Levanteのミュンヘン滞在記

サイクリングや、ウォーキングなど、のんびり旅行を楽しんでます。ブログの更新が間に合っていませんが、3月9日に日本に帰国しました。

フランス旅行記

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2018年8月19日(日)〜26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

8月25日、8:00にホテルを出て向かったのはルーブル美術館。


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ルーブルの北側にある、パレ・ロワイヤル広場(Place du Palais Royal)で見たホームレスの方々。
パリはホームレスが多いですが、このように露天に、ごろ寝が多いです。
湿気が少ないので夜露も少ないのでしょうね。
でも、中にはテントを常設している強者もいました。

それにしても、左の方は、地面にうつ伏せに寝ていますが、苦しくないのかな?


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ルーブル美術館の西にはカルーゼルの凱旋門があります。
パリの凱旋門としては、シャルル・ド・ゴール広場に建つエトワールの凱旋門が有名ですが、パリには4つの凱旋門があり、この他はサン・ドニ凱旋門、サン・マルタン凱旋門があります。
なお、カルーゼルの凱旋門からエトワール凱旋門の延長線上にあるグランダルシュ(偉大な門)は、戦勝を記念する「凱旋門」ではありません(日本では一部で新凱旋門と呼ばれているようですが)。

このカルーゼル門もナポレオンの戦勝を記念して作られ、完成当初、門の上にはヴェネチアから奪ったサンマルコ寺院の四頭の馬の像が乗っていたそうです。(今はヴェネツィアに返還されています。)


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前回は、入り口から順に回って、人混みにもまれた、ダ・ヴィンチの「モナリザ」。
今回は開場ダッシュで行って、近くで見る事が出来ました。


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ラファエロの「美しき女教師」


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カナレットの「サンマルコ広場の風景」。

これらの絵画は2016年の訪問時のブログでも紹介していますが、好きな絵なので再度紹介しました。
なお、2016年の訪問時の事は以下のブログで紹介しています。


以下は、前回のブログで紹介しなかった作品を紹介します。


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私の守護神(?)アテナの像です。


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  左:Jean Auguste Dominique INGRESの「シャルル7世の戴冠式でのジャンヌダルク、ルーアン大聖堂にて
     (Jeanne d'Arc au sacre du roi Charles VII, dans la cathedrale de Reims (1429))」 (1780年作)
  右:Paul DELAROCHEの「若い殉教者(La Jeune Martyre)」 (1855年作)


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  左: Antoine Jean GROSの「ヨアヒム・ムラットの騎馬像、1808年から1815年までのナポリの王
     (Portrait equestre de Joachim Murat, roi de Naples de 1808 a 1815)」 (1812年作)
  右: Theodore GERICAULTの「近衛猟騎兵の兵士
     (Officier de chasseurs a cheval de la garde imperiale chargeant)」 (1812年作)


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Jean Auguste Dominique INGRESの「グランド・オダリスク (横たわる女奴隷) 
(Une odalisque, dite La Grande Odalisque)」 (1814年作)


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サモトラケのニケの像は、今回も人だかりがしていました。


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時刻は既に11:30になっており、美術館のカフェ(テラス)で昼食を取りました。


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テラスから見た美術館の中庭。


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再び、アテナの像。


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有名なミロのヴィーナスです。
が、前回同様、今回もこの周りには人が少なかったです。
日本人が思うほどの人気は無い?


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14:20に美術館の見学を終えました。
広くて展示品の多いルーブルの見学は、やはり時間がかかりますね。

ピラミッドの中では、日本の名和晃平氏の「浮遊する空位の玉座」が展示されていました。
2018年7月から2019年1月14日までの臨時展示だそうです。


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面白かったのは、ピラミッドの中のリフト。
丸い筒がそのまま上下して人を運んでいました。


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美術館からコンコルド広場まで歩きました。
この広場には、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていましたが、フランス革命で、騎馬像は取り払われました。革命中、この広場は処刑場となり、ルイ16世やマリーアントワネットを始めとする1000名以上の人がギロチンで斬首されました。

右の塔はルクソールから運んだオベリスクで、左にはエッフェル塔が遠くに見えています。


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更に、家族が歩くと言うので(少し驚きました)、シャンゼリゼ通りを凱旋門まで歩きました。


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シャンゼリゼ通りにあった、ファイブ・ガイズ・バーガー。
アメリカでよく食べたチェーン店ですが、ヨーロッパで見たのはオランダのアイントフォーフェンに続いて二軒目です。


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クスミ・ティーを発見。
妻がここでお茶を購入しました。


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ナポレオンの戦勝を記念して建てられた、エトワールの凱旋門。
ここでは、多くの観光客が記念撮影していました。
決して、おじさんを撮りたかったのではありませんが、家族を長く待たせる訳にもいかず、これが今回のベストショットです。


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凱旋門の屋上から見た景色。
シャンゼリゼとエッフェル塔、アンヴァリッドが見渡せます。


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凱旋門を降りると何か式典の準備をしていました。
8月24日は、第二次世界大戦で連合軍がパリに突入した日で、その記念式典と思われます。
しかし、式典の手際が悪く、きちんと整列するまでに、皆、右往左往していました。


