イスラエル、バラガン日記

イスラエルに留学している大学生のブログです。

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さて、「ハヌカ関連の記事を書きたいと思います」と書いたのですが、8日間のハヌカが昨日(5)の日没に終わってしまいました。最後の晩になったおとついの日没は、ハヌキヤの枝全てに8本のキャンドルが灯され、まさに『ハヌカのクライマックス』でした。

さてハヌカの説明として「ハヌキヤという8枝の燭台に毎晩キャンドルが灯されていきます」という説明を聞いても、なかなかイメージが湧かないかと思います。という事で、実際にはハヌカの日没のキャンドル点灯がどのようなものなのかを、Youtubeの動画を使ってみなさんに紹介しようと思います。


イスラエルの一般的な家庭のキャンドル点灯はこんな感じです。
最後の歌が途中で切れていますが、イスラエルのスタンダードなハヌカの夕べはこんな感じです。家族が一堂に会し、家長と一緒に家族みんなでろうそくを祝福して、ハヌカで起こった奇跡を神に感謝する祈りをしながら11本に火を付けていきます。このクリップでは左側ではお父さんが大きなハヌキヤに火を灯していますが、その右側にも小さいハヌキヤがあり子供たちが点灯を行っています。

祈祷文の後はハヌカ定番の礼拝用の詩文を2篇、違うメロディーに乗せて家族全員で歌う。

これが典型的なユダヤ人家族のハヌカの夕べです。

かなり世俗的な家庭ならばハヌカを祝わない家庭もありますし、超正統派に近いユダヤ人家庭は少し違ったり詩の数や長さが多くなったりするようですが、ハヌカ定番の2編はユダヤ人の家庭であればほとんど同じメロディーのようです。



さて、では黒尽くめの超正統派たちはシナゴグでどのようにハヌキヤに火を灯しているのでしょうか。

こちらのクリップに登場しているのは、ラビ・イツハク・ドビッド・グロスマンという著名なラビで、イスラエルのチーフ・ラビ機関のメンバーです。

だいたい40秒ぐらいから最初に見た家族のハヌカにもあった最初の祈祷が始まっています。超正統派のシナゴグなので省略せず最後までやるようです。

キャンドルにラビが火を付けた135秒ぐらいから、1篇目のハヌカの詩文が同じメロディーで、220秒前後からは家庭のハヌカにはなかった祈祷が読み上げられて、節の付いた祈祷も数曲歌われています。

そして、420秒から5分にかけては定番の2篇目が歌われています。実はこの2篇目は6(段落)もあるかなり長い詩なのですが、一般の家庭では最初の1段落目だけの省略した形を歌っています。しかし、正統派になればなるほど、そしてこのような超正統派のシナゴグでは最後まで歌われているようです。

祈祷文や詩文の意味は分からないですが、最初の家庭でのハヌカとこのクリップを見てもらったら、同じ歌を同じメロディーで超正統派と世俗派がハヌカを祝っている様子をご覧になっていただけるかと思います。

 


では次に、一風変わったハヌカのキャンドル点灯を。それはハヌカの夜に行われた音楽ライブでの1コマです。

ハレル・スカアットと言う人気ポップ歌手のライブがハヌカにあった際のものです。ハヌカのキャンドル点灯は子供が中心になって行う家庭がやはり多いです。なのでこのライブでは子供連れの保護者が多かったのでしょう、子供たちを前に読んでハレルと一緒に子供たちが11人キャンドルに火を灯していく様子が分かります。なかなか火が付かないので、ジョークを飛ばしたりハヌカに関する歌を定番の詩の後に歌っています。

 


最後はこちら、タイのシナゴグであったハヌカの様子です。

タイに旅行に行くなんてほとんどは世俗派か無神論者のイスラエリーばかり、そんな彼らでもハヌカの晩にはバンコクのシナゴグに結構人が集まるのは驚きです。

最初に超正統派のユダヤ教徒が、2000年前にあったハヌカの風習についての論争について紹介しています。キャンドル点灯自体は455秒ぐらいからです。

祈祷からハヌカの詩文2篇にかけて、全てが今まで紹介したクリップと同じ節を付けて斉唱されているのを見る事ができます。

 


