小説「パリは夜露に濡れて」

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

 彼は大通りを横切り、ジョセフ・ジベール書店に挟まれた通りをオデオン駅の方へと歩いた。本屋では

店の外に平台が置かれ、特売本を並べていたのでちょっと覗いてみた。大統領フランソワ・ミッテランの

『赤いバラ』があったので手にしたが、他には取り立てて興味を引く本はなかった。


 メトロ・オデオンの入り口脇にはダントンの像があり、その黒く煤けた塊を、通りを隔てたところから

撮影した。次いでアンシェンヌ・コメディー通りをちょっと入ったところにある世界最古のキャフェ、プ

ロコップ。ダントン、ラ・フォンテーヌ、ロベスピエール、モリエール、ナポレオン、ボードレール、ヴ

ェルレーヌなどが集ったところである。その由緒ある店も代替わりし、今や安レストランにかわってい

た。


 プロコップを後にしてサンジェルマン・デ・プレ教会へと向かった。十一世紀に立てられたパリ最古の

ロマネスク建築の教会である。彼はそれをレンヌ通りのドラッグストア前から撮った。三つあったという

尖塔は現在一つしか残っていなかったが、デ・ビュッフェの描いたリトグラフに見られるような冷たさは

感じられなかった。広場を挟んだ左手にはサルトルと実存主義で名高い二つのキャフェ、ドゥ・マゴとフ

ロールが競うように並んでいる。


 教会と二つのキャフェ、それに、ボナパルト通り42番のサルトルのアパルトマンをカメラに収めた

後、教会の内部を見ようと中に入った。


 暗い中に沢山の蝋燭が灯され、マリア像を足下から照らしていた。一心に祈る老夫婦がいた。入り口近

くの机には沢山のパンフレットが並べられており、彼はそれらの一つを手に取って読んだ。表紙のショッ

キングなイラストはレプラに苦しむ世界の人々への手助けを呼びかけていた。彼はいつか見た日本の映

画、『哀しみの器』を思い出した。と同時に、この世界でなお苦しみ続ける人々がいることを考えない訳

にはいかなかった。


 静けさが支配していた。彼は右の側廊を奥へと進んだ。協会内には幾つかの墓があった。本陣脇のデカ

ルトやベネディクト修道士マビヨン、モンフォーコンの墓標を読みとりながら、もっとも奥の部分を抜け

ボワローの墓まできた。

イメージ 1

 病院から出た足で、四人は近くのローラン通りにある朝鮮料理店、『梅林』へ行った。その店も黒木の

お気に入りで、特製のキムチを味わうため、パリに来たときは必ず立ち寄っていた。店はちょうど開いた

ばかりで、客は彼らだけだった。黒木は皆も驚くほど元気だった。


「それにしてもラッキーだったよ。命も持ち物も無事だったなんて。不幸中の幸いというものさ。」と牧

村が言った。


「そうだな。頭は少し痛むが、ともかく、でかい青あざができただけで済んだんだ。改めてお礼を言わせ

てもらうよ。メルシィ ミルフォア。特に石川さんには。」


「いやいや、単に通りかかっただけですよ。」と、石川は黒木が礼をするのを制した。


「ところで。」と向井は言った。「仕事はどうするんだ。今日だって午前中はつぶれてしまったし、6日

間しかない、と言ってたが大丈夫なのか。」


「それだけは困ったよ。どっちにしても今日はこんなに天気がいい。休んでなんていられないぜ。」


「無理するなよ。助けが必要ならいつでも言ってくれ。」と言って向井は料理を口にした 。


 話は余り進まなかった。向井も石川も徹夜の疲れで元気がなかったし、牧村もいつもなら寝ている時間

だった。ジャスミンの香りが心地よく漂うお茶を飲んだ後、向井は帰宅し、石川はそのまま授業に向かっ

た。黒木と牧村は『京都』に戻り、黒木は忘れた袋を受け取り、牧村と別れた。



 黒木はサンジェルマン大通りに向かい、5区警察所近くにある行きつけのラボ、ギャラクシアにフィル

ムの現像を頼んだ。その店は経営者の妻が日本人で、彼女が店を切り盛りしていた。


 彼はその足で仕事に向かった。サンジェルマン大通りをサンミッシェル大通りに向かって歩き、クリュ

ニイ美術館へと歩いた。そこは中世の美術品が収められ、リルケの『マルテの手記』に描かれた貴婦人と

一角獣のタピストリーが有名である。


