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STAP細胞の問題はそろそろ片付いたと思っていたが、どっこい小保方氏は反撃の本を世に出した。
「あの日」。STAP細胞は存在したのか。小保方氏の当時の立場と研究できる範囲。上司の責任やサイエンス投稿者の責任。この書物の販売に手を貸すように思えるのだが、理化学研究所という組織のあり方や一研究者が失った全てを比較するとき、この問題を探ってみたい気持ちを誰もが抱くだろう。
ビジネスジャーナルの記事を提案したい。
STAP問題の元凶は若山教授だと判明…恣意的な研究を主導、全責任を小保方氏に背負わせ
「私は、STAP細胞が正しいと確信したまま、墓場に行くだろう」
STAP論文の共著者であるチャールズ・バカンティ博士は、米国誌「ニューヨーカー」(2月22日付電子版)の取材に対して、こう答えた。2015年にもSTAP細胞の研究を続け、万能性を示す遺伝子の働きを確認したという。
また、「週刊新潮」(新潮社/2月11日号)では、理化学研究所・CDB(発生・再生科学総合研究センター)副センター長だった故・笹井芳樹博士の夫人が、インタビューにおいて次のように発言している。 「ただ、主人はSTAP現象そのものについては、最後まで『ある』と思っていたと思います。確かに主人の生前から『ES細胞が混入した』という疑惑が指摘され始めていました。しかし、主人はそれこそ山のようにES細胞を見てきていた。その目から見て、『あの細胞はESとは明らかに形が異なる』という話を、家でもよくしていました」
ES細胞に関する世界トップクラスの科学者である2人が、ES細胞とは明らかに異なるSTAP細胞の存在を確信していたのだ。
一体、あのSTAP騒動とはなんだったのだろうか――。
●ファクトベースで書かれた手記
小保方晴子氏が書いた手記『あの日』(講談社)が1月29日に発刊され、この騒動の原因が明らかになってきた。時系列に出来事が綴られて、その裏には、関係者間でやりとりされた膨大なメールが存在していることがわかる。さらに関係者の重要な発言は、今でもインターネットで確認できるものが多く、ファクトベースで手記が書かれたことが理解できた。いかにも科学者らしいロジカルな構成だと筆者は感じた。
しかし、本書に対しては「感情的だ」「手記でなく論文で主張すべき」などの批判的な論調が多い。特にテレビのコメンテーターなどの批判では、「本は読みません。だって言い訳なんでしょ」などと呆れるものが多かった。
手記とは、著者が体験したことを著者の目で書いたものである。出来事の記述以外に、著者の心象風景も描かれる。それは当然のことだ。特に小保方氏のように、過剰な偏向報道に晒された人物が書く手記に、感情面が書かれないことはあり得ないだろう。それでも本書では、可能な限りファクトベースで書くことを守ろうとした小保方氏の信念を垣間見ることができる。
また、「手記でなく論文で主張すべき」と批判する人は、小保方氏が早稲田大学から博士号を剥奪され、研究する環境も失った現実を知らないのだろうか。小保方氏は騒動の渦中でも自由に発言する権限もなく、わずかな反論さえもマスコミの圧倒的な個人攻撃の波でかき消された過去を忘れたのだろうか。このようないい加減な批判がまかり通るところに、そもそものSTAP騒動の根幹があると筆者はみている。
●小保方氏が担当した実験は一部
STAP騒動を解明するために、基礎的な事実を整理しておこう。
小保方氏が「STAP細胞」実験の一部だけを担当していたという事実、さらに論文撤回の理由は小保方氏が「担当していない」実験の部分であったという事実は、しばしば忘れられがちである。いわゆるSTAP細胞をつくる工程は、細胞を酸処理して培養し、細胞塊(スフェア)が多能性(多様な細胞になる可能性)を示すOct4陽性(のちに「STAP現象」と呼ばれる)になるところまでと、その細胞塊を初期胚に注入しキメラマウスをつくるまでの、大きく分けて2つの工程がある。
小保方氏が担当していたのは前半部分の細胞塊をつくるまでである。後半のキメラマウスをつくる工程は、当時小保方氏の上司であった若山照彦氏(現山梨大学教授)が行っていた。
もう少し厳密にいえば、小保方氏が作製した細胞塊は増殖力が弱いという特徴を持っているが、若山氏は増殖力のないそれから増殖するように変化させ幹細胞株化(後に「STAP幹細胞」と呼ばれる)させるのが仕事だった。つまり、「STAP現象」が小保方氏、「STAP幹細胞」が若山氏、という分担だが、マスコミにより、「STAP現象」も「STAP幹細胞」も「STAP細胞」と呼ばれるという混乱が発生する。
