小説「パリは夜露に濡れて」

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モンパルナス墓地のスライドには特に変わった点はなかった。強いてあげればボードレールのカットに一

人の男が映っており、いかにも悪人という顔つきだったが、はっきり映っていないのでそれ以上は分から

なかった。二人は再びコミューンの壁の写真に戻った。


「はっきりと人物が写っているのはこの場面だけだ。そしてこのフィルムを奪おうとした者がいることだ

けは確かだ。その何者かは僕の撮ったフィルムが欲しかった。なぜか。普通に考えるなら、映って欲しく

ないものを撮られた、と考えたからだろう。そのものとは全部のスライドを見た限りでは人物以外には考

えられない。つまり、このコミューン戦士の壁に集まっている人物に関係する者が僕を襲い、そしてフィ

ルムを取ろうとしたんだ。しかし、この広いパリでその人物を捜し出すなんてどだい無理だよな。」


「そうだろうな。前田さんを捜し出すのだって簡単ではないはずだ。ところでモンパルナス墓地の悪人は

どうなんだ。関係ないとは断定できまい。」


「しかし、顔がはっきりしないのではどうしようもない。大勢写っている方の人物にしても、気を配って

道を歩く程度しかできないな。絹子の方はとりあえず両親に連絡しようと思う。今更どうこうと云うので

はないが、無事が確認されただけでもきっと喜ぶだろう。」


 しばらくしてから、黒木は千田の電話を借りて石川と牧村にスライドの件を伝えた。向井は不在だっ

た。


 電話が済むと千田は再会を祝して飲みに行こうと誘った。しかし。黒木は余り気乗りしなかった。酔っ

ていては自分の身を守れないし、なによりも前田絹子の出現で心が穏やかではなかった。静かに心の整理

をしたかった。千田もその気持ちが分かるとそれ以上は誘わなかった。

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 4週間はあっという間に過ぎ去った。前田らしき人物をを見たという人は何人かいたが、それ以上には

結びつかなかった。パリ到着の4日目以降、プツリと彼女の消息は途絶えていた。パリは国際都市であ

る。日本人の一人がその雑踏の中に消えたとしても、誰も関心を寄せることはなかった。フランス人から

すれば日本人も中国人も、そしてベトナム、カンボジア人も同じ東洋人としか映らなかった。彼女が誘拐

されたという証拠はなく、警察に期待することもできなかった。もし本人の意思で失踪したならば、それ

は個人の領域の問題であり、他人がとやかくいう筋合いではなかった。


 黒木は全てを尽くしたと思った。それ以上はもうすべきことがなかった。5週目、否応なく彼はパリを

離れざるを得なかった。ついに彼女は見つからなかった。ただの一片の情報も入手できなかった。傷心の

まま帰国した。自宅に戻ると、果たして、彼女から別れを告げる手紙が郵便受けに届いていた。理由の書

かれていない手紙だった。


 それからはしばらく虚脱状態が続いた。最初は追憶が苦しめ、悪夢が毎夜さいなめた。次いで、哀しみ

が絶え間なく襲った。理由の分からない別れの苦しみから脱するには長い時間が必要だった。しかし今で

も理由が分からないということの辛さが彼の心を苛め続けていたのだった。



「それは本当に驚きだな。それで、どうするんだ。」と千田は黒木の話を聞き終えると真顔で言った。


「今、それを考えている所だ。捜す必要はあるだろうがあまりに時間が経ちすぎているからな。それに、

こうして無事でいると云うのは、彼女は少なくても自分の意志で身を隠し、パリに滞在していると考える

のが自然だろう。」と彼は言葉を選びながら言った。


「この男は誰だ。」


「すぐそばの男かい。」


「そうだ。悪党には見えんな。」


「彼女も一人で暮らしてはいないだろう。恋人かもしれんな。」


「この写真では君に気付いている様子だが、君は気付かなかったと言ったな。」


「まったく。まさか彼女がこんな近くにいたとは思いもしなかったよ。次のカットにはもう映っていない

から、すぐに墓を離れたんだろう。僕が襲われたのと彼女の存在がまさか関係してるなんてことはないと

思うが。」


「残りも見てみよう。」

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 それは彼が報道カメラマンとして東京をかけずり廻っていた頃だった。その日は冬でも特に寒く、仕事

