河信基の深読み

読者各位様:本「河信基の深読み」は順次、北朝鮮投資開発戦略研究所(2019年4月〜所長・河信基)の公式HPへ移行して参ります。

酒鬼薔薇聖斗・教育

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 聖斗君! いよいよ関東医療少年院から仮退院ですね。
 もうすべてを忘れ、社会の片隅でひっそりと暮らしたい、という気持ちもあるでしょうが、できるならば、君には、事件の真相を積極的に明らかにして欲しい。

 伝え聞くところでは、指導教官らに当初は「死にたい」と訴え、昨年11月末、中等少年院に移送されたときには、「自分にできることがあれば、何でもしたい。苦しむ必要があるのならば、苦しみたい」と漏らしたそうですね。

 自分を第三者の目から見つめなおす余裕が生まれたからだと思いますが、そこで、成人になリ、社会復帰を目前にした今、君に言いたい。
 君には、なぜ、か弱い少年少女に牙を向けてしまったのか、その原因を明らかにする社会的、道義的責務があると思うのですが、どうでしょう。

 誤解しないでもらいたいのですが、決して君を非難しているのではありません。
 君は確かに加害者でしたが、子どもたちを理解しようとしない我々大人社会の犠牲者でもありました。だから、大人の仲間になりつつある君がしかるべき責任を果たしてくれたら、と期待を込めて言っているのです。

 君はある意味で、悩める時代の告発者です。

 「酒鬼薔薇聖斗」を神と仰いだ佐賀バスジャック事件の少年もいます。
 文芸春秋誌は「現代のカリスマ」と表現しましたが、君があの日とり付かれた゛狂気゛が、この時代に住む人々の心の闇を浮彫りにしたことは記録されるべきでしょう。

 少年たちだけの問題ではありません。周囲や社会から自己の存在を否定されていると感じている大人は数あまたです。
 君の犯行声明文にある「透明な存在」とか「絶対的孤独」という挑戦的な言葉が、内面的な孤立感を抱えながら、惰性と諦めで覆い隠していた大人社会の日常の断面を切り裂き、日本中を震撼させたのだと思います。透明な存在である自分を取り戻すにはそれしかなかったと、ある種必然性みたいなものを君の犯行声明分から感じ、何か人間の根幹を揺すぶられ、自己の非力を思い知らされた大人たちが少なくなかったのも事実です。

 長崎の少年は「両親は非常に優しいし、思いやりがある」と述べたそうですが、逮捕後、親との面会を拒絶し続けた君とは明らかに異なりますね。
 彼の日記帳からも、君が書いた「懲役13年」のような、「透明な存在」にまで追いつめられた苦悩や葛藤、怒り、絶望というものは伝わってきません。早熟な君の場合は精神的にも大人の領域に足半分、踏み込んでいたと思います。

 君が告発した「透明な存在」とか「絶対的孤独」は現代人の宿業である疎外そのもので、君はそれに少年の純粋さと稚拙さで立ち向かったのだと思います。「透明な存在」にまで追いつめられた自己の実存の意味を、「なぜ人間は生きるのか」と問いかけ、さらに逆説的に「なぜ人を殺してはいけないのか」と極限まで問い詰め、それに疲れ果て、ついに悪魔に魂を売ってしまった。
 無垢で傷つきやすい中学生の君に、適当なところで折り合う大人の狡知がなかったのは無理はありません。

 人間としての一線を越えてしまったことは永遠に背負うべき十字架です。
 しかし、君が投げかけた質問に満足に答えられず、せいぜい、警察につかまるから殺さないのだという最低限の言葉しか思いつかない大人も褒められたものではありません。
 大人のエゴで子どもを押しつぶし、子どもが子どもらしくありえなくしてしまったこの社会に住む我々大人にも責任がなかったとは言い切れません。

 しかし、想像力や感性が枯渇した大人たちには、それがいまだに分からないようです。
 精神科医たちは人格や性格といった個人的資質に原因を求め、後付けの対症的な説明をするだけです。
 また、社会は、事件を生み出した病巣には手をつけず、子どもを押さえつければ済むといった安易な傾向に流れ、少年法を厳罰主義に替え、教育基本法を改正し、愛国心や公共心などを法律で押しつけ、個人の内心の自由を縛りつけようとしています。

 そうして、酒鬼薔薇予備軍が心の闇の中でそれに敵意を募らせ、ますます混乱を深めています。

 聖斗君!

