小説「パリは夜露に濡れて」

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 二人はキャフェを出て向井のアパルトマンに向かった。ヴェロン通りのアパルトマンはごく普通の建物で入

り口は木戸だった。道路に面した一階は誰も住まない空き家になっており、窓という窓はベニヤ板で目張りが

してあった。中庭は日が射し込まないのか、敷き詰められた石が緑色に苔むしている。中庭に面したコンシェ

ルジュの住まいでは飼い犬がガラス窓の向こう側からけたたましく吠えている。通りに面したファサードは五

階建てだが、中は三階と四階立てになっていた。向井はその四階立て部分に住んでいた。角のすり減った大理

石の階段を上ると鍵一つのドアがあった。


「一度来たことがあるかな。」


「いや、初めてだよ。」


 部屋は一風変わっていた。四階の隣り合った二つのアパルトマンを一つに繋いだものだった。一方をア

トリエにし、もう片方が住まいだった。


「随分と広いな。幾部屋あるんだ。」


「5部屋だ。この住宅難のパリではアトリエがあって居室も確保できるアパルトマンなんてそうはないん

だ。」


奥からイルダが出てきた。上から下まで黒ずくめで、それがまたよく似合っていた。


「ムッシュウ黒木、ようこそいらっしゃいました。いろいろと大変な目にあったようですね。」と彼女は

心配そうに言った。

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 見出しは、《麻薬密売人の謀議は墓地の中》、とあった。そして彼が弁護士から耳にしたのとほぼ同じ

