イスラエル、バラガン日記

イスラエルに留学している大学生のブログです。

二十一の信仰日記

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メシアニック・ジューの事、聖書の事。
思った事、聞いた事などを書いていきます。
ここは「たんなる日記」とは違い、お堅いネタを展開していきたいと思います。
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なぜ神の名がエステル記には出てこないか

これは聖書の言語であるヘブライ語で考えると面白い答えが浮かび上がってきます。エステル記はヘブライ語で「מגילת אסתר(メギラット エステル)」と言います。エステルと言うのはもちろん登場人物の名前なのですが、この名前は実は「סתר」、隠す・隠れるという語から来ています。そしてメギラットとは巻物という意味ですが、実はエステルとは全く逆の意味-明らかにする・暴露するという語根「גלי」からの派生語なのです。

この相反する2つの単語が一緒になったエステル記から私たちは聖書を信ずるユダヤ/キリスト教の信仰の理想を見い出す事ができます― 見えない神の本質をこの日常・毎日の世界で明らかにしていく。似たような事がヘブル書の11章、信仰列伝のあたまにもあります。

最後に

ランバンことマイモニデスもエステル記の重要性について述べています。ランバンは、メシアが来た時、タナハ(旧約聖書)のうち6つの書以外の全てが無効になると述べています。その例外の6書とはトーラー(モーセの五書)とあと、エステル記なのです。

ユダヤ教のメシア観に、「メシアが来るとこの世界が神の家になり、神の本質が明らかになるという神の究極の最終目標が完成する」という考え方があります。
エステル記、そしてエステル記を祝うプリムは来るべきメシアとその時表される隠された神の本質について書かれた本であり、それについて祝う祭りなのです。

(終)
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エルサレムでもプリム(פורים)は3月1日に終わりイスラエルのプリム・ムードも過ぎ去ったのですが、いろいろとプリムで読まれるエステル記について考えた事やユダヤ教的観点などを絡めて、遅ればせながら今回記事にこうして書きたいと思います。


聖書一、聖書っぽくないエステル記

実はプリムで読まれるエステル記、新旧約通して聖書の中で1番聖書らしくない/世俗的な書物だと言われています。それには1つハッキリした大きな理由があります。
それは、旧約・新約計66巻のうち「神」の名が出てこないのが雅歌とエステル記だけだからです。

雅歌は詩なんですが、エステル記はイスラエル(ユダヤ人)の救いを描いた物語。それなのに出エジプト記にあるような奇跡の数々もなければ、神が登場さえしていません。奇跡など超自然的なことも全く起こらず、偶然とエステル・モルデカイの信仰が重なってユダヤ人が虐殺計画から救われる。まさに「ヒューマンドラマ」のようなエステル記は聖書の書物の中で例外中の例外的な書物だと言えます。

しかし、本当にただの「ヒューマンドラマ」ならば、聖書の中の一書になっているはずがありません。ではエステル記ではどのように神が現れているのでしょうか??そして、なぜ神の名が1度も出てこないのでしょうか??

エステル記の目的

エステル気を通して神が伝えたい事、それは「この世界に(超自然の対義語としての)自然な事はない」ということだと思います。神はハリウッド式、奇跡的な形やド派手な登場でご自分を現されることもありますが、それ以前にわびさび式、日々の日常や自然現象などのさりげない形でご自身を私たちに常に現されているのです。

― (神が作り、すでに完成した)RPGのゲーム上で私たちは登場人物としてプレイし神は画面でそれを観ながらそれを採点している―何となく私たちは生きているという場において自分たちと神との関係を「神は外(か上)から私たちを見ているんだ」、こんな風に神と自分たちを離して考えてしまいます。

しかし人生とはまさに神との対話、生まれてから肉的に死ぬまでず〜っと続く神とのおしゃべりなんです。なので、何気ない瞬間も私たちは常に神と会話をしながら生きています。常に神と一緒に生きているのです。
神と生きている・・・「アーメン」とあっさり受け入れるのもいいのですが、少し冷静になって考えてみましょう。
神と生きている・・・とんでもない事だと思いませんか??
これってすごい奇跡じゃないですか??

イエスは「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう。」や復活後に「見ないで信ずる者は、さいわいである」と言っています。ですからこのわびさび式奇跡はハリウッド式奇跡に勝るのです。

なので私たちは超自然的な出来事や奇跡だけではなく、日々の普通の生活においてこそ神とアプローチしなければいけません。神は常に私たちに話しかけてきているのですから。エステル気を通して神はそういう事を伝えたかったのだと思います。そして、イエスも生涯を通じてハリウッド式の奇跡を行いましたが、エステル記のようなわびさび式の神の姿を本当は伝えたかったのです。

(続く)
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 10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。

 10:23 イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。

 10:24 するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。

 10:25 イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。

 10:26 あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。

 10:27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。

 10:28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。

 10:29 わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。

 10:30 わたしと父とは一つである」。

[ヨハネによる福音書 10章22節〜30節]