 この悪循環を断ち切るために、是非君の力が必要です。

 君の最大の誤りは、同じ仲間である子どもたち、弱い立場の少年少女を犠牲にしたことです。
 狂気に身を委ねて一気に超えようとした問題の本質に、改めて光を当ててみてくれませんか。無意識の奥深く潜み、不安におののいている゛もう一人の自分゛ともう一度、真摯に向き合ってもらいたいと思うのです。

 君なら十分に可能だと思う。学校の成績など問題ではありません。
 一度見たことを写真撮影したように再現できる直感像資質があるそうですね。

 私的なことで恐縮ですが、私は、最近、五歳になったばかりで数字も満足に読めない幼女と神経衰弱というトランプ遊びをして、ほとんど勝てず、カードを瞬時に覚える記憶力に舌を巻いています。
 これが例の直感像資質なのかと実感させられていますが、「懲役13年」で放った君の異才なら、自分の内面に光をあて、凶悪殺人を犯すにいたった精神的遍路をたどり、文学に昇華させることは不可能ではないはずです。

 事実をはるかに超えた真実を活字にし、孤独に悩む若者たちに何事にも屈しない力と勇気を与える強烈なメッセージを発して欲しいものです。

 キリスト教徒を残虐に弾圧したパウロが救いを求めて回心し、聖人に列せられた先例もあります。
 小説は事実より奇なりはほとんど死語と化していますが、現実に追い抜かれ埋没した文学の復権は、君のような現実の修羅をくぐった人によってなされるのかもしれない、と私は密かに期待しています。


 追記:
 上記の文は、元酒鬼薔薇聖斗が仮退院前に出版された「『酒鬼薔薇聖斗』への手紙―生きていく人として」(宝島社03年10月)に収録されたものである。

 読売新聞によると、05年1月に医療少年院を本退院し、社会復帰した元酒鬼薔薇(現在24)は3月29日、両親に託して被害者の山下彩花ちゃん(当時10歳)の遺族に謝罪の手紙を届けた。縦書きの便せん3枚にボールペンで「申し訳ありませんでした」などと記し、今後も償いを続ける意志を伝えた。
 だが、彩花ちゃんの母京子さんは「悲しいくらい誠意が見えない状態が続いている。もう少し具体的な謝罪の方法を手紙で示してほしかった」と話しているという。
 元酒鬼薔薇は、医療少年院を仮退院中の04年8月に2通の手紙、本退院直後の彩花ちゃんの命日に遺族あてに花束と簡単なメッセージカードを届けたが、遺族にも衝撃を与えた社会にも十分な説明がない。

 そうしたことから、現在でも、元酒鬼薔薇には事件の真相を明らかにして、遺族や社会に応えて欲しいと思っている。

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 韓国でもっとも読まれている日本人作家の一人が、村上春樹です。だから、というわけでもありませんが、現代人の心の闇を悪魔の儀式で浮かび上がらせた、かの酒鬼薔薇聖斗と比べてみようと思います。
 妙な組み合わせと思うかもしれませんが、ともに孤独や疎外に立ち向かった点で、共通の問題意識がうかがえます。

 酒鬼薔薇聖斗は、殺害した小学生の頭部を校門に晒し、犯行声明分をマスコミに送りつけて世間に衝撃を与えました。
 拙書「酒鬼薔薇聖斗の告白―悪魔に憑かれたとき」でも書きましたが、手口の残忍さもさることながら、犯行声明文にあった「透明な存在」や「絶対的孤独」が、人々が日常生活でなるべく触れまいとしている内面の傷に乱暴に手を突っ込み、縮み上がらせたのです。
 
 その余震はいまだ収まっていません。
 酒鬼薔薇聖斗を神と仰いだ少年による佐賀バスジャック事件など、類似犯罪が続発しています。他方で、医療少年院を出所した酒鬼薔薇の動向がマスコミを賑わしています。

 「透明な存在」にまで追いつめられた自己の実存の意味を、「なぜ人を殺してはいけないのか」と逆説的に極限まで問い詰め、ついに悪魔と堕した少年の苦悩や葛藤、怒り、絶望を生み出した社会の病巣が、治癒されたわけではありません。

