イスラエル、バラガン日記

イスラエルに留学している大学生のブログです。

考古学うんちく

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ヘブライ大学で考古学を勉強している事を利用して、いろいろと「あぁ〜」と思った事や考えた事を書いていきます。
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ガラス、3500年の歴史。

私たちが普段何気なく使っているガラス。

いったいそのガラスにはどのような歴史が隠されているのか・・・考古学とはそういう質問をぶつける学問でもあります。昨日「古代ガラス」という授業の試験があったのですが、そのコースではガラスの誕生から吹きグラスが発明されたローマ時代までを扱いました。


ガラスが誕生したのは今から3500年前の紀元前16世紀のメソポタミア文明。

200年ほど経った後、メソポタミアからもう1つの洗練された古代文明エジプトにガラス製法が伝わりました。エジプトにガラスが伝わった頃から、両大文明に挟まれたイスラエルではエジプト・メソポタミア両方からのガラスが発見されています。


そこから数百年間、ガラス産業は各地で衰退し出土品も小さな象嵌細工やビーズ中心になりますが、紀元前6世紀ペルシャ帝国が興るとガラスでガラス産業が復興しもともとあったメソポタミアのガラス技術(コアガラス)とギリシャ陶器のレパートリーが融合し、「地中海ガラス」というガラス製品が500年ほど発展します。

イメージ 1
これが地中海ガラスの代表例。
白地に紫は地中海ガラス特有のコンビネーションですが、右手の青や紺に横にジグザグや波線の入ったパターンはガラスがメソポタミアで誕生した当初からあったパターンです。この時代のガラスは超高級品、これらは全て手のひらに乗るサイズで香水や化粧品を入れる容器として使われていました。もちろん、この当時香水・化粧品を持っているというだけでエリ−トです。
ちなみに吹きガラスのないこの時代は、メソポタミア文明時からのコアガラスと言われる製法が一般的でした。これは粘土やわらなどを混ぜた物でコア(核)を作り、それを溶かしたガラスで多い冷却後にコアを掻き出して仕上げるというもの。

 


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その後、地中海文化の中心は東からヘレニズム、西のギリシャに。紀元前34世紀になると、モザイク・ガラスでボールなどの器(写真中央)が作られるようになっていきます。また両脇にもあるような、モザイクの1ピースが巨大・複雑化していきます。ヘレニズムとエジプト・メソポタミア、東西の融合がモザイク・ガラスにも見られのはこの頃からです。例えば、右手はいかにもギリシャ/西洋的な花の模様、そして左手は中東に昔からある目やエジプト的なモチーフのモザイクです。

またこの時イメージ 3代ではガラス細工に金や銀などの金属を織り交ぜた香水入れなども登場し、吹きガラス後にはあまりないずっしりとした重厚感のあるバラエティー溢れるガラスが数多く作られました。

(吹きガラスでは同じ大きさの器を作るのに必要なガラスの量がかなり節約できます。少ない量で大量に作れるのですが、作品自体の迫力は寂しくなっていくのです・・・)


ローマ時代に吹きガラスが発明されてからまもなくすると、コアガラスやモザイク・ガラスなど他の製法は急速に廃れていきます。


ガラス技術の種類や工夫という点でガラス産業が最も栄えたのは、このヘレニズム中〜後期かも知れません。



吹きガラスが紀元前1世紀末に発明されて、その時代で今回のコースは終わりだったのですが、吹きガラス製法最古の考古学的証拠は、実はエルサレム旧市街から見つかっています。

なので吹きガラスはシリア・イスラエル、レバント地方発祥だと考えられています。

 


さて、今回のコースをざっと簡単に言うとこんな感じ。
最近、ガラスを手に取ったり洗ったりするたびに、「あぁ、2000/3000年前なら〜」とか妄想を膨らませています苦笑″

変な妄想は置いておいて・・・2000年前や2500年前に写真のようなガラス製品が作られ、使用されていたと考えると、その変わらない美しさ・高度な技術/文明に関心します。

