無線機の必要性を再確認する事となったのですが。。。
そして工具類、スペア部品とスタック時のリカバリー用アイテムなど、当時はどれも高価な物でしたが必要性を痛感しコツコツ揃える事を考え始めました。

1ヶ月余りの修理期間を経てヨンマルは甦りました。
6月の第二週、月例ミーティングの日がヨンマルの“納車日”となりました。
お世話になった方々へ感謝とお詫びを言う日。なんで思いついたのか忘れましたが、お礼にバーボンを難波で何本も買込み、電車で京都へ急ぎました。瓶の入ったビニール袋を両手に提げて電車と徒歩でミーティング場所へ。。。

しんどかったけれどヨンマルが帰ってくると思えばなんのこれしき!。

そしてついに!、見違えるようにキレイになった青いヨンマルと再会!。正直、泣きそうになりました、嬉しくて。。。

修理後のヨンマルは、いくつか変わって帰ってきました。前期型のFフェンダーとFJミラー、そしてツートンカラーはこのときに決まりました(笑)。

フレームに少し歪みが残り、右が上がり左下がりに傾いていました。
この左下がりの原因は後になってフレームの歪みよりもリーフスプリングのヘタリが大きい事に気がつきました。壁を駆け上がった時の衝撃に因ると思われます。
左が下がるとハンドルは右へ取られるので常に左へ当ててやる必要がありましたが、それでも走るのに支障はありませんでした。
あれだけの事故から生き返ったのですから、私は十分に満足でした。これで今年もLCMに行ける!。

こいつと別れなくて済んだ事が何より嬉しかった。

1ヶ月後には本栖ハイランドで『2nd the LCM』が控えていました。

そして・・・ヨンマル購入時に組んだ2年ローンが完済された翌月から、再び2年の“修理ローン”が始まったのでした。。。

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3日目、いよいよ京都へ帰還する日。

栂池高原を北上し、途中、雨飾山の麓の温泉へ立ち寄り糸魚川まで抜けて帰途に就きます。
対向車はランクルのコンボイを物珍しそうに見、私の42には指をさしてすれ違って行きます。。。
42は酷い観てくれとは裏腹にじつに調子よく走りました。サイドミラーが無いのと助手席に窓ガラスが無い以外はなんら変わりません。あの当時、北陸自動車道は朝日ICが終点でした。糸魚川からR8号を30km海を見ながら西へ西へ走ります。

日が西へ傾いた頃、ようやく北陸道の終点(当時)の朝日ICまで来ました。
高速道路に乗ってしまえば京都まで1本道です。みんな順番に料金所を通っていきます。が、しかし・・・心配していたとおり、私は止められてしまいました。。。
料金所では「事故車は入ってもらうことは出来ない」と言われました。。。執拗に食い下がると「こちらでは判断できないので警察を呼ぶ」と言われました。間もなく富山県警がやって来ました。。。もし入れてもらえなければ独りで下道で帰るしかありません。。。
先輩たちは知恵を出し合って、危なそうなところにはロープやガムテープで補強して下さいました。
また、「ヨンマルは元は屋根が無い設計の車なので強度的に心配はありません。無理のないように走りますから・・・」と先輩Y/K氏が警察に掛け合ってくれました。
富山県警のおまわりさんは一通りの話を聞いた後私の42をつぶさに確認し、しばらく考えた末に・・・泣きそうな顔の私にニッコリ微笑んで「気をつけて行きなさい。無理したらいかんよ^^」とチケットを手渡してくれたのでした。

晴れて高速に乗る事ができた私は、80km/hで慎重に走りました。
次のICに差し掛かると県警のパトカーが乗ってきてしばらくの間見える距離で走っていました。きっと大丈夫かどうか警戒していたのでしょう。やがてどこかのICを下りていきました。

北陸道は、行きの中央道の渋滞が嘘のようにほとんど貸し切りのような状態でした。ヨンマルのコンボイだけが夕日を背に受けて並んでいました。写真では分かりにくいですが、42の屋根が歪(いびつ)になっているのが写っています。
米原JCから名神へ。その頃には高速で走行しても大丈夫だと自信が持てて120km/hでも巡航できました。ボディがこんなになってもシャーシーに問題が無ければ関係なく走るんですねぇ。

ヨンマルって強いな。。。



この2泊3日のツーリングで、ヨンマルというクルマの強さを再確認する事となりました。
このヨンマルの構造と部材の強度は、何があっても最後の最後まで走る事を念頭に設計されている車なんだという事。私は身をもってヨンマルの本質を垣間見ることが出来たのだと思っています。

しかしこの旅から無事に帰還できたのは、なによりもクラブの皆さんのおかげです!。
仲間という存在を本当の意味で実感した旅でした。人の情け、有り難味が身に沁みました。。。
そして自分がヨンマルに相応しい乗り手になるためにはまだまだ・・・ぜんぜん修行が足らない事を思い知ったのでした。。。

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