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凱旋門からシャイヨー宮(Palais de Chaillot)に地下鉄で移動し、宮殿のテラスからエッフェル塔を望みます。
この後、エッフェル塔の下まで行ったものの、人が多く今回も塔には上りませんでした。

エッフェル塔の見学後は地下鉄のビラケム駅(Bir Hakeim)に移動し、近くのレストランで夕食を取りました。
この時、時刻は20時をまわっていました。

なお、ビラケム駅の名前は、第二次世界大戦の北アフリカ戦線での戦いの一つ、ビル・ハケイムの戦いから来ているそうです。


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まずはビールです。


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この日のメインはスパゲッティでした。


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夕食の後は、地下鉄のビラケム駅から地下鉄に乗り、シャイヨー宮のテラスに戻って、エッフェル塔の夜景を堪能しました。

21:30にテラスを離れ、ホテルに戻って就寝。


明けて12月26日の朝は、ホテルで少しのんびりした後にチェックアウトし、荷物を駐車場の車のトランクに押し込み、最後のパリ観光に出発。
妻と娘はオランジュリー美術館に向かい、私と息子はアンヴァリッドを再訪しました。


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この日は晴天で、建物も映えています。
Paris Museum Passは、見せるだけで記録は残らないので、同じ博物館に何度でも訪問できます。
昨日は、かなり駆け足で回ったので、息子が再訪を望んだので行きました。


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ナポレオン廟も再訪。


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軍事博物館にあった、城塞都市の模型です。
フランスのプロバンス地方のアンティーブ(Antibes)の模型。


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マルセイユの要塞です。

この後、第一次世界大戦と第二次世界大戦の展示を見学し、13時にアンヴァリッドを出ました。

妻、娘と13:30にホテルの前で合流し、車をピックアップして空港へ。
15:00過ぎに、無事家族はチェックインを済まし、日本に帰りました。


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私は、この日は、空港近郊のAirport Hotel(住所:15 Rue du bois, 77990 Mauregard)に宿泊。
ここは場末感の漂うモーテルでした。その分、宿泊費は安かったですが。


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私にとっての最終日の8月26日は、朝にホテルを出発し、ミュンヘンまでの約830kmを、トイレと給油以外は停車せず、約8時間で走りました!

上の写真は、13時にライン川を渡河した際の写真。
やはりドイツに戻ると、ホッとしますね。

アパートに着いたのは16時。
溜まった衣服を洗濯する時間が取れました。(笑)


終わり。




2018年8月19日(日)〜26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

8月24日〜26日は、パリ観光です。

なお、パリは2016年10月29日〜11月2日に訪問し、以下のブログで詳細に紹介しています。
興味があればご覧ください。



8月24日は朝の6:30から、車を路駐→地下駐車場に移動させた後、ホテルで朝食を取り、8:40にホテルを出発。

地下鉄の1日券を購入しましたが、料金は7.5ユーロ/人でした。
ところが、次の日に2日券を購入すると、料金は19.5ユーロ/人でした。
2日券にすれば、1日当たりの料金が安くなると思ったのですが、逆に高くなっています。
良く調べると、初日は市内の1-2ゾーン限定の1日券で、二日目は1-3ゾーンの2日券でした。
一般のパリ市内観光は1-2ゾーンで十分なので、購入の際はご注意を。


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この日の観光はオルセー博物館が最初です。

前のブログでも言いましたが、今回はParis Museum Passを購入しており、市内の博物館は個別にチケットを購入せずに入場出来ます。
オルセーでは一般客は写真の左側から入るのに対し、Passの保有者は右側から入ります。

Paris Museum Passは4日券で62ユーロ/人。(さらに事前に郵送したので、郵送料も別途かかりました。)
元を取れるかは微妙な所ですが、購入の列に並ばずに済むのは大きなメリットだと思います。
なお、パリの博物館は18歳以下は入場無料となるため、娘の分は不要でした。

とは言え、オルセー博物館には9:30の開館の40分前に着いたので、一般客もまだおらず、Passのメリットは無かったですが。


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オルセーの前に並ぶ彫像。
各大陸を女性(女神?)で体現させた像です。
(手前から、欧州、アジア、アフリカ、南米、北米、豪州です。)


9:30にオルセーに入場し、まずは5階の印象派のフロアーに直行しました。


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モネの「アルジャントゥイユの橋(Le Pont d'Argenteuil)」(1874年)
パリの北西にあるアルジャントゥイユの風景は多くの印象派の画家が描いています。

私は写実的な絵が好きですが、印象派の絵は明るい色使いと共に、写実性が無くともリアルに見え美しいですね。


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ルノワールの「都会のダンス(Danse a la ville)」(1883年)
風景画の多いモネに対して、ルノワールは人物画が多いです。
私はこの絵を見ると、リョーユーパンのCMを思い出します。(笑)


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ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会(Bal du moulin de la Galette)」(1876年)


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オルセー博物館の5階からは大時計を通してモンマルトルが見えました。


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5階から見たオルセー美術館の全景。
元は1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて建設された、オルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルでした。
確かに美術館としては不自然と思っていましたが、駅舎としてみると納得です。
オルセー美術館は1986年に開館しました。


