資料・文献
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. 島の北側にある私の職場からの朝日です。 南側にある家からすると1時間以上遅く山の上から登ってきます。 急激な寒さのせいか空の青さも無く、へんなコントラストの写真です。 ここ数日、私・長男・師匠の車やバイクが次々トラブルにおそわれ、対応に四苦八苦しています。 年末にめいっぱい楽しんだ揺り戻しでしょうか? 桃璃さんの紹介してくれた占いの通り、金運は最低でした。 占いによるとこれから金運は上昇するはずなので、来週は期待できるかも? でも、私の通勤車はまだどうするか結論が出ていないので、いずれにしても大枚が出て行くはず・・・ 買ってもいない宝くじが当たるはずも無く、金策に動くしかなさそうです。 (T_T) .
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. 今日は、「怒とうの3.5連休」の最後の記事の予定でしたが、クリスマスということもあり、今回参加させていただいたプレゼント交換会の事を書かせていただきますね。 昨日24日の朝、謎の魔女さんからのサプライズプレゼントをみんとちゃんに持って行き、オジサンタをしてきましたので、これで全員プレゼント交換会の参加者には行き渡ったはずです。 もうネタばれの心配がなくなったので、遠慮なくいただいたプレゼントの紹介をさせていただきます。 まず、このたびの企画及び皆さんへの発送をしていただいたまりさん。 他の皆さんは私の大きな苗が入っていますから、仕方なく段ボール箱になってしまいましたが、わたしにはこんな可愛い袋で送って下さいました。 子供たちへのサンタさんは18回もやりましたが、そういえばクリスマスプレゼントをいただくのは、20年ぶりじゃないかな? 嬉しいもんですね〜。 )^o^( もったいなくて、靴になんかいれられませんので、通勤車のマスコットに決定しました。 毎日この香りで癒していただきます。 まりさん、ありがとうございます。 次に見習魔女さんのkanaちゃんと、先生魔女さんのHanaさん親子からのプレゼント いい香りのするサシェと、石鹸(?)です。 こちらは職場のデスクの引き出しに置いて、時々開けては楽しむことに決定。 kanaちゃん、ありがとう、お母さんが風邪をひいたりしてお食事作らないといけなかったりしたのに、頑張って作ってくれたので、オジさん大感激です。 シルバーのクリスマスツリーにキャンディーがついてます。 こちらは、職場のパソコンにつけて、いつも目に入るところに置くことに決定。 クリスマスが終わっても、ずっと私のパソコンにつけておきます。 Hanaさん、ありがとうございます、体調の悪い時、kanaちゃんの作品のお手伝いまでしながらプレゼントを選んでいただいたのですね。 大〜きなエプロンです。 私は仕事柄、いろいろなイベントに参加するのですが、食品関係のブースに入ることも多く、みんながエプロン姿の時もちょうど適当なものを持っていなかったので、これから使わせていただきます。 普段は私のパソコン部屋の入口ののれんにしようと思います、どうやってひっかけるか思案中です。 KURIさん、ありがとうございます。 私が無理やり引っ張りこんじゃって、ごめんねたべちゃん。 お仕事で忙しい上、お母さんの看病もしないといけないたべちゃんからは、地元の銘酒のプレゼントです。 我が家は全員お酒が飲めないのですが、お正月のお屠蘇だけは日本酒をいただきます。 可愛い小瓶ですから、両親の家にも持って行き、このお正月に飲ませていただきます。 たべちゃん、ありがとうございます。 手作りの折り紙作品、バラとコマです。 広島の甥っ子達にあげようと思いましたが、謎の魔女さんを大好きなみんとちゃんが持っていた方が喜ぶと思ったので、独断であげちゃいました。 謎の魔女さん、これで良かったですよね。 甥っ子達には作り方を説明していただいているHPを見ながら私が作って、年末に帰省してくるのでお正月にあげようと思ってます。 男の子だからコマを喜んでくれると思います。 昨日の面白くなかった交通事故処理の嫌な気分がいっぺんに消えて無くなった、すばらしいプレゼント達でした。 私のつまらない苗を貰って下さった5人の方々、どうもすいません、お邪魔ならハーブが好きそうな人にあげて下さいね。 そして素晴らしい品々をいただいて本当にありがとうございました。 <m(_ _)m> また、この企画を提案し皆さんへの発送をしていただいたまりさん、本当にありがとうございました。 <m(_ _)m> .
