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※20年前のお話ですが、写真は当時のものではなく全てネットから拝借しています。
(1991年)当時、私にとって四国は未知のエリアだった。
クラブの先輩から 「剣山のスーパー林道は日本一長い」 と聞かされずっと憧れてはいたのだが、海を渡って行かなければならない四国は、私にとってはなんだか敷居が高かった。
マップルで見た四国は、険しく切り立った山々とギザギザした国道に覆われていた。 四国と言ってもいったいどこをどう行くのが良いのか、どのくらいの時間を走ればどの辺まで行けるのか・・・皆目見当もつかなかった。
ランクルに乗り始めて以来、とんでもない転倒事故や失敗を繰り返し経験していたヘタレな自分が、独りで行くには不安ばかりが先に立ちなかなか実行に移せずに居た。
しかし4thLCM以降、入会当時から比べてクラブ行事がどんどん忙しくなっていた。それは経験値に比例するかのように。。。
そして何時しか “ 濃ゆい人間関係(師弟関係) ” に疲れを感じるようになっていた。心のどこかで 『 独りで気ままに走りたい 』 という欲求が芽生えていたと思う。遊びで入ったクラブなのに責任や重圧が増えていく団体行動に閉塞感を感じていた。
そんな折に、クラブの殻を打ち破るようにオーストラリアに行った先輩たちの姿は眩しかった!。それですっかり気持ちが高揚した私は 「ウジウジ燻ぶっていないで具体的に行動しよう」 と決めた。
その夏、人生で初めて 『 免停 』 を食らった。。。
講習の指定日が盆休みの真っ只中・・・、しかも住民票を移していたので、帰省していた京都からわざわざ光明池(和泉市)の運転試験場まで片道2時間・・・電車で行った悲しい思い出が。。。
試験場で怖いビデオを見せられて (わしゃ駐禁で免停になったんや!っちゅうに・・・ToT) 、いささか怖気づいて京都へ帰って来たが、行くと決めていたので晩くなったが出発した。
夜に京都を発ちR171号を南下、神戸からはR2号、明石を過ぎてからはR250号を、海沿いに下道で倉敷まで走った。播州赤穂に差し掛かる頃に夜が明けてきた。備前からはブルーラインに乗って岡山へ。このブルーラインから見えた朝焼けの海は今でも忘れられない。
当時、完成したばかりの瀬戸大橋を渡って四国へ入る、これが一つ目の目的だった。
ただ、橋だけは完成しているがその前後の道路はまだまだほとんど未完成だった。あの当時は山陽道が未だ無く、中国道までの連絡道路も無かった。。。持ってた地図には載ってない道もあるし・・・そういうことも行って見なけりゃ理解できなかった。そんなわけで行き帰りはエライ不便だったのを憶えている。
瀬戸大橋の少し手前の小さなPAのような場所で限界を迎え、朝の10時ごろまで仮眠をとり、眠たい目をこすりながら瀬戸大橋へ向かった。 これまで経験したことがないスケールの橋にちょっと感動した。瀬戸内海を堂々とヨンマルで渡っているのがなんだか不思議だった。。。
坂出からR438号南下、吉野川に突き当たり、川に沿ってR192号を東に、そしてR193号を木沢村へと上がっていく。
これより先、まさに四国の懐の深い山を思い知ることに。。。
ひとたび四国の山々に分け入ると、そこはまさに秘境という言葉がぴったり合う。ヨンマルのAMラジオは早々と無反応になり、一山一山越えるのにはその高低差ゆえにたいへんな時間が掛かる。国道とは名ばかりの林道のような狭い鬱蒼としたその “ 酷道 ” は、しばしば道を間違ったのではないか?と不安にさせられたが、いきなり対向で現れる10tトラックの多さと、時折り現れる錆びて苔生したような国道の看板が “ 間違いなく国道である ” 事を教えてくれた。。。
岳人の森キャンプ場を過ぎてしばらく走ると林道の分岐点があった。
剣山スーパー林道は何十kmものフラットダートが幾重にも山を越えて延々と続く林道。その長さゆえ途中でいくつもの県道や生活道路が交差している。
( 実際に走ったルートは全線の2/3くらい )
(剣山スーパー林道の全線はこれだけあります。)
↓
高の瀬峡まで下りてくると間もなく終点。河原に下りて野営。 とても好い河原だった。
少々流れの強い川をヨンマルで悠々と渡り、中洲にテントを張った。
( 東川千本谷林道。 伊尾木林道を経て土佐湾へ )
翌日は東川千本谷林道に入り、伊尾木川林道を経て太平洋へ抜けた。 山に入っているあいだ全くの無反応だったヨンマルのAMラジオから“鳥羽一郎”の演歌が聞えてきて、ようやく人里に下りて来たのだと安堵したのだった。。。
さんざん山を走った後に真っ青な太平洋を右に見ながら延々と走る。なんと贅沢なことだろう。
四国の右側の南の先端である室戸岬を折り返し、海南市から海部川を遡って再び山に入る。
もう嫌
広い真っ暗な河原で独り、ランタン点けたらカゲロウの群が襲来、光を反射するアルマイトの食器にまでびっしりで・・・。
コンソメスープの鍋の蓋が開けられない。・・・夕食は難儀した。。。
帰り道、再び瀬戸大橋を渡った。
四国の深い山々や真っ青な海の色が目に焼きついていた私には、行きの時に抱いた感動が嘘の様に、ただ興醒めな人口建造物にしか見えなくなっていた。。。
そして本州へ渡ってからがたいへんだった。海沿いに下道で帰る気にはなれず・・・しかし山陽道なんてまだ無かったので、仕方なく倉敷からR53号を中国道の院庄まで走り、大停滞の中国道で帰った。
つくづく本州は地獄、渋滞とは無縁だった四国は天国だったと思った。。。
