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「おじいちゃんの家に行ってくる」と言って家を出た土師淳君が惨殺された通称タンク山の入り口であるチョコレート坂(写真1)は立ち入り禁止となり、かつての子供たちの遊び場には雑草が生い茂っていた。 犯行現場となった山頂の通信施設は撤去され、途中にある市水道局の貯水タンク手前で山道は封鎖、小学校6年で命を断たれた犠牲者を悼む小さな慰霊碑が建てられていた。18年を経て供養の花が絶えないのは、事件が地域社会に残した深い傷が癒えていない事を物語る。 韓国MBCテレビの取材車に同乗し、近付いてくる台風11号がもたらす雨風を縫いながら3日間、地域を走り回って痛感したのは、事件が残した傷痕があまりに大きかったということである。 一見、住民も街の外見も大きく変わったが、事件をタブー視し、部外者に触れられまいと警戒する空気がそこかしこにおも苦しく淀んでいた。 インタビューを避け、途中まで喋りながら人の目を気にして口をつぐんたりと、腫れ物に触るようだ。 しかし、人の口に戸は立てられない。遠い記憶を手繰るように口を開いてくれる人もいた。少年Aの祖母と同じ40年前にこの新興分譲地に入居し、孫が同級生同士で、親しく付き合っていたという老婆の「逮捕されるまで想像もしなかった」との証言が印象的であった。 元少年Aを特異な精神異常者と区切り、臭いものに蓋をする事は出来ない。 事件が風化しきれない象徴的存在が、元少年Aの実家(写真2)である。一本道は明石大橋が遠くに望める崖で突き当たり、左側に並ぶ家々の一番奥から二軒目である。 朧気な記憶を辿り、ようやく探し当てたが、実家そのものは往時のままであった。白い壁はくすみ、植木や草が囲むように生い茂り、門札も変わっていたが、他人の目を恐れ、息を殺すように佇んでいる。村八分に遭ったように、そこだけ時間が止まっていた。 私の著書『酒鬼薔薇聖斗の告白』への「サンデー毎日」書評で高橋義人・京大教授は「少年は何故人を殺してはいけないのかと問いかけたが、大人たちは答えられないでいる。生の肯定が鍵だろう」と書いたが、事件の本質を抉っていると現地で再認識した。 奇しくも、『絶歌』が生きる意味を面白くもリアルに描いて芥川賞を受賞した『火花』と共に売れているのは、正反対だが、同じ事がテーマになっているからであろう。 私の著書のレビューにも「子供を育てるのが恐くなった」との声もあるが、元少年Aと同世代の人が「良い子の仮面を母親に強要されたAの孤独は自分にも通じるものがあった」、「それでも最後に親を求める姿に涙した」と、紙一重の共感を吐露している。 少年Aを医療少年院送致の決定書を書いた西垣康弘元裁判長と会った(写真3)。 「死刑を望み、生を否定してい少年が『絶歌』では、生への執着を見せているのは一定の成長だ。読者の0・1%でも元少年Aの贖罪、更正に理解を持てば、元少年Aも世の中も変わる」と述べていたのが印象深い。 退官直前に咽頭癌手術を行い、補声器が離せないが、贖罪支援活動に情熱を傾けている。 『絶歌』は犯行当時の心理と更正過程の二部に分かれているが、後者から、多くの人々が元少年Aの更正に尽力した事がうかがい知れ、ある種の感動と共に、この国の修復的な司法制度の底力を知ることが出来た。 改めて思うのは、気の弱そうな神経質な少年を悪魔に変えたのは、スパルタ教育の母親への満たされない愛情が嫉妬で屈折した一種のエデイプス・コンプレックスであったと思われる。 『絶歌』ではその自覚がまだ不十分、もしくは潜在意識で避けているが、唯一の理解者であった祖母の死で現実逃避が強まり、死を肯定し、性的倒錯と相まって自殺願望型殺人に走ったと思われる。 幼児性と早熟性が入り交じったあってはならない悲劇であったが、そこから更正のシナリオも見えてくる。 元少年Aもようやくそれに気付く年齢と社会的経験値を重ねてきたが、社会はそうした彼にもっと寛容であるべきである。それが更正と同種の事件予防につながる。 全ては我々大人の責任である。同種の事件を再発させない決意をこめ、不条理に命を断たれた二人の子供の無念を想い、哀悼の意を心から表したい。 また、心に傷を負った3人の子供が大人として、禍を福に変えさらに逞しく成長することを望みたい。 |