 まず、蛇腹の襟を首に巻き付け、誰がいたずらしたのか頬に紅をさされたモンテーニュの像がおかれた

ソルボンヌ大学脇のスクエアから美術館の入り口を、それから一角獣を撮った。『人さまざま』には小説

界の著名な登場人物も描かれる予定だった。


 スクエアからブル・ミッシュ(サン・ミッシェル大通り)に出た。若い男女がアイスクリームを舐めな

がら、デイパックを肩に街をかっ歩している。この街の観光シーズンが始まっていた。

イメージ 1

 翌朝、黒木はベッドの上で目を覚ました。包帯の巻かれた顔が痛々しかった。部屋の少し離れたところ

で向井、牧村そして石川の三人が眠たそうな顔でひそひそと話をしていた。


「おお、良かった、良かった。目が覚めたぞ。」と黒木の動くのを気付いた向井が言った。二人も黒木の

方を見遣った。黒木は寝ぼけ眼でキョロキョロしている。


「意識が戻らないので心配したが、本当に良かった。」と牧村は口をほころばせながらベッドの方にゆっ

くりと歩み寄った。


「イタタタ。いったいどうなってるんだ。」と黒木は開口一番言った。


「昨日のことを覚えていないのか。『京都』の近くで倒れていたんだぞ。」と向井。


「ウウーン。」と言って黒木は考え込んだ。「『京都』で飲んでいたのと、外へ出たまでは覚えている

が。いや、思い出した。そうそう、男に火を貸したんだ。そしたら、いきなり顔を殴られ、そのまま倒れ

込んだ。それに雨に濡れた路面はとても冷たかった。」と、思い出しながら言った。「とにかくお世話に

なりました。」


「石川さんがちょうど通りかかって発見したからいいようなものの、あのままだと考えるとちょっとぞっ

とさせられるぜ。」と向井は石川を目で示しながら言った。


「昨夜は、まさか倒れているのが黒木さんとは思いもしませんでした。パリに来ていたなんて知りません

でしたから驚きましたよ。バッグが開いて中身が転がっていました。何も盗られていなければいいけれ

ど。中身は濡れていたので拭いておきました。」と石川はベッドの下に置いてあったキャリングケースを

引き出して黒木に渡した。


「それはそれは、どうもすみませんでした。」と言ってバッグの中を調べた。


「バッグが残されていたなんて奇跡だぜ。」と向井。


「そうだな、何が目的だったのかな。」と牧村。


 黒木は中身を次々と取り出してベッドの上に並べた。一つ一つ取り出す度に、「ふむ、ふむ。」と確認

しては考え込んでいた。カメラなどのほか、鍵、パスポート、小銭入れ、札入れ、証明書入れ、万年筆、

メモ帳、ボールペン、撮影リスト、ライター、フィルターの付いたゴロワーズの緑、使用済みのメトロの

切符、それにいろいろな紙切れ、レシート、チェック、撮影許可証と次々に並べられた。


「どうですか。」と石川が尋ねた。


「全部あるみたいだな。ところで、もう一つ小さな袋があったんだが。」と石川は答えた。「他にです

か。確か、他には何も落ちていませんでしたが。」と石川は答えた。


「じゃあ、それを盗られたんだ。撮影したフィルムが入っていたんだ。」と残念そうに言った。


「ああ、それなら店にあるよ。」と牧村が言った。「飲んでいるときに店で取り出して、冷蔵庫に入れて

くれと頼まれたまま、取り出すのを忘れていたんだ。むしろそれが幸いしたみたいだな。」


「そうなるとだ、強盗は何も盗ることなく、ただ殴りつけただけか。そんな事が考えられるかな。」と向

井があごひげを指先でこすりながら言った。皆も考え込んでしまった。


「でも、とりあえず何もなくてよかった。体の方はどうだ。」と牧村が言った。


「大丈夫、大丈夫。もう歩いて帰れるよ。」と言って黒木はベッドから足を床に下ろした。それを見て向

井が「よかった。では早速、退院しようや。」とやや大きな声で言った。彼は早速、病院のセクレタリア

に向い、手続きを済ませた。

イメージ 1

イメージ 2

 石川はその日サンシェでの授業を終えた後、カルチェ・ラタンで『YOL』というトルコ映画を観て感

激していた。次いでオデオンの学食で豆の煮込みと乾燥しきったバゲット(フランスパン)の夕食をとっ

た。キャラフに入れられたカルキ臭の強い水道水は相変わらずまずかった。それから二週間ほど前に爆弾

が破裂してトイレを壊されたというキャフェに入り、コーヒーを飲んだ。フランスはアルジェリア問題に

