小説 「欧州周遊旅日記」

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欧州周遊旅日記 その5

 その日の経営会議では売上げ減少に対する戦略の見直しが取り上げられていた。

「この上半期における売上げは目標の13億5千万にかなりショートしている。営業部長、これをどうリ

カバーするのか説明してくれたまえ。」と白川が会議を始めた。

「はい、前月末までの売り上げは10億970万円です。あと20日の営業日がありますが、これを3億

4千万円の予算まで持っていくのはかなり苦しく、2億3千万が限界とみております。特に得意先の北側

産業が倒産した影響が大きく尾を引いており、売上げを維持するには新たな取引先を増やすしかありませ

ん。」

「わかった。それで新規開拓はどうなっているんだ。黒瀬君が紹介した会社はその後どうなおった。担当

課長。」

「はい。」と営業の担当課長が答えた。「社長からは何件か紹介いただいておりますが、現在までのとこ

ろ芳しい結果がでておりません。」

「新連合はどうなった。」と黒瀬が言った。

「はい、まだ仕事を頂いてはおりません。」

「そうか。これまでの交渉の内容を聞かせてくれ。彼は権限を持っているはずだから。できれば今夜会っ

てみよう。」

 
 会議が終わると早速、新連合東京事務局長の清水に電話を入れ、赤坂で夜会う約束を取り付けた。

 黒瀬は群馬の田舎に生まれた。実家は公務員だったが小さな田圃と畑があり、米や麦、野菜などを作

り、食べ物は自給自足していた。彼が仕事を他人任せにできないのは彼の性分にもよるが、小さいときに

養われた農作業の手伝いによることも多かった。彼は田舎の小さな小中学校を過ごしたが、当時は農繁休

業が一週間程あった。その地域で一斉に田植えが行われ、子供たちも親を手伝うのが一般的であった。彼

も手伝ったが、級友のほとんどが農家だったのに比べ、公務員だった彼の実家は機械化が遅れていた。牛

を使っての農耕や手作業での田植えは小さな彼にとってかなりつらく、面白くない仕事だった。しかし、

その農作業を通じ、どんなつらい仕事でも自分でやり通さなくては納得しない性分を体得していった。

欧州周遊旅日記 その4

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 いつものように7時半きっかりにマンションを出た。500世帯が入ったそのマンションの管理人が入

り口の掃除を終えようとしている。


 「おはようございます。」と声をかけると、「ああ黒瀬さん、おはようございます。」と振り向きなが

ら言った。口当たりは優しいが警察上がりというだけあって、その目は鋭かった。


 朝の東横線日吉駅は通勤通学者で混んでいた。かつて彼が学生時代には代わり映えのしない駅だったが

今は駅全体がショッピングセンターに変身している。渋谷で銀座線に乗り換え、外苑前で降りた。国道2

46を青山3丁目交差点の方に戻る。大丸ピーコックストアーを越え、しばらく歩いた、晴山246ビル

の7階に彼の会社があった。黒瀬と共同経営者の白川が作り上げた通訳・翻訳会社は業界でも中堅の規模

に育っていた。会社には管理部長が出社しており、暖房を入れていた。


 「早いね。」と黒瀬。「寒くなりましたな、社長。」と管理部長が立ち上がりながら言った。

 
 社長室に入るとまずVAIOの電源を入れた。ウインドーズの画面が浮かび上がり、早速BECKY!

をクリックしてメールをチェックした。プライベートではフランス、ハワイの友人や学生時代の仲間から

メールが入っている。仕事のメールはいつもの通りうんざりするほど届けられている。


社員は30名ほどだが、登録している翻訳者・通訳者は数百人に上っている。世界各国語の翻訳を行う

このアルカンシエル社ではかつてのように単純な英文書類を日本語翻訳する仕事は比較的少なくなってき

た。代わって増えているのは中国語の需要である。それはバブル崩壊後十数年で日本の企業のほとんどが

生産地を東南アジア、中でも中国へと移していくのと軌を一にしていた。

欧州周遊旅日記 − 3

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 彼は恐怖心に突き動かされて目覚めた。顔から首にかけて汗が吹き出し、枕とシーツがすっかり濡れて

