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電話の後、黒木は夕食ついでに散歩をしようと外に出た。大時計通りはかなりの人で賑わっていた。大
時計に向かって歩いた。ポケットに入れてきた絵はがきを見ると69年に修復されたとあった。彼はそれ
と似たような大時計をブリュッセルのミディ駅から博物館に向かう途中で見たことがあるように思った。
大時計のアーチをくぐり、しばらく行くと旧市場跡広場だった。その外れにジャンヌの処刑台跡があっ
た。ジャンヌ・ダルク博物館もあったが土産物屋の上にあるので少し興ざめだった。広場から少し行くと
悲劇作家のコルネイユ文学館があり、その脇のレストラン、クローヌ(王冠)に入った。ノルマンディの
料理を知らないので店の人に尋ねると、トリプ・ド・カーンという臓物料理が旨い、というので注文し
た。酒はカルヴァドスというリンゴの蒸留酒を選んだ。常々カマンベール・チーズを食べながらそれを飲
むのが好きだった。
食事が済むと大分気分が落ち着いた。仲間からは昼間も気を付けるよう言われたこともあり警戒しては
いたが、酒が入ったのでそれも忘れがちだった。店を出て路地裏を歩いた。ルーアンは中世の街だった。
ゴチックの名建築が多く、ゴチックの街ともいわれた。民家もノルマンディー風の木骨が白壁に浮き出た
スタイルがたくさんあり、日本の木造建築と似ているので見ていて心が和んだ。
あてどもなく歩きながら建物や通りを行く人を眺めているうちに大きな川に出た。ラ・セーヌ(セーヌ
河)だ。パリでは川幅を狭めて窮屈そうだったがここでは伸び伸びとしていた。橋を真ん中辺りまで歩い
た。そこで立ち止まり振り返ってみると、照らし出されたノートル・ダム寺院の三つの塔が見えた。車が
走ってはいたが彼にはとても静かな時間が流れていた。薄明かりの中で欄干に寄りかかりながら川面を窺
った。流れはゆっくりとしていた。
―この流れはやがて最後の橋タンカルヴィルをくぐりルアーヴルとドーヴィルの間の英仏海峡に注ぐ。流
れは更にゆったりとしていくだろう。ヴァイキングやゲルマン人はきっとここを遡ったんだろう。そして
はるか遠い昔のパリ、リュテチアにまで向かった。そのころはどんな様子だったのだろうか。パリにして
もルーアンにしてもだ。
『たゆとえども沈まず』、か。ここをずーっと行けば沈むことのないパリがある。そして、真理子もそ
のどこかに棲んでいるのかも知れない。
流れゆく黒い川面を見つめていると時の流れに目眩がするようだった。
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