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このブログを始めてみて、すぐに思いついたことがあります。 |
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総社の薄荷 土岐 隆信 1.はじめに 朝一番、口の中に拡がる歯磨きの匂いで眠気が飛んでいく、色とりどりのドロップの中の白色をしたドロップやチューインガムから爽快感が口いっぱいに拡がる。レストランでデザートに出てくる純白のアイスクリームの上に載っている小さな緑の葉を1枚ちぎって指で揉み鼻に当てると頭の中までスッキリとする。肩こりに貼る湿布剤も皮膚にじんわりとにおいが拡がり肩こりがとれていく。これらの爽やかな香りが薄荷の香りである。薄荷はこのように食品、化粧品、医薬品やたばこなどに昔から多く使われてきた。薄荷の栽培は江戸時代の末期から始まり昭和40年頃まで岡山県で大規模に行われていた。昭和14年(1939年)頃には日本は世界の薄荷生産高の8-9割を産出し、日本の主要な輸出品の一つであり、北海道そして岡山県が代表的な生産地であった。その薄荷の大規模栽培の発祥の地は総社である。 2.日本でのハッカ栽培 ハッカは地中海沿岸ユーラシア地方が原産地とされ、我が国にはシルクロード、中国を経て奈良時代に伝わったものと見られる。正倉院文書の天平宝字6年(762年)の記述に「目草」という名前があり、永観2年(984年)に丹波康頼が著した「神遺方」にも洗眼剤として記されている。ハッカについては、江戸時代の「本草和名」「倭名抄」「伊呂波」「三才図会」など多くの書物に記述されており、民間薬としてもよく使われていたものと思われる。「大和本草」には、「生葉を刻み、膾に加え、又、煎茶、燗酒に和して飲む。本草にも、茶に代えて飲むといえり。痩弱の人久く食べからず。猫くらえば酔う。猫の酒なりと云う。猫の咬みたるに汁をぬるべし、相制するなり。」とハッカの利用法が紹介されている。江戸幕府の「万延元年庚申某月、暴潟病ノ流行スルヲ以テ、其予防法ヲ頒布ス」という触留のなかに薄荷油を用いた処方が見られ、また、長崎に来ていたシーボルトが処方した処方せんのなかに薄荷油を用いたものを見ることができる。漢方における処方にも薄荷葉を用いたものが多く見ることができる。幕府は享保7年(1722年)に和薬改会所を設け、各地の薬種問屋の代表を集め、市場に流通する和薬の品種とその品質についての統一見解を求めているが、その中に和薄荷が見られることから、かなりの栽培が始まったものと思われる。また、全国各地に薬園が作られており、その栽培品目の中に、ハッカを見ることからも一般に広がっていたものと思われる。「本草綱目啓蒙」には、19世紀の初めに、城州山城の郷、和州奈良、泉州堺に多く栽出すと記されている。 ハッカはシソ科の多年草であり、栽培上は日本ハッカ(写真1)と西洋ハッカとに大別され、日本ハッカは輪生花序、西洋ハッカは穂状花序を付ける。日本ハッカの成分の特徴は精油中に60-70%のメントールを含む点にある。現在のチューインガムや歯磨きの香りは西洋ハッカ(ペパーミント、スペアミント)のものである。 ハッカを刈り取り、葉茎を蒸留すると、精油が採取できる。これを取卸油という。これを精製すると無色のメントールの結晶(薄荷脳)が析出する。 3.総社での栽培の始まり 岡山県でのハッカ栽培は文化14年(1817年)に総社で始まったと見られる。すなわち、明治41年(1908年)1月に発行された岡山県内務部発行の薄荷報告書によると、文化14年(1817年)頃に備中門田(現在の総社市門田)の秋山熊太郎が江戸からハッカの種根数十本を持ち帰り、自作畑(子孫のお話によると市内門田にある観蔵寺の裏の畑、現在総社市シルバーセンターが建っている所)の一隅に試作したものが、北海道とともに世界の一大産地となった岡山県のハッカ栽培の始まりとされている。