宮内庁は29日、天皇、皇后両陛下が30日に都内の避難所を訪れ、東日本大震災の被災者を見舞われると発表した。今回の震災で両陛下が被災者を見舞うのは初めて。同庁によると、両陛下は深く心を痛めており、一日でも早く被災地を訪れたいとの気持ちを強く持っているという。時事通信3月29日付より引用 ↓は「東日本大震災 宮内庁、栃木県に滞在する避難者に那須御用邸の職員用入浴施設を開放」と報じる http://blog-imgs-42-origin.fc2.com/s/p/e/specialnotes/fnnnews20110329web001.jpg
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日本の精神
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昭和天皇祭
1月7日は宮中で先帝祭(昭和天皇祭)が行われます。昭和天皇崩御の日にご追悼の思し召しで皇霊殿及び山稜で行われる大祭です。皇霊殿では天皇皇后両陛下、皇太子同妃殿下が御拝礼され、武蔵野陵には勅旨を参向させて奉幣なさいます。皇霊殿というのは賢所の西側にある建物で、ここには天皇陛下のご先祖に当たられるご歴代の天皇、その后妃の御霊(みたま/ごりょう)を御祀りされています。先帝祭では昭和天皇の側近だった元宮内庁職員の方も参列なさいます。昭和天皇に感謝し、国の安泰を祈るお告げ文を天皇陛下が読み上げられます。 午後5時から、再び天皇皇后両陛下、皇太子同妃殿下が拝礼され、ご退出後、皇霊殿の前で御神楽の儀が深夜まで行われます。6時間にもわたり、15曲の古代歌謡、うち2曲は人長舞という舞を伴った神楽が行われます。こうして昭和天皇の御霊をお慰め申し上げます。両陛下と皇族方はこの御神楽が終了したとの連絡があるまで御所でお慎みになられます。 先帝祭は明治維新より前は仏式で行われてきて、明治に入り、孝明天皇の三年祭に当たる明治三年(1870年)に神式に改められました。そして近四代の天皇の例祭を個別に行い、それ以前の天皇は皇例祭(現在の春分の日、秋分の日)で執り行うことになりました。 1月 7日 昭和天皇祭 1月30日 孝明天皇例祭 7月31日 明治天皇例祭 12月25日 大正天皇例祭 なお、6月16日に香淳皇后例祭が行われています。 4月29日が昭和の日となっているので、一般にはこの日に昭和天皇を偲ばれていると思いますが、昭和64年の1月7日の前後のことを記憶されている人でしたら、この日を思い出されるとよいかもしれません。前年9月に昭和天皇はご重体になられ、国民はお見舞いの記帳のため、皇居へ長蛇の列ができました。記帳は1千万を超えたといいます。最期の病床に臥した昭和天皇は、お見舞いに上がった宮内庁長官に「雨が続いているが、稲のほうはどうか?」と訊ねられたといいます。最後まで自己のことより国民のことを案じておられたのです。 当時私はまだ学生でしたが、毎日のようにニュースが流れて、どこでも暮れには忘年会など自粛していました。1月7日はアルバイトをしており、腕に喪章をつけて仕事した記憶があります。何か一つの大きな時代が終わった、そんな感じを受けました。 激動の時代、昭和を統治された昭和天皇。今は天高くからわれら国民を見守られていることでしょう。 参考文献 「天皇論」小林よしのり著 「天皇陛下の全仕事」山本雅人著 「宮中祭祀」中澤伸弘著 添付画像 左から裕仁親王(昭和天皇)、崇仁親王(三笠宮)、宣仁親王(高松宮)、雍仁親王(秩父宮) (PD) http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg よろしくお願いします。 昭和天皇崩御 〜激動の昭和、終わる〜 http://www.youtube.com/watch?v=G8D15iezQQU
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金美鈴さんのお言葉。 |

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本日は十二月八日。
大東亜戦争開戦の日です。 六十八年前の今日、日本政府は真珠湾を攻撃し、英米に宣戦を布告したのです。 大東亜戦争開戦の日本人の立場をはっきり宣言しているものとして、開戦の詔書ほど重要な文章はないでしょう。 当時の日本人はこの詔書を拳々服膺して、古今未曾有の国難に立ち向かっていったのです。これを素直に受け取れるか否かで、東京裁判史観に、あるいはシナの宣伝工作に毒されていないかが分かるのではないでしょうか。 以下に全文を掲げます。 なお( )内は読み仮名です。・・・以下は意味です。 詔書 天佑(てんゆう)を保有し、萬世一系の皇祚(こうそ)を踐(ふ)める大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝(なんじ)有衆に示す。 朕(ちん)、茲(ここ)に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は 励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。 抑々(そもそも)東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕(ひけん・・・大いに明らかなる徳を有すること)なる皇祖、考丕承(こうひしょう・・・考えを大いに承けること)なる皇考の作述せる遠猷(えんゆう・・・遠いはかりごと)にして、朕が挙々(けんけん)措かざる所、而(しこう)して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕(とも)にするは、之亦(これまた)帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る、洵(まこと)に巳むを得ざるものあり。豈(あに)朕が志ならむや。 中華民国政府(…国民党)、曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして 干戈(かんか)を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり(…汪兆銘の南京政府のことを指す)。