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イジメによる子供の自殺が増えている。
早まってしまった本人は、取り返しがつかない。残された家族、学校など地域のコミュニティーにも大きな傷を残す。
自殺は人間世界だけの不可解な現象だ。
弱肉強食と自然淘汰が支配する動物世界では、個体が生きるために他を殺す現象はごく普通に見られるが、自らを殺すことはない。
1958年に制作されたディズニーの映画「白い荒野」に、ノルウェー地方に住むネズミの仲間であるレミングが数百万匹という大群を成して行進し、やがて崖や海岸から海に入って溺れ死ぬシーンが出てくる。
動物の集団自殺として世界に衝撃を与え、私の脳裏にもいまだにそのシーンが強烈な記憶として残っている。
集団自殺は自然の摂理だと思想的に一般化され、自殺を美化する風潮を生み、文学や演劇にも大きな影響を与えた。
しかし、現在では、それは演出、一種のやらせだったというのが定説になっている。爆発的に増えた群れが餌場を求めて移動中に進路を誤り、後続の群れから押し出されて海に落ちた場面を、集団自殺に見せかけたというのだ。
「ひたすら死への道へと旅するレミングの大群」は、人間が勝手に作り上げた幻想とみるべきであろう。
自然界では、生の延長乃至は終着点が死、であり、動物は死ぬまで生き抜こうと努める。それが本能であり、自然の摂理なのだ。
飛んで火に入る夏の虫も、人間が明かりに集まる虫の習性を利用しているだけのことで、蛾は死ぬために飛び込むわけではない。
人間だけが、死を生と切り離して観念的に捉え、自殺をする。
つまり、考えるからで、大脳新皮質で、もう生きられない、死にたいと思い込む。
ただ、動物と人間は全く不連続でもない。
干潟の野鳥たちを観察していると、すくむような仕草を見せることがある。
バンなども、上空にチョウゲンボウやオオタカが飛来すると、一瞬立ち止まり、それから茂みに走りこむ。雛は親の動作からそれが危険だと知り、退避行動を真似ている。
蛇に睨まれた蛙がすくんで動けなくなるのも、それだろう。
瞬間的には危険から身を守ることを放棄したように見えるが、突然の事態に身を守る方法を探していると考えた方が理解しやすい。
人間にも同様な状態があるが、医学的には欝と言うらしい。
欝が進行すると、自殺する行為と結びつく。脳内モルフィンの作用で、瞬間的に、痛みを苦痛と感じないとされる。
動物実験で、逆条件反射という生物反応も確認されている。嫌悪刺激の後に快適刺激を与えると、積極的に嫌悪刺激を求めようとする。
人間の自殺の原因を、それに求める説もあるようだ。
しかし、自殺が自然の摂理に反することは明らかである。
人間だけが身を守ることを放棄し、自殺に逃げ込む。
特に、イジメは人間社会固有の病的現象と言える。
いじめる側に非があることは言うまでもない。
だが、イジメを理由に自殺を選ぶ方も、自然の摂理、神の意思に反していることを知らねばならない。
死ぬまで生きることが、生を受けたものの義務であり、逃亡者になってはならないのである。
多くの場合遺書を遺し、生の延長である死を生から切り離した理由、つまり、自分の存在を否定するものへの抗議や怒りが書き連ねている。
事前にそれを周囲が察知していれば、自殺は防げるが、感受性、プライドや自意識の強さなどの個人差があって、なかなか気付かず、当惑させられることが多い。
その結果、自殺の原因を巡って肉親、学校、教育委員会の間に混乱と葛藤が生じている。
この人間特有の個人差を理解する想像力や努力こそが求められる。
いじめられたからといって、全てが自殺するわけではないからである。
また、個人差とは個性に起因する。
その意味で、いじめは個性の否定の側面を有すると言えよう。
いじめの犠牲者が増えていることは、個性が尊重されず、画一性を求める社会的風潮が強まっていることの反映でもある。
それから子を守り、自殺を防ぐのは、つまるところ親の愛ではないか。
親への孝心や他人への敬愛の心など全ての倫理・道徳の基本は親の愛であり、絶望した子を救う最後の防波堤なのである。
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