いじめっ子 いじめられっ子

やっぱり、笑って過ごしたい。鏡の中のあなたは笑ってますか?

新聞コラム

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

対話が足りない

日本経済新聞 1月13日(土)夕刊コラム
対話が足りない   元検事総長 原田 明夫

 目覚ましい通信技術の発展で、インターネットや携帯電話等により、私たちの情報交換は確かに便利になった。反面、膨大な情報量を消化しきれず思考を深められないまま、一方的な物言いはするが真の対話が成立しない現象が生じつつある。家族など個人間だけでなく、地域社会、会社や、大きくは国家間においても、人間の営みの中で不可避的に生ずる各種紛争の種を取り除くための対話が容易に成り立っていない。
 2001年11月、国連は、「分裂を超えて−文明間の対話」と題する報告書を公表した。これは日本から河合隼雄氏が参加した世界を代表する知識人20名の情熱と冷静な理性の労作である。報告書は、紛争を解決するには対話が必要で、その目的は、「価値観を共有するため相互理解を発展させること、自分の知らないことを学び、異なった意見に耳を傾け、多種多様なものの見方に心を開き、自分自身の思い込みに反省を加え、人間性の成長のために最良の行動を探求することである」と提唱し、さらに、「対話を通して、悪意に基づく排除や排他的な暴力でなく、グローバルな本当の交流の在り方や多様性に対する真の配慮がもたらされるかもしれない」とも論じている。
 この報告書の公表が、同年9月の同時多発テロ事件の2ヵ月後であったためか、我が国でもあまり紹介されなかった趣だが、翌年、筆者は入江昭ハーバード大学教授の一文でその重要性を知り、考える視点を多く教えられた。国内また国際的にも現代社会が直面するさまざまな問題を解くために、今こそ哲学、宗教、政治、経済などあらゆる人知を動員した真の対話が必要だと思われるのに、逆に不足しているのではないか。

便利な情報通信機器も、お金も、はさみも、どれも便利な道具である。
道具は使い方を間違えれば、時に凶器になりうる。
言葉に関して言えば、伝え方、受け取り方を間違えれば、理解するどころか、対立することにもなる。

情報が、言葉が氾濫し、受け取る側もそれを消化しきれないまま、都合の悪いものは排出してしまっている。

昔、家族はよく話したか、と言えば、そうでもないと思う。
無口な父は背を向け、口うるさい母の言葉に子どもたちは耳をふさぎ、聞かぬふり・・・
ただ、子どもたちは、子ども部屋などなく、居間で遊び、そんな父母と背中合わせで過ごす。
学校から帰れば、日が暮れるまで友達と外で遊び、家に帰れば、親に叱られる。
それでも、家族は、同じ空間にいたのではないだろうか・・・
今では、危険だから子どもには使わせない道具も、普通に家中に転がっていたと思う。
それらを、いたずらして、大怪我した子も少なくないはず。
かばんの中には、はさみに彫刻刀、学校のロッカーには、大工道具、裁縫道具など、
怪我するもののオンパレードである。
しかし、使い方を厳しく教え込まれ、手を切りながら、道具を使いこなしていった。
それを、凶器として使うなどという考えはさらさらなかったであろう。
大人たちも、目の届くところ、手の届くところで、つねに見守っていてくれていたように思う。

個人間の『真の対話』とは何なのか、国家間の『真の対話』とは、何なのか。
何を伝え、何を受け止めるのか、人と人の本来の姿を、今まさに取り戻すときに来ているのでは・・・
久しぶりの更新です。

年をまたいで、信じられないような事件が相次ぎ、到底理解できるはずもなく、
ワイドショーの格好の餌食になったこれらの事件に、人が失ってしまったものは何なのか、
改めて、考えさせられる今日この頃。ですが、
つい、先日まで、世の中を駆け巡っていたのは、「いじめ」。