本書によれば、若山氏はキメラマウスをつくる技術を小保方氏に教えなかった。小保方氏の要請に対して、「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と答えたという。
この若山氏の言葉は見逃すことはできない。なぜなら、STAP細胞実験を行っていた当時、小保方氏はCDB内の若山研究室(以下、若山研)の一客員研究員にすぎなかったからである。小保方氏の当時の所属は米ハーバード大学バカンティ研究室(以下、バカンティ研)であり、若山氏は小保方氏の上司であり指導者という立場であった。 当時の小保方氏は、博士課程終了後に任期付きで研究員として働くいわゆるポスドク、ポストドクターという身分だった。不安定な身分であることが多く、日本国内には1万人以上いるといわれ、当時の小保方氏もそのひとりであり、所属する研究室の上司に逆らうことはできなかったのだ。
この弱い立場が、のちに巻き起こるマスコミのメディアスクラムに対抗できなかった最大の理由である。メディアがつくり上げた虚像によって、まるで小保方氏が若山氏と同じ立場で力を持っていたかのように印象づけられていた。
●ストーリーありきの実験
話を元に戻す。小保方氏は若山研の所属になる以前、留学先のハーバード大学でバカンティ教授からSTAP細胞の初期のアイデアを得ていた。バカンティ教授は、「非常に小さな胞子のようにストレスに強い共通の幹細胞が全身の組織に存在しているのではないか」という仮説を提唱していた。バカンティ教授はそれを「スポアライクステムセル(胞子様幹細胞)」と名付けていた。
小保方氏はその仮説を検証するために日夜研究に没頭し、ついにその証拠(Oct4遺伝子発現)を得ることになる。その結果をバカンティ教授の前で発表すると、バカンティ教授は、両手で固くこぶしをつくった後に目を見開き、「過去15年で最高のプレゼンテーションだった」と喜んだという。
しかし、細胞が多能性を持つかどうかを証明するには、その細胞からキメラマウスを作製しなければならなかった。現在の生命科学界ではそれが一番厳密な証明とされているからだ。小保方氏はキメラマウスの実験を行うため、他の教授からの推薦もあり「キメラマウス作製の第一人者」である若山氏を紹介され、バカンティ研の所属のまま若山研の客員研究員となったのだ。
本書によれば、小保方氏はキメラマウスの作製方法を若山氏から教わることなく、若山研で細胞塊の作製を淡々とこなすようになる。いつしか研究は若山氏の主導のもと、海外の有力科学雑誌への論文投稿が目的化し、論文のストーリーに合わせた実験へと変節していく。「ストーリーに合わない、つじつまの合わないデータは使用しないように」という指導まで小保方氏は受けている。信じがたいことに、実験が正しいかどうかを判定するための「コントロール実験」も行わなかったという。研究メンバーも全員、若山氏の意向に沿うようになり、強引な研究姿勢に異を唱える者もいなかった。
そもそもバカンティ教授の仮説から始まり小保方氏の検証から動き出した研究の主導権が、完全に若山氏に渡ってしまい、ついには若山氏が特許配分51%を要求するまでになる。バカンティ研所属でいながら若山研の客員研究員という複雑な立場の小保方氏は、アメリカと日本の大先生の板挟みとなっていく。
小保方氏は、細胞で起こる「新たな現象」(STAP現象)の研究を深めていきたいと若山研に移ったが、いつの間にか若山氏しか成功していない「新たな幹細胞株の確立」(STAP幹細胞)の研究と論文作成を部下として手伝う立場になっていた。
自ら選んだ研究テーマが、もはや自由に研究できる立場でなくなり、しかも若山氏が主導した論文のストーリーに合わせた研究が続く毎日。「もうアメリカに帰ろうと思っている」と研究メンバーに打ち明けた。その直後、CDBの小さな研究室のユニットリーダーに募集しないかと声をかけられ、自分が望む研究ができるならと面接を受け、紆余曲折を経て小保方氏はCDBのユニットリーダーとなる。
●若山氏の責任
その間、若山研による論文投稿は難航していた。その状況を劇的に変えたのが笹井氏だった。笹井氏はネイチャー誌にいくつもの論文が掲載された実績を持ち、世界的にも有名な科学者だった。笹井氏の指導により、論文は見事に整理され、ネイチャーへの掲載も決まった。
