小説「パリは夜露に濡れて」

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 それから二ヶ月余り後、前田絹子は一人、羽田からパリへと飛び立った。彼女の両親と黒木は空港で見送っ

た。前田も黒木もその別れはほんの少し、旅行の間に過ぎないと考えていた。海外旅行が一般的ではないにし

ても、若者が海外へと気軽に出掛けていくブームとそれを支えるムック本が巷に溢れる時代がそこまで

やって来ていた。


 


 パリに着いて間もなく、絹子は街の雑踏の中に消え失せた。黒木は絹子の後を追い、警察を始め八方手

を尽くした。しかし、ついに見つけだすことはできなかった。そして、失意のまま帰国した彼のアパート

にはフランスからの航空書簡がひっそりと待っていた。


 


 申し訳ありません。私は本当に心配ありません。いつかきっと会えると思います。絹子


 


 あまりにも簡単な内容だった。その簡単な内容があまりにも多くを推測させた。それだけに黒木の心は

乱れた。自分の手の届かない異国での失踪だけに毎日捜すことができないもどかしさに苛まれた。ひたす

ら彼女からの次の手紙を待つ日々が続き、やがて、ひたすら忘れるための闘いが続いた。彼にとって、そ

の不幸な出来事は心に大きな空洞を残したばかりでなく、自責の念が彼を苦しめ続けた。


 彼が後に新聞社のカメラマンの職を辞するのも、この不幸な出来事を精神的に克服できなかったから

だった。仕事場としての事故現場は前田との出逢いを思い出させ、幾たびか回を重ねたとき彼の意志とは

別のところで体が拒否反応を起こした。新しく始めた仕事は自分である程度時間を自由にとれるので強い

られると云う感覚は少なくなった。しかし、孤独感はフリーになることによって増すことはあれ、減るこ

とはなかった。

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 「それに、」と黒木は続けた。「たいていは人の不幸を描くから死に神とさえも言われる。僕の現れるとこ

ろ、不幸が生まれるというわけだ。」


「でも、あなたは事件を期待しているわけではないでしょう。起きた事件を撮るんだから死に神ではないわ。

そんな風に考えないで。」


「いずれにせよ、不幸な現実を追いかけなくてはならない。そう云えば、ネルヴァルも不幸な一生だった

みたいだね。自殺したんだろう。」


「一般的にはそう言われているわね。でも、彼は帽子を被っていたの。縊死する人がそんなスタイルを考

えるかしら。」


「どうだろうな。あり得ないとは言えないだろうが。普通ではないにしても。」


「私にはそのときの光景が浮かんでくるの。カラスがたくさんいて複数の人間がいるのよ。でも、その話

はもう止しましょう。彼の死を話し合っても余り意味のないことだから。とにかく、パリは楽しみだな。

一人で外国へ行くのは初めだから。」


「大げさな言い方だけれどさ、本当の異国の生活に接すると人生観が変わるんだ。何を見るかによっても

違ってくるが文化の違いはそこで生活すればすぐに肌で感じられるはずだ。何を見て、聞いて、食べるか

をはっきりと計画しておくといい。旅行中の時間は本当に早く経っていくから。」


「もう計画はばっちり立ててあるの。あとはいかに安く過ごせるかね。」


 二人は外苑東通りから青山一丁目とまわった。車がぐっと増え、緊急車の音がしばしば会話を遮った。

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「仕事は大変そうね。自分の時間がもてないなんて辛くないの。それに新聞に写真が出ても誰もそれを撮った