1月5日(金)の新聞のインタビュー記事をご紹介したいと思います。

作家の重松清さんが、いじめについてインタビューされている記事です。

<記>いじめは昔からあるが、最近のいじめは集団の力が強まって陰湿化しているように感じる。なぜでしょう。
<重松>変わった要因は3つあると思う。親との関係よりも子供同士の集団の力が強くなっちゃったのは完全にハードの問題。具体的には、携帯電話とインターネット。僕たちの時代だったら、夕方バイバイって友達と別れたら、そこからは家の時間だった。今は、いつどこの誰とコミュニケーションとっているのか分からない状態。そうなると、子どもは家にいて肉体はあるんだけど、心はまだ学校の友達関係の中にいたりしているわけで、親の知らないところでいじめが増えるのは必然なんですよ。
2つ目が、僕たちの子ども時代から始まっているのかもしれないけど、子どもが消費者になって、物欲をあおられているわけですよ。昔は手っ取り早く稼ごうと思ったらカツアゲなんてやってたんだけど、逆襲を食らっちゃうリスクがあるから、いじめているやつをやったほうが確実にお金を取れる。これは恐喝や窃盗そのもので、いじめではなく犯罪なんです。
3つ目がね、子どもの自意識が変わってきた。今の子どもたちは小さなころから、「お前には豊かな可能性があるとか未来がある」とか言われ続けて、中学生ぐらいになると、だんだん自分の限界が分かってくるが、自分が優れているという気持ちは持ちたいわけ。その時に、自分の優れているものは何だろうと探して努力していくより、手っ取り早く自分より下の人間を作れば満足感が得られるじゃないですか。でも、下の人間を作るはっきりした理由付けがないから、いつ自分が負け組みの方に入れられるのか分からない。その不安定さが逆に、いじめる側にいたときに徹底して歯止めなくやっちゃうことになる。下手にかばうと、自分が負けのほうに行っちゃうしね。

<記>今のお話を聞いていると、改めていじめ問題の解決は難しいと感じます。
<重松>いじめ問題は解決難しいでしょう。でも目の前の具体的ないじめは食い止められるかもしれない。いま教育関係の人たちがいじめ問題を何とかしようとしてて、観念論、抽象論で議論している。目の前のいじめの話がどこか置き去りになって、子どもはこうあるべきみたいな話になる。教育とか子どもの問題は、まだ理想のほうがでかい。だからみんな理想の子どもを、理想の学校を、理想の親をつくるにはどうすればいいかって思っている。でも、目の前のいじめを現実的に解決しなきゃダメだと思う。

・・・中略・・・

<記>いま、いじめを受けている子どもにはどんな言葉をかけますか。
<重松>一言、「死ぬな」ということ。いまは残念ながら、いじめの処方箋はない。長期的な戦略もないんだけど、今日、とりあえず「お前は死ぬな」ということが大事なんじゃないの。処方箋や戦略を探し続けていると、サッカーで完璧な戦略を練っているうちに、ボールは向こうへ行っちゃったよみたいな感じになりかねない。目の前に球が来たら蹴るでしょ。その反射神経が大事だと思う。
 まあ、もし子どもがいじめを受けたときのシミュレーションは、事前に考えておいたほうがいいかもしれない。うちでは、学校に行かせない、行く必要ないっていうことで、俺とかみさんの意見は一致している。もし何かあったら、学校やめちゃえばいいと思っている。夫婦とか自分の中で、もし子どもがいじめにあったら、自分はこうするぞと言う気持ちを固めておいたほうがいいんじゃないかな。



いつのまにか、目の前の出来事より、理想の空間に身をおいてしまっているのかもしれない。
その理想空間から、少しでも外れると、パニックになる。
もちろん、理想を持つことも大事なことだと思うし、理想とするものは持っていたいとも思う。
ただ、現実とかけ離れた理想空間は、危険空間以外の何者でもない気がする。

重松さんは、
「一般的に親が一発で分かる正解と言うか、完全な解決策を欲しがっていて、いろんな現実との折り合いを自分でつけていない機がする。百のいじめがあったら、百通りの現実があるわけですよ。と言うことは処方箋も百通りなかったら嘘なんだよね。」
ともおっしゃっています。