宗教的・世俗的を問わず世界中のユダヤ人の多くが、同じ様式で昨夜までの8日間ハヌカを祝っていました。

説明文だけではなかなか分かりにくいですし、「実際どのように祝われているのか」はなかなか分かりません。

この記事で少しは分かっていただけたのではないかと思います。

 

テル

前の記事でハヌカの祭り関連の記事を書きたいと言っていたところなんですが。イスラエルで最も有名で、僕も大好きだった歌手が23日前に亡くなられたので彼について今回は書きたいなと。。。



1126日深夜、歌手のアリク・アインシュタインさんが亡くなられました。74歳でした。

アリクはイスラエル建国前の1939年、テル・アビブで生まれました。生涯で40枚以上のアルバムを世に送り出し、数多くのテレビ番組に出演し、また俳優としても多くのドラマに出演しました。彼の人気がでたのは1960年代は、イスラエルが建国からまだ約10年と若く、自分たちのアイデンティティーを模索している時代でした。そんななか彼は数多くの曲を世に送り出し、イスラエルに住むユダヤ人としてのアイデンティティーを築いた人物の1人だと言われています。

 

ある音楽評論家は「アリク・アインシュタインはイスラエル一の歌手以上の存在だった。アインシュタインこそ真のイスラエルの地なのだ」と評しています。

またネタニヤフ首相は翌日にテル・アビブの大広場で行われた追悼式典で演説し「アリク・アインシュタインはイスラエルのサウンドトラックだ。彼について話す時、私たちはイスラエルの地について話しているのだ。」と述べました。

シモン・ペレス大統領も翌日の新聞に次のような追悼の投稿を寄せました。「私は彼の歌が大好きだ。皆も分かっているだろうが、彼のような人物は今までもこれからも出てこないだろう」

 

半世紀もイスラエルを代表する歌手であった事と、彼がイスラエルという国が形成される前から国中に愛されていたという事から、彼は「イスラエル現代音楽の父」や「イスラエルのフランク・シナトラ」などとも言われています。

 

またイスラエル国内の世俗・宗教という2つの相容れない社会に分裂する前から活躍していた事から、彼のファン層は超世俗派からユダヤ教超正統派までとイスラエルの全ての層に多くのファンが居ます。子供用の歌も多く発表したので、今でも多くの若者が「アリクの曲で育った!!」と言うほど。

なので追悼式典と葬儀には数万人が集まったのですが、そこには超正統派から世俗派、老人から若者までと全ての層がテル・アビブの広場に集結し彼の死を悼みました。

「こんなに幅広い層が、そして超正統派とテル・アビブの世俗派が1つになって喪に服す光景は、イスラエルで最初で最後だろう」とテレビの生中継でも言われていました。

 

亡くなった翌日と翌々日はもちろん1面を彼が飾り、紙面の数でも新聞の半分がアリク・アインシュタイン関連の記事でした。

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〜翌日()と翌々日()の大手紙1面。翌々日の1面中央には追悼式典で花を捧げる一般参列者の様子が。〜

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各界の著名人が哀悼の辞を投稿し、彼の生涯の様々な事件や逸話が記事になっていました。彼は1980年代後半からはテレビへの露出をやめ、レコーディング活動のみの活動となっていました。
公共の場に出ず、セレブになってもテル・アビブの小さなアパートに住んでいたという、謙虚で質素な生活を送っていたという所からもイスラエリーたちは彼から「古き良きイスラエル」を見ていたのだと思います。また記事の上下や左右には彼の代表曲が引用され、テレビやラジオでも彼の曲が2日ほどはずっと流れていたところからも、いかに彼が愛されていたのかが分かりました。

僕のFacebookの友人(もちろん20)の多くも彼の死を悼む近況を書いたり、彼の曲をシェア―したりなど彼の偉大さを窺い知ることができました。

 

これを読まれている方の大半が、ヘブライ語は話さないかと思います。なので、彼の曲を深くは理解できないかと思いますが、代表曲を1つ紹介したいと思います。

1980年に発表された「君の羽根の下に僕を入れてくれ」という曲です。ヘブライ語で書くと:

הכניסיניתחת כנפך=ハクニスィーニー・タハットゥ・クナフェフ

と長くなります。。。これはハイム・ナフマン・ビアリックというイスラエルの有名な詩人が残した詩で、恋詩です。

愛する人を切望すると同時に、曲の最後に「星には裏切られ、夢も過ぎ去った。私には何もなく、あるのは広大な無だけだ」とあるなど、絶望の詩でもあります。

全て訳す時間も技量も僕にはないので、歌詞の素晴らしさは分かって頂けないかも知れませんが、1度聞いて頂ければ彼の柔らかな歌声にどれだけのイスラエル人が感傷に浸り、また癒されたかがお分かりになって頂けるかと思います。

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アメリカでは今日木曜日は感謝祭。そんななか、イスラエルではハヌカというユダヤの祭りが祝われています。


ハヌカחנוכה)とは、紀元前2世紀のマカバイ戦争によりユダヤ人がエルサレムの神殿をギリシャ人の手から奪還した事を記念するお祭りです。もともと(西暦70年の神殿の陥落まで)は、「光の祭り」というよりも異教徒によって汚された神殿を清めたという、「歴史を祝う」祭りでした。

ハヌカはユダヤ暦の9(キスレヴ)25日から10(テヴェット)2日か3日までの8日間に祝われます。私たちのグレゴリオ暦で言うと、毎年11月の下旬〜12月下旬という、クリスマス・シーズンに当たります。

今年のハヌカは1127日の日没から125日の日没までです。

 

<祭りの歴史的背景>

前述したとおり、ハヌカは紀元前2世紀のマカベア戦争でユダヤ人が勝利したことを記念した祭りです。紀元前332年にアレキサンダー大王によって征服されてからイスラエルの地はヘレニズム王朝の支配下に置かれ、マカベア戦争が起こった当時はセレウコス朝によって統治されていました。

統治初期はユダヤ教に対し穏健だったものの、ある時を境にヘレニズム化が強硬に進められユダヤ的生活は禁じられました。エルサレム神殿はゼウスの神殿に『改宗』され、エルサレムにはギリシャ風の学校(ギムナジウム)が建てられ、都市名も『アンティオキア』になるなど、ヘレニズム化がユダヤ社会内でも強制的に進められていきました。

多くのユダヤ人たちがそんななかでもユダヤ的生活を送り続け、多くの殉教者が出ました。

 

当時エルサレム近郊のとある村にいた祭司マタティアとその息子たちは、セレウコス朝に対して反乱を起こし、ユダヤ各地での激戦の末、ついに勝利を収めました。エルサレムはギリシャ人の手からユダヤ人の手に戻り、偶像崇拝に汚されていたエルサレムのゼウス神殿は、清められて新たに奉献されました。
これを祝うのがハヌカです。

ハヌカの「宮清めの祭り」「奉献の祭り」、また「光の祭り」とも呼ばれています。宮清めと奉献のまつりという名はこの歴史的背景からきました。

 

ハヌカ(חנוכה)とは「奉献」の意で、この祭りや神殿だけではなく日々の生活でも使われています。例えば新しい建物やオフィスが完成した時に落成式や開所式が行われますが、それも「ハヌカ」とイスラエルでは呼ばれています。
 

<ハヌキヤ>

ハヌカには3つの名前があると言いましたが、最もなじみがあるのは「光の祭り」です。そしてハヌカを象徴するものと言えば、やはりハヌキヤ(חנוכייה)と呼ばれる燭台です。ユダヤ教で普通に使われるメノラー(燭台)は7つ枝、しかしハヌカの8日間というのに合わせハヌキアは8つの枝になっています。

ハヌカの8日間は毎晩、1つずつキャンドルに火が灯されていきます。最初の日に一番端の1本に灯し、2日目には2本、3日目は3本・・・と増やしていき、8日目には全てに火が灯されます。まず中心の枝(端にある場合もあり)であるシャマッシュ(שמש)に火を灯し、そこから各枝に火が灯されていきます。

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ハヌカ1日目の昨夜、
軍のハヌカのセレモニーでハヌキヤに火を灯すネタニヤフ首相。 

<ハヌカ(חנוכה)はなんで8日間??>

ハヌカは8日間だと書きましたが、ではなぜ1週間ではなく中途半端な8日間なのでしょうか??
その理由についてはいくつか説があります。

有名な説によれば、神殿奪還時、神殿を清めるために灯されるオイルランプの聖油が1日分しかありませんでした。ところが、1日分のはずの火が8日間も燃え続け、律法に従って作られた聖油ができるまでの間、火が絶えなかったと言われています。この奇跡から、光の祭り(חג האורים)と言う呼び名になったと思われます。