カメラマンの苦労なんて考えないでしょう。割に合わないわ。」


「仕事に苦労はつきものさ。糧を得るために働く。それ以上を期待するのは高望みだ。もっとも、フランス人

はヴァカンスのために働いているって云うが、ラテン系民族の余裕ある生活も見習わなくてはならないことも

分かっているよ。」


「報道の使命ということもよく言われるわね。」


「使命感かい。勿論あるよ。でも、それ以上にカメラが好きなんだ。手段が無くては使命感も生まれない

よ。」


「現実を切り取るって、さっき言ったでしょう。だから現実主義者だって。でも、それは違うように思う

の。好きなカメラで現実を切り取る。シャッター速度、光量、フィルム、レイアウト、シャッター・チャ

ンス、直感的なレアリズム。これは芸術よ。芸術家と自称する写真家より報道カメラマンの方がずっと芸

術的だわ。」


「はっはっはっ、芸術家か。芸術家はきっと芸術家たることを意識してるだろうけれど、僕にはそんなも

のはない。だから芸術家なんかではない。そう言われたいとも思わないよ。」


 散策を楽しんでいる人はほとんど見あたらなかった。息を切らせてジョギングする男が二人、駆け抜け

ていった。車道を打つ車の音が近づいては遠ざかっていく。

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「そうね、大学の単位はもうほとんど取ったからいつでもいいのよ。この夏でもいいけど、観光客ばかりで

しょう。それにヴァカンスでパリジャンはいなくなるっていうから、もう少し前にしたいの。ネルヴァル

の最後が発見された前の晩は雪が降っていたと言うから、今の季節あたりがピッタリかも。でも、私は寒

がり屋だから三、四月ってところかな。」


「それでもすぐだな。パリだけでなくて近郊にも良いところが随分ある。ヴェルサイユは知られている

が、バルビゾン辺りもいいよ。」


「そうね。パリって全くフランス的でないと云うから近郊の方がいいかも知れないわね。でも、東京の近

郊を思い浮かべると、大して違わないんじゃあないかって云う気もしないではないけれど、実際はどうな

のかしら。」


「農業国だから、自然が豊富さ。日本の倍以上の国土に半分の人口と聞いただけで、ある程度想像できる

だろう。猥雑さがない。」


「オレンジがおいしいって言ってたわね。しかも安いって。」


「農産物は安くて新鮮だよ。パリでは至る所に朝市が立つから、それを見るだけでも楽しいんだ。山盛り

になった果物が色の配列を考えて並べられている。アレ アレー、ムッシューなんて大きなかけ声で売っ

てるんだけど、どこの国もあの活気というのは同じなんだな。」


「記念物よりもそんな方を見たいわね。フランス人の生活感あふれるところを。裏町に入らなくてはだめ

なのかしら。」


「裏町にもよるけれど、大きな通りをちょっと入れば、たいていは庶民の生活する場だ。とにかく観光

ルートを離れればいい。」


 二人はオリンピック・スタジアムの方に曲がった。

パリは夜露に濡れて

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 銀杏の梢の向こうには広場があり、その先に石作りの古風な洋館が薄曇りの空に溶け込むようにはめ込まれ

ていた。広場では幾組かの野球の試合が行われており、歓声が響いていた。


「この前もちょっと言ったけれど、あの話が実現しそうなの。」


「パリ行きのことかい。」


「そう、バイトのお金も貯まったし、親の了解も取れたのよ。」


「それは良かった。パリを見ておくのも勉強になるだろう。仏文科なんだからフランス語を実際に使って

みたいのは当然だ。」


「それにネルヴァルのさ迷った所を実際に歩いてみたいのよ。」


「ネルヴァルって、そんなに面白いか。君に借りて読んだ『オーレリア、夢と人生』だけれど、正直言っ

て余り感動しなかったな。僕のように毎日現実を切り取る仕事をしていると、あの小説はかなり遠いとこ

ろにあるって感じだ。」


「好き嫌いはあって当然よ。あなたはアルチュールがお気に入りなんでしょう。ある人がどの作家やどの

詩人より良い作品を作っているかなんてどうでもいいことなのよ。最終的には好みの問題なんだから。そ

の好みに価値観があるというのなら批評も分かるけれど。」


「ネルヴァルを批評するつもりはないよ。あの作品は僕に響かなかったな、と言ってるだけさ。僕は単な

る現実主義者。夢を描けない人間といえるかも知れない。ところで、いつ行くことにしたんだ。」


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