とはいえ事件の少ないことを願っていた。そしてそんなときは決まって大きな事件が起きるものだった。

深夜2時近く、高速夜行バスとトラックが衝突し、後続する十数台の車が玉突き衝突を起こした。彼は同

僚と、たまたま仕事の帰りに首都高でその知らせを受け、直ちに現場に駆けつけた。東名高速の瀬田出口

付近の現場は悲惨だった。まだ救急活動も始まったばかりで負傷者がウンウン唸っているのが聞こえた。

彼は感情を交えず警察の規制が始まるまでフラッシュをたき続けた。一通り撮り終えて全体の状況を見よ

うと見回すと、ケガをしたらしい女性が路肩でじっと放心したように座っていた。寒いのにコートも着

ず、小刻みにふるえていた。黒木は彼女に自分の着ていたジャケットを掛けてやった。女性は前田絹子と

いい、バスで国へ帰省途中の大学生だった。足に軽いケガをしていた。警察官に事情を話し、近くの病院

に連れていくことにした。彼女に肩を貸し、自分の車まで連れていって乗せ、同僚の運転で近くの病院に

向かった。病院で簡単な治療を受けた後、絹子を自宅まで送った。


 その事故での出会いをきっかけに二人の交際が始まった。時はめぐり、二人はいつしか婚約するに至っ

た。しかし、黒木にとって幸福の頂にあるはずのときに、思いも寄らぬ不幸が待ち受けていた。


 絹子はジェラール・ネルバルが好きだった。そして4年生の夏、ネルバルを生んだパリを見たいと一人

成田を飛び立った。黒木は空港で彼女を見送った。


 それが絹子を見た最後となってしまった。パリに着いて3日目、ホテルから実家への国際電話を最後に

失踪したのだった。


 黒木にとって、それは青天の霹靂だった。全く理由が分からなかった。すぐに休暇を取ってパリへ向

かった。彼女が宿泊したホテルを始め、訪れた可能性のあるところすべてに足を運んだ。ルモンド、リベ

ラション、フィガロ、フランスソワールなどの各紙に人捜しの広告を出し、日本人の集まるレストラン、

銀行、書店、免税店、語学校などに顔写真を入れた尋ね人のビラを貼り出させてもらった。日本大使館を

通じてパリ警察に失踪届を出し、捜索を依頼した。また、街頭に出ては行き交う日本人に写真を示し、見

たことがないかと尋ね歩いた。そして、夜は彼女の姿を追って盛り場を捜し歩いた。可能性のある場所と

人には全てコンタクトをとってみた。ありとあらゆる手段を使って捜したはずだった。

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墓の写真ばかりだな。」と千田が呆れるように言った。


「天気が悪かったので墓を撮ったんだ。でも不思議だよな。歴史の中では脚光を浴びた人たちも、消えゆ

くときは殆ど知られることもない。むしろ、不遇に終わる方が多いのかもしれない。名声は歴史に残る

が、朽ちた肉体はここにひっそりと眠っている。栄光と死のコントラストが実に寒々しく感じられる。」


「確かに。これは誰の墓なんだ。ゴンコートと読めるが。」


「ゴンクール兄弟だ。彼等の名をつけた文学賞があるだろう。ここはモンマルトル墓地だ。次からはペー

ルラシェーズ。」


 次々と場面は進んでいくが特に変わったカットは見あたらない。


「これは何だ。」


「パリ・コミューンの最後の兵士が銃殺されたところだ。もう10カット程あるはずだ。」


 初めて多くの人物が現れたので千田は楽しそうに人物の顔を追っていた。


「ちょ、ちょっと待って。千田さん、一つ戻してもらえるかな。」と黒木は何かに気付いたらしく、あわ

てて叫んだ。


「おー、いいとも。」と千田は一つ前のカットに戻した。





 そこには壁を見ている十数人位の人物が写っていた。大半は横顔を見せているが、端の一人だけカメラ

に目線が注がれていた。明らかに日本人だった。長い黒髪、スラッとした体。その表情は驚きとも不快と

もつかない表情が感じ取られた。





「彼女だ。」と黒木は叫んだ。「間違いない。絹子だ。」


「誰だって。その、絹子というのは。」


「こちらを向いている女性、知っているんだ。でも、こんな出会いをするなんて。あれほど探しても見つ

からなかったのに。なぜ、あのとき気付かなかったのだろうか。」と言って黒木は驚きと共に深くため息

を付いた。


「何かいわくがありそうだな。聞かせてくれよ。」


「ああ、そうだな。」と言ってしばらく呆然としていた。やがて彼の口が開いた。


「あれは今から8年前ほど前のことだ。僕が大学を卒業し、新聞会社に入って間もなくの頃だった。」と

語り始めた。

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黒木は豪華な部屋を見せてもらうことにした。寝室、キッチン、バスルームと回った。寝室にはヴェルサ

イユ宮殿で見たような金ぴかのベッドが置かれていたし、風呂もルイ十四世風とかいうライオンの4つの

足がつく年代物だった。


「大家の趣味なんだ。」と千田が説明した。


「そういえば、千田は独身だったな。」


「ああ、なかなか見つからなくてね。いつの間にか年を喰っているんだな。でも、ここにいると日本人で

も誰もそれを話さないし、フランス人なんて他人のプライバシーには関心を持たないからとても楽なん

だ。」


「日本ではなぜああも年を尋ねたがるんだろう。誰かの歌じゃあないが、クモの巣のようなお節介でベタ

ベタしてるんだ。」


「ああ、黒木もその歌を知っているんだ。」


「ということは、千田も団塊の世代ということか。色々とあった時代だったな。」


「そうだったな。」





 二人は食事に出かけた。「近くにいいレストランがある。」と千田はシャン・ゼリーゼ通りから少し

入った店に案内した。


 夕食を済ませて大通りに出た頃、ようやく日が傾き始めていた。凱旋門が黒い輪郭をみせ、遠くラ・マ

ルセエイエーズのレリーフが照明に浮き上がっていた。アパルトマンに戻った。黒木はベランダからの光

景に見とれている。


「ここからの夕日も実に見事だね。男たちだけで見るのはもったいないくらいだ。」


「まあね。でも、一人というのもまんざら捨てたものでもないぜ。フリーに勝る物はないぜ。」と言っ

て、窓のシャッターをおろし、部屋を暗くした。白い壁にスライドが映し出された。


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