いた。悪夢がしばらく続いていた。毎朝、眠りから覚める頃になると必ず同じ夢を見ていた。暗いボタ山

を背景にしたビルの中をエレベーターに乗る。開いた扉から乗ろうと一歩踏み出すとエレベーターの箱が

無く、そのまま漆黒の奈落に転落するのだ。その恐怖心が彼を目覚めさせた。その夢がどのような意味を

持つのか知りたかったが、長い間調べることをついつい忘れていた。


 眠い眼をこすりながらシャワーを浴びた。少し熱めなシャワーが眠気を吹き飛ばす。

濡れた頭をタオルで拭きながら新聞受けから朝日の朝刊を取り、居間のソファーで広げた。


 日本人拉致問題が一面を飾っていた。あどけない少女が涙を流す写真と「中学生で拉致された子の娘が

会見」との見出しだ。


―二十五年前のことか。こんな騒ぎがあったかな。それにしてもひどいことをしたものだ。


 やかんがピーと鋭い音を立てた。ティーバッグの入った、淡い緑が美しいヘレンドのカップに沸騰した

お湯を注いだ。お気に入りのそのカップは彼がヨオロッパ旅行の際、コペンハーゲンで購入した年代物だ

った。トーストがポップアップし、こんがり焼けたパスコの食パンが芳ばしい香りを立てている。

欧州周遊旅日記−2

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 黒瀬は書斎で革張りの椅子にゆったりと腰掛けながら、旅行をするたびにつけていた日記帳の一つを開

いていた。ヨオロッパを旅した時のその懐かしい日記帳は長い時を経たために少し黄ばんではいたが、そ

こに記された旅の思い出はまるで昨日の出来事のように彼の脳裏に思い出された。万年筆で記されたブル

ーインクの拙い文字は未だ鮮やかだ。パイロットのブルーのインクは彼のこだわりだった。大理石のビー

ナス像前で撮った、風邪気味でマスクをした自分の写真が貼られている。VANの白いコートが懐かし

い。そのコートと、下に着ていた同じくVANのジャケットは後々まで愛用していた。コートは裾がすり

切れるまで、ジャケットは虫食って穴があくまでつきあった。


─今やアンカレッジ経由でヨオロッパへいく路線も無いか少ないのではないだろうか。まして、オルリー

空港はドゴール空港に取って代わられている。ただ、成田だけは相変わらず問題を残したままだ。羽田が

国際空港という昔の栄光を取り戻すなんてことになったら、「いったい何のための空港建設だったの

か。」という新聞の見出しが今から目に浮かぶ。



 彼は大学卒業のその年、友人と二人でヨオロッパを旅した。それは、のんびりした旅とは言い難い、駆

け足で欲張りな旅だった。後の彼の人生を暗示するように、一ヶ月でヨオロッパを時計と逆回りにぐるり

と駆け抜けた。当時、外国旅行は未だ一般的ではなかった。黒瀬は社会に出てからではなかなか行く機会

も無いだろうと考え、友人を誘った。友人も同意し、旅に出た。パリを出発し、電車を乗り継いでスペイ

ン、南仏、イタリア、スイス、フランス、オランダ、デンマークと周り、コペンハーゲンから帰国するプ

ランを立てた。

欧州周遊旅日記−1

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欧州周遊旅日記


197X年2月15日(水)

 18時、JAL407便、座席ナンバー14Cで新東京国際空港(成田空港)を飛び立った。「ボタン

を掛け違った」空港として国論を分けた三里塚の飛行場から、ヨオロッパへ旅立つとは思わなかった。歴

史の皮肉ということか。


2月16日(木)  

 朝6時、小雪の舞う、マイナス15度のアラスカ・アンカレッジ空港に到着。免税店をのぞいて楽しん

だが買いたいと思うものは無かった。次いで、夜のロンドン・ヒースロー空港を経由して6時45分、パ

リのオルリー空港に着いた。空港からパリへ至る高速道路から見たパリの街は朝日を受けて黄金に輝き、

美しかった。あこがれのパリに、ついにやってきた。

 
 ホテルでガイダンスを受けた後、早速、パリ市内へと繰り出した。ルーブル美術館からシャンゼリーゼ

通りを抜け、凱旋門へと歩いた。観光客でごった返すなかをミロのビーナスやモナリザを急ぎ足で覗い

た。シャンゼリーゼ通りは日本の歩行者天国のように人の波だった。その先にある高さ50メートル余り

の凱旋門のラ・マルセイエーズは力強かった。今、憧れのヨオロッパに立っている。


 

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