これはおそらく西日本での大規模な栽培の始まりであり、また、全国的にみても大規模栽培のはしりと思われる。東日本では明治の初め広島県から山形県に伝わり、その後明治20年(1891年)頃北海道に伝わり、急速に拡がり北見地方などが産地となったようである。 以後、秋山熊太郎は毎年5畝内外の栽培を行い、取卸油に焼酎を混合し、岡山、尾道、広島方面の菓子屋へ行商によって販売した。その栽培法と取卸油製造法を秘密にし独占事業にして、「門田の薄荷屋」との通称を得ており、大きな利益を上げていたといわれる。二代目石蔵の時には1反5畝余りの栽培を行い、3代目熊次郎の時代には3反の栽培を行って44斤(1斤は600グラム)の取卸油を製造したといわれる。明治18,19年(1886,1887年)頃には需要が増加し、価格も高騰したので、明治19年には一躍1町3反の栽培を行った。その後、栽培は都窪郡、小田郡にも拡がっていったが、それは明治19年9月18日に熊次郎がハッカを刈り取ったあとの苗を都窪郡の別府伊太郎、塩尻半三郎、大熊繁次郎の3人に300円で売却したことに始まる。また、上道、邑久の2郡にも売却しており、この時から岡山県での栽培が県南部を中心に本格化したものと思われる。秋山家のハッカの栽培の状況、取卸油の製造に使った道具や帳簿等は残されていないが、わずかに当時を偲ばせるものとして、取卸油の製品に貼ったラベルに捺す木印が秋山家に残されているのみである。この木印には、屋号の「なかや」と「官許」および「穐山熊太郎製」の文字が刻まれている。(図1)その後、秋山家は薄荷の栽培、取卸油の製造から手を引いたと見られ、同家は明治17,18年頃から門田の在所および総社(西宮本町 総社宮の門前、現在の郷土資料館の建っている所)で酒造業を始めている。総社宮の南門の立派な玉垣に秋山熊太郎が明治31年に寄進を行った文字を見ることができる。(写真2) 4.岡山県での発展 以後、岡山県では吉備郡(現在の総社市を含む)、邑久郡、小田郡、後月郡、浅口郡、川上郡、倉敷市など県南部を中心に栽培が非常に盛んに行われるようになった。栽培は冬季、畑に種根を植え付け、6月から10月の間に3回刈り取りを行う。(写真3)刈り取った生葉は栽培農家で1〜2週間乾燥し、それを蒸留・採油する。北海道は寒冷地のため刈り取りは年1回であった。昭和11年(1936年)には、栽培農家の指導のために、倉敷市西富井に岡山県立農事試験場所属の薄荷試験場が農林省指定事業として開設された。この試験場では昭和25年(1950年)に新品種として「はくび」、昭和28年(1953年)に「さんび」、昭和35年(1960年)には「りょくび」を選択育成し、暖地の優良品種として普及に努めた。寒冷地向けのものは北海道で研究された。県内で栽培された主な品種は「青茎種」「赤茎種」「さんび」「はくび」などであった。広島県には岡山県から伝わったという説と別のルートで江戸末期に導入されたという説があるが、岡山県の産地にこれを合わせると備前、備中、備後の3国にわたったので、この地域産のものをまとめて「三備の薄荷」と呼んだ。吉備郡地方の栽培農家は収穫した葉茎を乾燥後取卸油の製造人に売却していたが、都窪郡や倉敷市地方などでは自らあるいは共同で加工蒸留の製造設備(蒸留釜)を持ち製造する農家があった。(写真4)ハッカ栽培の最盛期は大正14,15年頃で、岡山県の作付け面積は約2,000町歩、県内の取卸油の蒸留釜の数は600台を数えた。 