神殿奪還後に祭壇・神殿を築き直す等、清めの作業が8日間だったのでハヌカの祭りが8日間になったというのがもう1つ有名な説です。 

 

またユダヤ教では、8日と言うのは特別な意味を持ちます。

7日とは皆さんご存知の天地創造。それに1つ足した8日は、森羅万象(7)を超える「神」を象徴する日とされています。

男子が神との契約に入る割礼も生後8日後に行われ、それも関係していると考えられています。

 

<ハヌカの食べ物>

前述の「聖油の奇跡」から、ハヌカでは油を使った料理を食べるのが一般的な習慣です。

そんなハヌカを代表する食べ物にはスフガニヤと呼ばれるものがあります。

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スフガニヤとは球型のドーナッツのような揚げパンで、中にはキャラメルクリームや苺などのジャムなどが入っています。ハヌカの少し前になると、スーパーやカフェ、菓子屋などにスフガニヤが置かれ始め、ハヌキヤ(キャンドル)と並んでハヌカには欠かせないものです。


さて今回の記事ではハヌカの紹介をしました。

何度も言いましたがハヌカは8日間、まだ6日ほどあるのでハヌカ関連の記事をもう1本ほど書ければいいかなぁと考えています。

ハッグ・サメア!!

(חג שמח!!: HappyHoliday!!)

イスラエルがシリア内戦の負傷者に対して無償治療を行っているという事を、前の記事では紹介しました。
実は今月初めにシリア内戦への医療支援では初となる、シリア人の赤ん坊がイスラエル北部で生まれました。今回はその記事を紹介したいと思います。

 内戦勃発後初、シリア人の赤ちゃんがイスラエルで生まれる―

臨月のシリア人女性は出産を間近に控え不安を隠せずにいた。内戦によって彼女の村は封鎖されているような状況。そこで彼女は地元の病院ではなく、国境に向かいイスラエル兵に助けを求めた−今すぐ病院に搬送してくれと。「イスラエル兵は真摯に接してくれました」
 
イスラエルのシリアへの医療支援はまた次のステージへ:
初めてのシリア人の赤ん坊が今朝(113日)、北部ツファットのズィブ・メディカルセンターで生まれた。イスラエル国防軍により母親は昨夜病院に搬送されたのだが、その時はすでに分娩が始まっていた。シリア人の母親は20歳で初産だったが、自然分娩で無事3200グラムの男児を産むことができた。
これまでイスラエル側で治療を受けたのはシリア内戦による負傷者だけだったが、今回は初めてシリア人妊婦に対する治療が行われた。母親が医療スタッフにした話によると、彼女はシリア南東部クネイトラ県の村に住んでいるのだが、集落は封鎖状態にあり病院も機能していないような状況。「村には産婦人科も助産師も居ず、私のお産を手伝ってくれる人は誰も居ませんでした」と彼女は説明した。「私は看護婦として働いているので、こちらの怪我人がイスラエルで治療されているという事は前から知っていました。なので陣痛が始まった時、すぐイスラエルとの国境に連れて行ってくれるよう頼みました。もしかしたらイスラエル軍が出産の手助けをしてくれるかも知れない、という希望の光が心に小さく灯ったからです」
 
『イスラエルに入るという事に対しての恐怖心』
彼女の希望は現実のものとなった。「嬉しい事に、イスラエル軍が激痛に苦しんでいるのを見て、私をすぐにイスラエルの病院に搬送してくれました」と彼女。「イスラエルに行くという事への恐怖心はとても強かったのですが、それよりも子供の無事が心配で仕方ありませんでした。助産婦や医師たちイスラエル人スタッフは愛情を持って、真摯に接してくれたので出産を無事に終える事ができました。」
彼女はこう続けた。
「私の国とは国交ももちろんないのですが、敵国に居るという感じはまったくしません。みなさん私を助けてくれますし、心配してくれています。私の村は封鎖されているので、長い間唯一の食べ物はお米でした。ここに来て、ホント久し振りに野菜や肉を食べる事ができました。健康的な食生活を送れているので体調もすこぶる良好で、かわいい我が子も素晴らしい治療を受けられています。みなさんの献身的な介護や理解、そして気遣いに本当に感謝しています」
メディカル・センターの主任助産師も彼女の出産について語ってくれた。「彼女が病院に着いた時、すでに破水していて分娩第2期の状態でした。もちろんイスラエル人の妊婦と同じように彼女の出産にスタッフは心を込めてサポートしましたし、彼女は初産で出産にご主人が立ち会う事ができなかったので、精神的なサポートを少しでもできればなと思いました。シリア人の彼女がイスラエル人の助産師たちの手を握り、国籍を越えて出産に臨み、出産後にみんな喜びながら抱き合ったのは非常に印象に残る事でした。」
彼女は国籍・民族・宗教に関係なく、妊婦11人に真心こもった対応をしていると話してくれた。「多分この異国での初産は彼女にとって忘れ難いものになるのではないかと思います。いつか彼女が公にこの体験を話せる日が来ればなと願っています。」

