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「永遠のナンバー2」である金鍾泌元首相の夫人朴栄玉氏が最近、亡くなり、愛妻家で知られた元首相が落胆しているが、89歳になってなお、饒舌は衰えていない。 弔問客と交わした会話が漏れ伝わるが、安倍首相に対して「父親に比べちょっと・・・」と苦言を呈したという。 金元首相は韓国政界最大の知日派と称されるが、朴正煕少将と軍事クーデターを起こした1961年当時(写真下、左先頭がソウル市庁前の朴正煕)は、対日人脈はゼロに近かった。対日国交正常化交渉を任せられた時に知り合ったのが安倍首相の父の安倍晋太郎元外相であり、苦労人の人情家で知られた晋太郎に助けられた部分もあった。 それに比べて息子は苦労知らずで気ばかり強いが、人間の幅が小さいと、もどかしい思いがあるようだ。 安倍首相と旧日本軍慰安婦問題で激しく対立する朴槿恵大統領に対してはどうなのか、さすがに口元が慎重である。 以前、「あれだけ謝罪しろと反省しろと言われたら、日本でなくとも嫌になるだろう」と、馴染みの日本人記者にリップサービスしたこともあったようだが、立場を弁えているようである。 というのも、夫人は朴正煕元大統領の姪であり、朴槿恵大統領とは従姉と近い。 それだけではない。 朴栄玉の父親相煕は朴正煕が最も慕っていた兄であり、世界観、人生観に大きな影響を受けた。 難関校の大邱師範に進んだのも、その精神的、経済的な支援によるところが大きい。 日帝の植民地下、東亜日報の善山支局長をしていた相煕は、朴憲永(写真上1926年モスクワ国際レーニン学校生徒時代。前列左から3番目。後列右端がホーチミン)率いる朝鮮共産党傘下の新幹会員であり、社会主義者であった。 解放後は善山郡民戦事務局長・人民委員会内政部長として米軍政に反対し、1946年の大邱コミューンに呼応して亀尾人民委員会を組織して闘うが、警察の銃弾に倒れる。 正煕は思うところあり、教員を辞して満州軍官学校、日本軍陸士を経て満州国軍中尉で解放を迎え、故郷に戻る。そして、相煕と行動を共にし、南朝鮮労働党の秘密党員となる。 ついで、米軍政庁が設立した警備士官学校に入り直し、警備士官学校教官、少佐と順調に昇進する。 兄の死を知った後も、警備隊内の秘密南労党組織の中核として活動を続ける。 1948年5月、米軍政庁が南朝鮮単独選挙を発表し、各地で暴動が発生する中、警備隊内南労党地下組織はクーデターを計画し、朴正煕は軍政庁の武力占拠を強硬に主張するが、意見が割れ、頓挫する。 8月に李承晩政権が発足し、軍内左翼に対する粛軍が大々的に行われ、朴正煕も逮捕され、死刑判決を受ける。 1950年6月、金日成は周到な計画に基づいて南侵し、朝鮮戦争が勃発する。 共産主義思想と決別した朴正煕は転向書を書き、日本陸士で専門的な軍事知識を修得した実力を高く買っていた白善ファ情報局長の保証で軍務に復帰した。 以後の朴正煕は少将へとトントン拍子に出世し、韓国軍の実力者の一人となる。 警備士官学校教官時代の教え子たちが周囲に集まってくるが、その一人が金鍾泌であり、相煕兄が遺した姪と引き合わせ一段と結束を固める。 朴正煕の目に映った李承晩は、抗日運動の経歴だけが売り物の無能な独裁者でしかない。 経済開発は遅々として進まず、韓国は春窮に餓死者が続出する世界最貧国の一つであった。 他方の北朝鮮では金日成政権の下で建設の槌音が響き渡っていたが、朴正煕は金日成を信用していなかった。 兄相煕らと朝鮮国内で長く抗日闘争をしていた朴憲永に南朝鮮解放失敗の責任を負い被せ、「米帝のスパイ」として処刑したことを聞いていたのである。 |
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2015年02月28日
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