エルサレムでもプリム(פורים)は3月1日に終わりイスラエルのプリム・ムードも過ぎ去ったのですが、いろいろとプリムで読まれるエステル記について考えた事やユダヤ教的観点などを絡めて、遅ればせながら今回記事にこうして書きたいと思います。
聖書一、聖書っぽくないエステル記
実はプリムで読まれるエステル記、新旧約通して 聖書の中で1番聖書らしくない/世俗的な書物だと言われています。それには1つハッキリした大きな理由があります。
それは、旧約・新約計66巻のうち 「神」の名が出てこないのが雅歌とエステル記だけだからです。
雅歌は詩なんですが、エステル記はイスラエル(ユダヤ人)の救いを描いた物語。それなのに出エジプト記にあるような奇跡の数々もなければ、神が登場さえしていません。奇跡など超自然的なことも全く起こらず、偶然とエステル・モルデカイの信仰が重なってユダヤ人が虐殺計画から救われる。まさに「ヒューマンドラマ」のようなエステル記は聖書の書物の中で例外中の例外的な書物だと言えます。
しかし、本当にただの「ヒューマンドラマ」ならば、聖書の中の一書になっているはずがありません。ではエステル記ではどのように神が現れているのでしょうか??そして、なぜ神の名が1度も出てこないのでしょうか??
エステル記の目的
エステル気を通して神が伝えたい事、それは「この世界に(超自然の対義語としての)自然な事はない」ということだと思います。神は ハリウッド式、奇跡的な形やド派手な登場でご自分を現されることもありますが、それ以前に わびさび式、日々の日常や自然現象などのさりげない形でご自身を私たちに常に現されているのです。
― (神が作り、すでに完成した)RPGのゲーム上で私たちは登場人物としてプレイし神は画面でそれを観ながらそれを採点している―何となく私たちは生きているという場において自分たちと神との関係を「神は外(か上)から私たちを見ているんだ」、こんな風に神と自分たちを離して考えてしまいます。
しかし人生とはまさに神との対話、生まれてから肉的に死ぬまでず〜っと続く神とのおしゃべりなんです。なので、何気ない瞬間も私たちは常に神と会話をしながら生きています。常に神と一緒に生きているのです。
神と生きている・・・「アーメン」とあっさり受け入れるのもいいのですが、少し冷静になって考えてみましょう。
神と生きている・・・とんでもない事だと思いませんか??
これってすごい奇跡じゃないですか??
イエスは「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう。」や復活後に「見ないで信ずる者は、さいわいである」と言っています。ですからこのわびさび式奇跡はハリウッド式奇跡に勝るのです。
なので私たちは超自然的な出来事や奇跡だけではなく、日々の普通の生活においてこそ神とアプローチしなければいけません。神は常に私たちに話しかけてきているのですから。エステル気を通して神はそういう事を伝えたかったのだと思います。そして、イエスも生涯を通じてハリウッド式の奇跡を行いましたが、エステル記のようなわびさび式の神の姿を本当は伝えたかったのです。
(続く)
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