酒鬼薔薇聖斗・教育
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先週初め、韓国のテレビ局から神戸児童連続殺傷事件について取材依頼の電話を受けた。もはや社会現象と言うべき『絶歌』出版騒動が韓国でも注目されているらしい。 私の著書『酒鬼薔薇聖斗の告白ー悪魔に憑かれた時』の出版社デスクを通してだが、人間は誰しも天使として祝福されて産まれるが、成長過程で悪魔に憑かれる、との論旨が注目されたようだ。 少年犯罪の原点、と目されている事件を簡単に振り返ってみよう。 阪神・淡路大震災やオウム真理教事件で社会が揺れている最中の1997年2月から5月にかけ、新興住宅街の神戸市須磨区で5人の小学生が連続殺傷される事件が勃発し、世間を震撼させた。 被害者の首を切断し、口に酒鬼薔薇聖斗と名乗る挑戦状をくわえさせて中学校の校門に晒し、さらに神戸新聞社に「人を殺すのが愉しくてしかたない」と嘲笑する犯行声明文を送り付け、世間を驚愕させた。 マスコミは前代未聞の凶悪犯の人間像を競って報じ、多くの有識者が30代から40代の変質的な知能犯であると予測した。 ところが、逮捕されたのは14歳の中学3年生であった。 全く予想外の展開に世間は衝撃を受けた。 少年が少年法の適用対象であり、家庭裁判所の審判に回されたため、顔も名前も伏された。1997年10月の審判決定で少年Aの関東医療少年院送致が決まり、神戸地裁は動機は性的サデイズム、とする異例の決定要旨を公表した。しかし、性的倒錯に陥らせた愛着障害などの原因を解明する上で不可欠の生育歴や精神鑑定主文の重要な部分が抜けていた。 私は当時、5千字の決定要旨は先天的犯罪資質と示唆して少年Aを一般人と切り離し、世間を納得させようとしていると判断、著書で不透明な動機の解明を試みた。 『絶歌』を読んで改めて、長男に過度に期待した厳しい母親との葛藤、嫉妬や孤立が少年の疎外感、心の闇を絶望的に深めたと確信している。 衝動的な殺人ではなく、生きる意味が分からない少年の中に、酒鬼薔薇聖斗なるもう一人の自分(悪魔)が現れ、バモイドオキなる神を創って妄想を膨らませた挙げ句の計画的な殺人であった。 死を肯定し、殺人を正当化する。逮捕された時、「死刑にしてくれ」と叫んだが、自殺願望型殺人の悪しき先例となる。現実逃避的な倒錯した自己解放の狙いがあったのであろう。 その後、元少年Aの動向は途絶えるが、2005年1月に少年院を退院し、名を変え、人知れず社会復帰する。 その間、真相を知らされない人々の苛立ちと不安は募る一方で、ついに2000年、少年法が厳罰化の方向で改正され、刑事責任能力が14歳にまで引き下げられた。殺人、過失致死容疑は16歳まで刑事裁判に付され、重大犯罪は14歳まで刑事責任が問われる。 少年法には復讐・抑止重視の応報的司法と教育・更正重視の修復的司法の二つの立場があるが、不寛容な社会風潮と共に前者が優勢となった。 しかし、少年法厳罰化で少年犯罪が減ることはなかった。 一昨年の佐世保高1同級生殺人事件や昨年暮の名大生殺人・タリウム事件で、犯人はいずれも「人を殺してみたかった」、「どうして人を殺してはいけないのか?」とうそぶき、殺害欲求の動機が酒鬼薔薇聖斗化している。 実際、彼女らは“伝説化”した少年Aに強い関心を持っていた、いわゆる酒鬼薔薇聖斗予備軍であった。 そして、元少年Aが手記『絶歌』を出版し、また世間は騒然となった。 