小説「パリは夜露に濡れて」

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「マーさんは四国の出身だったのかい。」と向井は牧村の方に体を乗り出した。「四国のどこなんだ

い。」

「土佐です。いごっそうですよ。」

「確か、東京出身だって言ってなかったか。」

「中学校まで土佐で、その後が東京なんです。」

「そうかあ。」と言って向井は考え込んだ。しばらくしてから、「実は、俺もいごっそうなんだ。」とぽ

つりと言った後、大きな声を上げて笑った。

「何だあ、シゲさんも土佐生まれ。そりゃあ奇縁ですね。」

「生まれは寒い所なんだが、小学生の時、親の転勤で土佐に移ったんだ。土佐はいいねえ。」と向井は懐

かしむように言った。

「最高ですよ。」

 話はやがて二人だけの故郷談義へと移っていった。しばらく土佐の話を続けた後、向井は黒木に話しか

けた。


「吹き溜まりといえば、ここには様々な人間が世界中から集まってくる。イルダにしても、牧村、石川、

それに向こうのカウンターにいる店の娘。たしか、赤坂の有名なクラブのチーママだったと言ってたな。

ここはまるでブラックホールのような街なんだ。大杉栄だって幾日もかけてここにやってきては監獄のお

世話になったし、周恩来や登承平もルノーかシトロエンの工場で働いたんだ。パリを愛したのはレオナル

ドや佐伯ばかりではない。パリは世界の中心だったんだ。でも、それはすこしばかり昔のことだ。おそら

くその時代、もっとパリは生き生きしていて、今よりずっと熱かったに違いない。まあ、冬は同じように

寒かったとしてもだ。俺としてはその頃に生まれたかった。」


 向井の話は続いた。しばらくして静かになった頃あいを見計らって、「ところでシゲ、パリで一番行く

価値のあるところはどこだろう。」と黒木は話題を変えた

「そうだなあ、難しい質問だな。好みにもよるが。そうだ、自然派には崖みたいな所がある公園。なんて

言ったかな。ああそうだ、ビュット・ショーモン公園。あそこは確か大革命直後のパリといったところだ

な。野性的なんだ。きっと気に入るだろう。」


「野性的か。天気が悪ければ明日にでも行ってみるよ。どこなんだ。」

「19区。公園の名の駅がある。」

「わかった。」と黒木はそれを手帳に書き留めた。

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「パリで絵を描いているとな。どうしようもなく苦しいときがあるんだ。」