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2階にはゴッホの自画像(1889年)があります。
でも、ゴッホの絵はリアルさが失われ、私はあまり好きでは無いです。


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中世の彫像を思わせる展示がありました。
Eugène Guillaumeの作った像に、Alexandre Denuelleが彩色した、「聖クロティルダ(Sainte Clotilde)」で、1854年の作。



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Auguste Glaizeの
「ガリアの女性たち: ローマの侵略のエピソード
 (Les Femmes gauloises: episode de l'invasion romaine)」 (1851年)
美術館の開場を待つ間、我々の前に、この絵の女性の顔をアップにしたポスターがあり、息子とその迫力を話していました。


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Tony Robert-Fleuryの「 コリント最後の日(Le Dernier jour de Corinthe)」(1870年)


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有名なミレーの「落穂拾い」(1857年)


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同じくミレーの「晩鐘」(1857-59年)


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アングルの「泉」(1856年)
これもルネッサンス後期の絵画を思わせる絵です。


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ローザ・ボヌールの「ニベナを耕す(Labourage nivernais)」 (1849年)
近づいてみると印象画の描き方ですが、離れてみると、とてもリアルに見えます。


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フレデリック・オーギュスト・バルトルディの「世界を照らす自由(La Liberte eclairant le monde)」。
彼が制作した、ニューヨークにある「自由の女神」は、1878年のパリ万博に頭部を展示し、その後も寄付を募って、1884年にパリで仮組みされ、アメリカに送られました。
この像は、オルセー美術の前身のオルセー駅舎を建設する際の1889年に作られ、ここに設置されました。

12:00にオルセー美術館を出ました。


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美術館の前のベルシャス通り(Rue de Bellechasse)にあるイタリアンで昼食を取りました。
家族と一緒なので、今回の旅では、ちゃんと昼食を取っています。(笑)


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昼食後に行ったのはアンヴァリッド。
ルイ14世が傷病兵を看護する施設として1671年に計画し、1674年に完成。

正面のドームはナポレオンの霊廟です。
また、当時の傷病兵の宿泊所は、現在は軍事博物館になっており、中世、ナポレオン時代、第一次世界大戦、第二次世界大戦と幅が広く、見がいがあります。

軍事博物館は、2016年10月に訪問した際に、以下のブログで紹介していますので興味があれば見てください。

ここでは、前回の訪問で見れなかった、第一次世界大戦〜第二次世界大戦の博物館の展示物を紹介します。


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博物館に向かう階段のホールに展示された、フランスの名戦車ルノー FT-17。


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第一次世界大戦のコーナーでは、日本兵の軍服も展示されていました。


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第一次世界大戦と言えば塹壕戦。
塹壕から顔を出さずに打つことのできる、塹壕戦専用の銃も、多く開発されました。

第一次世界大戦の展示は充実していましたが、史実の紹介が多く、あまり写真を撮っていません。
続いて、第二次世界大戦のフロアーです。


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ドイツ軍の二号戦車F型の砲塔。
私は、ドイツらしい、この角ばった砲塔が好きです。


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フランス軍のルノー R35の砲塔。
ドイツ軍と比べると、流線形です。
性能面でのデザインは、こちらの方が優れていると思いますが、美しくないです。(笑)


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ルノー 31R UE 歩兵用補給車。
歩兵に弾薬を補給するための車両で、最前線での補給用や軽牽引車として使われたようです。


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珍しい車両なので、後ろからの姿も紹介します。


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空中投下用の折り畳み式オートバイです。
空挺作戦で使われたのでしょう。

展示の最後は階段に設置された、ドイツのV1、V2ロケットでした。


15時にアンヴァリッドを出た後、地下鉄でシテ島に移動しました。
シテ島では、まずコンシェルジュリー(Conciergerie)を訪問。
元は14世紀に作られた宮殿ですが、後に牢獄として使われました。
処刑前のマリーアントワネットも、ここに投獄されていました。

2016年の訪問を以下のブログで紹介しています。



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シテ島のサント・シャペル(Sainte Chapelle)です。
ステンドグラスに囲まれた、この教会の内部は、本当に美しいです。


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サント・シャペルは二階建てになっており、一階も、とても美しい装飾です。


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パリのノートルダム大聖堂。


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シテ島からサン=ルイ島に移動。
写真はサン=ルイ島で会ったネコ。
ご主人に扉を開けてもらうのを待っていました。


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サン=ルイ島で見かけた、お洒落なスイーツ屋。


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モルラン通り(Boulevard Morland)にあった、アーセナル(Pavillon de l'Arsenal)。
1878年-1879年の建築。


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バスティーユ広場に来ました。
フランス革命の発端となる、バスティーユ牢獄の襲撃事件が発生した場所ですが、革命後に牢獄は破壊され残っていません。

右の写真は、そこにあった広告塔。
日本のアニメのように見えますが、家族全員知りませんでした。


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バスティーユ広場の北東にあるケレ通り(Rue Keller)です。
息子がネットで調べた、パリのオタク通りです。
確かに、漫画ショップやコスチュームショップが数店ありましたが、絶対数は秋葉原などとは比べるべくも無かったです。(笑)
でも、漫画屋で扱っている漫画の種類は豊富で新しかったです。
折角なので、漫画屋で息子と娘がフランス語版の漫画を買いました。


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通りにあった歩道のポスト。
目玉おやじ?