初版10万部が忽ち売り切れる反面、発売中止や不買運動を呼び掛ける声が澎拜と沸き上がる。販売や貸出しを取り止める書店や図書館まで現れた。 アマゾンに殺到した2千近いカスタマーレビューを観ると、被害者家族の事前承認を得ず、「元少年A」と匿名で出版し、印税を手にしていることに怒っている。本を読もうともせず、私の著書にも『絶歌』と勘違いしたレビューが書き込まれる過熱ぶりである。 「2度殺された」と突然の出版に憤り、出版に被害者側の同意を義務付ける法的規制を求める土師淳君の父親の思いは、人情論として至極当然である。私が当事者であったらそう考えるであろう。 しかし、私はあくまでも第3者であり、同種の事件の再発防止を優先的に考える。 他方、アマゾンのカスタマーレビューの約3割は、謎に包まれていた事件の真相や加害者の心理を知り、元少年Aが反省し、生き続けようともがいている事に同情、更正の可能性を見て、出版に肯定的な反応をみせている。 こちらは実際に読んでの意見なので、なるほど、そういう見方もあるのかと、私も大いに参考になった。 元少年Aの懺悔は「なぜ人を殺してはいけないのか、まだ分からないが、罰の重さ、苦しさは身に染みて分かった」と、不十分ではあるが、ゴールへの過程にいることはうかがい知れる。 総じて、日本社会には異質なものに拒絶反応を示す不寛容な風潮が、事件当時よりも強まっているように思える。 だが、それを反省する流れも確かに起きており、二つの潮流がせめぎあっているように思える。 事件当時、少年Aを擁護するものは、両親、兄弟以外、皆無に近かった。 しかし、元少年Aを理解し、真の更正を望む人々が次第に増えていることも否定できない。 実は、新井将敬の自殺事件は神戸事件から1年後のことであった。在日韓国人を両親に持つ気鋭の衆院議員で、「改革派のホープ」と称され、小沢一郎氏らと自民党単独政権崩壊と連立の時代を切り開く。「戦後世代初の首相候補」とまで期待されながら、些細な証券法違反容疑でマスコミの集中豪雨のようなバッシングに遭い、「自分はルーツが朝鮮人なので、釈明を聞いてもらえない」と自殺した。 私は新井憤死の真相についても『代議士の自決』で書いた。神戸の事件との共通性、人間の孤独の闇のようなものを感じたからであった。 酒鬼薔薇聖斗についてネットで両親が朝鮮人、韓国人とのデマが流された。その頃から、世田谷一家殺害事件など凶悪事件が起きる度にその種の無責任な噂が流布されるようになった。極め付きは公道で公然と徒党をなし、「朝鮮人、韓国人出ていけ」、「殺してやる」と大音量のスピーカーで行進するヘイトスピーチである。 1990年代は日本の転換期であったが、改革の挫折、景気停滞、格差拡大による社会分裂などが相乗的に作用し、保守化、右傾化へと向かい、戦前回帰的な安保法制案の強行採決など今また重大な転換期に差し掛かっている。 時ならぬ『絶歌』騒動の背景には、そうした世相がある。 北朝鮮による日本人拉致問題では被害者家族会の主張に無条件同調する人々が、従軍慰安婦問題では被害者の声を無視する矛盾した現象もある。 「罪と罰」は人類永遠のテーマであるが、過去の罪に真摯に向き合い、反省することの意味が全社会的に改めて問われている。 韓国でも少年犯罪が増え、日本と似たような厳罰化現象が起きており、『絶歌』騒動に無関心ではいられない。 世界の各地で戦争や自爆テロが頻発し、日常風景と化してすらいるが、「どうして人を殺してはいけないのか」を根源的に問い直すべき時代でもある。 そういうわけで、今週木曜日から土曜日にかけて神戸に入り、事件を今日的な視点から再検証し、しかるべき教訓を得ようと思っている。 |
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産経新聞の主張「1年ぶりの死刑 法執行は粛々とすべきだ」に違和感を覚える人は少なくあるまい。