目の前の現実を受け止めることが最初の一歩なのかもしれない。
12月9日(土) 日本経済新聞夕刊のコラムより

大阪人間科学大学 原田正文教授

・・・略

 日本の場合、母子が物理的に孤立しているということもあるが、精神的に孤立しているケースが多い。今「いじめ」が大きな話題になっているが、現在の子育て世代はすでに「いじめ」と背中合わせの生活を送ってきた世代だ。
 十数年来、子育て支援のボランティア活動をしてきたが、現代の子育て世代の対人関係のぎこちなさを強く感じている。いじめられないように、目立たないように、周囲と表面的に合わすばかりの学齢期を送ったために子育てにおいても自分の分からないことを率直に聞けない。一見楽しそうに話をしていても、互いに支えあえる関係になっていないのだ。
 二十年前に比べて夫は育児に協力的になっている。そして、ほとんどの母親が子どもは「かわいい」(97%−99%)、子どもと一緒にいると「楽しい」(87%−95%)と答えている。にもかかわらず、母親の育児での不安感やイライラ感などは驚くほど高まっている。

・・・略

 なぜに十数年でこんなに精神的ストレスが高まったのか。「母親が育児をするのは当たり前」とされているが、母親だけで四六時中子どもと向き合うような育児は、歴史上かつてなかった。そもそも無理なのだ。
 また現代の母親たちは「能力を発揮し、自分らしい人生を切り開くように」という自己実現を目標に育てられてきた。しかし、育児は自己犠牲的側面の強い営みだ。「自己実現」と「親としての役割」のバランスが取りにくいことがストレスを高める一因である。
 私たちは閉塞した子育て状況を打開するものとして、親支援プログラム「Nobody's Perfect(完璧な親なんていない)」に取り組んでいる。カナダ政府保健省が開発し、87年からカナダ全州で展開されている親参加型の教育プログラムだ。日本でも熊本県、奈良県など行政も積極的に取り入れ始めており、広く実施されることを期待した。



数年前に、知り合いに赤ちゃんが生まれたが、
マンションで、一日中赤ちゃんの泣き声を聞いていると、
「いいかげんにして!!!」と、思わず放り投げたくなる衝動に駆られると、
話していたことを思い出した。
聞いたときは、かなり衝撃的だった。
決して、赤ちゃんが憎いわけではない。
生まれたときは、本当に心から喜んでいた。
なのに、あの密閉された空間に赤ちゃんと二人。
どうしようもない感情がわきあがってくるのかもしれない。
人とのかかわりが少なくなれば、孤独感、不安感、焦り・・・
さまざまな気持ちが交差してくるのだろう。

育児は自己犠牲的側面の強い営み
なんとも、暗くなる言葉だけれど、現実かも。
それでも、最近、子どもが生まれるって"奇跡"だよね・・・
って、思える。
お母さんのおなかの中で、ちっちゃな恐竜みたいな物体が、
人の形に形成されていくなんて、壮大な感じがする。

子どもは、思い通りになんかいかない。
大人だって、言葉は話せるのに、通じない、分かってもらえない・・・
と、思い通りになることのほうが少ない。
思い通りにならない!と思うより、新たな発見!!って楽しんで欲しい!!!

「そんな甘いもんじゃないわよ!!!!!」とお叱りを受けそうだが・・。

昔の経営者

日本経済新聞 12月7日(木)夕刊コラムより

アドパンテスト相談役 大浦 溥


 30数年前、秘書として富士通の岡田完二郎社長につかえた。社長は親子ほどとの離れた私にいろいろの話をしてくれた。ある建物をさして、「あれはフリーメーソンが集まるところだ」などと「ダ・ヴィンチ・コード」に出てくるような秘密結社のことなども興味深く解説してくださった。そしてご自身が上梓された「労働問題の背後にあるもの」という表題の本も紹介された。
 1955年発行のこの本は「労働問題の背後にあるもの」を中心に「中労委の憶い出」「日本の中世期的性格と人間革命」「マルクスの非科学性」「神武天皇の御東征と銅」等々、幅広い論文を纏めてあり、大変面白く教えられることが多い。推薦の序文は中山伊知郎・天野貞祐両先生が書かれた。
 炭鉱労働組合を相手の厳しい労働問題の実務をこなしてきた経営者が還暦を過ぎて「経済の正義」を求めて、もう一度経済学の勉強をし直す。アダム・スミスからリカルド、J・S・ミル等々を経てケインズの「一般理論」に進み、更にカール・マルクスの「資本論」を読破する。その上で「労働価値説」の非科学性を論証する。
 経営の実務の面でも「限りなき発展」を標榜し、カリスマ的リーダーシップを発揮された。富士通では丁度池田敏雄さんらが中心になってコンピュータ事業を始めようとしていた時期に文系の岡田社長は「半導体とトランシスタ」(渡辺寧著)を何度も読み返し、理解を深めて事業化を決断した。
 昔は岡田さんのような偉大な経営者の姿を傍らにみて、同じ年代に差し掛かった己を省みるとそのふがいなさを恥じ入るばかりだ。


