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昨日は僕にとっては大学生活の初日、ヘブライ大学で初めて授業を受けてきました。 |
二十一の信仰日記
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メシアニック・ジューの事、聖書の事。
思った事、聞いた事などを書いていきます。
ここは「たんなる日記」とは違い、お堅いネタを展開していきたいと思います。
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最近、とても感じる事があります。 それは、神は『意外性』を持ってはるんだ、という事です。 みなさんは、イエスは12部族の中の何族だったかは知っておられるでしょうか?? 新約聖書の冒頭を2節読めば答えは簡単で、正解はユダ族なんですが、なかなかパッと答えられない人も居るのではないでしょうか。 メシアがユダ族から出ると言うのはユダヤ教でも周知の事実。 ダビデの末からメシアは現れるというのはユダヤ教・キリスト教ともにメシア預言としては定番中の定番ですが、そのダビデがユダ族だからです。 ユダヤ教によれば、創世記49章の10節はメシアがユダ族から出ると言う預言らしいです。 (シロとはユダヤ教によれば、メシアの事を指しているようです。) では、ユダ族、そしてその祖であるユダはどんな人物だったのか?? イスラエル最高の王ダビデや、イエスを輩出したからにはヤコブの12人の息子の中でも特に優れた人物に違いない・・・ ところがそんな事ないんですよね、これが。 ユダはヤコブが愛したラケルの子ではなく、ラケルの姉レアの四男。 ものすごく中途半端なポジションです。 そしてユダの生き様を見てみると・・・ まずヤコブの息子の中で信仰的にも1番ほめられた息子はヨセフでしたが、ユダを見てみると・・・ ユダが他の兄弟と比べて優れているかと言われると・・・遊女と間違え義理の娘であるたまると関係を持ったりと、あまりできのよい息子ではありませんでした。ヨセフを助けようとしたルベンの方が信仰的にもできた息子だったように思われます。 優越で考えれば、神はヨセフの末からダビデ王やメシアであるイエスを出されるはず。 ヨセフはずっとエジプトに居た事を考慮に入れても、私たち人間の物差しではかるとルベンなど他の息子の末のほうが適役だったはずです。 しかし神は、そんなあまりできの良いとは言えないユダを選ばれました。 自分も神の立場になってイメージしてみましたが、ユダというオプションは思いつきもしませんでした。 これはかなりの意外性だと思います。 神は意外性の方だな、と改めて思いました。 話はずれますが、ユダ族のメシアであるイエスを最終的に裏切ったのはイスカリオテの『ユダ』。
神の計画とは、得てしてなかなか妙なものですね。 ユダ族のシンボルはライオン、創世記の49章から来ています。 エルサレムはユダ族なのでエルサレム市のマークもライオンになっています。 |

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以下の文は、「メシアニック・ジュー −壁をぶち壊すブレークスルー」の続きになります。 彼(イエス)のユダヤ人としてのアイデンティティーに加え、彼の教えも完璧にユダヤ的であり、ユダヤ教の概念の影響を強く受けています。イエスの主な教えはユダヤ教が基本になっていますし、彼の格言はタナハ(旧約聖書)の引用や言い換えです。以下がいくつかの例です。 マタイによる福音書22章34〜40節は、イエスの最も有名な教えの1つです。 22:34
イエスが一番大切ないましめだと言った37節『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』というのは、申命記6章5節の『シェマ』と呼ばれるユダヤ教で1番大切な祈りからの引用です。また、2番目のいましめとして『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』を挙げていますが、これもレビ記19章18節の引用です。さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、 22:36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。
イエスの後の時代(1〜2世紀)、ラビ・ユダヤ教の創始者の1人に挙げられている偉大なラビであるラビ・アキバはこのレビ記の註解でイエスと同じ事を述べています。「(レビ記19-18)これがトーラーの中で1番の教義である」、イエスの言った事と同じ事を後の時代にラビ・ユダヤ教の権威も言っているのです。また、キリスト教の中心的教理である「山上の垂訓の教え」。ここにもトーラーやユダヤ教の要素を多く見る事ができます。 ・柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 | (マタイによる福音書5章5節) | ・しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。 (詩篇37篇11節) ・心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 | (マタイによる福音書5章8節) | ・主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こ そ、その人である。 (詩篇24篇3〜4節) ・求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたた | け、そうすれば、あけてもらえるであろう。 | (マタイによる福音書7章7節) | | ・あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求める ならば、 (エレミヤ記29章13節) またマタイによる福音書の5章の39節の「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」という一節。日本のキリスト教人口は1%以下と言われていますが、少し聖書の知識がある人はこの聖句をキリスト教の有名な教えの1つとして知っています。この超キリスト教的だと思われているこのフレーズも、タナハ(旧約聖書)からの引用です。 哀歌3章30〜31節: おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。 主はとこしえにこのような人を 捨てられないからである。 より有名かつ決定的な例が、山上の垂訓の中の「イエスの黄金律」と呼ばれるイエスの言葉です。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 (マタイによる福音書7章12節)この部分、イエスはヒレルの有名な教えをリピートしています。ヒレルとはユダヤ教の有名なリーダーで、ユダヤ史の中で最も重要な人物の1人です。彼は特に2つの格言で知られていて、そのうちの1つはユダヤ教の黄金律です。 <ヒレルの言葉> 自分にとって嫌な事は、人にはするな。これがトーラーであり、残りの部分はその説明である。 (タルムードより)イエスとヒレルの言葉を一緒に見てみると、イエスはヒレルの影響を強く受けていた事が理解できます。 (つづく)
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このブログのトップページでもお話したように、私は今イスラエルに聖書を学ぶために留学しています。 なぜイスラエルなのか、その答えには簡単に答えられます。 イスラエルが聖書の国だからです。 創世記に始まる旧約聖書は、イスラエル・ユダヤ人の歴史について書かれたものです。それだけだと言っても過言ではありません。そして新約聖書も決して例外ではありません。 まず、新約聖書で1番重要な人物は誰ですか??こう聞けば、誰もが「イエス」と言うでしょう。全くもってその通りです。 では、イエスはどこの人ですか??イエスは生粋のユダヤ人です、彼は生涯のほとんどをイスラエルで過ごしています。 新約聖書のほかの書簡を読んでも、イエスと切り離せる書簡はありません。 イエスと切り離せない、と言う事は「イスラエル・ユダヤ人」と切り離せないと言う事なのです。 これで、聖書とイスラエル・ユダヤ人が切り離せない事がお分かりいただけたでしょう。 しかし、キリスト教のほとんどはイスラエルやユダヤ人をあまり取り上げたがりません。なぜでしょうか?? その理由は、「置換神学」または「置き換え神学」と言われる神学です。 置換神学とは、聖書に幾度となく書かれているユダヤ民族に対する神の恵の祝福またその約束は、ユダヤ人のイエス拒絶〜十字架に架けたという罪の故に、ユダヤ人からキリスト教会が相続し、ユダヤ人は神の選民と言う立場を剥奪されたという理解です。簡単に言うと、ユダヤ人への祝福について書かれているところを全部クリスチャンの事として読もう、と言う訳です。 実はこの置換神学がキリスト教会の主流であり、この神学が反ユダヤ主義に繋がっていくのは、皆さん察しがつかれているかも知れません。 この神学の根拠には使徒行伝の最後の部分の箇所などが上げられるのだろうと思うのですが。 しかし、神はユダヤ人を決して捨てられてはいません。 ここでは、置換神学の反論を私なりに展開したいと思います。 もう一度言いますが、神はユダヤ人を捨てられてはいません。彼らは昔も今もこれからも、神の民であり選民です。 それは、ユダヤ人が優秀だったり他の民族よりもハンサムや美女が多いなど容姿が勝ってるからでもありません。神は神御自身の御名のためにも決してユダヤ人を捨てられはしないのです。エゼキエル書の36章をお読みになれば分かって頂けるのではないかと思います。 エゼ 36:21 しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。 エゼ 36:22 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。 ここには「わが聖なる名のためである」と明記されています。この2節でお分かりのように、神は御自身の御名にかけてユダヤ人を捨てられる事はないのです。御自身の御名にかけて、ユダヤ人の選民の立場を剥奪しクリスチャンに与える事はされないのです。 また、サムエル記上の12章にはこう書かれています。 サム上 12:22 主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。 ここでも、神は御自身の御名のためにイスラエルの民を捨てられないと書かれています。 2000年間の離散を経験しても、ユダヤ人は神の民であり続けるのです。 置換神学と言うものが、これらの聖書の箇所と矛盾しているのは明白です。
今年でイスラエルの建国から60年間が経ちました。 そろそろ、キリスト教全体がイスラエルに対して目を開きだしてもいい頃でしょう。 イスラエルに対して目を開くと言う事、それはすなわち神の御名、そして神に正しく目を開くと言う事なのですから。 |