年々、発展したので、本県には小田、後月二郡を区域とする小田後月薄荷同業組合、旭東四郡を地域とする備前薄荷同業組合、備中南部及び備前の一部を区域とする中備薄荷同業組合ができ、業者の団結と製品の統一改善をはかるために大正8年(1919年)にはこれらの組合と備後薄荷同業組合が三備薄荷同業組合連合会を結成した。 この連合会の取卸油の生産数量、金額 年度 数量 金額 (1斤 600g) 大正10年 120,090斤 820,669円 大正12年 122,960 1,655,490 昭和2年 348,200 2,128,100 5.日本の動きとその後 薄荷取卸油からメントールを精製することは、明治15年にイギリス人コッキング氏が横浜で始めており、以後、精製技術は日本人に伝承され横浜が薄荷取り引きの中心となった。大正13年の関東大震災により横浜の工場は被害を受け、神戸に生産の拠点が移っていった。産地は北海道、岡山県南部、広島県南部に形成され、岡山県里庄町にも精製工場が設立された。大正末期から昭和16年までが最盛期であり、栽培面積2万ヘクタール、取卸油の収穫量1千トンであった。戦時下では食料増産のため、減反させられ、戦後もすぐには復旧しなかった。しかし、昭和26年(1951年)には再び作付け面積も増え始め全国各地で栽培の取り組みが始まった。 昭和26年(1951年)の全国の薄荷栽培面積(ヘクタール) 1.北海道 2,272 2.岡山県 430 3.広島県 110 4.鹿児島県 61 5.愛知県 55 昭和30年(1955年)の岡山県のハッカ栽培面積は920ヘクタールであり、この時も北海道に次ぎ第2位を占めていた。 国際薄荷市場は戦時下、日本や中国からの輸出がなかったため、ブラジルに産地が移ったが、ブラジルはその後コーヒーの栽培が主力農産物となったので、産地は第二次大戦後再び中国などに移った。我が国は昭和30年代後半からは高度成長の時代となり全国的に農業中心から工業化が進み、ハッカ栽培は急速に減少していった。また、合成のメントールが普及してきたため、天然物は香りは良いが価格競争となり生産量は減少した。岡山県においても水島コンビナートができるまでは農業県であり、米麦の他に薄荷、除虫菊、い草などの換金作物が県下各地で栽培されていたが、いずれも産地は自然に消滅していった。倉敷にあった薄荷の試験場も昭和42年(1967年)に閉鎖され、岡山県のハッカ栽培は昭和43年(1968年)に完全に姿を消した。そして昭和45年に輸入が自由化されたため、昭和58年には北海道においても本格的な栽培そして精製工場はなくなり、日本からハッカ栽培は殆ど消滅した。このようなことから国内の精製工場も少なくなった。本県には里庄町に昭和22年(1947年)から操業の東洋薄荷工業株式会社があり、ここでは現在世界の一大産地となったインド産の取卸油を輸入し精製を行っており、全国各地に医薬品や食品などの原料として出荷している。江戸時代末期に総社から始まったハッカの栽培の歴史がここに現在も息づいている。 参考文献等
長沢 徹「薄荷の科学」日本文教出版株式会社 上田三平「日本薬園史の研究」渡辺書店 東山龍雄「薄荷の歴史」東洋薄荷工業株式会社ホームページ 岡山県重要物産同業組合聯合会「岡山県重要物産同業組合誌」 岡山県史編纂委員会「岡山県史」第13巻 北海道庁警察部「北海道薬物誌」 岡山県立農事試験場「薄荷の栽培法」 田辺 普「江戸時代におけるくすり・医・くらし」内藤記念くすり博物館 木村陽二郎「図説草木辞苑」柏書房株式会社 岡山県 岡山県薄荷協議会「はっかの生産流通事情」 宮崎正夫「シーボルトの処方集(1)」日本薬史学雑誌30(2)1955 他 |
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