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国家の近代化を夢見てきた朴正煕少将に人生最大の転機が訪れる。1960年4月19日、李承晩独裁政権が不正選挙に反対する学生らのデモに倒れたのである。 許政過渡政権が誕生し、尹ボソンが国会で大統領に選出されるが、社会的な混乱は収まらない。 都会には失業者が溢れ、荒廃した農村では餓死者が耐えないというのに、政治家は反共か容共か、反日か親日かと、不毛の観念論争と派閥抗争に明け暮れている。 1961年5月16日、朴正煕少将率いる2千余の陸軍部隊が大統領官邸を占拠し、「飢餓線上の民生苦を解消し、自立経済を再建する」など6項目の革命公約を軍事革命委員会の名で発表した。 ついで、朴正煕を議長とする国家再建最高会議に改編された。ナポレオンに憧れていた少年は43歳で事実上、国家の頂点に立った。 翌年、朴正煕は尹ボソンに代わって大統領権限代行となり、野心的な第一次5ヶ年計画(1962年〜1966年)に着手した。 同時に大統領制復帰改憲案を成立させ、1963年の民政復帰を約束し、自身は民政不参加を表明した。 それを見て、最高会議の事実上のナンバー2であった金鍾泌准将が後継者に名乗り出る。 中央情報部長を辞し、民主共和党創立準備委員長として出馬の準備を進めた。大統領選2か月前の最高会議常務委員会で自身の出馬への同意を求める。 強烈な批判が会議場の空気を切り裂いた。 「認められない。朴議長の不出馬が正式に決まったわけではないのに、不謹慎きわまりない。そもそも再建同志会なる私組織の性格自体が疑わしい。巷間かまびすしい疑惑も解明すべきだ」 金在春少将であった。警備隊士官学校5期生で、8期生の後輩の金鍾泌の突出を快く思っていなかった。 野心を露にして孤立した金鍾泌は、一切の公職を辞し、民主共和党創党大会前日、金在春中央情報部長に追われるように巡回大使の名目で外遊に出る。 朴正煕は大将を最後に予備役編入し、民主共和党総裁として大統領選に出馬する。 朴正煕が自分に逆らった金鍾泌を粛清することはなかった。姪の婿であることもあった。 それ以前に、粛清という手段そのものを好まず、軍事革命を共にした同志に対しては、たとえ途中で意見を違えても生命まで奪うことはしなかった。 その点が朴憲永をはじめとする南労派、ソ連派、中国派を情け容赦なく「反革命分子」、「宗派分子」の濡れ衣を着せて粛清し、数多の人材を失ってきた金日成と決定的に異なる。 朴正煕は期を見て、外遊中の金鍾泌を呼び戻し、民主共和党議長に据える。 総選挙で圧勝した勢いをかって大統領選で勝利した朴正煕は、徐々に成果を挙げていた第1次5ヶ年計画に弾みをつけるために外資導入と輸出振興を開発戦略の中心に置く。そして、日本資本導入のために韓日国交正常化を決意し、金鍾泌に対日交渉を任せる。 1965年の韓日国交正常化により得た有償無償5億ドルと日韓民間経済協力がカンフル剤となり、翌年終了した第1次5ヶ年計画は年平均経済成長率が8・5%に達した。 「漢江の奇跡」の始まりである。浦項製鉄(ポスコ)など基幹産業を国営企業が担い、現代、大宇、サムスンなどの民間企業を育成した。 1968年5月、金鍾泌は突如、民主共和党議長、国会議員を辞し、政界引退を発表する。 朴正煕の大統領3選と永久執権が密かに取り沙汰されていた事に抗議する意味が込められていた。 朴正煕は第2次5ヶ年計画が経済成長率10%を超えていることに気をよくし、北朝鮮を凌駕する野心的な第3次計画の青写真を描いていた。 この頃、ライバルの金日成の7ヶ年計画(1961年〜1967年)が不調で、3年延長されたとの情報が入っていた。韓国の1人当GDPはまだ北朝鮮の半分であったが、総合力では優りつつあった。 1971年の大統領選で野党の金大中候補に予想外の接戦に持ち込まれた朴正煕は、与党建て直しのために金鍾泌を呼び戻し、総理に任命する。 その翌年、ニクソン米大統領が電撃訪中し、米中国交正常化へと動き出す。朝鮮半島の分断構造に地殻変動が起き、南北ともに対応を迫られた。 同年7月4日、朴正煕と金日成は自主、平和、民族大団結の3原則に基づいて統一を目指すとの南北共同声明を締結する。 10月、南北示し合わせたように、北朝鮮で社会主義憲法が公布され、金日成首相が国家主席となる。その直後の第5期第6次党中央委員会で金正日が後継者に指名された。 韓国でも維新憲法が公布され、朴正煕の永久執権の道が開かれるのである。 「先建設後統一」が金日成と決着をつける戦略であった。 1975年、金鍾泌は総理を辞職する。 金載圭中央情報部長、全斗ファン陸軍保安司令官ら新実勢が大統領の周囲を固め、金鍾泌が出る幕はなくなっていた。 朴正煕はテクノクラートを積極登用した経済企画院が中心になって進めた第3次5ヶ年計画(1972年〜1976年)が、重点目標とした重化学工業化で目覚ましい成果を挙げ、経済成長率が1、2次計画以上の10%台を維持したことに自信を深めていた。 事実、1970年代後半には韓国の経済力は北朝鮮を確実に凌ぎ始めていた。 だが、1979年、思わぬところから破綻する。この年初め、イランでホメイニ革命が起き、原油高と貿易赤字拡大でバラ色の経済成長ははじめてマイナス成長に転落した。 軍事革命委員会から始まった朴正煕政権は、強権的な独裁政権であった。だが、無意味な個人独裁ではなく、国家の近代化を目標とし、結果を出していた。 それが失われた時、国民の怒りが噴き出すのは当然とも言える。韓国全国で維新憲法撤廃デモが拡散する中、同年10月26日、朴正煕は最も信頼していた金載圭中央情報部長に暗殺される。 金鍾泌元首相に欠けているのがあるとしたら、朴正煕元大統領の国家再建への意志と戦略である。 朴正煕死後、それは全斗ファン、盧泰愚らに受け継がれて「漢江の奇跡」が継続し、一般国民も認めるところとなった。朴槿恵大統領の誕生はその証である。 2011年秋、金鍾泌の野心を挫折させた元中央情報部長の金在春5・16記念財団理事長から私の所に電話があった。私の著書『韓国を強国に変えた男 朴正煕』の韓国版を読んだとのことで、同書に記された前掲のセリフについて「全くそのように考えていた」と電話の向こうから声が響いた。 金理事長は2年後に亡くなったと聞いたが、電話での短いやり取りは、不思議な思いと共に今も私の記憶に残っている。 1997年、金元首相は金大中大統領候補と和解し、当選に一役買った。金泳三元大統領を含めて三金(写真下左から金泳三、金大中、金鍾泌)と称されたが、唯一、大統領になれず、「永遠のナンバー2」として歴史に名を刻むことになる。 知略に長けた名参謀であったが、指揮官の器ではなかった。それを見抜いていたのは義兄であった。 |
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