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コスプレ・カフェもありました。(笑)
店内を覗いていませんが、コスプレをした店員がサービスしているのか、コスプレイヤーが集まるカフェなのか???


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この日の夕食は、バスティーユ広場のそばの日本食レストラン。
寿司は、まあまあでしたが・・・


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焼き鳥、特につくねは微妙な味。
お腹いっぱいになった事もあり、私にしては珍しく完食できませんでした。


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この日の最後は妻の希望で、ルーヴル美術館の北にある、パレ・ロワイヤル(Le Palais Royal)に立ち寄りました。
当初ここは、ルイ13世の宰相リシュリューの城館でしたが、彼の死後に主君に寄贈され、ルイ13世の死後、1643年に当時5歳のルイ14世が移り住んだことで、パレ・ロワイヤル(王宮)と呼ばれるようになりました。

と言いつつ、上の写真はその横にあるカフェ。


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これがパレ・ロワイヤルです。(2016年の撮影)

この後、少しルーブル美術館周辺を散策して、ホテルに戻りました。

パリ観光 その2に続きます。

2018年8月19日(日)〜26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

8月23日の12:00にルーアンを出発しパリに向かいますが、途中ベルサイユ宮殿に立ち寄りました。


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14時過ぎにベルサイユ宮殿に到着。
パリ市内の博物館の見学のため、Paris Museum Passを事前に購入しており、ベルサイユ宮殿もPassでカバーされています。Pass保持者は、個別にチケット購入する必要が無いので、直接入場の列に並ぶことが出来ます。

今回、ベルサイユ宮殿は、時間の都合で宮殿のみを見学しましたが、庭は2017年4月17日に見学しており、下のブログで紹介しています。


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ベルサイユ宮殿内へは中央棟の南東端から入りますが、建物を入るとすぐに中庭を抜け北側の建物に移動しました。上の写真は北側に入った所。
ここで、再び入場チェックとガイドフォンの提供(有料)があったので、館内の地図が無いか聞いたところ、今来た南側の建物にあるとの事。
家族を置いて戻るのも少し気が引けたのと、入り口の混雑に戻るのが嫌だったので、結局諦めました。
(見学のメインとなる二階の地図は、二階に上がった所にありました。)


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王室礼拝堂です。
1699年から建築が始まり、1710年に完成しました。


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   左:礼拝堂から二階への階段に向かう廊下。
   右:そこにあったルイ7世の像。何も成果の無かった第2回十字軍に参加した
      ぐらいしか結果の無い王でした。


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二階に上がって最初にある部屋が「ヘラクレスの間」。
王室礼拝堂が完成する前は、礼拝堂があった場所で、1712年に着工し1736年に完成しました。
金と、色大理石に覆われた壁に、美しい絵画が加わり、豪華そのものです。
 
 
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「ヘラクレスの間」の天井画


宮殿中央塔の北側の二階には、この「ヘラクレスの間」から、「豊饒の間」「ヴィーナスの間」「 ディアナの間」「マルスの間」「メルクリウスの間」「アポロンの間」と続いていますが、かつて王の居間として使われていました。

これらの部屋の写真は、攻城記で紹介しています。


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「アポロンの間」に続くに部屋は、北西の角にある「戦争の間」。
ここは「鏡の間」(中央部に見えています)に入る前の控えの間として使われたと思われますが、フランス王家の栄華をアピールするため、とにかく豪華です。


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天井は勝利の女神が描かれています。


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「戦争の間」の「アポロンの間」に面した壁には、ルイ14世の騎馬像が、楕円形の縁に化粧漆喰の浮き彫りで描かれています。これはコワズヴォ−作だそうです。


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ヴェルサイユ宮殿の一番の見どころとなる、「鏡の間」。
この部屋は長さが73mあり、西に面した建物のほとんどを占めています。
「鏡の間」と言うより、「鏡の回廊」と言った方がイメージに合いますね。

1687年に完成した、この豪華な部屋は、その後、各国の宮殿造りに影響し、いくつもの城で「鏡の回廊」が作られました。ヴェルサイユ宮殿の建物を、まんまコピーした、我らがルーちゃん(ルードビッヒ2世)もいますが。(笑)

ヴェルサイユ宮殿もフランス革命の際に革命派から破壊を受け、当時の物は天井からつるされたシャンデリアのみだそうです。
今は、1770年の王太子(のちのルイ16世)と、マリーアントワネットの婚儀がおこなわれた当時の装飾に復元されているそうです。 

また、1871年に、この「鏡の間」でドイツ皇帝の即位式が行われ、1919年に、ドイツ代表が「ヴェルサイユ講和条約」に調印しました。 


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「鏡の間」は、内部の装飾だけでなく、面した大庭園の景色も含めて、フランス王家の威光を来場者にアピールしました。


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「鏡の間」の東側には、王のプライベートな部屋が並びます。
と言っても、フランス王にプライベートは無いのか、東の部屋は「閣議の間」。
王が諮問(財務諮問や国務諮問)を召集し、ここで話を聞きました。