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シリアに帰った時の彼女の身の安全を守るため、彼女の名前は伏され写真にはモザイクが入っています。
今はもちろん無理ですが、彼女が本当に「私の初産はイスラエルだったの。イスラエルは悪魔の国だと教えられていたけれど、ホント優しく接してもらったわ」と、話せる日が来ればいいのですが・・・

シリアからの犠牲者たちに治療を行うイスラエルの医師たち:
この惨事を世界に伝えるべき 〜続々編〜

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奔走するソーシャル・ワーカー
もう1人興味少女Bの例を紹介したい。彼女は15歳、シリア南西部のダルアー空爆時により重傷を負ってイスラエルの病院に運ばれて来た。その空爆により、彼女は彼女の兄弟と祖母そしていとこを亡くした。彼女はシリアの野戦病院で診断され片足を切断したが、もう片足と腹部に強い痛みを感じ苦しんでいたので、空爆の4日後イスラエル側に搬送されたのだ。病院ではいくつかの手術が残された足と腹部のために行われ、2週間後には片足で立てるようになり松葉杖で歩けるまでになった。
「彼女は大変な危機を乗り越えた」とアラブ系ソーシャル・ワーカーは話す。「彼女は最初、自分の殻に閉じこもっていたが、私を知って恐がらなくなってからようやく心を開き出してくれた。その後のある会話で彼女はこんな質問をした、『誰が私と結婚してくれるの?誰がキチンと機能しない女性を欲しがってくれるの?』」彼女の母親と一緒に1月半この病院に居、最終的にはそのソーシャル・ワーカーが個人的な支援者を見つけて彼女の義足を作ることができ、彼女は両足の姿で退院する事ができた。
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このソーシャル・ワーカーはイスラエルの病院に居るシリア人負傷者にとっては、なくてはならない存在だ。この仕事についてわずか1年だが、この数ヶ月間彼はある時は通訳、ある時は寄付を集め、ある時は家族のように負傷者に寄り添うなど奔走している。負傷者の間を飛び回り、話をしながら両目を失った少女からさえも小さな笑顔を引きだしている。「最初はPTSD(心的外傷後ストレス障害)に彼らがなっていて精神的ケアが必要かの確認するだけが仕事だったが、だんだんと彼らとの個人的な関係を築き始め、話を聞いたり会話をして笑ったりする仲になった。毎朝彼らと顔を合わせるとまず聞かれるのが、シリアの情勢といつ家に帰れるのかの2つだ」と彼は語ってくれた。祖国や家族への思いの方が、シリアという戦場に戻る事に対する恐怖よりも強いようだ。
 

支援の困難さ
少女Bのように入院中に母親などの家族が同伴しているのは例外、ほとんどの負傷者は小さな子供たちでさえ1人で入院している。そんな支えのない中で怪我やトラウマと戦うのは非常に困難な事だ。イスラエル人の子供が入院した場合、入院中には両親が一緒に居て友人たちが見舞いに訪れる。ただ彼らはここで孤独、夜に泣きたくなった時も誰の胸もなく、抱きしめてくれる親もいない。そのような役割を少しでも補うために、カウンセラーやソーシャル・ワーカー、そして医者たちも一緒になって働いている。
 
