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信頼の3B

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B型エンジンは業務提携したダイハツ工業が開発した。ダイハツはもともとエンジンメーカーが出自であり、舶用や鉄道用などの用途では早くから高速ディーゼルエンジン開発の経験を積んでいた。1960年代にはいすゞ自動車を追うように小型トラック用ディーゼルエンジン開発にも成功しており、これらの実績からB型の開発を受託したものである。 堅実かつ汎用性の高いエンジンで、当初の3Lから最終的に4.1Lまで排気量拡大、ヘッドの直噴化やターボチャージャー装備など改良を重ねつつ、1969年から30年以上にわたり、トヨタ系の中型トラックやマイクロバス・四輪駆動車等のエンジンとして広く用いられた。












13年放置されていた3Bのヨンマルを起こす。。。

でもその後また放置され、、、ふたたび起こす。。。


このエンジンはしぶとい


DISCOVER CROWN SPIRIT PROJECT

36年乗り続けた〜 で始まるストーリー

・・・俺もこんなお爺さんになるのか???

ヤバイヤバイ

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福岡トヨタがチャレンジしたのはは5代目クラウン。
オーナーが36年間乗り続けた愛車。ある日突然車が止まり、近所の修理工場に修理を依頼したが、直すことは難しくスクラップにするしか無いと言われたそうだ。しかし、毎朝欠かさず挨拶するほどに思い入れがあるクラウン。スクラップにするには忍び難いと、車庫に大切に保管していた。

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そんなある日、36年間のクラウンへの感謝と想いを綴った手紙をメーカー宛てに送付したところ、クラウン開発責任者の目に留まり、最寄りの販売店となる福岡トヨタに「なんとかレストアで愛車のクラウンを蘇らせてあげたい」と相談。福岡トヨタもオーナーの愛車への想いに感銘を受け、レストアすることに決まった。

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動かない原因を追究していくと、エンジン内のピストンとクランクシャフトを結ぶコンロッドの焼き付きが原因と判明。エンジンの原理は、燃料をシリンダ内で爆発させてピストンを上下に往復運動させる。そのエネルギーを回転運動へ変換し車輪を回しているが、コンロッドは往復運動を回転運動に変換するエンジンの最も重要な部品の1つだ。40年前の交換部品が世の中に殆どない状況下では、致命的な故障である。エンジニアの技術を駆使してオーバーホールしても、エンジンを当時の最高の状態に戻せる保証がなく、オーナー様が、今後も安心して愛車にお乗りいただくことが難しいと判断。レストアそのものが大きな壁にぶち当たってしまったそうだ。

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そんな中、「5代目クラウンの代わりのエンジンが見つかった」という嬉しいニュースが舞い込み、早速エンジンを入手。載せかえるエンジンのオーバーホールからレストアを再開させることができ皆が喜んだと、当時を振り返り話してくれた。


今のエンジニアの修理作業は、パソコンで車の状態を診断し悪い部位をアッセンブルで交換するのが仕事になっている。しかし、5代目クラウンが登場した時代は、エンジニアの経験が故障原因を見つけ、本当に悪い部分のパーツだけを交換したり、パーツを磨き直し再利用して修理する、まさしくエンジニアの知恵と技が試された時代だ。もちろん今回のレストアでは、パソコンで車の状態を診断はできない。ベテランエンジニアの指示のもとエンジンを分解して状態を調べたり、パーツを磨き組立て調整し直すなど、エンジニアの技術力を磨く絶好のチャンスだったと若いエンジニア達はいう。また、オーナー様の想いも伝わり“何とかしてあげたい”というエンジニア魂に火がつき、完成時のオーナー様の喜びに“本当にレストアして良かった”という満足感で満たされたそうだ。 CROWN RESTORE STORY編