旅のあいだずっと単独だった私は、すっかり人恋しくなっていた。。。
旅から帰ってしばらくの間、いつもより優しくなっていた・・・ような気がする。。。 |
記憶(1991年)
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詳細
四国の旅 大鹿キャンプ 東海ジャンボリー オーストラリアンサファリ1991年 夏 クラブツーリング(大鹿〜秋葉街道) 牧場 5thLCM 冬の終わりに・・・ (1991年 春) 1991年冬 クラブ新年会
コメント(12)
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在籍していたクラブの先輩が、温めていた夢をついに実現。
オーストラリアンサファリという海外ラリーに行った。
30代半ば、仕事も家庭もある身。。。自分達で企画書を書いて、スポンサーをコツコツ探して・・・すごいと思った。
二人の人柄、それゆえに成った人の繋がりの賜物。
ついには地元自治体の応援をも得ての実現だった。
地元は 『 近江商人 』 の里。 それが 『 あきんど号 』 の名前の由来ではなかったかと
クルマは、この時すでに絶版となって久しかった9年前(当時)のBJ41だった。
オーストラリアンサファリは、その昔 『 サザンクロスラリー 』 と呼ばれていた過酷なラリーだった。
そんなラリーにあの古いヨンマルで挑んだのだ。その厳しさ、過酷さは行った者しか分からないだろう。でも、あの時の経験が今の二人の凄さに秘められている。
あきんど号にこびりついていたオーストラリアの土 (ブルダスト)
あの夏、記念にもらった私の宝物。
この二人の先輩のチャレンジにとてつもない刺激を受けたのを憶えている。
どう表現したらいいのか分からなかったけど 、「年齢なんか関係ないんだ。想ってるだけじゃなくて “ ランクルで走りたい ” という想いにもっと素直に、もっと具体的に行動しなければ・・・」 そんなふうに思った。
先輩達が発った後、前々から想いながらも勇気がなくて行動に移せずにいた、未踏の地への旅に出た。
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1991年の春、みんな気楽なクラブ行事&走行会に飢えていました。
前の年には4thLCM( http://blogs.yahoo.co.jp/lcbj42004906/17274746.html )の主幹で、ろくに家族サービスもできなかった事もあって、雪解けを待って久々に温泉ツーリングに行きました。
でも行き先はやっぱり大鹿村・・・(笑)。。。
半年以上通い詰めたこの場所への想い入れもありましたが、クラブ内でコースに携わったメンバーは限られていましたので走れなかったメンバーはコースを知りませんでした。そういうわけで、帰りは山を越えて太平洋まで下り東名高速で帰途に就く、LCMのコースを逆行する行程になりました。
家族連れてゆっくり温泉に浸かり、林道を巡り、河原に下りてゆっくりコーヒーを淹れて。。。
LCMでは大鹿村のメインストリートをほんの一部を使わせてもらったに過ぎませんでした。それで今回のツーリングでは、温泉旅館に泊まって村の隅々まで行けるだけ行ってみようということでした。
LCMでは知ることが出来なかった大鹿の美しい風景に出会うことができました。
無線で話しながら、キレイな景色を楽しみながら・・・このコースを何度も走った中で、もしかしたらいちばん楽しかったかも。。。
地蔵峠だったかしらびそ峠だったか・・・これを撮った場所が思い出せません。。。
今でもお付合いが続いている方は、もう僅かになってしまいました。。。
みんなどうしているのかなぁ。。。 |
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The 4th Landcruiser’s Meeting が専門誌に取り上げられ、クラブは少しばかり有名になった。。。京都&滋賀のメンバーで構成され、また活動の拠点としていたクラブに対し、遠くに棲むランクル愛好家からコンタクトを取ってくることが増え出したのはこの頃からだった。
そりゃそうだ。。。京都&滋賀エリアのクラブが静岡〜長野県を股にかけてLCMをやってしまったんだから。。。
4thLCMから1年が経った頃、関東より数台入会の申し入れがあり大鹿で会う事になった。この時はじめて「鳥ヶ池」に行った。ここは中部エリアのクラブに教えてもらった、当時はまだそんなに知られていなかった“とっておきの隠れ家”。林道もまだ多くが非舗装だった。夜に京都を発ち、真夜中の霧に包まれた林道を上がっていくと数台のヨンマルが先に到着していた。
そんな関東勢の中にNが居た。同い年のヨンマル乗り。。。
11月も中旬になってからの、標高1700m超の鳥ヶ池キャンプ場は夜には氷点下になった。。。ペール缶に火を熾し、焼き網を渡した上に乗せた真っ黒コゲのヤカンで地酒『仙譲』を熱燗にして回し飲みながら夜通し語り明かした。ランクルのこれからを。。。 時あたかも、あの忌まわしき最初の『NOX削減法』がいよいよ本決まりになり、ランクルは受難の時代に突入していく・・・・そんな時世であった。。。
以来、メンバーは関東、中部、北陸、九州、中国、そして北海道にまで広がっていった。遠くの仲間と何度この鳥ヶ池に上がったことだろう。。。
「鳥ヶ池で待ってる」
っていうのが仲間内で合言葉のようになって行った。
今年は行く事が出来なかった大鹿。。。
みんな・・・ごめんね。。。 |