困難は心のケアではない。負傷者たちは、まさに着の身着のままでイスラエルに運ばれて来たので歯ブラシや替えの下着さえ持っていない状態だ。最初の頃はスタッフが彼らの家庭などから用意していたが、搬送されてくる負傷者の数が増えてくると特別に銀行口座が開設され義援金を募り始めた。義援金はアラブ・イスラエル人だけではなく、キブツなどユダヤ系イスラエル人や赤十字などからも届いている。今では病院の倉庫にたくさんの物資が用意されている。これからの冬のための厚手の服や、女性のためのサニタリー・グッズ、子供のためのペンやノートなども倉庫に置かれている。
 

治療費は誰が・・・?
シリア人負傷者たちにとって足りないものは物資や心のケアだけではない。負傷者たちへの治療は、イスラエル人に行う一般的な治療とは難易度も費用も桁違いのものだ。ツファットのオスカー医院長によると、彼らの治療費の総額は3億円近くにのぼるが治療費は今のところもちろん一銭も払われていないとの事だ。イスラエル人の場合は保険のカバーがきくのだがシリアからの負傷者の場合、誰が医療費を払うのかが不透明なまま病院は治療をし続けている。
「どの政府機関も取り合ってくれず、私たちをたらい回しにする。保険省から防衛省に回され、現段階では総理大臣の決定を待っている段階だ。最近保険省から医療費の50%は保険省が負担するという連絡が入ったが、ただ単なる口約束なので懐疑的だ」とオスカー医院長。
 
数百人というシリア人がイスラエルの病院ですでに治療されたがその大半は特別な治療などで医療費が高額になりやすい子供たちだ。心のケアにはたくさんの人的資源が必要なうえ、高額な検査に、多くの複雑な手術、集中治療に入院、薬代、そして輸血などさまざまな出費がかさむ。また負傷者1人1人がどのような予防接種を受けてきたかが分からないので、投与する薬が増えたり予防接種を行ったりとそのような問題も潜んでいる。各病院では、数百・数千万円という治療による出費が、地方病院が慢性的に抱える財政難にさらなる打撃を与えるだろうと言われている。オスカー医院長は「(政府の)だれかがこれを対処しなければいけない」と付け加えた。
保険省に問い合わせるとこんな回答が返ってきた:
「総理府で行われた協議では国防軍・保険省・財務省の3機関が共同で治療費を負担するアウトラインが提案された。ただ今詳細については協議中です。」
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シリアとの国境地帯から次々と送られてくる重傷を負った子供・女性・若者はいったい誰なのだろうか?
そんな質問を考えている医療スタッフは病院にはいない。「1人の医者として、そんな質問は意味のないものだ。医者としての私の義務は目の前の患者1人1人に向き合うだけだ。なので、どこから・どのような背景で来ているのかや、地位や宗教を知って治療している訳ではない。そんな事をしている時間はこんな緊急時にはないし、できたとしてもしようとは思っていない。」
医療スタッフには病院の外だけで戦っている訳ではない。「テロリストかも知れない人を何助けてるんだ?『博愛はわが家から始まる』と言うじゃないか?」こんな事を言われた時、オスカー医院長はこう答えるそうだ。「こう言うじゃないか?『1つの命を助けたものは誰でも、世界全体を助けたようなものだ(ユダヤ文献より)』って。」
家に帰っても彼らは安らかな気持ちでいれる訳ではない。オスカー医院長は最後にこう言った。
「時々家に帰って、離れ離れになって両親に再び会えるかどうかも分からない子の子供たちの事考えると、あることを連想してしまう。私の母親は13歳、父親は16歳の時、1930年代末のベルリンの駅のホームで、2度と顔も見られないのだと知ることもないまま両親と離れ離れに引き裂かれてしまったんだ。」
 
【完】

記事の最後はもちろんナチス・ドイツではよくあったであろう光景、オスカー医院長は年配の方なので両親がホロコースト生存者、そして祖父母はホロコーストの犠牲になったようです。なので、「両親と離れ離れになってもう1度会えるかどうか分からない子供」を見ると、自然とホロコーストの時を思い出してしまう、といういかにもイスラエルの記事らしい締め方でした。
 
いかにも世間には「イスラエル=完全悪」のようなイメージがあるし、まるで「アラブ人に対して容赦なく発砲・空爆しているのがイスラエル」というように考えられているような気がします。同胞であるアラブ諸国も手をこまねいているのが実情のそんななか温かい、人道的なイスラエル像を少しでもお伝えできたら、と思い3回に分けてイスラエルの新聞の記事を紹介させて頂きました。

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