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その日のスケジュールをこなし、心地よい疲れを全身に感じながらマレーを後にした。バスティーユで
メトロに乗り、オーステルリッツ駅で乗り換え、モベール・ミュチャリテで下りた。ギャラクシアではマ
ダム・ビュートルが彼を待っていた。
「昨晩はどうも。あの後は何もなかったでしょうか。」と撮り終わったフィルムを出しながら言った。
「ええ、何も。昨日のお話では何か思い当たることがあるようでしたが。」と少し元気のない声で言っ
た。
「いいえ、たいしたことではないんです。気になさらないでください。ええと、ここにサインすればよろ
しんですね。」と黒木はリバーサルフィルムを貰い、受取帳にサインした。
ギャラクシアを後にすると、黒木は千田の所へと向かった。彼はその日、オフだった。プロジェクター
を持っていたので黒木の頼みに応じて夕方にはアパルトマンに居てくれた。
千田のアパルトマンは8区のグラン・パレとパレ・ド・トウキョウの間にあった。建物の前は道路をは
さんでセーヌ川が流れている。黒木はアルマ・マルソ駅を出て数分歩いた。入り口で事前に聞いておいた
番号錠の番号を押し、扉を開けて中に入った。中庭には赤、白や紫のきれいな花が咲き乱れていた。エレ
ベーターに乗り六階へ上った。ドアのベルを押してしばらく待った。上、真ん中、更に下、と3つの施錠
をはずす音が聞こえ、白ずくめの千田が現れた。すべてブランド品の筈であった。
「よく来たな。久しぶり。この間は『京都』に行けなくて悪かったな。」と言って黒木を応接間に案内し
た。大きな窓からは初夏の日差しがベランダを強く照りつけている。
「すばらしいところに住んでるね。セーヌの流れを見られるなんて。」と黒木は窓からの景色に感嘆の声
を上げた。
「ありがとう。ここに住めるのは全くの幸運でね。大家は気前のいい親日家なんだ。だからかなり格安で
借りられたんだよ。」と言って千田は微笑んだ。
「それは結構な話じゃあないか。僕も一度でいいからこんな所に住んでみたいよ。ところで、今日は悪か
ったな。休みなのに頼み事なんかして。」
「いいや、何でもないよ。それに一年振りだろう。気にするな。そうそう、スライドを映したいと言って
たな。早速始めるかい。」
「いや、夕食はまだだろう。それからにしよう。フィルムは昨日撮ったものだ。電話でも少し話したが、
撮影したカットの中に問題な何かが映っているようなんだ。」
「僕も期待しているぜ。たまには変わったことがないと退屈で頭が鈍っちゃうからな。」
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