 酒鬼薔薇が逮捕された時、親、担任教師、地域住民らは「普通の少年だったのに?」と驚愕し、「三十代から四十代のインテリ」とテレビ、新聞で犯人像を予想した評論家ら世間は、「まさか中学三年生が?」と半信半疑でした。
 「警察のでっち上げだ」と今だに冤罪を主張し、再審を要求している文化人、弁護士らのグループもいます。

 それだけ根が深いということです。あまたの人が周囲や社会から自己の存在を否定されていると感じ、心の闇の中で敵意を募らせている酒鬼薔薇予備軍はそこかしこにいます。
 少年法なり刑法を厳罰主義に替えれば済むといった、単純かつ安易な思考で解決できる問題ではありません。

 この現代人の宿業である疎外に、村上春樹は異なる方法でアプローチしています。

 村上作品は日本だけでなく、韓国を含めた世界29ヶ国で翻訳出版されています。
 ゛日本人゛にこだわリ神秘主義に流れた川端康成や三島由紀夫らと異なり、ローカルな国籍を感じさせない普遍的、個性的な主人公が抵抗なく受け入れられているようです。

 通常の日本語ではあいまいにされる二人称によって自他を区別し、はっきりと自己主張する主人公は、米国文学の翻訳者でもある村上氏ならではです。
 そこには、゛欧米風の自立゛を単にコピーしただけでなく、孤立や孤独を現代人の宿命として受容し、スマートに折り合おうとするユニークな視点があります。

 苦悩を浮かべたロダンの「考える人」ではなく、悠久な時の流れに溶け込むように半跏思惟する薬師如来像を思わせる自然体に、仏教的な無常観の影響を指摘する声もあります。

 興味深いのは、ドフトエフスキーを生んだロシアで村上文学がちょっとしたブームになっていることです。
 意識と無意識に分裂した人間の内面を伝統的なテーマとするロシア文学の側からは、内容が希薄とか東洋的なあいまいさがあるとの批判もありますが、ソ連時代の集団主義的価値観が崩れ、孤独に悩む若者たちの中で、「内面的な孤立感」を抱えながら、自由人としてふるまう「ぼく」が癒しとなり、共鳴を呼び起こしているようです。 

 つまり、酒鬼薔薇が狂気に身を委ねて一気に超えようとした問題を、村上文学はあくまでも自立的理性によって、穏やかに、合法的に克服しようと努めているように思えます。

 人間は人類という類的存在ではありますが、個人として存在する場合は互いに自他の垣根で隔てられています。それを広く孤立とするならば、個人の自立は、孤立を実存の不可欠の一部として受け入れないと成立しないということになります。
 孤立を孤独とのみネガティブに受け取るとつらいですが、プライバシーと考えれば尊重すべきポジィティブな意味が生じます。

 しかし、無意識の奥深く、不安におののきながら潜む゛もう一人の自分゛との対話は容易ではありません。

 純粋無垢で傷つきやすい中学生の酒鬼薔薇はそれに疲れ果て、悪魔に魂を売ってしまいました。 
 他方、社会経験豊かな「ぼく」は、孤立や孤独の中に固有の自分=アイデンティティ―があると楽観的に構え、上手に折り合おうとする大人の智恵(狡知?)を働かせているようです。

 両者の違いはとりあえず、そんなところではないでしょうか。

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 いじめは、いじめる子もいじめられる子も紙一重、居場所が狭められている子供たちの悲鳴だ。
 安倍首相肝いりの「教育再生会議」が打ち出そうとしている「出席停止」は、子供の居場所を奪う愚策である。
 
 報道によると、「教育再生会議」は9日、来年1月下旬に公表する中間報告策定に向け3つの分科会による集中討議を行い、「規範意識・家族・地域教育再生」をテーマとする第2分科会で「子供の心の成長」について議論し、社会や他人への奉仕の精神、優しさ、友情、勇気、親孝行などといった「徳目」を身につけるため、始業前10分間の「読書の時間」や、礼儀作法などの「形」を学ぶことで「心」も養われるとして登下校時や給食時の挨拶の普及を提言する方向となった。
 特に、悪質ないじめ行為を繰り返すなど問題のある生徒・児童について、「出席停止」を別の言葉に言い換えて提言するという。