そして笹井氏の命名により、小保方氏が検証した細胞の現象を「STAP」(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency:刺激惹起性多能性獲得)と呼ぶようになった。この名称が示すように、「STAP」とは小保方氏が検証した細胞の現象を示す意味合いが強かったことがわかる。
その後、論文に不備が見つかり、のちにこれが不正と判断されることによりマスコミの過剰報道を交えた大混乱が起こったのは周知のことだろう。画像の間違い等によるミスに関しては、小保方氏は会見や本書において何度も謝罪をしている。
しかし、ポスドクの立場で部下として研究に携わり、当時の上司であり指導者であった若山氏が主導した論文投稿に協力した小保方氏に、全責任を負わせたのは明らかに間違いだといわざるを得ない。
若山氏は、小保方氏と同じ責任を負ったのだろうか。いや指導者という立場であれば、研究員への指導責任によりはるかに重い責任が負わされたとしてもおかしくはないだろう。
2月11日付当サイト記事において、東京大学医科学研究所特任教授の上昌広氏は、加藤茂明・東京大学分子細胞生物学研究所教授(当時)が責任著者として発表した複数の論文のなかにグループメンバーの一部による不正あったことに対する監督責任を取って、東大教授を辞職した例を挙げ、「なぜ、加藤氏と若山教授の扱いが、こんなに違ってしまうのだろう」と指摘している。
さらに、若山氏が15年に、「絶滅動物の細胞再生および有用遺伝子回収方法の確立」というテーマで、基盤研究(A)として年間975万円の研究費を受け取っていたという事実から、「文科省のガイドラインに準じれば、そもそも彼には科研費に応募する資格がない。なぜ、山梨大も文科省も、このことを議論しなかったのだろう」と指摘している。
前述のとおり、STAP論文撤回の理由は小保方氏が「担当していない」実験の部分であったが、世間では小保方氏の画像の間違い等による不正認定が原因だと広く認識されている。
次回は、その真相を探っていく。そこには、若山氏が責任を回避したマジックが隠されているのだ。
(文=大宅健一郎/ジャーナリスト) 株式会社サイゾー ビジネスジャーナル 2016年2月26日より
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Black Pennyは世界初
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1963年(昭和38年)11月22日、アメリカ中部標準時間午後0時30分、 米国大統領ジョン・F・ケネディ(JFK)は、テキサス州ダラス空港からオープンカーで市内の演説会場に向かう途中、何者かに狙撃され病院に運ばれたが30分後に死亡した。アメリカ東部標準時間午後1時30分、日本時間では23日(土)午前3時30分のことであった。
ちょうどその23日朝(米国時間では22日夕方)、通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継(実験)を行うことになっていた。この時の実験放送は、米国から日本に向けて電波を送信するものであり、この計画の推進役であったケネディ大統領から日本へのメッセージをはじめ、すべての番組はあらかじめ録画されていた。
その実験放送で、リアルタイムで送られてきたのは、なんとケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースであった。
11月23日(土)の実験放送は2回行われた。
第一回:午前5時27分42秒〜同48分(20分間)
第二回:午前8時58分〜9時15分(17分間)
実験放送には通信衛星リレー1号が使われた。この衛星は、約3時間で地球を一周する低軌道衛星であったため、日米双方から「見える」20分程度が中継の限度だった。
第1回目の内容
大統領はこの時すでに暗殺されていた。実験そのものは大成功だった。映し出されていたのは、米カリフォルニア州モハービー砂漠(米側電波発信基地)の模様で、一本の木、草まで細かく写っている。
第2回目の内容
ケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースが飛び込んできた。
ありし日のケネディ大統領の元気な姿が映し出された。
大統領に選ばれた直後(2年10ヶ月前)の演説会の模様である。
テレビは、新聞スタンドに群がる人々、半旗を掲げたビルなど、悲しみと興奮に包まれたニューヨークの生々しい表情も伝えてきた。