人の死を「当然のことが当然になされたにすぎない」と傲然と伝える行間から、人権意識の荒廃が臭ってくる。人権派を「人権屋」と敵視するこの新聞ならではだが、閉塞的な社会状況に乗って拡散するから要注意である。
死刑を支持する人は、原始的な報復感情が強い。歴史的には封建時代以前の公開処刑場で見られたもので、残虐なほど観衆は狂喜した。
人権意識とは反対方向の感情であり、死刑を支持する人が多いと言うことは、社会の未発達もしくは劣化を物語る。
死刑支持者にはしばしば、特有の屈折した理屈がみられる。被害者の人権はどうなる、死刑廃止論は被害者の人権軽視、というのがそれである。
これは論理のすり替えか開き直りである。差別意識も刷り込まれている。
人権には、王と平民の区別も、加害者と被害者の区別もない。衡平性、バランスの問題があるだけである。
2年目を迎えた裁判員裁判では死刑の判断も迫られるが、万が一にも死刑宣告が乱発されるようになれば、社会には殺伐たる雰囲気が満ちるだろう。
人間が人間を殺す死刑は、本質的に共食いと似ている。箱の中の蜘蛛の群れが最後に一匹になるように、国家権力による暴力である死刑が横行する社会は、統制と恐怖が支配し、怒りと憎しみに愛や寛容は隅に追いやられ、道徳は地に墜ち、急速に衰退に向かおう。
憂慮されるのは、死刑がバーチャル化し、安易に実務的に宣告され、執行されることである。
近代は公開処刑は非人間的として禁止されたが、一般人から死刑への実感を奪ってしまったことも否定できない。実感なき死刑制度の矛盾である。
それに警鐘を鳴らす意味で千葉法相が死刑に立ち会ったとしたら、評価してよい。産経主張は「裁判員に予断を与える」と立会いを非難したが、的外れである。
千葉法相は死刑のバーチャル化と衝動的な死刑判断を防ぐ上で一石を投じたと言える。
死刑に携わる人は現場に立ち会い、それがいかに野蛮で非人間的なものであるかを実感し、生涯を通して考え続けるくらいの責任を感じてしかるべきである。
人間一人の命はそれくらい重い。死刑囚だからとどこかのバーゲンのように軽く扱って許される性質のものではない。
産経主張は「内閣府が今年2月に公表した世論調査では、死刑を容認する意見が過去最高の85・6%に達している」と嬉々として挙げるが、これは悲しむべき現象なのである。
格差拡大やリストラなどで人間がモノ扱いされ、世界中で人が殺しあう昨今の世相と無関係ではあるまい。
例えば、米軍は世界中で戦争に従事し、無数の人間を「敵」として殺している。現場の兵士は人間が人間を殺す矛盾に直面し、精神病を患う兵士が続出している。
ところが、命令を出しているホワイトハウスの住人たちは、戦場とは無縁の日常生活を送り、宴会に興じ、生活をエンジョイしている。
死刑のバーチャル化と戦争のバーチャル化は、人権軽視、人命軽視で根底でつながっている。
悪の連鎖を断ち切る必要がある。
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死刑廃止論者の千葉法相が、自ら立ち会って死刑執行したことが物議を醸している。
理由が何であれ、信念を曲げた変節漢であることは間違いない。大学同期生としても、残念なことである。 しかし、改めて死刑制度の矛盾に社会の関心を呼び起こした点は評価できよう。 私は死刑廃止論者である。犯人を殺したいと思う被害者の感情はわかる。自分も同じ立場に置かれたら、まず報復を考えるであろう。 それでも死刑廃止論者を譲らないのは、原始的かつ個人的な報復感情を満足させる以外に、死刑の意義を見い出せないからである。 死刑廃止団体「フォーラム90」の死刑囚に対するアンケート調査でも、ほとんどの死刑囚が反省し、罪を悔いているという。 反省し、更正した者への死刑は、国家権力による故無き暴力そのものであり、神仏の教えに反し、人倫にもとる。 その一方で、いつ死刑になるかもしれない状況に置かれて初めて死刑囚が、殺される者、自分が手にかけた被害者の恐怖を知り、心から反省する現実がある。 そうした根本的な矛盾に悩まされる死刑廃止論者は、結構いるのではないか? 千葉法相もあるいはその悩みの末に決断したやも知れない。 かの酒鬼薔薇聖斗のように、無垢のエンジェルが成長の過程で悪魔にとり憑かれて凶悪な犯罪者に転落する。 好き好んで人を殺める者はなかろう。 我々俗人ができることは、悪魔にとり憑かれる社会的な要因を最大限除去することに努めることしかあるまい。 |