温故知新ということか。

広辞苑によれば

 おんこ−ちしん【温故知新】
 [論語(為政)「温故而知新、可以為師矣」]
 (古い事柄も新しい物事もよく知っていて初めて人の師となるにふさわしい意)
とある。

会社に限らず、政治、文化、芸術、スポーツetc、われわれが生きていくうえで、
昔のことを研究し、そこから新しい知識、見解を得てきた。
改めて、昔を振り返り、今の実情を見直す時期に来ているのかもしれない。

過去に激動の時期を生きてきた人たちを知ることは、
今生きている私たちに、多くのヒントをくれるはず。

世界史も、日本史も、地理も学生時代は”大”がつくほど嫌いだった。
こんな時代に生きてみて、歴史上の人物に興味がわくとは・・・
ただ、記憶するだけの勉強では、知識は通り過ぎてしまう。
もっと、過去に思いを馳せ、知りうる限りの彼らの心を覗いて見たい、と思う今日この頃。

65年前の今日は、真珠湾攻撃が実行され、太平洋戦争が勃発した日。

非常識な常識

日本経済新聞 12月2日夕刊 前世界銀行副総裁 西水 美恵子さんのコラムより

 今年、日本との国交樹立二十周年を祝うブータン。「国民総幸福量」と呼ばれる公共哲学を国づくりに実践して、長い。人間は何よりも幸福を望む。幸せの追求には、衣食住の安定とともに、人それぞれの心の和、そして母国の歴史と文化に属するという自己認識の和が欠かせないとの考え。ブータンの指導者は常識だと笑う。間違いや彎曲迂回は数多くあったにしろ、その常識を本気で貫いてきたところが、非常識。
 「誠治とは、国民の幸福追求を可能にすること。全ての政策は、幸せへの公共的障害を取り除くためにある。幸福は全体論だから、行政は民の視点から横割りに。不幸せな民は国家を不安定にする。だから、国民の幸せは国家安全保障の基礎だ」と、しんけんだ。
 幸せは物のみでは得られないから、高度成長を目的とはしない。国造りの一手段と見て、前記の「和」とバランスがとれる経済成長を求め続けてきた。今に言う持続可能な成長と同じ思考。それを世界に先駆けて実践したブータンの成長率は高い。約半世紀前は物々交換の経済が、貧困解消まであと一息だ。
 教育策も、目のつけどころが違う。教員の人格と価値観とリーダーシップを重視して、教員養成に力を入れる。教師は次世代を形成し、国を変える。教師用指導書はだから生徒の理想像となれと説く。険しい山路を一週間歩いてはいる寒村の小学校。先生は一人きり。でも彼の目は国造りの情熱に燃え、口癖は「答えより質問が大切だ。自分の頭で考えよう」。惚れ惚れした。
 去年の国勢調査で、国民の97%が幸せだと応えた。常識を本気でやる政治姿勢。政策効果を待たずして、民を幸せにする。



遠い昔、日本もそうだったのではないのだろうか。
どこで、道を間違えたのか。(間違えたわけではないのか)

高度成長期に沸きかえり、学歴社会で揉まれ、
バブルに踊らされ、今また「いざなぎ景気越え」などと言われているが、
振り返れば、何も残っていないような・・・

心の中には、ポッカリ穴が開いてしまっているような。

先日「ALWAYS 3丁目の夕日」という映画を地上波で放送していたが、
きっと、そのころの人たちは、未来に向けて目を輝かせていたのではないかと想像する。
貧しくても、下を向いている人なんていなかったのかもしれない。
いや、下を向いている暇がなかったのかもしれない。


ただ、そんな時代を生きた人たちに、不器用で、まっすぐな人たちに育てられたはず。

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事