「ほう、どんな苦しみだい。」と黒木は軽く受け流すように尋ねた。

「自分の能力の限界を知ることさ。自信というのは誰にもあるだろう。世間には認められなくても、自分

はいつかは花開くんだ、というのが。」

「もちろんあるさ。それに君はもう十分花開いたじゃあないか。それとも自分の限界を知ったというの

か。」

「そうかも知れない。一般受けする絵を描くという空しさではなく、表現以前の問題なんだ。描くための

原点であるはずの感動する心がすり切れてきたらしい。」

「でも、それは一時的なことだろう。誰にもスランプはあるさ。元気のいい草花だって雨が少なければ萎

れることもあるさ。」と黒木は諭すように言った。

「俺はこの街に長居しすぎたのかも知れない。きっと新しい環境が必要なんだ。」と向井は難しい顔を見

せた。

「どうして。いつも左岸のパリが好きだと言ってたろう。」

「ここの長い冬が耐えられないんだ。寒さと長い夜。そして巷に降る雨もそうなんだ。この街には多くの

日本人が集まってくる。企業や官庁の仕事で赴任してくる者もいれば、俺のように日本では花開かないの

でフランスで出直そうとやって来る者もいる。俺はスノッブな吹き溜まりの日本人を代表しているんだ。

イルダも自分の国を見限ってここにやってきた。だから、俺達は互いの心が分かりあえるんだ。何故ここ

にいるのか、何を求めているのかと云うことがね。」

「僕は人の生き方に意見を言うつもりはない。この街で日本人が小さな社会的ヒエラルキーを作り、会社

の金や日本の税金を使ってふんぞり返っている連中よりも君たちの方が俺はずっと温かく人間的だと思う

よ。このフランスのコインを見てみろよ。自由、平等、博愛を謳っている。そのフランス革命の精神は誰

が最も体現しているか。それは君のような自由人だ。」

「嬉しいことを言ってくれるね、黒木。俺はあのフランス革命の自由の女神が大好きなんだ。三色旗を掲

げて古くさいものを破壊する力強い女神を。イルダは俺にとってあの女神の戦士なんだ。そういえば、ガ

イドブックにはこう書かれていた。フランス革命はナポレオン三世によってかすめ盗られた。それを取り

戻すための戦いがパリ・コミューンだった。違ったかな。」

「破壊と創造。ダイナミックな都市だね、このパリは。今のこの国の風土にまで息づいているんだ。」

「そうですね。」と隣の客と応対していた牧村が、難しそうな話に気付いたらしく、再び話に入ってき

た。

「時には僕だって何を求めてこの街にやってきたのか考えますよ。特に寒い冬にはね。慣れてはきても、

四国生まれなものですから。」

 その牧村の言葉に向井は顔を上げた。

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 袋小路のエコス通りに『京都』の単色のネオンが青く光っている。五メートルほどの通りには『京都』