せっかくイスラエルで考古学を専攻しているので、考古学も少しは紹介したいと思います(需要はあまりないでしょうが・・・)。



12カ月前、ユダ王国時代初期(紀元前97世紀)あるいはダビデ王時代(紀元前1000年頃)にまで遡る可能性を秘めた、宗教的慣習を示す考古学的証拠がエルサレム近郊にあるテル・モツァ(Tel Motza/ תל מוצא)遺跡で見つかりました。


イスラエル外務省によると、イスラエル考古学庁の行った発掘での発見の中には約2750年前のものとされる陶製の小さな男性や馬の人形が含まれ、これらはイスラエル王国時代(紀元前1千年紀前半)では非常に珍しく、当時イスラエルで行われた祭儀について知るための重要な手掛かりになると期待されています。


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ソロモン(第1)神殿時代初期のユダヤ地方(エルサレム周辺からイスラエル南部)では宗教・儀式的建築物はもちろん、儀式などに関する宗教的な発掘品は未だ見つかっていません。したがって今回の発見は、非常に重要な発見だと発掘チームは話しています。


イスラエル考古学庁の発表によれば、神殿と考えられている建築物の壁は厚くがっしりとした造りで、近東の神殿と同じように東向きの建築になっています。建物の東には塀に囲まれた中庭があり、その中心には祭壇を思わせる四角の小建造物が発見されている事も、これが神殿だったとする大きな根拠となっています。


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世界中に考古学という学問は存在しますが、聖書考古学は世界中が注目するいわば考古学の世界では花形。エルサレムのソロモン神殿は、ヘロデ王によって建てられた第二神殿の下に埋まっているので発掘ができません。なので、エルサレムから目と鼻の先にあるこの遺跡でユダ王国の神殿が発見されたとすれば、聖書考古学の大ニュースです。




意外と知られていないのですが、聖書時代のイスラエルが現在のユダヤ教のように、唯一神・唯一のエルサレム神殿を基にした厳格な中央集権的一神教として確立されたのは、ダビデやソロモンよりだいぶ後の紀元前8世紀後半(ヒイゼキヤ王)から7世紀(ヨシア王)にかけて。


なので、他宗教に対して寛容であった聖書時代の前・中期に関しては、エルサレム以外で神殿が発見されても何ら不思議ではないのです。

(・・・という不毛な、考古学あるあるです苦笑″)

シナゴグと教会

昨日、やっと最初の試験を終えてきました。「シナゴグとユダヤ美術」というコースの試験でした。
この授業、なかなか面白いんです。
実はクラシック考古学(ヘレニズム〜ビザンチン時代)を専攻するようになってから、新約聖書を文献として扱う授業が増えてきているんです。新約聖書は、ヨセフス・フラウビウス(Josephus Flavius)と共に、第二神殿時代の立派な歴史的文献として挙げられています。なので、このシナゴグを扱うこのコースでも第二神殿時代のシナゴグを取り扱う文献としてイエスがシナゴグで説教をした箇所が何度か出てきまた。
またもう1つの面白い点として、ビザンチン時代の教会(教会建築で考えれば初期)とその時代のシナゴグがかなり似ているというのが発見できたことです。今日はそれについてお話したいと思います。


 
神殿がまだエルサレムにあった1世紀初め、シナゴグは宗教的な建物というよりも地域共同体の建物、コミュニティー・センターのようなものでした。もちろん安息日のシャバット(土曜)には礼拝が行われてはいましたが、トーラー・スクロールは置かれていませんでしたし、シナゴグがエルサレムの方に向いているという今のシナゴグの常識も当時は存在していませんでした。シナゴグは宗教的な場所であると共に、町内会のような政治的・自治会的な場所でもあったのです。
 
しかし神殿が崩壊した70年以降、シナゴグはコミュニティー・センターから今のシナゴグのような「ユダヤ教の建物」という宗教色を強めていきます。神殿というユダヤ教のよりどころを失った彼らは、シナゴグを擬似神殿・神殿を準えたものとし、町内会のような世俗的な活動はされなくなり、シナゴグが「神聖な場所」と化していったのです。このような思想の変化と共に、シナゴグも宗教的なユダヤ築物として独自の建築・装飾スタイルが確立されていきます。
 