 「読書の時間」や挨拶の普及は、ごく常識的なことで、誰も反対はしないだろう。
 しかし、その種のことは本来なら、各学校が自主的に行うべきものである。教育現場に政府が足取り手取り、あれをしろこれをしろと指図する現在の中央集権的システムの方が問題である。

 教育改革を真面目にしようとするなら、教育の官僚化の是正が先決ではないか。文科省の教科書検定制度や、屋上屋を重ねるような教育委員会の廃止・改編を断行し、学校長や教員会議により多くの権限を移譲し、教育現場の自主性、自立性を高める必要がある。
 肝心のいじめ対策で何の役割も果たせず、学校・教員への監視ばかりに力を置き、戦争肯定の「新しい歴史教科書」を学校に押し付けようとした教育委員会などは、この際、廃止すべきであろう。

 当面して問題なのは、「出席停止」である。
 いじめの側からしか問題がみれず、被害者感情に安易に迎合し、いじめる子に報復するような発想だ。拉致問題などで日本社会にはそうした風潮が強まっているが、その種の偏った考え方を教育の場に持ち込むべきではない。
 現場の多くの教員たちが指摘しているように、いじめる子といじめられる子が日替わりで入れ替わるような、成長過程にある子供の世界が全く見えていない。

 一部に大人の犯罪を真似たように特定の子を組織的にいじめるケースもあるが、それはあくまでも特殊ケースであり、現行の学校教育法に規定する「出席停止」で対応できる。
 それを安易に一般化してしまうようでは、教育の放棄である。ある意味で、いじめる子こそ教育が求められるからである。

 いじめ一般をなくそうとしても、問題は解決しない。集団生活にいじめはつきものであり、いじめをなくそうとせず、適切に対処することが求められる。
 最近、深刻化している子供世界のいじめは、大人世界を反映している面がある。親のストレスの捌け口が子供に向かって家庭で居場所を狭め、その子供のストレスが学校で他の子供に向けられるケースが増えているのが、最近の特徴である。
 
 政府がすべきは、学校単位では手に負えない社会的問題なり背景に目を向け、対策を練ることである。子の親を日々痛めつけている格差拡大、雇用の不安定化、福祉切捨てなど、劣化する子育て環境の改善が不可欠である。
 親や教員に代わって、大上段に教育に干渉するようなことはあってはならず、日の丸、君が代を強制して問題が解決するなどといった安易な思考は、絶対禁物である。
 子供を政治の道具にするようなパフォーマンスは、あってはならない。

 イジメを苦にした自殺が後を絶たない。対応が不十分であった小学校校長が自殺に追い込まれるなど、教育現場も混乱を極めている。 
 韓国版イジメのワンタが深刻化している韓国のマスコミも日本のイジメ問題を報じているが、さすがに自殺予告には驚きを隠せない。日本の場合は極端だが、個性が尊重されにくい社会が共通に抱えるジレンマが背景にあると思われる。

 イジメと言うとすぐ犯人探しが始まるが、安易に流れると、子供を追い詰めることになりかねない。いじめる子が昨日いじめられていたケースも稀ではなく、相互に入れ替わりやすい。
 いじめられる子もいじめる子も含め、犠牲者は子供、という観点が必要と思われる。

 「長男は『自分が変だから』と言ったが、それはイジメで感覚が麻痺したから。『なぜ立ち向かわない』などと軽々しく言わないでほしい」
 今日の朝日新聞朝刊に紹介されていたが、高校生の長男がイジメの被害に遭ったという母親の訴えである。
 
 「自分が変だから」と言うのは、他の子と異なっているということ、つまり、個性的だということである。
 個性的であることが動物にない人間の特徴で、他人にない才能や感性を生かすことで本人は成長し、社会も人材を得て発展する。学校はそうした場になるべきである。

 ところが、他の子と異なっているということが、様々な嫌がらせや暴力のターゲットになり、当人も、「自分は変だ」と何か悪いことかのように思い込まされ、追い込まれていくのが、イジメの特徴である。
 その意味で、イジメは個性の圧殺と言える。
   