帝国は之と善隣の誼(よしみ)を結び、相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟尚未だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)く(…『詩経』の言葉)を悛(あらた)めず。 米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて、東洋制覇の非望を逞(たくまし)うせむとす。剰(あまつさ)へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲の精神なく、徒(いたずら)に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯(かく)の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦(また)正に危殆(きたい)に瀕(ひん)せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然(けつぜん)起つて一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外なきなり。 皇祖皇宗の神霊上(かみ)に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、速に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。 御 名 御 璽 昭和十六年十二月八日 各国務大臣副書 当時霧の中にあったコミンテルンの暗躍については触れられていませんが、これを加えれば日本の立場は鮮明になりますがいかがでしたでしょうか。古格で大変味わい深い名文です。読めば読むほど、知れば知るほど、当時の日本人の真情が現されていると思わざるを得ません。 大東亜共栄圏の構想も、自存自衛の戦争であるということも、当初から日本国民は分かって戦っていたのです。道理で必死になって戦ったはずです。 そして、そこにはどうしても白色人種による人種差別を乗り越えるという世界史的意義が内包しておりました。 十二月八日は日本人にとって、また有色人種にとって忘るべからざる記念すべき一日です。
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教育勅語と修身の教科書を復活せよ田母神俊雄さんのブログからです。今年もいくつかの町の成人式で、今年成人を向かえる若者たちが騒ぎ出し、大荒れの成人式になったことが報道された。一体、彼らは何のために騒ぐのであろうか。目立ちたいと思っているのかもしれないが、甘えすぎており子供である。
私は、戦後教育の悪い一面が出ているのだと思う。戦前の日本国民は、日本にやってきた多くの外国人から、自立心の高さや、道徳観の高さを賞賛されたものだ。ポール・クローデルという、フランスの駐日大使をやった人がいる。わが国が戦争に負けそうになっていた、1943年のパリの夜会で、「世界でどうしても生き残って欲しい国を一つだけ挙げれば、それは日本である」と言ったという話が残っている。彼は「日本人は貧しいけれども高貴である」と言っている。日本人は、戦前においてはよく教育されていたし、戦前の教育は素晴らしいものだったのである。 しかし、戦後教育によって日本人が持っていた自立心や道徳観が失われてしまった。アメリカの占領政策で押し付けられた、日本悪玉史観が払拭されないまま現在に至り、戦前の日本は暗黒の社会だという風評が広まってしまった。そのために、今の日本では戦前の日本を褒めると、とんでもない時代錯誤だということになってしまう。それは戦争が始まってしまって、赤紙一枚で軍に召集される時代の重苦しい雰囲気が呼び起こされるからであろう。 戦争の時代と平和な時代を比べて、どちらがよいかと訊ねれば、それは当然、平和な時代ということになる。しかし戦前の日本は、いまの北朝鮮のような暗黒の独裁国家ではなかったのである。立憲君主制と言われ、天皇陛下の権限は憲法によって制限されることになっており、何でも君主の言うとおりになる絶対君主制とは違うのである。帝国議会も機能しており、言論の自由もあった。今では、悪名高き治安維持法により死刑になった人は一人もいないほどである。
親孝行をしましょう、兄弟仲よくしましょう、夫婦仲良くしましょう、人格を磨きましょう、国家に緊急事態が起きたときは、みんなで力を合わせて公のために頑張りましょう、とかいうものである。
実は、日本が日露戦争に勝った翌々年の1907年に、イギリスからの要請により、菊池大麓男爵がロンドンに派遣され、2月から9月までの間に25回に亘って教育勅語の連続講義を実施している。これがイギリスで大絶賛であった。モノづくりの物質文明は、西洋から東洋に流れているが、精神文明は東洋の日本から西洋に流れているのではないかと言われたのである。そして、翌1908年の9月に再びロンドンで、第一回世界道徳教育会議が開催された。このとき日本の教育勅語は、各国の要請があり、今度は英語だけではなく仏語、独語、中国語など多くの外国語に翻訳されて世界中に広められることになった。各国は、これを持ち帰ってそれぞれの国の道徳教育の規範にしたというのである。教育家の小池松次先生によれば、あれから100年間世界中において、この状態が続いているという。本家本元のわが国においてだけ、戦争に負けた占領期間中に教育勅語は廃止されてしまった。 アメリカには、The Book ofVirtueという本があるそうだ。アメリカの道徳教育の規範として使われている。内容は、一番最後の宗教という部分は新たに付け加えられているが、その他は教育勅語とまったく同じ内容である。だから私は、教育勅語に違和感を感ずる日本人には、「アメリカで道徳教育に使われているあのThe Bookof Virtueという本がある。あれを日本語に翻訳して使おう」と言ったらいいのではないかと思う。 修身の教科書は、教育勅語を具体例を挙げて解説しているものである。日露戦争が始まる1904年に始めて設定された。これら二つが戦前のわが国の道徳教育を支えていたのである。現在の教育を正常化するためにはこれら二つを復活すればよいのではないかと思う。 |
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