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児童虐待や子殺し事件が後を絶たない。摘発が強化された、伝染病的な流行と様々な見方があるが、背景にあるのは、年収などカネで人格や人間の価値まで測ってしまう金銭フェティシズム(崇拝)がある。
こうした人間の商品化、疎外は資本主義社会の宿命だが、漫然と流されてしまうわけにはいかない。色々な手立てが考えられるが、原点に戻って考えるのは、混乱を収束させる有効な方法である。
親の子に対する愛は本能的なもの、との命題に疑問を抱かせる昨今の風潮だが、どっこい、それはやはり真実であった、と改めて教えられる学術発見が最近あった。
チンパンジーの母親が死んだ子どもをミイラ化するまで背負い続ける例を、京都大学霊長類研究所の林美里助教、松沢哲郎教授らのチームがギニアの野生チンパンジーの群れの中で複数観察し、ヒトが死者をとむらう行動の起源ではないかとして論文にまとめ、27日付の米生物学誌に発表した。
朝日新聞が報じるところによると、チームは、西アフリカのギニアで野生チンパンジーの群れの調査を30年以上続け、①ジレと名付けたチンパンジーが1992年に病死した2歳半の子どもを27日間以上、2003年にも病死した1歳の子どもを68日間背負い続けた、②同じ群れの別の母親も死んだ2歳半の子どもを19日間背負ったことを確認した。
3例とも死体はミイラ化したが、母親は生きている時と同じように毛繕いをしたり、体にたかるハエを追い払ったりした。
チームは、子どもに愛情を示しているようで、生きているときと背負い方が違うことから「死んだことは理解している」とみる。
「ヒトが死者をとむらう気持ちも進化の過程で生まれた。死んだ子どもによりそうチンパンジーの行動に、その起源があるのではないか」と松沢教授は話しているという。
納得できる話だ。
私も川辺の散歩で似たような光景を見たことがある。
川岸に近い葦の茂みに巣を作っているバンという鳥が、餌を採ると自分は食べず、必ずまず数羽の子に口移しで与えていた。敵が子を襲った時は、体を張って守る。自分の数倍もあるカラスに向かって体当たりし、追い払うシーンを目撃したことがあるが、実に感動的であった。
居合わせた人々も「人間もバンを見習わないとね」と口々に語っていたが、同じ思いであったのだろう。
児童虐待や子殺しなどは、チンパンジーやバンの風上にも置けない、人間として恥ずかしく、情けないことである。
種としての人類の破滅の兆し、と言っても過言ではあるまい。
死んだ子への愛情が弔い行動となり、宗教の起源となった。これは進化論のロジックに適っている。
逆説的にいえば、昨今の新興宗教隆盛は人間社会の根本が金銭フェティシズムにより突き崩されていることへの危機意識の反映ではないか。
かの酒鬼薔薇聖斗も自分の神・バアモイドオキを作り、透明化する自分に何らかの存在意義を与えようとし、その儀式として小さな子供たちを犠牲にした。性的サディズムに原因を求めるのは、問題の矮小化である。
子供が親に反抗するのは自我が芽生えた成長の証であるが、それを「自分が否定された」と曲解し、「躾」と称して虐待する親は、形態は異なるが、酒鬼薔薇と同じことをしているのである。
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