しかしシナゴグから生まれたキリスト教の教会がビザンチン時代に入り発展していくと、教会建築の要素がシナゴグに逆輸入されていきました。それまでのユダヤ教は偶像崇拝の点から、人物を描いた美術(Figurative art)は固く禁じられ、シナゴグ内の装飾もすべて幾何学模様や植物・建築物(主に神殿)等でした。それが聖書の物語や人物などを取り入れたビザンチンの教会がどんどんと増えていくにつれ、そのシナゴグもその波から逃れられなくなっていきます。
 
その1つの例がこちら。
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琴を奏でるダビデ。右がシナゴグ、左が教会で共にビザンチン時代初期のものです。
 
もう1つがこちら。
イメージ 2
こちらは一般の信者が座る場所とリーダーや長老などの指導する立場の人たちが座る場所を分けるためのプレートです。シナゴグではメノラ(燭台)、教会では十字架が彫られていますが、先ほどの床のモザイクと同様構図はほとんど同じです。それまでユダヤ教のシナゴグでは一般信徒と指導者層が別の場所に座るという考えは確立されていなかったのですが、ビザンチンの教会の影響でシナゴグでも座る場所を分けるという習慣が生まれたのかも知れないと推測されています。
 
このように、シナゴグなどのユダヤ教から教会・キリスト教が見えてくる。
これがクラシック考古学の醍醐味です。
また興味深い発見があったら、また投稿したいと思います。

発掘実習、終了!!

3週間のガリラヤ湖畔での発掘実習を終え、9日の夕方エルサレムに戻ってきました。
(まぁ、週末はエルサレムに戻ってきていたんですが・・・)
 
いろいろと書きたい事があるのですが、日曜(11日)に試験があるので詳しくはその後に書きたいと思っています。なにせ発掘中は勉強する体力が残っていなかったので、ホント一夜漬けで試験に臨む事になりそうです。6割取れてなかったら第二日程(モエド・ベイト:מועד ב')に回る事になるので、まぁ「ダメもとで受けてみるか」程度ですが。
なので次の更新は日曜の夜(そちらの月曜深夜)になりそうです。
 
ただ、写真を2枚アップしたいと思います。
発掘実習の間、僕たちは3人のグループに分かれ5mX5mの発掘を3週間任されました(発掘していくために正方形に区切って進めていくのです)。
最初は何もない空き地(イスラエルなので日本ほど雑草は生えていませんが)。
そこを草や木を切り、5mの正方形をロープを張って作り、3週間発掘を続けてきました。その最初(正方形を作る前)と今日の最後の発掘後に撮った写真です。
 
ではでは、みなさんよい週末を。
管理人、
テル。


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ビフォアー:
木を切り、雑草を抜いた状態です。
(正方形の外の右手の石はアフターの方では白いビニールの土嚢が置かれています)
 
イメージ 2
アフター:
発掘最終日の発掘後の写真。
ビフォアーの方は右から左を見た写真なんですが、こちらは左からの写真です。
2つの部屋が並んで、手前のシナゴーグに向いています。
最近、全然ブログを更新できていませんでした。
実は先週・今週・来週とガリラヤ湖畔の遺跡、ワディ・ハマン(Wadi Hamam)で考古学部での発掘の実習をしています。(イスラエル・日本を含め)発掘への参加はこれが2回目で、1回目はワディ・ハマンのすぐ近くの山でした。(考古学的には同じ遺跡の違うエリアという扱いになっています)
今回はワディ・ハマンがどんな場所だったのか、写真をお見せしたいと思います。
(その他色々と写真を撮ったのでまた随時アップしていきたいと思います)


イメージ 1
 
ヘブライ語(もともとはアラビア語)でワディ(wadi)とは「干上がった谷」のこと。ワディ・ハマンはハル・ニタイ(ニタイ山:僕の初発掘の場所)のふもとにある遺跡です。写真は発掘現場、夏なので柱を立て黒い布をはった簡易テントの中で発掘作業をします。


イメージ 2
 
簡易テントの前からガリラヤ湖を望む。
左手に見えるのが、アラブ人の居住地。小さな黄色のドームがありますが、それがモスクです。

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