 しかし、悪戯とイジメは異なる。
 子供の世界に無邪気な悪戯はつきものであり、それをすべてイジメとみなして監視したら、子供らしさが失われる。大人による子供への、形を変えた集団的イジメとなる。
 その区別が難しいところだが、昨今問題となっているイジメは、一時的にからかう子供らしい無邪気さが無く、組織的、集団的で、特定の子を長期にわたって陰湿に迫害する点が目に付く。

 リストラを奨励する大人社会が、そのまま子供の世界に投影しているのであろう。
 親のストレス、学校の先生に対する文科省や教育委員会などの教育官僚による締め付け、弱者に対する暴力や粗暴さを礼賛する社会的風潮、格差拡大などを子供たちは敏感に感じている。
 親や先生を通り越して、何の面識もない文科相に、救援を求める悲痛な自殺予告の手紙が10数通も送りつけられるのは、大人社会に対する子供の抗議の意思表明ではないだろうか。

 大人社会がそれに真摯に応えなければならないが、愛国心を涵養すればどうにかなるといった安易な考え方は慎むべきであろう。
 子供たちの個性を押さえつけ、右を向けと言えば右、左を向けと言えば左を向くロボットにしてしまえば、問題はなくなると言っているようなものである。イジメはさらに内に籠もり、陰湿化していくだろう。

 学校教育が様々な問題を抱えていることは事実だが、その責任を全て戦後の個人主義的、自由主義的教育に押し付けて、教育勅語などの戦前教育に復帰しようとするのは、方向が逆である。
 その代表格である石原東京都知事は、自殺予告の手紙について「あれは愉快犯というか大人の文章。理路整然としていて、今の中学生にあんな文章能力はない。私は違うと思います。明日ですか?今まで文科省が何やったか知らないけど、あれだけの騒ぎになって当人は満足しているのか?死ぬの?死なないの?」と、笑みを浮かべながら茶化したという。
 子供への思いやりや想像力に欠けるのである。イジメを強めることはあっても、無くすことはできない。

 学校は、個性を全面的に発展させる場となるべきではないか。
 個性的でありながら、応分の責任感と義務意識をもって社会に貢献している人材は少なくない。そうした人間を目的意識的に育てていく場に学校を変えていけるか、それが問われている。

 参考までに、韓国もワンタには悪戦苦闘している。
 だが、伝統的な単一民族国家から多民族国家への転換を自覚し、外国人の地方自治体選挙への投票権や不法在留外国人への救済措置拡大など、個性重視へと社会全体の方向性は見えてきている。

自殺予告の社会病理

 子供の自殺予告が相次いでいる。
 さる7日未明、文部科学省はいじめを苦にした自殺予告の手紙が6日午前中に伊吹文明文部科学相あてに送られてきたと発表した。9日にも、いじめを苦にした自殺を予告する内容の手紙が同日午前、伊吹文科相あてに届いたという。

 いずれも自己を傷つけ、否定するいじめに対する子供のやむにやまれぬ抗議とみられるが、自殺予告という異常な方法をとっていることに、今の社会の病理をみることができる。
 
 中学生からとみられる7日の手紙は、文科相、教育委員会、校長、担任、同級生、同級生の保護者、両親にあてた7通が封書に同封され、便せんや原稿用紙1〜2枚に「僕は、いじめが原因で11月11日土曜日に自殺することを証明します。手紙を書いた理由は生きていくのがつらいからです」などとつづられ、8日までにいじめの状況が変わらなければ11日に学校で自殺するとあった。
 9日の手紙の差出人は「高校2年の女子」で、「11日死ぬ。いじめた人も殺してやる」と書かれていた。

 文科相あての手紙には「先生は何もしませんでした」、担任へは「なぜ僕をたすけてくれないのですか」、同級生には「クラスのみんなへ」と題し、「みんな責任をとって自殺してください」、両親へは「ごめんなさい」などとつづっていたという。
 親に謝りながらも苦しい信条を打ち明けず、外部にSOSを発したのは、問題が親の力では解決できないと感じているからであろう。9日の手紙は、それに同調したとも解釈できる。
 
 痛ましい限りであるが、一連の自殺予告は社会の在り方、特に、子供たちが多くの時間を過ごす学校や教育環境に対する異議申し立てではないか。
 教育行政の最高責任者に送りつけられてきたのは、そのためであろう。