イメージ 21950年8月、米軍および発足直後の警察予備隊から、四輪駆動の1/4t積みトラックと3/4t積みトラックの試作要請を受けた。朝鮮戦争が勃発してから2ヶ月後という、騒然とした世相の中での発注であった。
戦前、トヨタ自工では陸軍の求めに応じて、KCY型トラック、AK10型などの四輪駆動車を生産した経験があった。その経験と82馬力B型ガソリンエンジン、そしてSB型トラックの後輪軸などの足まわりの部品を利用し、1951年1月、わずか5ヶ月の開発期間で1/4t積み小型四輪駆動車の試作車を完成させた。この試作車はジープ型トラックであることから『トヨタ・ジープ』という名で呼ばれた。当時のテストドライバー平一郎氏は、このトヨタ・ジープをありとあらゆる場所に持ち込んだ。そのテストの最後に、寛永時代の馬術家、曲垣平九郎が馬で登ったという東京・愛宕山の階段を登ってみたいと言った。

1634(寛永11)年、3代将軍、徳川家光が将軍家菩提寺の芝・増上寺に参詣の帰路、愛宕山に咲く梅に気づき、 「誰か、馬であの梅を取って参れ!」と命じた。
居合わせた多くの武将が怯むなか、四国・丸亀藩の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬で急な石段を上り降りし、家光から「日本一の馬術の名人」と讃えられた。その名声が知れ渡ったことから「出世の石段」と呼ばれるようになった。

しかし、その時には階段の中央には柱が立っておりトヨタ・ジープが登ることは叶わなかった。そこでこれに似た岡崎市能見町の不動さんの階段を登り下りすることになった。平一郎の操るトヨタ・ジープはこの階段をジグザグに登り下りをやってみせた。

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このクルマは国家警察関係者立ち合いの元で試験が実施され、この時、富士山の登山道を登って6合目まで到達したという伝説を持つ。


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警察予備隊への採用テストでは、米製ジープに負けない性能を認められながら、けっきょく諸般の事情により警察予備隊への採用は見送られ、その代わりに国家警察に採用されることが決まった。しかし実際に量産が開始されたのは1953年になってから。この間2年もかかったのは、官庁仕様が決まるのに時間が掛かった事と、発注が年1回だった事に因る。初年度は『トヨタ・ジープBJ型』として298台がラインオフした。

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翌年、「ジープ」は米国ウィリス社の登録商標であるため、通称名を変更する必要が生じ、「トヨタBJ」と改めたのち、1954年6月に「トヨタ・ランドクルーザー」と正式名称にした。

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1955年(昭和30年)11月にはBJ型ランドクルーザーを全面改良し、BJ20系とするとともに、F型エンジンを搭載したFJ20系が加わった。トヨタBJが軍事用を重点に開発されたのに対して、20系は一般民間用として広く使用されることを目的としていた。具体的な改良点は、ホイール・ベース短縮による機動性の向上、シンクロメッシュ方式の採用によるトランスミッション操作性の向上、室内空間の大幅拡大による居住性の向上、板ばねの変更による乗り心地の改善などであった。
こうした機能・性能の改善に加えて、富士山6合目まで走破したランドクルーザー本来の踏破性能の高さは、世界の山岳地帯、砂漠地帯の国々で高く評価され、輸出先国と輸出台数は大幅に伸びていった。すなわち、1955年にトヨタの輸出先国は14カ国、ランドクルーザーの輸出台数は98台であったが、1956年に35カ国・518台、1957年には47カ国・2,502台へと急伸した。

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一方、3/4トン積み四輪駆動トラックは、1951年1月にBQ型試作車として完成し、翌2月には警察予備隊による公式試験が行われた。BQ型四輪駆動トラックも、戦時期の技術的経験を生かして開発され、数次にわたる運行試験を繰り返したうえで正式採用となった。
また、BQ型の開発に並行して、1951年8月から2.5トン積み六輪駆動トラックFQS型の開発に着手し、1952年2月にその試作車が完成した。FQS型六輪駆動トラックは、約1年をかけて警察予備隊(保安隊)の試験をクリアし、1953年2月に正式採用となった。
1954年、警察予備隊(保安隊)は『自衛隊』へと名称変更された。
                    (トヨタ75年史より引用しています)

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