これらの映像にナレーション(日本語)を入れた日本人がいる。前田治郎氏(当時35歳、毎日放送ニューヨーク特派員)である。前田氏は貿易商社から毎日放送に入り、アナウンサー、プロデューサーを経て、1963年2月からニューヨーク支局の駐在員となっていた。
ABC国際部門のコイル社長は、当日の実験担当であったNBC放送に電話をかけ、日本に実験電波を送るテレビ映像と音声の回線を設定した。約1時間後 (日本時間午前9時ちょうど)、前田氏音声(日本語)は、そのとき全米で放送されていたNBCのテレビ映像にのせて日本に送られた。
日本に届いた映像は、NHKの全国ネットワークと民放全局を通じて日本全国に流された。「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。その電波にのせてこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」。前田氏の第一声である。
前田氏はコイル社長のデスクに座り、目の前にあるテレビに映るNBCテレビの映像を見ながら電話で話をした。映像そのものは、ケネディの就任演説の模様など回顧場面がほとんどであった。
前田氏は、テレビ画面とは別に次々と入ってくるニュースも生で電波に乗せた。 その内容は、そばに座っていたABC国際部門のスタッフがメモに書いてよこしたものである。
ケ大統領の遺体は、いまちょうどワシントンのホワイト・ハウスに送られました。ジョンソン副大統領が、飛行機の中で宣誓を行って大統領に就任した。
突然のことできちんとした原稿をつくる時間はほとんどなかった。“それこそアドリブでレポートしました” とはご本人のお話である。 前田氏の出演(13分12秒)はこうして無事終了した。
コイル社長がABCの東京事務所に国際電話(当時12回線しかなかった)をかけ、日本のテレビで確かに放映されたことを確認する。
国葬のもよう
11月26日(火)には二度目の実験放送が行われた。
午前4時から15分間
容疑者オズワルドが射殺される瞬間の映像
葬儀参列のため渡米した池田首相、大平外相を出迎えるラスク国務長官
など
午前7時50分から15分間
ワシントンで行われた国葬の模様(録画)が放送された。
ケネディ前大統領の葬儀は、現地時間25日正午からワシントン市内の聖マシューズ教会で国葬として行われ、ミサの後、遺体はアーリントン国立墓地に埋葬された。
JFKは米国大統領であり、1963年に暗殺されたことを知らない人は少ないだろう。
私はこの日米間のテレビ放送を見たことをはっきりと覚えている。我が家にナショナルのモノクロテレビが到着して初めて見たのが4チャンネルで放映していたローンレンジャーであった。「キモサベ、トントはインディアン。インディアンは嘘をつかない。」で有名な西部劇であった。トントは名前で、キモサベはだんなといった意味だったと思う。
その翌日の朝早く、この記念すべき米国からの放送を父や兄弟と観たのである(父と私だけだったかもしれない)。覚えている映像は6頭か8頭の馬がひずめの音を響かせながら進む馬車がケネディーの棺を載せて、ホワイトハウス(その時は知らなかったが)の前を走る場面(たぶん)と「本日はこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」というアナウンサーの言葉であった。
眠かったこともあろうし、半世紀も過去のことゆえに、ほとんど忘れてしまっている。その後幾度かテレビ番組でこのときの状況を見たことがあるので、それらと最初に見たときの記憶が重なる部分もあるはずなのだが他の部分は覚えていない。当時、このテレビプログラムがそれほど大きな出来事を伝えていたとは知る由もなかった。
彼の評価は難しいが、あくまでも米ソ冷戦下の米国の側の大統領であった。副大統領はニクソン、対するソビエト連邦側は共産党中央委員会第一書記フルシチョフであった。後にニクソンはウオーターゲート事件を起こして引退し。片やフルシチョフは国連総会で靴で机を叩き第一書記を下されることになる。
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皆さんご存じのように、ペニー・ブラックは世界で最初に発行された切手です。そう、切手を蒐集する人なら垂涎の切手です。世界で最初の切手。魅力ある言葉です。切手を蒐集するフェラテリストを気取って、切手の世界のおもしろさをお伝えしたいと思います。 |
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