以外の出入り口は一つもなく、そんな小さな通りに名が付いているのもフランス的だった。店に窓はな

く、店を知る日本人以外には近づきがたい所だった。


 ドアを開けて中に入ると、なかなか広い店だった。カウンターに立った背の高く、口ひげの男がすぐに

声をかけた。

「やあ、いらっしゃい。シゲさんに、これは珍しい、黒木さんではないですか。お久しぶりです。」

「黒木が来たんで、さっそく連れてきたよ。」と向井は蝶ネクタイ姿の牧村に言った。

「しばらくだね、マーさん。」と言いながら黒木は黒く日焼けした手を差し出した。

「しばらく、しばらく。一年ぶりですかね。まあ、とにかく腰掛けてください。奥の方が落ち着くからこ

ちらはどうですか。」と牧村は三人をカウンターの一番奥に案内した。

「東京は暑いらしいですね。」と牧村は言った。

「マーさん、そうなんですよ。毎日が蒸し風呂みたいでね。クーラーが売れに売れて、欲しくても順番待

ちで簡単には手に入らない位なんですよ。」

「その点、パリはカラッとしていて、いいねえ。ねえ、シゲさん。クーラーなんて必要ないんだから。」

と牧村は向井の同意を求めるように言った。

「冬の寒さはいただけないけれど、確かに夏はいいな。」

 三人はシャンパンを手に再会を祝した。牧村は店を代わった理由を黒木におもしろおかしく聞かせた。

給料がいいと云うことばかりでもなさそうだった。黒木は東京の音楽情報を話した。牧村は日本のアマチ

ュア界では知られた大正琴の奏者だった。向井はグラン・パレで開催中の絵画展を批評した。


 
 やがて酔いが回ってきたらしく、向井がしんみりと話し出した。

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「さあ、それではマーさんの所へ行こうか。」

「イルダさんは行かなくてもいいのかな。」

「私のことは気にしないで。今日は黒木さんがゲストなんですから。」

「ではいざ、ジュヌヴィエーヴ山へ。」と言って向井はちょうど通りかかったタクシーに片手を上げて合

図した。タクシーは彼らを無視するかのように通り過ぎていった。

「タクシー乗り場からしか乗れないのよ。」とイルダが言った。

 三人は近くの乗り場を捜してタクシーに乗った。車は三人を乗せて走りだし、イタリー広場からゴブラ

ン通りへ抜け、モンジュ通りへと向かった。

 しばらくすると、スペインからの出稼ぎだという運転手が「お客さん、他に連れがいるのかね。」と尋

ねた。

「どうしてだい。」と向井が聞くと、「ずっと、タクシーがついてくるもんだから。連れがいると思っ

て、ゆっくりと走っているんだがね。」と答えた。

「いや、俺達だけだよ。」と向井は少しも気にも留めない様子だった。黒木が振り返ってみると、確かに

タクシーが少し後ろを走っている。客の顔までは分からなかった。

同じ方向に向かっているだけだろうと彼は思った。


 パンテオン脇の駐車場で二人は車を降りた。イルダはそのままタクシーで家に戻った。 きっかり九時

だった。後ろを走っていた車は彼らを追い越してリュクサンブール公園の方に消えていた。


「ちょうどいい時間だ。」と黒木が時計を見ながら言った。向井は背伸びをしながら、「明日はどこを撮

る予定なんだ。」と聞いた。

「天気しだいさ。また雨だったら近くの有名なところにでも行くしかないだろう。雨に煙るミラボー橋な

んてのもいいだろう。雨ばかりでも困るんだが、天気だけはどうにも出来ないからな。」

「昨日まではいい天気だったのにな。急に冷え込んで雨が降ったり止んだりだ。いつもなら、これでもす

ぐ晴れるんだが。」


 二人はところどころ水たまりのできたパンテオン広場を横切り、小さな横町へと下りていった。

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「ところで、千田さんはどうしている。」

「まだ免税店で働いているよ。いつも愚痴ばかりこぼしているけれど、あの話っぷりはまさに観光客相手

の営業にぴったりだと思うがね。」

「同じ店で頑張っていたか。これからも買い物の時には助かるな。」

「それに酒好きなのも変わらないぞ。」


 いつの間にか日本語とフランス語がゴチャ混ぜに話されていたのでイルダにはすべては理解できないよ

うだったが、それでもじっと耳を傾けていた。


「マーさんは。」

「牧村も元気だよ。店はかわったけれど。」

「あのレストランからどこへ。」

「スナックだよ。聖ジュヌヴィエーヌ山のスナックで、『京都』って云うんだ。」

「ホテルにあった日本語新聞の広告で見たような気もするな。」

「いや、見ていないと思うよ。確か、君がこの前来た後に開店したんだから。実はイルダもそこで働いて

いるんだ。」

「そうか、では是非一度行ってみよう。千田さんなんて気楽に飲めるところができたと大喜びなんじゃあ

ないか。」

「そうかもな。では早速、今夜にでも行ってみようか。イルダも、今日は休みだが、行くかい。」と、向

井はイルダに尋ねた。

「みんなに会いたい気もするけれど、今日はじっくり休みたいから止めとくわ。いいかしら。」

「もちろん。」と言って向井はイルダの手を優しく握った。

「ところで石川さんはどうしてる。」と黒木は思い出したように尋ねた。

「あの学生さんね。まだいるよ。」

「彼も頑張ってるね。」

「そうだな。話してみると分かるんだが、今どき珍しく自分の意見をしっかり持っている奴だ。」と向井

は言った。

「かく言うシゲも、本当に頑張ったよな。学校に行くばかりが勉強ではないのがよく分かったよ。」と黒

木はイルダの方を見ながら言った。

「俺がかい。別に努力なんてしてないよ。ただ好きなことをしているだけさ。」

「ノン、あなたは努力家よ。」とイルダが言った。「今みたいに絵が売れるようになったのは絵画に対す

る地道な努力があったからだわ。」

「マダム・イルダはやはりよく見ている。その通りだ。」と黒木は大きくうなずきながら言った。

 向井は照れくさそうに二人の顔を交互に眺め、それから笑った。

「ハッハッハッ。俺もついに他人から誉められるようになったらしいな。でも、有り難う。素直に受け取

るよ。売れる絵を描くと云うことは俺の目的ではないんだがね。」

 藍蓮花はほぼ満席になっていた。彼らは透明な皿に出されたデザートの真っ白なバニラアイスクリーム

をおいしそうに平らげた。しばらく雑談してから勘定を済ませ、外に出た。薄暗かったが晴れていればそ

の時間でも少しは明るいはずだった。

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