目覚ましい通信技術の発展で、インターネットや携帯電話等により、私たちの情報交換は確かに便利になった。反面、膨大な情報量を消化しきれず思考を深められないまま、一方的な物言いはするが真の対話が成立しない現象が生じつつある。家族など個人間だけでなく、地域社会、会社や、大きくは国家間においても、人間の営みの中で不可避的に生ずる各種紛争の種を取り除くための対話が容易に成り立っていない。 2001年11月、国連は、「分裂を超えて−文明間の対話」と題する報告書を公表した。これは日本から河合隼雄氏が参加した世界を代表する知識人20名の情熱と冷静な理性の労作である。報告書は、紛争を解決するには対話が必要で、その目的は、「価値観を共有するため相互理解を発展させること、自分の知らないことを学び、異なった意見に耳を傾け、多種多様なものの見方に心を開き、自分自身の思い込みに反省を加え、人間性の成長のために最良の行動を探求することである」と提唱し、さらに、「対話を通して、悪意に基づく排除や排他的な暴力でなく、グローバルな本当の交流の在り方や多様性に対する真の配慮がもたらされるかもしれない」とも論じている。 この報告書の公表が、同年9月の同時多発テロ事件の2ヵ月後であったためか、我が国でもあまり紹介されなかった趣だが、翌年、筆者は入江昭ハーバード大学教授の一文でその重要性を知り、考える視点を多く教えられた。国内また国際的にも現代社会が直面するさまざまな問題を解くために、今こそ哲学、宗教、政治、経済などあらゆる人知を動員した真の対話が必要だと思われるのに、逆に不足しているのではないか。 便利な情報通信機器も、お金も、はさみも、どれも便利な道具である。 道具は使い方を間違えれば、時に凶器になりうる。 言葉に関して言えば、伝え方、受け取り方を間違えれば、理解するどころか、対立することにもなる。 情報が、言葉が氾濫し、受け取る側もそれを消化しきれないまま、都合の悪いものは排出してしまっている。 昔、家族はよく話したか、と言えば、そうでもないと思う。 無口な父は背を向け、口うるさい母の言葉に子どもたちは耳をふさぎ、聞かぬふり・・・ ただ、子どもたちは、子ども部屋などなく、居間で遊び、そんな父母と背中合わせで過ごす。 学校から帰れば、日が暮れるまで友達と外で遊び、家に帰れば、親に叱られる。 それでも、家族は、同じ空間にいたのではないだろうか・・・ 今では、危険だから子どもには使わせない道具も、普通に家中に転がっていたと思う。 それらを、いたずらして、大怪我した子も少なくないはず。 かばんの中には、はさみに彫刻刀、学校のロッカーには、大工道具、裁縫道具など、 怪我するもののオンパレードである。 しかし、使い方を厳しく教え込まれ、手を切りながら、道具を使いこなしていった。 それを、凶器として使うなどという考えはさらさらなかったであろう。 大人たちも、目の届くところ、手の届くところで、つねに見守っていてくれていたように思う。 個人間の『真の対話』とは何なのか、国家間の『真の対話』とは、何なのか。
何を伝え、何を受け止めるのか、人と人の本来の姿を、今まさに取り戻すときに来ているのでは・・・ |

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