22節に書かれている、冬の宮きよめの祭り。実はこれ、ハヌカの事なんです。
あまり知られていませんが、新約聖書はハヌカについて書かれている書物の中で最も古いものの1つなんです。これはミシュナやタルムードなどのユダヤ文献が書かれるよりももっと前の事です。

ハヌカはユダヤ教の祭りなんですが、タナハ(ユダヤ人にとっての聖書)には書かれていません。ハヌカで祝うマカバイ戦争がタナハの成立後の出来事だからです。しかし、クリスチャンにとっては聖書である新約聖書にはハヌカについて書かれていて、イエスも祝ったと書いてあります。
そういう意味で、ハヌカはユダヤ教の祭りの中でも少し変わったお祭りです。

引用したところからも分かるとおり、イエスはハヌカという光の祭りの時に自分がメシア性を言い表しました。またその少し前、8章でイエスは自分が「世の光」であると言っています。

世の光であるイエスが、光を祝う祭り「ハヌカ」で自分がメシアである事・世の光である事を(ほぼ明確に)宣言しました。

ユダヤ的視点を使いハヌカとこの箇所が繋がると、より深い聖書の読み方ができるかもしれません。


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ハヌカはスフガニヤや油料理を食べたり。楽しい祭りでもありますが、ユダヤ人、そして異邦人クリスチャンの私たちにとっても意義深い祭りなのです。

イスラエルに来て。

こうしてイスラエルに来て、考古学を学んで。
考古学ってメッチャ広い学問やなぁ〜って思います。

(年齢的には祖父ですが)僕のイスラエルでの父親みたいな存在の人に、
「考古学は全てを含んでいるから」
と歴史を学ぶか考古学を学ぶかを迷っていた僕に言ってくれたその言葉が、だんだん今になって分ってきました。

例えば、今取っているコースの1つに「ギリシャ考古学入門」というのがあります。
ここでは、ドーリア・イオニア・コリント式などの建築を学んだり。陶器や彫刻などの美術を学んだり。もちろん歴史も。
それに、教授のレクチャーではないインストラクションの方ではギリシャ神話をついこの前まで習っていました。

この前新約聖書を読んでいてこんな箇所がありました。
群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。

彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。

使徒行伝 14章11〜12節
ゼウスはギリシャ神話の中の主神。
ヘルメスは旅や泥棒、商業に羊飼いの神です。その一方、ヘルメスはゼウスをはじめ神々の使者・伝令役、メッセンジャーを務めていたと言われています。

なので、語るパウロはギリシャ神話にのっとり「ヘルメス」と呼ばれたのです。

さぁ〜っと読んでしまったらそれまでの事です。
しかし、こういう1つ1つの積み重ねが聖書と私たちとの距離を縮めてくれるのだと思います。

そういう意味で、考古学を分らないながらもレクチャー聴いて、板書ファイルもらって週末復習して。
やってて意味はあるんだなぁ〜と思ってます。


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考古学の建物にはところどころ、こうして発掘物が展示されていたり、発掘記録の写真が貼られていたりします。

ウルパンで学ぶ聖書。

ヘブライ語は近年乱れてきていると叫ばれていますが、
さすが聖書が書かれた言語。
ウルパンでヘブライ語を学ぶと聖書との関連を感じ、なかなか面白い時があります。

このまえは「להגר(レハゲル)」という動詞を勉強しました。
意味は「(他国へ)移住・移民する」と言う意味で、語根は「הגר(H.G.R)」の3文字なのですが・・・

この「הגר」、聖書の登場人物の1人なんです。
それは、アブラハムの妻サラのつかえめハガル。

ハガルはイシマエルを身ごもってから、サラを見下すようになったので、
サラがハガイを苦しめるようになったので彼女はアブラハムのもとを去りました。

またサラがついに身ごもりイサクを生んだ後、イシュマエルはイサクをからかうようになり、
サラはハガルとイシマエルを追い出すようにアブラハムに願いました。
神がサラの懇願を聞き入れるように命じると、アブラハムはハガルに食料を与えて去らせました。

2回も国を去ったハガルの3文字、「הגר」が「(他国へ)移住・移民する」という語根になっている。
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ウルパンの授業はつまらなく、
「こんなノート取るなら、友達からもらった考古学の授業のノート見とくゎっ!!」
って感じですが、ここだけはおもしろかったのでバッチリ板書してきました**

イサク(יצחק:イツハク)は「彼は笑うだろう(未来形)」、
イシマエル(ישמעאל)は、ישמע(イシュマァ:聞くだろう)・אל(エル:神)→「神は聞くだろう」。
こんな意味が聖書学者でも、ヘブライ語に精通している訳でもない、
ヘブライ語初心者の人間の僕でも分かる事ができます。

意味はwikipediaや本などを見たら分かります。
ただ、自分で「(言語的に)あっ、ホンマにそうなんや」って分かるのと本でただ知ったのとでは、
知った後の聖書の登場人物との距離感が少し違ってくると思います。

そういう意味で、
ヘブライ語を少し(かじる程度)でも学ぶ事は、聖書を読むうえで何かしら意味はあると思います。

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