揺れていた。街頭のゴミ箱や道路工事現場などに仕掛けられた爆弾の処理がしばしば目にされた。ペグの

ような電極を差し込み離れたところから通電して爆破するのだ。


 それから『京都』へと足を向けた。サンジェルマン大通りからジュヌヴィエーヴの丘へと登り始めたと

き、かなり先のコレージュ・ド・フランスの脇あたりでわずかな炎が点き、すぐ消えるのが見えた。この

周辺は明かりがほとんどなく暗かった。


 やや勾配のきつい坂を上り、明かりの見えた辺りへ来ると、歩道に人が倒れていた。彼は酔っぱらった

浮浪者だと思い通り過ぎようとした。すると、大きなショルダーバッグが口を開いて転がっているのが見

えた。近づいてみると、中からカメラやフラッシュが飛び出していた。彼は警戒しながらその男の顔をの

ぞき込んだ。男の顔は明らかに東洋的だった。見覚えのある顔だ。


「黒木さん。」と石川は驚きの声を上げ、体を揺すった。「大丈夫ですか、黒木さん。」


 しかし、黒木は横たわったままだった。彼は一人では動かせないと考え、転がっているカメラ類をバッ

グに押し込み、それを脇に抱えて『京都』へと走った。店に飛び込み、助けを求めた。思いも寄らない出

来事に驚いた向井と松村は店を飛び出した。



「とりあえず、店に運びましょう。」と牧村は石川と一緒に黒木を抱き起こした。


 店に運び込み、明かりの下で見ると顔に殴られたように紫色のあざがあり、傷から血がにじんでいた。

呼びかけてもはっきりした意識がないので病院に行った方がいいだろうと云うことになり、救急車を呼ん

だ。

イメージ 1

 
 黒木は手帳を取り出すことで、自分の仕事が気になり始めていた。撮影機材を持ち歩いていたし、翌日

も早起きしなくてはならなかった。天候や残された日程が心の片隅にずっしりと重みとなって残ってい

た。墓地廻りの疲れも全身に感じていた。手帳をポケットに収めるのをきっかけに、そろそろ戻った方が

いいかなと考え、立ち上がりながら言った。


「シゲ、盛り上がっているのに悪いが先に帰らせてもらうよ。ちょっとばかり疲れてしまってな。それに

時差ボケも残っているみたいだ。」


「そうか、気付かなくて悪かった。」


「なあに、気にしないでやっててくれよ。次回までには体力をつけとくから。ではマーさん、失礼する

よ。」と言って黒木は立ち上がった。


「お帰りですか。今度また皆で飲みましょう。」と牧村はカクテルを作る手を休めて言った。向井は黒木

を入り口のところで見送った。



(二)連続する事件

 外は冷たい霧雨が降っていた。黒木は大きなカメラケースを肩に、ジャケットの襟を立て、「ではま

た。」と言って片手をあげながら暗い通りへ出ていった。少しふらついていた。店の入り口脇には雨宿り

なのか黒猫が彼の方に冷たい目を向けて立っていた。


 彼はどのように宿まで帰るかを考えていた。酔いのせいか、なかなか思い浮かばなかった。バスはすで

に走っていなかったし、階段の上がり下りを考えるとメトロは面倒だった。タクシー乗り場はパンテオン

前のスワフ通りがサン・ミシェル大通りと交わるところに一つ。また丘を下りてサン・ジェルマン大通り

のメトロ、モベール・ミューチュアリテにもあった。下る方が楽だろうと考えた。彼は袋小路を出て左に

折れ、コレージュ・ド・フランスの方に歩いていった。


 人通りは少なく、道も暗い。犬の糞を踏んで滑りそうになった。次の通りに突き当たり、右に曲がろう

としたとき、暗がりから声がした。


「ムッシュー、ちょいと火をかしてください。」


 彼は声の方に振り返り、ぼんやりしたままズボンの右のポケットからジッポーを取り出し、闇の中の男

に差し出しながら火を着けた。男の顔が一瞬照らし出された。そのとたん、男は彼に襲いかかった。抵抗

する間もなく顔を殴られ、その場に足下から崩れるように倒れた。一瞬、雨に濡れた歩道の石が頬に冷た

く感じたが、すぐに意識を失っていった。

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
青い鳥
青い鳥
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事