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その隣には「国王の寝室」があります。
就寝はもちろんですが、軽い晩餐を取ったり、朝や夜の引見も、ここで行われたそうです。
1715年9月1日にルイ14世が亡くなったのも、この寝室だったそうです。


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続いて「牛眼の間」と呼ばれる部屋は、当時は王の起床や就寝の為の従者の控えの前として使われたそうです。従者の控室も豪華ですね。


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この後、「平和の間」から続く、南側の王妃の居間の見学になるはずですが、改装しているのか「王妃控えの間」(上の写真)以外、入る事が出来ませんでした。残念。


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南翼二階にある「戦闘の回廊」。
この回廊の両側にはフランスの重要な戦いを描いた絵画が並んでいます。


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「アンリ4世のパリ入城」
ナバラ王アンリ(後のアンリ4世)は、カトリックとプロテスタント間の争いが絶えないフランスで、当初プロテスタント側に立って戦っていました。
1589年のフランス王アンリ3世の死によって、王位を継承しアンリ4世となりましたが、当時カトリック勢力が押さえていたパリが、プロテスタント王を受け入れる可能性が無いと判断した彼は、1593年にカトリックに改宗し、1594年3月22についにパリに入城しました。
彼が、ブルボン朝を開きました。


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「オルレアン包囲の謁見」
1429年4月末から5月初に行われたオルレアン開囲戦の後に、オルレアンに戻ったジャンヌ・ダルクを描いた絵です。
オルレアンの解放は、ジャンヌ・ダルクにとって最初の戦闘での勝利であり、百年戦争において仏側が盛り返すターニングポイントとなった戦いです。


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「アウステルリッツの戦い」
1804年5月のナポレオンによるフランス帝政成立に危機感を持った諸国が、1805年4月に第三次対仏大同盟を組んでフランスに宣戦布告。同盟国は開戦当初こそ、フランス帝国の同盟国であるバイエルンに侵攻しミュンヘンを占領したものの、8月にフランス軍が参戦してからは形勢は逆転。
11月にはフランスはウィーンを占領し、12月2日に、アウステルリッツにおいて、オーストリア・ロシア連合軍を撃破しました。
この戦いによって、オーストリアは戦争から離脱し、第三次対仏大同盟は瓦解しました。

なお、この戦いは、フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから、三帝会戦とも呼ばれています。


17:10にヴェルサイユ宮殿の内部の見学を終え、ヴェルサイユの庭園に移動。
そこから出発する、プチ・トレインに乗って、トリアノン宮殿に行きました。


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時間が遅くなったので、大トリアノン宮殿は車窓からの見学のみ。
この宮殿はルイ14世により、1687年から1688年に建築されました。
この屋敷は、彼の愛妾との隠れ家として用いられたり、王の離宮として使われました。


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17:50に小トリアノン宮殿に到着。
この屋敷は、ルイ15世によって、1762年から1768年に建築されました。
当初はルイ15世の公妾、ポンパドゥール夫人のために建てられたものの、宮殿が完成した時は既に彼女は亡くなっていました。
その後、ルイ16世より、王妃マリー・アントワネットに与えられ、彼女はこの離宮を愛しました。


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二階に上がる階段のホール。
豪華では無いですが、センスの良い階段だと思います。


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ダイニングルーム。
ヴェルサイユ宮殿のより、少し落ち着いた装飾です。
それでも、毎日過ごすには派手だと思いますが。


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大サロンは赤が強くてあでやかです。


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王妃の寝室はかなり落ち着いた装飾で、王妃のセンスの良さを感じます。


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宮殿の周りには、英国式やフランス式の広大な庭園があります。
写真は宮殿の南東にある、愛の殿堂。
ルイ16世がマリー・アントワネットを訪問した際、ここでよく会っていたそうです。


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宮殿の北側にあるベルベレーデ。
池の周りに八角堂と人口洞窟があります。


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西側に広がるフランス式庭園から見た宮殿。


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フランス式庭園から見た西側の景色。
この奥に、大トリアノン宮殿があります。

18:30に小トリアノンを出ました。
妻は、東にあるマリーアントワネットの作った「王妃の農村」まで行きたかったようですが...プチトレインの最終が19時なので、そこまで回る時間は無かったです。
もう少し時間配分を考えれば良かった。


ヴェルサイユに戻った後は、駐車場で車をピックアップして、パリに向かいました。
この日の宿はパリ市内のホテル「Courcelles Etoile」。 
(住所: 184 Rue de Courcelles, 75017 Paris)
地下鉄のPereire駅に近く便利なのですが、専用駐車場が無いのが問題です。

市内に入って判りましたが、パリ市内での路駐は、事前支払いで、最長が6時間。
金額も35ユーロと高額で、6時間毎に料金を払うのは無理。
結局、地下駐車場の「Parking Indigo Wagram-Courcelles」 (住所:103 Rue Jouffroy d'Abbans, 75017 Paris)に車を停めました。ここは後払いが可能で、セキュリティーも高いので正解かな。(?)
でも、ここでも、39.60ユーロ/24時間と、パリ市内の駐車は異常に高いです。


パリ観光に続きます。

2018年8月19日(日)〜26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

23日の8:30にカーンを出発し、パリに向かいますが、途中ルーアン(Rouen)に立ち寄りました。

ルーアンは、中世からの古都で大司教座がおかれていました。
更に、ルーアンと言えば、百年戦争でのフランスの英雄ジャンヌ・ダルクが異端裁判の後に火刑に処された地として有名です。