内容の記事だった。しかし、幸いにも彼のことは一語も出ていなかった。


―しかしなあ、私の写真を勝手に使ってくれたもんだ。絹子の顔が出ていないのが使われたからいいよう

なものの、身を隠している彼女の顔が出たりしたらまずいことになる。何よりこの写真の出所を彼女は

知っている。僕を恨むことは間違いない。―


 黒木は繰り返してその記事を読んだが、センセーショナルなだけで内容的に新しく得るものはなかっ

た。


 しばらくしてから向井に電話した。ちょうど帰宅したばかりだった。三十分ほどして彼はやってきた。

その青白い細面の顔は今にも倒れそうな病人を思わせたが実際には病気一つしないのが自慢だった。


「何かありそうだな。」と向井は黒木の顔を見ながら言った。


「もう、頭の中がめちゃくちゃに混乱しているんだ。自分一人ではとても整理できそうもない。」と彼は

首を振った。


 彼は病院に運ばれた後の出来事を説明した。向井は非常に驚いた様子だった。


「ともかく撃たれなくてよかった。不幸中の幸いだよ。何が起きてもおかしくない世の中だとは云うが、

こう立て続けて襲われては身が持たないだろう。」


「身代わりの男に感謝しなくてはいけないんだが彼は大丈夫だろうか。とにかく礼を言わなくては。探し

出せるかな。」


「それはできるだろう。警察に入院している病院を聞けばいい。」


「悪いが調べてもらえるかな。これ以上、警察とは余り関わりたくないものでね。」


「いいとも、任してくれ。イルダに頼むから。」と言って向井は席を立ってカウンターでジュトンをもら

い、地階の電話器へと下りていった。すぐに戻ってきた。


「いま頼んだからじきに分かるだろう。」


「有り難う。助かるよ。」


「ところで、その男は一体何者なんだ。なぜ君を助け、しかも身代わりになったんだ。」


「『京都』の犯人と教会の人物とは同じだろう。もし違ったとしても、同じ目的を持つのだろう。だとす

れば、ギャラクシアへの訪問者も薬の密売に関係した者と云うことだ。だからピストルで撃った男もこれ

に関係している。分からないのは僕を助けてくれた男だ。」


「やはりすべてはこの写真に関係あるだろうな。もっとも、こうして新聞なんぞに公開したら捜査に影響

するだろうが。それが心配だな。」と言って、向井はソワール紙をのぞき込んだ。しばらく写真を見つめ

た後、「この写真の連中はすべて逮捕されたのかな。少なくともマスコミにこうして流される位なんだか

ら捕まったんだろうな。けれど、もし捕まっていない者がいたとしたら、その人物もこの新聞を目にする

に違いない。密売組織だから、情報の収集力もかなりなものだろう。君がこの写真を撮ってから僅かの日

時で、警察が泳がせるという方針を変えてまでも逮捕に踏み切ったのは、恐らく彼らに感づかれ始めたか

らではないのか。だからひょっとしたら警察の追求を逃れた者が君を警察への通報者と見て、その報復と

して撃ったのかも知れないな。」


 「何だか恐ろしい話になってきたな。パリを離れた方がいいかもしれない。僕はドローグ(薬)なんて

全く興味はないんだから、ほうっておいて欲しいもんだ。ケガでもしたらどうしてくれるんだ。冗談じゃ

ない。こちらは仕事を残して日本には帰れないんだから。」


「命あってのモノダネだよ。今すべきことは、とりあえずどこかに身を隠すことだ。」


「それはそうかもしれんが、今回の仕事を投げ出すわけにはいかないんだ。けちだがいい仕事をさせてく

れる会社の仕事だ。それを投げ出すのは彼等の期待を裏切ることになる。何か旨い方法はないものか

な。」


「誰かに頼んだらどうだ。投げ出すよりはましだろう。」


「しかし、パリでは知っている写真家なんていないよ。」


「それなら任せてくれ、俺が何人か知っているから。当たってみるよ。仕事が入るんだ、誰でも歓迎する

よ。」


「そうか。それなら一つ頼んでみるか。僕は撮影が終わるまでパリを離れている。撮影が終わり、写真が

上がったらチェックして日本へ帰るよ。」


「そう決まったら話は早い方がいい。今から当たってみる。旨くいけば、今日中に決められるだろう。

じゃあ、とりあえず俺の所にこないか。連絡をつけるのにも便利だし、夕飯もまだだろう。」


「本当に悪いな。この借りはいつか返すよ。」

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 彼は撮影を終え、墓地を出た。次いで贅を尽くした18世紀の霧屋敷(後のダンスホール)やルノワールの

栄養過多の人物画で知られるダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレットなどを撮影した。少し前に起きた

大きな事件にもかかわらず、ここでもかつてのプロ意識が黒木をそうさせていた。あるいは撮影している方が

心が落ち着くので、そうしたのかも知れなかった。


 


 メトロのアベッス駅近くに戻り、本屋に入った。雑誌を立ち読みし、新刊の単行本の表紙を眺めた。そして

新聞に目をやって驚いた。何とフランス・ソワールの一面にでかでかと見慣れた写真が出ていたのだ。


「何だこりゃ。」と彼は思わず叫んだ。ニヒルな顔つきの車椅子に座った店主が驚いたようにジロッと彼

の方を一瞥した。その写真は紛れもなく警察で押収された、コミューンの壁で彼が撮ったものの一枚だっ

た。


―警察から流れたんだろう。それ以外には考えられない。しかし、なぜこんな事をしたのだろうか。―


 彼は急いでその新聞を買い、近くのキャフェで広げた。

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 二度あることは三度あるの言葉通り、事件は再々度彼を待ち受けていた。ユトリロの墓を捜しながら歩いて

いると突然、墓石の陰から何者かが飛びかかってきた。彼はもんどり打って砂利道に倒され、男がその上に覆

い被さった。その瞬間、パンパンという乾いた、何か弾けるような音がした。黒木はその音の方を倒れたまま

見た。黒い革ジャン姿の男が駆け去って行き、後に白い硝煙が残されていた。彼は自分を押し倒した男が低い

声で唸っているのに気付いた。男を押して這い出してみると倒れたまま動かなかった。仰向けにして驚いた。

なんとモンパルナスの喫茶店で話かけてきた男だった。白いシャツの右胸を鮮血に染め、目を閉じたままだっ

た。彼は急いでハンカチを取り出し、出血個所の上にあてがった。墓地の管理人が走ってやってきた。黒木

は、「ランビュランス シイル ヴゥ プレ。ヴィット、ヴィット。」と大声で救急車を頼んだ。救急車

を待つあいだ、彼はその男に何度も「メルスィ ボク」と礼を言い続けた。男は無言のままだった。すで

に唇は真っ青だった。間もなく救急車が来て男を収容し、走り去った。黒木はそれをじっと見送ったが、

自分が殺されかかったにもかかわらず、それが未だに実感として湧いては来なかった。


 彼はしばらく立ちすくんでいたが、なかなか警官はやってこなかった。思えば救急医さえ何も尋ねな

かった。


―これもフランス的か。―と考えた。

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 寺院の内部は幾度も見ているので入らなかった。裏に回り、パリで一番高い地点でありユトリロも描いたサ

ン・リュスティック通りを歩いた。そして、その突き当たりを右に折れ、坂を下ると右手にパリで唯一のブド

ウ畑がある。十月には華々しい収穫祭がある、とガイドブックには書かれていた。その畑に続く上には、かつ

てユトリロやルノアールが住んだことのあるモンマルトル博物館が緑の中に伺えた。畑の下にはボヘミアンた

ちが集った、かつての暗殺者たちの飲み屋、後のラパン・アジル(跳ねウサギ)がある。その名の由来は店の

入り口の上に掲げられたアンドレ・ジルの跳ねウサギの絵であるという。ここでは生粋のボヘミアン、モディ

リアニ、そしてピカソ、ユトリロ、キュービズムの連中が飲み、歌い、議論した。もっとも閉じられた昼間の

ラパン・アジルにその雰囲気はない。彼は夜に撮り直そうかとも考えながら、そのポツンとある東屋を撮っ

た。


 次いで、となりのサン・ヴァンサン墓地へ行った。そこにはユトリロが眠っていた。入り口はずっと反

対側のリュシアン・ゴラール通りにあった。小さな墓地だがユトリロの墓はなかなか見つからず、探し回

る羽目になった。


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