 手紙を公表に踏み切った理由について伊吹文科相は、「命に関することなので、各教委、教師にいじめを隠したり、放置したりしてはいけないと指導している文科省として率先して姿勢を示さないといけない」と説明し、銭谷初等中等教育局長は「一度しかない命を大切にしてほしいと考えた。大人もいじめ問題の解決のために頑張るから、ぜひ生きてほしいというメッセージを(マスコミに)伝えてほしい」と話した。
 いずれももっともな言葉であるが、送り主の心に届くであろうか。懐疑的にならざるを得ないのは、子供たちの心を傷つける不祥事があまりに多いからである。

 教育の現状に問題が多いことは衆目が一致している。そのために「教育改革」が浮上し、小泉前政権時代から人々の意見を聴くタウンミーティング(TM)が174回開催されたが、何とその大半が、文部科学省から内閣府へ出向していた3人が交代で担当し、文科省と相談しながら質問案を事前に作成した「やらせ質問」であったというのである。
 「教育改革」を最重要課題に掲げる安倍首相は「当然、知らなかった」と弁明したが、官房長官として内閣府を統括する立場であったのだから、「当然、知っていた」が本当ではないのか。

 タウンミーティングは、小泉支持率アップと教育基本法改定の世論高揚に貢献した。
 そうした政治的目的のために情報を捏造するなど民主主義社会にあるまじき言語道断の行為であるが、「日の丸」意識を高めれば何とかなるとする「教育改革」の中身も、方向が反対ではないのか。

 東京都教育委員会は日の丸掲揚、国歌斉唱の方式を細かく定め、それに従わない教員や生徒を監視し、処罰の対象にしている。その最高責任者である石原都知事は、外国人や女性への差別発言を繰り返し、反省の言葉もない。いじめを奨励しているようなものではないか。
 東京は極端であるが、全国で似たようなことが子供たちの眼前で繰り返されてきたのである。
 その意味で自殺予告が東京で起きたことは偶然ではなく、全国に伝染するのではないかと恐れさえ感じる。

 いじめは他人と異なる子を排撃するところに特徴があり、個性を圧殺する犯罪である。
 画一的な国家意識を強制すれば、いじめが強まりこそすれ、無くなることなど期待できないであろう。

 文科省は、高校必修科目の履修漏れ問題でも、4年前に調査報告を入手しながら対応を怠った事実が発覚したばかりである。教科書検定問題、ゆとり教育問題等々、過去に遡れば文科省に関わる不祥事は枚挙に暇がない。
 その被害者は全て子供たちである。場当たり的で無責任な教育行政に振り回され、ストレスが高じた子供たちが、他人を痛め、自分を痛める。
 一部の人は日教組など教育現場の先生に責任を押し付けるが、教員も文科省管理の被害者という側面があり、本末転倒の議論と言うべきである。

 文科省の下請けの教育委員会なるものも問題である。
 こともが身をもって訴えても、保身から、いじめではないと言い張る教育委員やその顔色をうかがう校長らは、教育官僚の顔ではあっても、教師には到底見えない。
 
 文科省の統計では1999〜2005年度はいじめによる児童・生徒の自殺件数がゼロとなっている。急遽統計数値を修正し、大阪府堺市教委や北海道教委などいじめが原因と疑われるケース計16件について再調査を開始した。
 いじめの根源を作るから、自分には見えないのではないか。

 自殺予告は、文科省や教育委員会に自己批判を訴えているのではないだろうか。
 子供を抑圧する文科省や教育委員会のような官僚機構は廃止して、地域の自治に任せた方がよいかもしれない。

 自殺予告のニュースを聞いて、思い浮かべたのが1997年に神戸で起きた連続児童殺傷事件である。中学3年生の犯人が「学校殺死の酒鬼薔薇」と称して新聞社などに送りつけた犯行声明文に以下のような一節がある。
 「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない。・・・人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである」
 
 居場所をなくし、互いに傷つけあい、他を殺し自身を殺すところまで追い詰められた子供たちの悲鳴は、ここ10年近く、増えこそすれ、少しも減っていない。
 その根源である社会の病理の治癒が、急迫不可欠である。

 

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