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10時にルーアンの駐車場に車を停め、ジャン・ダルク通りに出たところにあった、サン・アンドレの塔(Tour Saint-André)。この塔は、16世紀に作られたサン・アンドレ教会の尖塔として建てられましたが、19世紀後半の都市改造の中で教会は破壊され塔だけが残りました。


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ルーアンの顔の一つが、グロ・オルロージュ(Rue du Gros Horloge)通りにある大時計です。
 この大時計はヨーロッパに残る大時計の中でも特に歴史が古く、 14世紀から1928年まで一度も止まることなく動き続けたそうです。


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そして、もう一つの顔が、このルーアン大聖堂です。
12世紀に工事が始まり16世紀に完成した、フランス・ゴシック最高建築の1つです。


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教会にあったバイキング(ノルマン人)の船。
ここには、初代ノルマンディー公ロロが眠っているそうです。


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  左:聖堂の祭壇
  右:火刑にされるジャンヌ・ダルクの像


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大聖堂の前にある、ツーリスト・インフォメーション。


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大聖堂の中央の尖塔の高さは151mで、フランス一の高さを誇ります。


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  左:大聖堂の横のサン・ロマン通り(Rue Saint-Romain)を南に向います。
    木組みの家が並び、素敵な雰囲気の道です。
  右:壁に描かれたジャンヌ・ダルクの肖像。


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道を抜けると、15世紀に作られたサン・マクルー教会(Eglise Saint-Maclou)のある、バルテレミ広場(Place Barthélémy)に出ます。
ここも木組み造りのカフェの並ぶ、お洒落な広場です。


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木組みの家が並ぶ美しいルーアンの町並み。

  左:ルーアン大聖堂横のサン・ロマン通り(Rue Saint-Romain)。
  右:グロ・オルロージュ(Rue du Gros Horloge)通り


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グロ・オルロージュ通りを西に歩くとヴュー・マルシェ広場(Place du Vieux Marché)に出ます。
ここは1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた広場で、現在ジャンヌ・ダルク教会(Église Sainte-Jeanne-d'Arc)が建っています。

彼女はイングランドとの百年戦争の時に、劣勢だったフランスを救った英雄です。
1424年頃に、当時フランスの多くを占領していたイングランド軍を駆逐し、王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かせよとの「神の声」を聴き、1429年にシノン城に赴き王太子のシャルル(後のシャルル7世)に謁見しました。無名の田舎娘が王太子に会えただけでも奇跡ですね。

王太子の支援の元、同年4月29日にイングランド軍が包囲していたオルレアンに着いてからが彼女の軍歴の始まりです。オルレアンを解放後、幾度か戦傷を受けながらも、常に勇敢に戦い戦勝を重ね、フランス軍内での名声も高まりました。

しかし、1430年5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍として向かった際に、イングランド軍と同盟していたブルゴーニュ公国軍との戦いのの中で、捕虜となりました。
1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションによって、正当性も怪しい異端審問裁判が行われ、イングランドの思惑通りに強引に有罪判決を受け、5月30日にこの地で火刑に処されました。

百年戦争終結後の1456年7月7日、ローマ教皇も公式に承認した裁判で、ジャンヌは無罪とされました。
更に歴史は下って、1920年5月16日に、ローマ教皇ベネディクトゥス15世が、ジャンヌを聖人に列しました。


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ジャンヌ・ダルクを祀るこの教会は、モダンな外観ですが、ステンドグラスは、かつてこの地にあった聖ビンセント教会のもので、16世紀に作られたそうです。


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ヴュー・マルシェ広場の景色です。

ジャンヌ・ダルクの終焉の地であるルーアンは妻の希望で立ち寄りましたが、木組み造りの家が残る、美しい町でした。

来てよかったのですが、この時は町中で道路工事が行われており、その迂回路の案内も悪く、ルーアン脱出には辟易しました。正直、事故らなくて良かったです。

12:00にルーアンを出発しました。

続く


2018年8月19日(日)〜26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

21日の8:30にモンサンミッシェルを出発し、次の目的地、ノルマンディ海岸に移動します。

ノルマンディ海岸は、今年の6月初め来たばかりで、その際詳細に紹介したので、今回は前回と違う点だけを簡単に紹介します。


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まずは、ノルマンディ上陸作戦で、第101空挺師団の攻略したカランタンの訪問です。
左の写真は、攻略後に師団の勲功を表彰した広場。
右の写真は、空挺師団の記念碑

と言っても、家族は空挺師団には興味が無かったので、ササっと回っただけです。

<6月にカランタンを訪問した際の紹介ブログ>



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前回はD-Day直前で、街中お祭り騒ぎでしたが、今回は落ち着いていました。


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前の写真の眼鏡屋のショーウィンドーも、6月1日はこの通り。
てっきり、これが普段の姿と思っていました。


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続いては、D-Day Experience/デッドマンズ・コーナー博物館に行きました。
ここではシミュレータで空挺兵の気分を味わえます。(左の写真)
更にここでは、バンド・オブ・ブラザーズで有名なウィンターズの戦闘服を見る事が出来ます。(右の写真)
前回も紹介しましたが、重要な事なので(?)、もう一度紹介します。


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そして、前回の訪問時に購入せずに後悔していた、空挺ジャケットも購入しました。
今回は、真夏と思って長袖を持ってきていませんでした、思いのほか冷えて、このジャケットが活躍しました。


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カランタンからユタ・ビーチに行く途中で見つけた、プラット准将の記念碑(General Pratt Memorial)。
(住所: 11 Route de la Haute Folie, 50480 Hiesville,)
D-DAYの日、彼の乗ったグライダーがここから東に250mの地に墜落し、彼も死亡しました。
彼はフランス解放の戦いで最初に亡くなった将軍だそうです。


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サン=ジェルマン(Saint-Germain)の東の外れにある第101空挺師団を記念した聖マリア像。
本隊降下の約40分前の6月5日23:16に、第502空挺連隊と第377空挺砲兵大隊の斥候部隊がこの地に降下し、ラジオビーコンを設置しました。
看板には「The Pathfinders; First of the First」のタイトルがついていました。
ただしここは、セント=メール=エグリーズの北東に当たるため、第101空挺師団の降下地点から大きく外れているような気がしますが・・・


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ユタビーチでは6月1日に来た時と同様、自由フランス第2機甲師団と、米第4歩兵師団の上陸地を見学しました。ただし、少し天気が悪かった事と、6月に来たばかりだったので、あまり写真は撮っていません。
上の写真は6月1日に撮影したユタ・ビーチ博物館です。

<6月にユタビーチを訪問した際の紹介ブログ>


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博物館の向かいにあるルーズベルト・ハウスに貼ってあったポスター。
D-Day初日の連合軍の獲得地域を表していますが、他のビーチに比べて、激戦だったオマハ・ビーチの海岸堡が非常に狭い事が判ります。

このポスターを見て知りましたが、自由フランスの第2機甲師団は、D-Dayではなく、8月1日に上陸したのですね。


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15時にセント=メール=エグリーズのホテルのチェックイン。
今回も、6月と同じホテル「Logis Le Sainte Mere」に宿泊しました。
この町の名所となっているサント=メール=エグリーズ教会(Eglise de Sainte-Mère-Église)。
未だに、屋根には第82空挺師団の降下兵が引っ掛かったままです。

前回来た時は、この町にも、多くの米軍の戦車やトラックが集結し、D-Dayのお祭りモードでしたが、今回は落ち着いていました。

なお、上の写真は6月1日に撮影したものです。

<6月にサント=メール=エグリーズ周辺を訪問した際の紹介ブログ>


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この日の昼食は、前回遅い夕食を取った軽食屋「C-47」に入りました。
(上の写真も6月1日に撮影したもの。)

この町には、もう少し息子が興味を示すかと思いましたが、町を散策したのみで空挺博物館にも入らず、ホテルに戻りました。

なお、この日の夕食は、昼食が遅かった事もあり、町のスーパーで買った、ワインとつまみをホテルの部屋で食べました。子供たちはお菓子でした。(質素)


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明けて8月22日、ホテルをチェックアウトした後に、6月と同じコースである、ラカンプのドイツ軍墓地と、ポワント・デュ・オック(La Pointe Du Hoc)、オマハビーチを見学しました。

上の写真はドイツ軍墓地にある、戦車エースのミヒャエル・ヴィットマンと彼の部下の墓石。
6月に来た時は、なぜかヴィットマンの墓石が無くなっていましたが、無事復活していました。

<6月にオマハビーチを訪問した際の紹介ブログ>


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ポワント・デュ・オックの砲台。


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最大の激戦地となった、オマハ・ビーチの景色です。
重武装でこの丘に陣取ったドイツ軍に勝つのは至難だったでしょう。


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オマハ・ビーチを見渡せる桟橋。
6月には気付きませんでしたが、この桟橋の根元の土台は、連合軍の人口港マルベリーの残骸でしょうか?


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6月に来た際は、個人所有の軍用車両が集まり、野外博物館状態だった、オーバーロード博物館(Overlord Museum)。前回は外しか見なかったので、今回は中に入ってみました。
(上の写真は6月の撮影)


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まずは独軍の37mm PaK 36対戦車砲がお出迎え。
ノルマンディ戦では対戦車砲としては威力不足でしたが、HEAT弾を使う事で、未だ使用されていました。


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連合軍の折り畳みボート。
1942年のディエップ上陸作戦と共に紹介されていました。


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75mm PaK 40対戦車砲です。
大戦後半のドイツ軍の主力対戦車砲。
ソ連の強力な戦車に対抗して作られたこの砲は、ノルマンディー戦でも、比較的装甲の薄い英米軍の戦車相手に威力を発揮しました。
 

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米軍主力のM4A1 シャーマン戦車。


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連合軍の上陸舟艇。


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米軍の水陸両用車両のDUKWです。
ノルマンディー戦で活躍しましたが、内陸での輸送車両としても活躍しました。
バンド・オブ・ブラザーズでも、E中隊が陸上の移動用に使用していました。


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ドイツ軍の軽装甲兵員輸送車 Sd Kfz 250です。


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そして、ノルマンディー戦時のドイツ軍の主力戦車、V号 パンター A型戦車です。
この戦車には多数の被弾跡があり、駆動輪と履帯も破壊されています。


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ドイツ軍の1t ハーフトラック Sd Kfz 10です。
対戦車砲や大砲の牽引に活躍しました。


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ドイツ軍の18t ハーフトラック Sd Kfz 9です。
ハーフトラックとしては、最大級の車両で、通称「FAMO」と呼ばれています。
6月には、この車両も野外展示されていました。


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ドイツ軍 IV号戦車の砲塔です。
角ばった砲塔は、ドイツ軍らしい形状で大好きです。


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更に、ドイツ軍の IV号 H型 戦車です。
砲塔周りにシュルツェンを付けた姿も恰好良いです。
ノルマンディー戦でもパンサーやティーガーと言った、猛獣戦車を補佐して活躍しました。


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IV号 戦車のリアーです。
砲塔周りにシュルツェンを付けた姿も恰好良いです。

ドイツ軍の戦車を見たいと言っていた息子に対し、ノルマンディーでは見れないと思っていましたが、思わぬ所で見る事が出来ました。


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ドイツ軍の遠隔操作式爆薬運搬車輌 ボルクヴァルトIV (Borgward IV) (sd kfz 301)。


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ドイツのハーフトラック  Sd Kfz 3b マウルティア(Maultier)です。


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Sd.Kfz.251/7
独軍の戦闘工兵用のハーフトラックです。


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そして最後は、独軍版のジープ、キューベルワーゲンです。
ノルマンディでは連合軍の車両の展示が多いですが、この博物館ではドイツ軍の車両が多数見れて良かったです。

なお、野外には、6月に来た時と同じ、以下の車両が展示されていました。
・M4A1 シャーマン中戦車 76mm砲
・M10 駆逐戦車。
・セクストン自走砲。
・M32B1 シャーマン TRV(Tank Recovery Vehicle)。
・組み立て式仮設橋ベイリー橋。


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オーバーロード博物館を出た後は、アメリカ軍墓地(Normandy American Cemetery)を見学。
(上の写真は6月の撮影)


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続いて、アロマンシュ=レ=バン(Arromanches-les-Bains)の町に寄りました。
6月と同様、この町では駐車場を探すのに苦労しました。

上の写真は、連合軍の人口港マルベリーの残骸です。


<6月にゴールド、ジュノー、スウォードビーチを訪問した際の紹介ブログ>


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続いて、ジュノー・ビーチの西の端、クルル=シュル=メール(Courseulles-sur-Mer)に来ました。
前回はトーチカを中心に見学しましたが、今回はチャーチル戦車の見学。
本当は、シャーマンDDを見たかったのですが、見つける事が出来ませんでした。


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オルヌ川沿いにある、ウイストルアム(Ouistreham)の町にある、大西洋防壁博物館(Musée du Mur de l'Atlantique)。前回は閉館後で中が見学出来なかったので、今回は内部を見学しました。

この建物は元はドイツ軍のトーチカで、1944年6月9日(D-Day+3日)に英軍の部隊が扉を開けようと3㎏の爆弾を爆発させましたが効果は無く、更に5kgの爆弾を用いて中に入る事が出来ました。
その時内部には51名のドイツ兵がいて、そのまま降伏したそうです。


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   左:トーチカ入り口を守る機銃座。ガスマスク姿が生々しいです。
   右:トーチカの武器庫。


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空気を清浄する部屋もありました。


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兵舎です。
棚にはロンメル将軍の写真が飾られていました、


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博物館にあった、ノルマンディ海岸の上陸阻止のためのトラップの模型。
これらのトラップはロンメルの考案です。


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トーチカ内の作戦室。
同じフロアに無線室もあります。


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トーチカ最上階の監視所です。
今は住居と林が邪魔をしていますが、当時はビーチを見渡す事が出来ました。


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続いて、D-Dayの前夜に英軍の第6空挺師団が確保した、ペガサス橋と、ホルサ橋を見学。
上の写真は6月に撮影したもので、今回は車で橋を通過したのみです。

その後、カーンに向かい、17:30頃にホテルにチェックインしました。
今回泊まったのは、ホテル「ibis Caen Centre」。
前回のホテル「Bristol」より、町の中心に近く、専用駐車場もあり、車での観光に便利でした。

<6月にカーンを訪問した際の紹介ブログ>


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チェックイン後、まずはホテルのそばにある女子修道院(Abbaye aux Dames)を見学しました。


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女子修道院の中庭。


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続いてカーン城に行きました。
(上の写真は6月の撮影)


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カーン城から見た、サン=ピエール教会。


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今回も、カーン城の前にあるレストラン街で夕食を取りました。
今回入ったのは「El Olivo」。
前菜に、ノルマンディ名物の牡蠣を注文しました。


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私はメインに、牛のタルタルを注文。
前回シャルルドゴール空港で食べた後は、お腹の調子が悪くなりましたが、家族に見せるために再度チャレンジ。流石に今回は問題ありませんでした。(笑)

食後、20:00にホテルに戻って就寝。
これでノルマンディの旅は終了し、パリに戻ります。

続く。


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